2021年02月28日

悟後の紅茶

帛さんからのコメント

長文なので昨日の記事のコメント欄を読んでください。

要約すると、一瞥体験により存在の仕組みは理解できたけれど、生きるための職業に違和感を持ちながらもなんとかやっているというものです。


同じように感じている人もいるかもしれませんね。



社会は集団催眠の場であり、それは支配階級から末端にいたるまで同じことです。

完全に狂っていますが、本人たちはそのことに気づいていません。


経済的な理由で社会の中で生きざるを得ないなら、自分も狂ったふりをして生きるという道があります。


社会はあなたの外側しか求めていません。

あなたがどんな洞察を持って生きているかよりも、社会の一員として生きてくれたらそれでいいのです。

そこに徹するのはそう難しいことではありません。



その上で言いますが、本当の問題はどのように生きるかではありません。

あなたが一瞥したその真実を、いま生きているかどうかです。


一度でも真実の次元を垣間見れば、それがたとえ一秒間だったとしても元の自分に戻るのは不可能です。

その人の中で何かが変わってしまうからです。


あなたが言うように、いまもあなたの根底には真実の香りが漂っていることでしょう。

でもそれは単なる記憶なのかもしれません。


社会という催眠への誘惑は、とても強いものがあるので、知らないうちにまた眠りこけてしまうことはよく起きます。


そして眠りの中で、真実を垣間見た自分を生きようとするのです。

ここに違和感が生じてきます。



おそらくあなたは、真実の瞬間を自分に定着させたいと思っていることでしょう。

でもそれは起きません。


気づきの瞬間は、当のあなたが消えた瞬間であり、あなたが経験したのではないからです。


経験とは記憶のことです。


たとえば急に車が飛び出してきて間一髪で助かったとしましょう。

その瞬間は、ただそのことに対する反応が起きただけです。

ところがそのすぐ後で、「凄いことが起きた」と認識しそこに経験が生まれます。

人は経験自体を持ち運ぶのではなく、経験という記憶を持ち運んでいるのです。


悟後の紅茶

あなたがどうにかしようとすればするほど、「あなた」が肥大化してまた催眠の罠に陥ってしまいます。

僕に言えることは、いまここに寛ぐこと。

あるがままの命に落ち着くこと。


その時間は、完全に社会から手を引くことになります。

これが正気に戻る唯一の道です。

そしてまた社会の中で演じていくのです。


すべては「いま」起きていることを忘れないでください。



今夜の瞑想会は

https://youtu.be/1E6Jzt8YbVo

です。







Posted by Toshiro Abe at 10:12│Comments(20)
この記事へのコメント
日本の中心となる時間は東経135度線の明石の標準時間です◎

日本にある時計が日本の標準時間から外れているほど
「時計が合っていない。狂っている」ということになります。

日本にある時計が日本の標準時間に合っているほど
「時計が合っている。狂っていない」ということになります。

自分の中心は胸の中心に常にある光です◎

自分が自分の中心に常にある光から外れているほど
「自分が合っていない。狂っている」ということになります。

自分が自分の中心に常にある光に合っているほど
「自分が合っている。狂っていない」ということになります。

時間も自分も
中心から外れるほど狂いが出てきて異常になり
中心に合うほど狂いがなくなり正常になります◎

「 松本莉緒 30歳転機に決意、女優からヨガ講師へ 周囲は冷たい反応も…「今すごい幸せ」

https://news.yahoo.co.jp/articles/91a33173e7355a1cc8de8297eb13b31aad270c63

11歳で芸能界デビューし、ドラマ「聖者の行進」、「ガラスの仮面」などに出演したが、悩みも抱えていた。
「30を迎えるころ、女優を続けるべきか悩んでいた」と当時を振り返り、「自分じゃない何かに(なって)、何かの自分を装って生きている感がある。呼吸も苦しかった。今思うと、認められようとして頑張っていたんだな」とも明かした。 」
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年02月28日 10:41
静寂こそが真実…

30分の瞑想の後も、一瞥体験と言えるのではないのか?

今夜の瞑想会も楽しみにしております。

(瞑想の後は午後の紅茶で乾杯!)

祝福☆祝福☆

おめでとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2021年02月28日 10:48
素晴らしいお話をして下さっているのにずれてるかもですが・・
今日の紅茶の絵に感動してしまいました。
いつもありがとうございます。
Posted by ふうこ at 2021年02月28日 11:23
私も一瞥体験あります。ソレを体験してホント変わりました。もう元には戻れない。
体験したからといっても日常は何も変わらないけど、安住が基盤にあるって感じです。
Posted by ひろみぃ at 2021年02月28日 11:28
多分本当はただ生きているだけで十分で、全ては一つなんて考える事もしなくていいのだろうけど、それができなくなって苦しんでしまう人間って大変だなあと、思いました。

そしてこんな悟り系のお話が自分は結構好きだということに、最近気がつきました。
このブログに出会えて良かったです。ありがとうございます。
Posted by ゆき at 2021年02月28日 11:41
初めてコメントさせていただきます。
瞑想を初めて半年ほどたちますが、まだ一瞥体験はありません。
気付いたのが、自分は人より自我が強いんじゃないかということです。
あるがままの心地よさを求めて瞑想にたどり着きましたが、それも自我によるものです。
自我レベルでは、阿部さんのおっしゃることがよく理解できますし、真実なのだと信じられます。
それでも、まだ一瞥が訪れず、違和感を覚えながらも生活のための仕事を辞められないのは
瞑想も、真実への理解も、自我が行っているものだからなのでしょうか。
自我には、できれば休んでもらいたいですが、そう思うほどに、自我が肥大化しているのですね。。。
以前に阿部さんは、自我は巧妙で、自我を克服しようとする、とおっしゃっていました。
「いまここに寛ぐ」・・・たしかに、一瞬寛いだ感覚を得ることもありますが、
寛ぎが訪れたのか、自我がやったことなのか、見極める方法はありますか?
Posted by sono at 2021年02月28日 11:49
悟後の人生、在り方も、人それぞれで、面白いですね。

多種多様が、この世の有り様なので、一つとして同じモノがないのは、人間の豊かさと可能性を表しているのでしょう。

時には、それが世の中の混乱の原因になることもありますが(笑)

人に頭がおかしくなった、としか思われないような体験が起きて、それまでの世界観が一変してしまいましたが、それでも、人生は続きます。
その衝撃があまりに強すぎたのか?、この世の周波数に合わせることができるようになるまで、何年もかかりました。(今となっては、過去という夢の中にあるだけてすが)
できる限り、違和感のない世界を選んで生きるようにしましたが、それでも、やはり起きてしまう違和感に無理に蓋をしたことで、無理が体に表れてしまい、バランスを完全に崩し、自分の体を自分の免疫機能が痛めつけるという苦しみとして表れてしまいました。(ですから、昨日の阿部さんの記事ではありませんが、自分の心に正直に生きることは、とても大切だと感じています)
表向きには、免疫の病ですが、潜在意識の領域では、自分の心が自分を縛ってしまい、自分に起きている正直な感覚を無視していたことが原因だと理解しています。
ストーリーの世界では、時には、こういう形で、神は、自分勝手なエゴを、正しい道(ダルマ)にお戻しになることもあるのでしょう。(そのやり方は、時には、本当に、厳しいです。)
しかし、このことがきっかけで、真剣に、身体と心の関係に取り組まなくてはならなくなり、そこから体験を通して得た智慧は、他の方にシェアできるまでになり、自分が犯した過ちも、考えようによっては、紆余曲折を経て、何らかの形で、人様のお役に立っているようなので、人生で起こることは、何一つ無駄ではない、ということを実感しています。

身体と心、霊的な存在としての人間を、深く知れば知るほど、面白いです。
私たち人間の構造と仕組みの中に、神の力が働いていることを知り、誰にも理解されなかった体験が起こる仕組みや深い意味を知ることになり、今では、人間にとっては、まだ神秘に包まれている世界に足を踏み入れて、そこで探検家のように探索することが、人生における最大の歓びとなっています。

"わたし"の中に広がる未知なる宇宙、神秘の領域。

そのことは、古代より、リシ達が遺して下さった文献に既に書かれていますので、ほとんど知られていませんが、人間には、とうの昔に、啓示されていたことだったのですね。(私が知らなかっただけで、笑)

お茶を飲みながら、ゆったりと流れる時間を、興味あることに没頭して過ごせることは、魂の歓びと言えますね♪

一昔前なら、けっして触れることができなかったような貴重な情報に触れようと意図すれば、触れられるというこの便利な情報化時代だからこその恩恵に、心から感謝して、与らせて頂いております。

この世の流れは、ダルマであり、誰もがその流れの中にいます。

ストーリーの世界に、ドップリとハマって、自分を味わい、人生を味わい、人間という生物を味わい、そして、源へと帰還して行きましょう♪

寿命が尽きるまでは、プララーダ・カルマの通りに人生は流れて行きますので、自動運転で進む船に乗ったような気分で、最後まで、目に映る景色を楽しみましょう♪
Posted by 人生の味わい from M-online at 2021年02月28日 12:03
NIkE瞑想のメールに書かれてあった阿部さんの"いきなりぶっ飛んだメッセージ"を読んで、嬉しくなりました♪

その通り!ですね♪

この感応が、この世での味わいの楽しみの一つとなっています♪
(幻想の世界ではありますが、笑)

今夜も、楽しみにしています(^^)

いつも、ありがとうございます♪
Posted by 人生の味わい from M-online at 2021年02月28日 12:56
>その上で言いますが、本当の問題はどのように生きるかではありません。
>あなたが一瞥したその真実を、いま生きているかどうかです。

きっとそうだろうと思います。
と言っても自分は、
その気が起きれば『眺める』ことができるようになった程度でしかないですが。

>一度でも真実の次元を垣間見れば、それがたとえ一秒間だったとしても元の自分に戻るのは不可能です。

にも関わらず、

>社会という催眠への誘惑は、とても強いものがあるので、知らないうちにまた眠りこけてしまうことはよく起きます。

ものなんですね・・・・・不思議です。
何が不思議って、

>気づきの瞬間は、当のあなたが消えた瞬間(後略)

にも関わらず、

>ところがそのすぐ後で、「凄いことが起きた」と認識しそこに経験が生まれます。

となり、

>そして眠りの中で、真実を垣間見た自分を生きようとするのです。
>ここに違和感が生じてきます。

となる『仕組み』が。

>たとえば急に車が飛び出してきて間一髪で助かったとしましょう。
>その瞬間は、ただそのことに対する反応が起きただけです。

だけのことを『経験』として掴もうとする、その『仕組み』を見抜いて、
『その仕組み』に手を出さずに、

>あるがままの命に落ち着くこと。

って感じでしょうか。

参考になります、ありがとうございます。
Posted by ただの「自分」 at 2021年02月28日 12:56
親鸞聖人五十九歳のとき、風邪のため寝こまれ、誰も傍に寄せ付けないままの折、妻の恵信尼(えしんに)曰く、「あたたかなる事火のごとし」といわれるほど相当に重い病状で「ただ音もせずして臥しておわしませば」という四日目あたりに、
親鸞曰く、「いまはさてあらん…」と。そのように聖人がうわ言でも言われたのだろうと思い、恵信尼「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と、そのことを確かめられると親鸞は「否、そうではない」ということを仰り、高熱の中での病床二日目から読みはじめられた『大無量寿経』を読むのをぴたりと止めてしまった。
 「名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思い返して、読まざりし」と。
南無阿弥陀仏の名号の他に何の不足もないのである、と聖人は静かに決断されるのである。 「いまは さてあらん…」  
 「今はそう決めよう、これしかない」 そう決断され、この後に関東から京都へ帰っていかれるのでありました。
Posted by 7676 at 2021年02月28日 13:02
こんにちは、阿部さんのお話は時間を飛び越えてくるような凄味がありますね。真実からくる言葉って、そうなんだって、ただただ納得しています。
Posted by makotoazuma at 2021年02月28日 13:44
『そしてまた社会の中で演じていくのです。』



え~(^_^;)

ちょっとこのあたり?だけじやなく全体(記事)を噛み砕きたい感はありつつちょっとおいといて~(^^)


午後じゃなかった、悟後の紅茶 (笑)


紅茶にしようか迷ったけど珈琲にしていただいてました~☆


それにしても悟後の紅茶、ハイクオリティ♡(*^^*)
Posted by おいも at 2021年02月28日 14:23
>寛ぎが訪れた・・・くつろぎがあなた本心です。
訪れた・・・が自我であり時間経過ですので、充分にあなたは体感されています。ね、そこにはとどまることが、難しいでしょ?(笑)
Posted by AQU@ at 2021年02月28日 14:30
社会は集団催眠の場であり、それは支配階級から末端にいたるまで同じことです。

完全に狂っていますが、本人たちはそのことに気づいていません。


(-_-)うーん、この表現に思い当たる出来事があって、、ヘコみました。


経済的な理由で社会の中で生きざるを得ないなら、自分も狂ったふりをして生きるという道があります。


社会はあなたの外側しか求めていません。

あなたがどんな洞察を持って生きているかよりも、社会の一員として生きてくれたらそれでいいのです。

そこに徹するのはそう難しいことではありません。


(-_-)うーん、いままではそれが出来ていたところがあると思うのですが、私から見るとあまりにも狂った状況に、今回発狂しました(笑)



その上で言いますが、本当の問題はどのように生きるかではありません。

あなたが一瞥したその真実を、いま生きているかどうかです。 



(-_-)本当の問題はどのように生きるかではない…


あなたが一瞥した真実を、いま生きているかどうか…



うんうんうんうん、私なりにうんうんうんうん


自分の気持ちに正直に生きているか

ほ♡ん♡ね(*^^*)


と思ったけど、どのように生きるかではなくて、いま生きているかどうか?なの?


『すべては「いま」起きていることを忘れないでください。』


うーん、、ここなのかなあ。


(わからないでおりますが送らせてください。m(_ _)m)
Posted by おいも at 2021年02月28日 15:18
コメントを取り上げてくださってありがとうございます!
本文を何度も読み返してみて、自分の中で浮かんできたことを書いてみます。感覚的な文章なうえ、また長くなります、すみません。

①また眠りこけて、その中で「垣間見た自分」を生きようとすること

まさしくこれのような気がします。「自分というものがない自分」を生きようとしていたといいますか……。また、人の役に立つことこそ大事という観念で生きてきた面もあるので、真実が分かっちゃったからもう自分なんてなくていい、(誤った)無私の精神だ! なんて方向もあったかもです。

そうではなくて、社会においては、むしろ「演じる」のを楽しむことなのですね。そのための舞台装置が社会なのだともいえそうです。そのときに「正直に自分を生きる」ことが大事だったり。

「いま」を社会に持ち込もうとしてしまっていたみたいです……逆なのに。

②阿部さんが「やりたいことを追求してみて」とおっしゃらない点について

自分の場合、一瞥して思うように生きていいと分かったのだから、せっかくだしガンバろう! という流れに入ってしまったのですよね。瞬時にストーリーに飛び込み直したのでしょうか(笑)

何かを追求したり、目指したりというのは社会の中でのことなので、阿部さんもあまり口になさらないのだなと思います。それらが「遊び」だと十分に理解できてからですね。
確かに、立ち止まるともっと軽くいける感があります。その寛ぎ立ち止まった「いま」、すべてが起きていく。

③大空さんのコメントに関して

一瞥体験のとき、僕は自分の胸に手を当てた記憶があります。「これか―! これがすべてじゃん!」でも、誰でもない、自由! みたいな。
その場所からいまを生きる感じですね! 

今回、書き込みをさせていただいて本当によかったです! 皆さんのコメントもすごく参考になります。ありがとうございます。

今夜の瞑想会、楽しみにしています☆
Posted by 帛 at 2021年02月28日 15:28
sonoさん
>寛ぎが訪れたのか、自我がやったことなのか、見極める方法はありますか?

例えば。
カーテンを閉めた部屋では 外は晴れか?雨か?見極めたい。
けど、玄関を開けた時、目の前に雨が降っていれば 雨か晴れか 見極めようなんて思わない。

寛ぎは 事実に直面しているので 見極める必要が無い。
「自分が」見極めたい、「自分で」見極める必要がある と思っている時が「自我」の話。
自分が何もする事がない時に 寛いでいる♪
阿部さんも「瞑想は何もしない事」って説明してたと思うけど、坐禅も「ただ坐る」で「自分は何もしない」です。

「自我の寛ぎ」の場合 例えば「ぼんやりと楽観的な事を考えている」と 穏やかな感じで寛ぎますけど「自分で良い考え事をしている」ので「自分がしている」という事になりますね。
Posted by まるまる at 2021年02月28日 22:48
阿部さん、智子さん、ミニ講演+瞑想会、ありがとうございました♪
(久しぶりに、お二人の息の合ったトークをお聴きできて、とても楽しかったです^^)

瞑想後に、阿部さんが仰っていた「何も起きていない究極の真理」は、常に、いまもここに在りますね。

在るのは、ソレだけですから。

別の言葉で言うと、実在するのは、「真我」だけであり、それは同時に、「至高の絶対神」でもあります。

瞑想中の「静寂」は、心の一時的な停止(ラヤ=absorption)、ヨーガでは、ヨーガ・ニドラーと呼ばれている状態で、意識は深い睡眠とほぼ同じ状態です。
それは、別の言葉で言うと、「忘我」状態であり、「私-私」という実在を捉えている意識ではありませんが、思考や身体感覚が消失している点では、ディアーナ(瞑想)は、深い睡眠と同様、瞑想後に、心の安らぎや休息を感じることができるでしょう(深い眠りから目覚めた後にも、同様の感覚があると思います。)

しかし、「至福」はどうでしょうか?
深い眠りの中では、人は「至福」に気づくことはありません。
目覚めてから、「ああ、よく眠ったな」と後から、自分が至福状態にあったことに、気づくことはあるかもしれませんが。。

ここが、深い睡眠が、「何も起きていない究極の真理」とは、言い難いところなのかもしれませんね。

「私-私」という意識は、サマディに突入した時の意識状態なので、超意識と言われることもあるようですが、ラヤ(心の一時停止)とは全く違う感覚(一種の?)がやって来ます。
他の感覚は消失しているのに、ソレ(「在る」「意識」「至福」)には、気付いているのですよね。。(後で知ったことですが、サマディにある時は、五感を通して認知が起きているのではなく、直覚智というものが働いているようです)

話が、難しくなってしまいましたが、サマディにあっては、本当に、何も起きていませんね。
思考や身体感覚はもちろん、時間も空間もありません。。
しかし、意識だけはハッキリと在る。。。。

究極的には、ソレだけが在るとしか言えませんが、ソレがただの静寂ではなく、人智を超えた無限の存在であることも、同時にわかるのですよね。。。
(今も、在るのはソレだけなのですが、自我がソレを覆ってしまっているので、ソレは自我の背後にまわり、見失われてしまったのでしょう)

静寂を超えた静寂。

永遠の実在、永遠の純粋意識、永遠の至福。

それが、本当のわたし。
Posted by 永遠の真我 from M-online at 2021年02月28日 23:24
サマディ…

降参しました。
Posted by 甲賀忍者 at 2021年03月01日 07:50
阿部さんが何度も言っておられた「無漏路」が少しずつ分かってきました。安らかな平安に包まれることかと思っていましたが、どっしりとした安心感が底にありながら、むしろ気力充実、力が漲ってくる感じ、なんとも言えない喜びが湧いてくる感じ。なんか無敵な感じ(笑)

眼前のことに専念。しかし、力んではいない。力む自分がいない。楽々。流れるようです。泳ぎを覚えたときのことを思い出しました。水が抵抗でしかなかったのが、水に乗れるようになったスイスイしたあの感じ。結局、今ここ。ありがとうございます。
Posted by 美佳 at 2021年03月01日 10:02
まるまるさん、

なるほど。よく分かりました。
ありがとうございました。m(__)m
Posted by sono at 2021年03月01日 20:29
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