2021年02月16日

精神の道

まだスピリチュアルという言葉が一般に知られていなかったころ、精神の旅について最初に読んだ本が

「spiritual materialism 精神の物質主義」

でした。

チベット仏教カーギュ派の高僧、いまは亡きチョギャム・トゥルンパの講演録です。


彼は当時、アメリカ西海岸で瞑想道場を開き、集まってきた西洋人たちに真理を説いていました。

そこで彼が警鐘を鳴らしたのは、この道を歩むことの落とし穴についてです。


精神的な道を歩くことで自分を特別視したり、真理への一瞥や霊的体験をしたことを自分を飾る勲章のようにしてしまわないように、何度も何度もこの危険性を語り続けていました。



僕がこの本と出合ったのは、まさに最初の一瞥が起きた直後であり、それまで精神世界など見向きもしなかった自分が、あまりに強烈だった体験を説明してくれる本を探しているときでした。


当時はまだ書店に精神世界のコーナーなどなく、唯一、麻布警察の隣にあった青山ブックセンターに、それらしき本が置いてありました。


僕は地上からいきなり宇宙に連れ出されたような感覚になっていて、自分に起きていることをなんとか理解したいと思っていましたが、最初にこの本に出合えたのは幸運でした。

なぜなら、その体験にしがみ付こうとしていたからです。


そこには何重にもわたる欺瞞が横たわっていました。


まずは体験などというものは無いということ。

「真理の体験」と言ってしまうと、まるで一つの結果を得たように思ってしまいます。

しかし事実は、すべてが現在進行形であり、正しくは「体験ing」があるだけです。

体験という言葉は、それ自体を持ち運ぶ危険性を持っているのです。



そしてもうひとつの危険は、体験した「自己」を強めてしまうこと。

これこそが「spiritual materialism 精神の物質主義」です。


「私を見ろ。

宇宙の真理を見出した私がここにいる」

というわけです。

これが聖者や覚者、あるいは教祖の道に入ってしまう落とし穴です。


ごく普通の凡人として、当たり前に生きることこそ中道の道であり、真理の生き方であり、そこになんら特別なことはありません。


この世では、自分の霊的な特別さを売りにしている人が次々に登場し、特別な人のことが大好きなエゴたちのニーズを満たしています。

この傾向はいまに始まったことではなく、昔から続いているまやかしであり、後には何も残りません。


精神の道


いまも続いているこの呼吸には、なんら特別なものはありません。

その一方で、この呼吸一つに内在している奇跡と神秘。


この態度が、本当の精神の道です。



この話にはさらに先があるのですが、言葉で表すことができません。

言葉とは、この世の道具であり、真実の次元のことは矛盾した表現しかできないからです。


しかし同時に、あなたはこの真理を心の奥で知っています。

あなたには得なければいけないものも、知らなければならないことも何もないのです。



いまもこうして生かされている不思議を感じた時、そこに現れるのが感謝の気持ちです。

あなたという存在の奇跡と神秘をお祝いしましょう。



今日も当たり前な人間として、あるがままの命に寛ぐことにします。


合掌










Posted by Toshiro Abe at 10:31│Comments(18)
この記事へのコメント
「精神主義は善い。物質主義は悪い」という頭の中の無常の想念から解放されて
「精神主義は悪い。物質主義は善い」という頭の中の無常の想念から解放されて

いま胸の中の常住の光に深く安らぐのが中道です◎

外の無常の現象から解放されて
中の常住の自己に深く安らぐのが中道です◎

中心から外れるほど上下に揺さぶられ、左右に揺さぶられ、前後に揺さぶられ不安定になり
中心にあるほど安定します◎

真の安定は中心にあります◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年02月16日 11:08
模察と申します。

私達は皆、何も持たず、何者でも無いモノとして産まれてきました。

"いまここ"もそのことに何ら変わりはありません。

何も持たず、何者でも無いモノが私達の本質なのですから。
Posted by 模察模察 at 2021年02月16日 11:52
今日の記事に涙しました。
すでに知っている 私も知っていた時を思い出しています。
 今は50を過ぎましたが10歳の時にいろんな想いが自然と湧き上がってきました。阿部さん仰っていることと同じ様な感じでした。
授業中に時計を見てる時に時間の不思議を感じたり、言葉は発したときに消えて言っしまうと思ったり、数の不思議…

文章にはなかなか難しくて伝えられないのですが…
同じ感覚の方が居るというだけで嬉しいです。
Posted by 真澄 at 2021年02月16日 11:54
不思議なんですよね。
解放されて悟ったり?したはずなのに、
『解放され続ける方』ではなく、『悟り?』とかの方ばっか大事にしようとするのって。

て訳で自分は、いかに『この自分自身』が解放されてるか、だけを気にして、
日々を過ごしています。
かと言って『解放されてない』時に『解放されていない自分』を気にしません・・・
嘘です(笑)『気にする自分』も起こってきますが、
『そんな自分たち』をまるごと認めることにしています。
『そのように認めるところ』に『解放される』感じがするので。
そしたら、深いところから呼吸が起こったりして、なのできっと、全ては

>いまも続いているこの呼吸には、なんら特別なものはありません。

>その一方で、この呼吸一つに内在している奇跡と神秘。

とかの『当たり前のこと』なんでしょうね・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2021年02月16日 12:22
日曜の瞑想会で、女性は一瞥しても命に直結しているからそれほど驚かないと仰られていたことが「なるほど〜!」でした。

その時私も「そーだよね」という淡々とした感じで驚きがなかったからです。

今ではその体験も薄れ殆どありません。

だから幸せ^ ^
Posted by まぁるいこころまぁるいこころ at 2021年02月16日 13:24
ただ在ることに意識をフォーカスして落ち着いてると、奇跡とか感謝、無限とか永遠とか、スコーンと抜けた気持ちでいっぱいになります。

特別な事は何も必要ないんでしょうね♪
Posted by はなこ at 2021年02月16日 13:37
有難うございます。
有難うございます。
有難うございます。

そして、お祝いをいただきまして、有難うございます。
明日も明後日もいつも、いまも!お祝い、なんてすてきな言葉でしょう! 祝わってくださっている自然にこころから感謝します!
そして有り難くくつろぎます。

私のところ、天気は荒れるそうです。今日は自然に感謝する日にします。
嬉しいメッセージです!
有難うございます!
Posted by 国華 at 2021年02月16日 14:11
>この呼吸一つに内在している奇跡と神秘。

まさに…。
Posted by ロータス at 2021年02月16日 14:17
ここに生かされいることの不思議さに気づくと感謝しかない=愛  
この感覚が「足るを知る」ということでしょうか?
日々の作務はingとして
只する。
ここに幸せがある様な気がします。
丁寧に暮らすと少しですが、近づく感じです。
阿部さん、いつもありがとうございます
Posted by すいり at 2021年02月16日 14:55
阿部さんこんにちは!どうしてもお伝えしたくてこちらから失礼します。香咲さんとの対談講演会を今、拝見しました。
香咲さんの強烈なメッセージが大好きでもっとっと聴きたかったです。
そして対談後の阿部さんのゴッホのお話。これがとっても泣けて来て感動しました。阿部さんの表情がいつもより優しさで溢れているように感じました。
最近は社会の話し男性、女性のこと。話されていました。女性である私は男性である阿部さんとは分かり合えないのか〜なんて思ったりしていましたが、
最後のこのお話し、阿部さんの「これしかやりたいことはない」というのが凄く伝わって来て、私の中で男性とか女性とかを超えました。
久しぶりに感動して涙ながしました。
ありがとうございます(*^^*)
Posted by saeri at 2021年02月16日 15:49
阿部さんがWeb講演会などで、一瞬間(ま)が生ずるときがありますが、そんなときが好きです。
その間(ま)で無思考になっている気がします。間(ま)で完全な受け身になって、ただ待っている。無思考で心地良い。思考がない、今ここかもしれません。
Posted by 美佳 at 2021年02月16日 16:04
今、「スピリチュアル」として本やセミナー、講演会などで広められているモノは、多くは精神(メンタリティ)に関するモノが多いと感じています。
メンタリティは、心を扱っているので、その内容は、多種多様、発信する側と受け取る側のマインドの数だけあると言っても過言ではありません。
私たちは、人生を通して、この地球で心の旅、印象の体験の積み重ねをしているに過ぎませんから、マインドが満足すれば、その経験は良い経験となります。
発信した情報で、相手が満足すれば、それは発信する側にとっても、良い体験となります。
こうして、ギブ・アンド・テイクの関係が生まれ、時には、そこに金銭の授受が発生することもあります。
この世を体験しているのが、心であるにも拘らず、私たちは、心の仕組みや取り扱い方を知りません。
身体も心も、生まれつき備わっているため、それらを動かすことは、自然にできるのが当たり前なので、改めて、身体の動かし方や心を働かせ方を知ろうとは思いません。
ましてや、身体とは何なのか?心とは何なのか?を知らなくても生きていけるため、改めて、知ろうという人は、極僅かでしょう。
しかし、瞑想やヨーガを実践して、改めて感じ、驚いたことは、瞑想(禅を含む)やヨーガを実践する内に、身体とは何なのか?心とは何なのか?ということが、わかって来ることです。
それだけでなく、身体と心のつながりや、その仕組みが、体験を通して、智慧となり、生きることに役立たせることができるようになります。
生きることにフィードバックできることは、実践の効果であり、修養の果実と言えます。
更に進んで、プラーナヤーマを実践すると、呼吸を通して、呼吸と心と身体の関係が見えてきます。
それを更に進んで、プラーナの秘密に入って行くことができれば、物質的な存在である肉体と精神的な存在である心、そしてその二つに浸透して"わたし"という存在を在らしめているすべての存在の源に辿り着く入口を見出すことができるでしょう。
私たちは、潜在的に、目に見える世界が全てではないことを知っています。
それは、誰もが、潜在的に、自分という存在の源を知っているからなのでしょう。
しかし、エゴが納得できるハッキリとした形ではわからないために、そして、誰もソレを示すことはできないために、殆どの場合、自分の源を知ることなく、人生を終えます。
源のことなど考えたこともなく、そんなモノがあるとも知らずに、人生を享受して終わることもできます。
全ては、その人次第なのです。(一人一宇宙)

しかし、肉体と心を貫くただ一つの意識があり、その意識の存在に気づいてしまった人たちも、極少数ですが、います。
そして、気づいて探求する人は、もっと少ないために、結果として、ソレについて語ることができる人は、もっと少ないですが、いない訳ではありません。(ただ物質界のことしか理解できないエゴには、何を言ってるのか?わからないことが、多々あるでしょう)

スピリットとは、霊のことで、スピリチュアリティは、霊性だとすると、スピリチュアリティについて、何かしら他者に伝えようとするならば、先ずは、自分に内在し(浸透し)ている霊性について、自ら知る必要があります。
それは、本や他者から知識を通して学べることではないために、何らかの体験を通して、知ることを意味します。
そうして、初めて人に、誰にでも内在する(浸透する)普遍的な霊性、スピリチュアリティについて語ることができるようになるのでしょう。
そして、ソレは一つしかないために、誰が表現しても、同じような内容になってしまうのでしょう。
ソレは、私たち人間のように、多種多様な性質はないので(色はついていないので)、無色透明な純粋意識を形容する言葉はないために、言葉で伝えることはできませんが、目に見えない力(プラーナ)で、ダイレクトに伝えることができる存在は、ごく少数ですが、います。
世の中には、言葉を通さず、純粋意識の上に上乗せされている不必要なモノを取り払い、内在する純粋な普遍意識が顕になるように導いてくれる稀有な存在はいるのです。(例えば、ラーマクリシュナ、ラマナ・マハーリシは、体験者によって、その時の体験が綴られています)
あらゆる人間の本性であり、この限定された肉体と心を超えた存在とは何なのか?、それが自分の源であるスピリット(霊)であり、"本当のわたし(真我)である"と教えてくれる教師が、極稀にですが、この世に顕れることもあるのでしょう。

"わたし"は、肉体であり、心であり、霊(真我)である。
しかし、本当に実在するのは、本当のわたし、霊(真我)だけである。

肉体は心の中に、心は霊(真我)の中に、内包されているため、肉体や心を通しては、霊(真我)を感知することはできません。
それ故、賢者の中には、身体と心の修養を通して、霊(真我)が顕わになるようにと諭す方々が多いのでしょう。

ラマナ・マハーリシも、17歳の時、死の体験が起きた後に、16年間、アルーナチャラ山の洞窟に籠もり、絶えず、瞑想状態にあったそうです。

瞑想は、何処でも、誰でも、実践しようとする気持ちさえあれば、できるので、有り難いですね。

霊性の道に入って行くには、精神の道を通る必要があるのでしょう。

ヨーガ・スートラの中のパタンジャリの言葉。

ヨーガとは、心の制御である。

精神(心)の道も、いろいろあります。
自分に合った道を歩み、苦行ではなく、それ自体を楽しみ、身体と心を通して、本当の自分、真の自己を知るプロセスを楽しめると良いですね♪
Posted by 身体と心を超えて from M-online at 2021年02月16日 17:18
おいたん、ブログを続けてくれていてありがとう。
Posted by ザクト at 2021年02月16日 17:22
こんばんわ、今日のお話しとても清々しく、まるでまっすぐな道を颯爽と歩む種田山頭火のイメージが湧いてきました。 やっぱかっけぇす。

  「けふもいちにち風を歩いてきた」  山頭火
Posted by makotoazuma at 2021年02月16日 20:06
あべさん、おとといの講演会録画無事拝見しました。
寝ませんでした今度は。
森さん的なもの・・あるある今もある日本にもきっと世界にもたくさん。
強いリーダーシップとか?サル山のボスとか取りまとめる力とか。
ぐいぐい行っちゃって他者は反対できないとかの古いタイプの親分。
森さんは究極の自我?の権化で古い地の時代の代表のような人かなーと
でもねきっと今ここでこんなに問題になってバッシングされているということは
(もちろんSNSのネットワークの力が大きいのですが)
残ってはいるけれど時代が確かに切り替わりつつあるのだと思います。
風の時代というのか新しいニュートラルの時代。
森的ではない時代にきっと。。シフトしつつあるその象徴。
変わるといいな早く新しい時代に。
でも今日一日が幸せでありますように・・とお仕事に行ったらばさっそく
出た出た、何が出たといえば自我ちゃん?
出るわ出るわ、新しい人が来たらば・・見事に自分と比べてしまい
(タイプが逆の人)余計な嫉妬したり、やたらそれで不安になったり
今ここどころが自我祭りエゴ祭りの一日にがっくり来ました。悲しいです。
数年に一度の暴風雪の中、ようやく家にたどり着きました。
自我からもっと自由になって楽になりたいです。また瞑想します。
Posted by さつき姫 at 2021年02月16日 20:43
"私はいない"を知った時(気づいた時)、

それは頭の知識でも受け売りでもないことを言葉として表すために、
経験した(体験した)、あるいは実感がある、なんて表現するしかなかったのですが、
本当は、経験する私そのものがないから、経験でも体験でもないんですよね…。
(いない私を経験することはできない…。)

私が消えたという経験も耳にします。
多分、周りと一体になったり、自分という枠や、見えてるものが消えて光になったりだとかの神秘体験をしたのではないかと思っておりました。

なので、持ち運ぼうとするのは、やはり、それが恍惚とするような神秘体験であり、"いっときのもの"を体験したからこそ、なのですね。

それだと、
"すごい経験をした私""すごいことを知ってしまった私"になってしまうのも、理解できます。

"私はいない"や"全てはソレの顕れ"は、神秘体験でもなく、ただそうであった(そうである)と気づくだけのことで、それは持ち運びようがないんですよね。常にソレなので(^_^;)
Posted by ロータス at 2021年02月16日 21:57
チベット仏教、カーギュ派と聞いて、「タントラ」という言葉が思い浮かぶ人もいることでしょう。
タントラは、密教的な要素が多いので、教えてくれる師を必要としますが、内容的には、密教的なヨーガとも共通した部分が多く、経典は異なりますが、元は同じモノから分派したのでは?と感じる程、よく似ています。
一般的なタントラには、呪術的な内容も含まれているようで、また、教えの中に、チャクラやクンダリニー、シャクティという一般的には馴染みのない言葉が、多く使われています。
インド北部と隣接していた地域では、長い年月を経て、ヒンドゥー教の中でも、タントラ色の強いシヴァ派やシャクティ派に似た、俗にタントラ仏教と呼ばれる後期仏教の影響を受けた密教仏教が、チベット、ブータン、モンゴルなどで、特に発展したと言われています。
お釈迦様は、チャクラやクンダリニー、シャクティのことなど、語っていませんが、所謂、タントラの影響を受けた仏教の中では、シャクティ(一種の女性エネルギー)が主要な修行の柱になっていることが、興味深いです。
タントラの修行は、或る宗教団体に大きな影響を与えたこともあり、その呪術的、密教的な教えは、日本では謎に包まれているようですが、世界には、純粋なヨーガとして修行している人たちもいるようです。
タントラ・ヨーガの修行の主な特徴は、プラーナヤーマとマントラです。
この2つは、物質界に意識がある私たちの意識が、微細エネルギー世界へ潜って行くための乗り物として最適なのでしょう。
プラーナヤーマは、師から生徒へ、その実践の核心が伝えられ、マントラも、師によって伝授される必要があるそうなので、この教えの形態が、密教と呼ばれる所以なのでしょう。

今日の阿部さんの記事の本題からは逸れてしまいましたが、いずれにしろ、霊性の道においては、ある程度は、誰でも、修行的なことは必要と言うことなのでしょう。
そして、精神の道は、心の修養なので、それほど転落のリスクはありませんが、霊性の道は、道を誤るリスクもあるということを、多くの賢者の方々が仰っています。

瞑想の道も、タントラの道も、霊性の道のゴールは、一つしかありませんから、辿り着く処は同じなのでしょうが、ゴールするまでの行程には、転落のリスクもあるということなのでしょう。

タントラの道を歩んだラーマクリシュナが、「あれは危ない道だ、一歩誤ったら、転落する」という回想の言葉が、とても印象的でした。

最近は、タントラ・ヨーガを教えてくれる処もあるようです。
その人の資質や精神的傾向(サンスカーラ)にもよるとは思いますが、自分か選んだ霊性の道には、思わぬ落とし穴もあるということを、忘れないことだと言えます。

それも学びだと思えれば、どんなことが起きようとも、失敗ではありませんが、限りある時間の中では、それで終わってしまうこともあるでしょう。

しかし、それでも尚、挑戦する価値のある飛躍、ジャンプなのです。

至福の大海にダイブし、大海に自分のすべてが溶けた瞬間に、直覚智が起こり、真実が顕わになることでしょう。

永遠の実在、永遠の純粋意識、永遠の至福。

本当に在るのは、ソレだけ。
Posted by 身体と心を超えて from M-online at 2021年02月16日 22:31
>「私を見ろ。

>宇宙の真理を見出した私がここにいる」

(最近の僕は、奇跡のコースにハマっておりまして…)

ひとりひとりを真の姿、神と完全にひとつの存在なんだと見る練習をしておりますので、
こんなことを言う人に出会ったら、さすが~と言っちゃいそうです。。

キリスト☆キリスト☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2021年02月17日 03:57
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