2021年02月27日

出家のススメ

我々が一つのものであり、すべてはワンネスの中で起きていることは疑いようがありません。

いまさら声を大にして訴えなくても、最近は非二元の真実が多くの人に浸透してきました。


この理解を前提として、今日の話をしましょう。


自分が全体そのものを生きるというのは、みなと同じように生きることではありません。

この宇宙の真実は、あなたは私であり全ては一つであると同時に、あなたと私は全く違う個性を持った個人だということ。


数学的に見れば、全体は個人の総計ということになりますが、宇宙の真実はそうではありません。

「個人=全体」なのです。


あなたの宇宙は唯一無二のものであり、かけがえのないものです。

その宇宙を生きることがあなたの天命と言っていいかもしれません。


ところがこの社会は、あなたを社会用に矯正し、あなたではないものとして生きることを求めます。

これは人間の宿命であり、あるところまでは致し方ありません。


しかしこのような話を理解できるところまで成長したら、正直に自分を生きる勇気が何より大切なものとなります。

あなたが全体そのものであることが分かったら、もう怖いものはないはずです。

誰に遠慮することなく、あなたを生きればいいのです。

それができないのは、まだ知識だけで、自分が全体だという理解には至っていないのかもしれません。


出家のススメ


それでは、真に自分を生きている人と、そうでない人との違いはどこにあるのでしょう。


自分を生きていれば、そこには寛ぎと至福が付いてきます。

そうでなければ、緊張と惨めさを心の底に持ち運ぶことになります。


これが見分ける基準であり、自分にしかわかりませんが自分ならわかります。


人のことなどどうでもいい。

人のことは人に任せておいて自分を見てください。


あなたが決められるのは自分だけです。

これが自灯明を生きるということであり、その人はいかなる宗教にも属しません。

自分こそが宗教だからです。


あなたは誰に従う必要もなく、すでに作られた道を歩くこともありません。

あなたに道などないのです。

あなたが歩いた後に道はできますが、その道は他の誰も歩くことはできません。


この覚悟が本来の出家です。

そのとき初めて人は存在の喜びを生きるようになります。


出家とは得度することではなく、山にこもることでもなく、ましてや教団に所属することでもありません。

それらはすべて社会の一部です。



僕が言っていることが分かりますか。

やっとこのような情報を発信できる時代になったと感じています。


まずは、全ては一つであり、生きているのは全体だということを理解することです。

皮肉なことに、そのとき初めて自分を生きることができます。


全体から分離した個人など存在しないということが分かって初めて、個人を徹底して生きられるのです。

言葉にすればナンセンスになってしまいますが、なんとなくでも掴めましたか。



恐れることはありません。

あなたが宇宙の主なのだから。



今日はこのあたりにしておきますね。



28日の瞑想会アドレスです。

https://youtu.be/1E6Jzt8YbVo








Posted by Toshiro Abe at 09:10│Comments(26)
この記事へのコメント
「I」に「私」という意味があること

「I」が「愛」と発音できること

「I」が「1」という数字になること

偶然ではありません。

これらの一致は

「I(私)はI(愛)であり
 I(愛)はI(1つ)である」

という真実を宇宙が示しています◎

愛によって宇宙のすべての現象は
完全に1つにつながって展開されています◎

宇宙全体は常に完全に一体です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年02月27日 08:55
宇宙という言葉は大きく広がっている空間をあらわしています◎

うちゅうという発音には

うち
 ちゅう

内と中があります。

内に集中するほど・
宇宙から光が内に集中しながら
宇宙に内から光が大きく広がっていきます◎

「うち」という言葉には「私」という意味もあります。

「うちの言うことちゃんと聞いて!」は
「私の言うことちゃんと聞いて!」という意味になり

「うちらの仲間にならない?」は
「私らの仲間にならない?」という意味になります。

宇宙は大きく広がっている空間をあらわし
宇宙は内・中・私もあらわしています◎

宇宙と私は常に完全に一体です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年02月27日 09:19
今朝、起きた布団の上でそのまま座禅をしていて、

「『光』とか『闇』とか『分ける以前の存在そのもの』を『認めきる』必要があるかも」

と浮かんできました。

正直、まだまだ『存在そのもの』で生きるどころか、
『認めきること』すらできていないようです。
まぁ、それも起こるなら起こるんでしょうし、起こらないなら起こらないんだろうとも思いつつ、
期待もせず、諦めもせず・・・・・あこんな感じかな?・・・・・意識してみようかと思います。
Posted by ただの「自分」 at 2021年02月27日 09:23
阿部さんの表現も、大空さんの表現も、凄いなあと。。。
気持ちの良い週末の始まりとなりました。毎度ありがとうございます。
Posted by tOshiyuki at 2021年02月27日 10:36
子供の頃、自分の中の自然な状態を生きていると枠からはみ出しがちで、それが嫌で周りの様子を伺いながら過ごしていました。
中学ぐらいの時に人と同じようになるのは無理だと諦めましたが、周りへの恐怖は消えず身動きがとれなくなっていました。
こんな自分は認めてくれないのだと、勝手に社会を恨んでいたようなところもあります。

今は、人と違うことをしてもいいし、場面によっては人に付き従う事も、修行をする事も、それを自分がやりたいならいいんだなと、そんな感じでいます。

みんな違ってみんないい(笑)
Posted by ゆき at 2021年02月27日 10:55
自分しかいなかった~~~笑
Posted by ひろみぃ at 2021年02月27日 11:56
『僕が言っていることが分かりますか。』



わかりません(笑)


わからないのに、泣いてるし笑ってるし、我ながら意味不明な反応がおきております(笑)


またあとでゆっくり読ませてください☆(^^)
Posted by おいも at 2021年02月27日 12:02
サンスクリット語のMokshaは、日本語にすると、通常、「解脱」と訳されていますが、解脱?ナニソレ?という感じで、ピンと来ませんでした(笑)
「解脱」という言葉は、一般的に使用される言葉ではないので(仏教用語?)、よくわからなかったのですが、Mokshaは、英語のliberationに相当するサンスクリット語だとわかった瞬間に、あ〜そういうこと!と、至極納得できたのでした。

自由!

束縛からの自由!

このことを言っていたのね!と、改めて、古今東西、昔から今に至るまで、自由を求めて、世界そして自己の人生と精神的に格闘して来た流れの中に、自分もいることを痛感したのでした。

小さなことであっても、心を縛る束縛から解放されると、解放感を感じ、自由になったことを実感し、歓びが湧いて来ますね。
私たちは、本来の姿を忘れてしまっているだけで、本来は、自由な存在であるはずです。
生きている間に、沢山のモノを身に着けてしまったことで、身動きが取れなくなってしまい、束縛を束縛とも感じなくなってしまっていることもあるでしょう。
自分の心が、自分を縛っているだけなのですが、そのことを心底わかるためには、先ずは、個の魂を縛りつける社会的束縛から自由になることが、魂に本来備わっている個の尊厳を取り戻すための第一歩と言えるような気がしています。
それは、自分のために自分でやらなくてはならない個人的な仕事です。
ですから、やりたくなければ、やらないということもできますが、その場合は、個の魂は、束縛されたまま解放されないので、魂本来の性質である永続的な自由や歓びを感じることはないでしょう。
束縛のない本来の姿に戻るために、余計なモノを一つ一つ剥がして、落として行く作業は手間がかかりますが、本来の自分が蘇って行く過程は、魂が本来の輝きを取り戻す過程でもあるので、歓びが心の底から湧いて来ることでしょう。

身体と心を自分だとしている、その自分からの自由が最終的な目標(ゴール)ですが、それまでの行程は、階段を一段一段と上がって行くように起こるので、先ずは、社会的束縛からの自由に挑戦することが、次の挑戦へのステップとなることでしょう。

世界は、自分の中にあるのです。

その自分から自由になり、そこに留まり、寛ぎましょう。

二元相対を超えた自由な空間に、ただ在り、至福の大海に溶け込み、至福に留まりましょう。

私たちは、本来は、永遠に自由な存在なのですから、束縛からの自由を求めるのは、人間の本質的な願望と言えます。
誰もが、潜在的には、この自由を求めています。

この本質的な願望実現のために、意識的に人生を費やすことも、一つの人生であり、私たちは、自由に選択することができます。

あらゆる束縛から自由になることは、Mokshaであり、それは、"本当のわたし"を発見することで、自然ともたらされます。

本当は、在って在るだけが、在るだけで、束縛されている人はいないのです。

心を超えた本当のわたし、永遠のわたしは、永遠に自由な存在であり、今も、私たちは、ソレなのですが、しかし、心に囚われている私たちは、そのことがわからず、自分の心に束縛されて、不自由を感じています。

何もわからなくても、ソレであることには、違いはありませんが、自由を実感したいならば、本来の姿を実感したいならば、自分を縛る心の解体作業と言う手間のかかる仕事をやらなくてはなりません。

自由を求める心が、自分の心と格闘をし、自分の心から自由になって行く過程で、心を超えた真の自己を発見するのです。

心だけが心を超えていくことができるので、物理的な出家は、必要ありません。
身体は、この世のものなので、この世に置いておき、心が世俗を離れれば、充分です。
最終的には、意識だけが、この世を超えていくことができます。

永遠の実在、永遠の純粋意識、永遠の至福。

ソレが、本当のわたし。

本当に在るのは、ソレだけ。
Posted by 自由への道 from M-online at 2021年02月27日 12:29
正直に自分を生きる勇気

この言葉が刺さりました

本来ならば正直に生きることはとても簡単なことなのに

勇気が必要になったのはたくさんの良い悪いを身につけてしまったからでしょうね

それを外すチャンスがきた✨と捉えて自分の本音を伝える練習します
Posted by じゅんこ at 2021年02月27日 12:43
自分を生きる=南無 
かなと思いました。
Posted by ゆき at 2021年02月27日 12:59
確かに自分が全体から分離したちっぽけな存在だと思うと恐怖や不安感でいっぱいになって自分を守ることで疲弊して
しまいますが、全体そのものだと分かれば怖いものが無くなり安心感の中で自分を精一杯生きられる気がします。
Posted by naomi at 2021年02月27日 13:28
こんにちは。
道もない。
私が全体だからこそ、どこにもいかず、そこで、くつろげる。

今日も有難うございます!
自身が全体だからこそ、周囲への批判は止みますね!ともすれば、批判と幻滅で落ち込みやすい者でした。
今日のメッセージ 何回も開きますね!
甲賀忍者様
一隅、いちぐうの件で有難うございました!
Posted by 国華 at 2021年02月27日 13:29
>それでは、真に自分を生きている人と、そうでない人との違いはどこにあるのでしょう。


自分を生きていれば、そこには寛ぎと至福が付いてきます。

そうでなければ、緊張と惨めさを心の底に持ち運ぶことになります。


これが見分ける基準であり、自分にしかわかりませんが自分ならわかります。


人のことなどどうでもいい。

人のことは人に任せておいて自分を見てください

・・こうしてみると、まだまだ自分を生きることからは~遠いのかも。
まだまだ社会規範が第一かも?
でもでも自分が第一でよいのですね??
まだまだ緊張している自我ちゃんがいます。他者基準です。
今日はまたまた、北海道はしばれましたよ。
春はいまだ・・という感じ。
午前中に手が痛くて整形に行ってきました。腱鞘炎。もっと自分大事にしろよという天からのメッセージに聞こえました。まだまだだなあ。
鼻とのども痛し。。
明日の瞑想会たのしみにしています☆
いつもわかりやすいメッセージありがとうございます!
Posted by さつき姫 at 2021年02月27日 15:44
♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪
happy〜. love. peace. unify.


ありがとうございます。
感謝と共に(^人^)
Posted by K-chan at 2021年02月27日 15:52
こんにちは。先日、ポータルマントラのシェアを受けた者です。
今回の「正直に自分を生きる」という表現でピンとくるところがあったので、書き込ませていただきます。

数年前にいわゆる見性体験がありました(と自分では記憶しています)。それ自体の解放感、至福感と、すべてとの一体感、文字通りすべてが私、などの感覚が起きて、しばらく人生最高の日々を過ごしました。

しかし、当時携わっていたのが、自分自身でやりたいと思ったことではなく、本記事にあるような「社会によって矯正」される中で選択した事柄でした。それでも、至福感が強かったですし、内容に関わらず全力で取り組むことが価値なのだ、と考えてガンバりました笑

その道では一応一定の成果を上げることができたのですが、さらに踏み込むにつれて、違和感がどんどん大きくなっていったのです。根底にはある種気楽さというか、軽さというか、眺める感がありましたから、違和感の出てきたまま継続できてしまいました。

けれど、やはりあるときもう無理だと感じて、方針転換し、自分が本当はどうしたいのか探りつつ現在に至ります。今は、以前よりも自分の関わっている事柄に納得しつつ、自分が中心的にやってみたいと思うことにも着手できています。

ただ、やはりまだど真ん中の「自分を生きる」感はさほど強くなく、精進だなぁと思っています。

長くなりすみません。今日の記事で僕が感じたのは、色即是空と同じくらい空即是色も大事なのだ、ということです。

自分の体験として、「今」しかない、すべてあるがままだ、などと感じても、中には僕のようにそれまでの現実の流れを維持してうまく行きづらいという方もいらっしゃるような気がします。(性格的な理由や、自分が何をしたいのか、などにきちんと目を向けてこなかったなどの理由で。)

阿部さんもこれまで何度も書かれていますけど、改めてこの辺りのお話をお聴き出来たら幸いです。

ポータルマントラでの瞑想のおかげか、自分が気づかぬうちに何かに合わせていたり、無理して行っていたりということを察知しやすくなってきたみたいです。

今後ともよろしくお願いいたします。
Posted by 帛 at 2021年02月27日 16:45
こんばんわ、本日のテーマも見てびっくり、やっぱり逃げ場がない、起きていることは素直に受け入れる。それが、私に求められる覚悟なのだと。今日もお導き有難うございます。精進いたします。
Posted by makotoazuma at 2021年02月27日 18:17
>誰に遠慮することなく、あなたを生きればいいのです。

地球人の意識が高まれば、法律は全廃されることでありましょう。地上天国には政府はまだあるのかな?

今はまだ、地球人の意識は未熟なので、法律が全廃されると、悪い意味でやりたい放題の人がたくさん出てきて、地獄になる?

いやいや、人々が未熟に見えるのは、私が未熟さを見ていたからであって、人々が本当はブッダであることを見ればいいのか?

なんてことを考えておりました。。

僕がやりたいことは、人々の罪を赦し、完全な無罪性を見る、人々が本当はキリストであることを見る!
ということであります。

僕の前では、誰もが赦されている…

(最近の僕はキリスト力がかなり高めです。)

光☆光☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2021年02月27日 19:42
>まずは、全ては一つであり、生きているのは全体だということを理解することです。

まず、とおっしゃるこれが訪れていないのすから、どうしようもないですね。

人生にほとんど緊張と惨めさしかないですもん。
Posted by りずむK at 2021年02月27日 20:45
>自分を生きていれば、そこには寛ぎと至福が付いてきます。

>そうでなければ、緊張と惨めさを心の底に持ち運ぶことになります。


>これが見分ける基準であり、自分にしかわかりませんが自分ならわかります。

腑に落ちます。その通りだと思います。

今すぐにブラックな会社を辞めて、収入が低くても楽な仕事を始めたい。
しかし、忽ち自分や家族の生活が立ち行かなくなってしまうジレンマ。

「サレンダー」の精神で神に全てを任せて辞めてしまうのが正しい生き方なのかも知れないけど、凄まじい勇気と覚悟がいりますね。

ただ、リバースの伝授以来、瞑想を続けてきてみて以前ほど焦り恐れている気持ちが薄れてきている感じがします。

引き続き瞑想を続けて成り行きを見守っていたい気分なのです。(笑)

さて、今日も懲りずに坐ってみます。
Posted by ナムジ at 2021年02月27日 21:59
よく分かりました。
自分を生きる事は大切な事です。
人の事を気にしても仕方がないと思います。
Posted by さき at 2021年02月27日 22:29
あべさん(^^)


記事をゆっくり拝見しました(^^)

なぜか、MISIAのEverythingが浮かんで聴いていました。。


話したいことが山ほどあるようであり、、それでいてどれも話せないようであり。。

あまりしゃべらないで過ごしたい感じなので、今夜はそうしようと思います(^з^)-☆
Posted by おいも at 2021年02月27日 23:00
いや、阿部さんも大空さんもただの自分さんもトシユキさんも凄い表現力です。

言葉とか文字とかそんな限定を超越してるような、何とも言えぬ感情や感覚を思わせて頂きました。
今宵の月は見事な満月でしたが、月を眺めて「奇麗だ」と言葉に限定する以前の感動の無限感を皆様の表現に感じます。so feeling
ホント皆様の素敵な表現をいつも楽しく拝見させていただいてます。ありがとうございます。
Posted by 麦茶 at 2021年02月28日 06:13
いつも結局は「今ここを生きる」ことなのでしょうか。
どなたもおやりになっているかもしれませんが、最近とてもシンプルで良い方法を発見したつもり(笑)です。
なんらかの行動をするとき、その行動に対して意識的になるととても自分がイキイキとしてくることに気がつきました。
なんでもいいんです。歯を磨くときなら、きれいに歯を磨く。掃除をするときなら、きれいに気持ちよく掃除をする。仕事をするときなら、お客様に喜んでもらえ、自分も楽しくなる仕事をする等々。
心のなかで自分なりの意図を宣言して行います。

どんな些細なことでも無意識的ではなく、意識をそこに向けていくために、意図を言語化して取り組むと、充実感、幸福感が溢れてきました。
そうやっていると、ネガティブな気持ちが入り込む余地がなくなっていることにも気がつきました。
反射的な行動、無意識的な行動から、意識的な行動を心がけることの大切さを知った思いです。とにかくどんな些細なことでも充実感があります。
Posted by 美佳 at 2021年02月28日 09:33
美香さん

素晴らしいです♪

美香さんのコメントを読んでいて、嬉しくなり、ついお声をかけてしまいましたが、お許し下さいね。

その意識を突き詰めて行くと。。

是非、見つけてあげて、下さいね!

(^^)
Posted by from M-online at 2021年02月28日 12:21
美佳さんでした。

失礼しました(ゴメンナサイ)。
Posted by from M-online at 2021年02月28日 14:39
ありがたや。合掌。
Posted by Lone Ranger at 2021年02月28日 14:58
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