2019年03月22日

演劇に参加してはいるけれど

来てくれてありがとう。







神様大好きさんのコメント


阿部さんに質問させて頂きたいのですが、

「いまに在る」という言葉を念仏のように唱えていれば

「いまに在る」意識になりますでしょうか?

「いまに在る」ことにより、「大いなる存在」が「ほんとうの自分」であることを悟ることができますでしょうか?




「いまここに在る」という言葉を念仏のように唱えても、いまここにいない場合がありますし、


いまここにいる場合もあります。



早い話が、何をしているのかということと、いまここにいることとは関係ないということ。



いまこことは、いま起きていることと一つになっている状態。


私が世界を生きているのではなく、私と世界が一つになっています。



たとえば目の前の花を見た時、花に対する何の評価も挟まずに、ただ花と共に在る。


誰かと向き合えば、ただ誰かと向き合って、そこに何の先入観も投影しない。



ただあるがままのいまに在る。



演劇に参加してはいるけれど



いまここにいようとする計らいがなく、


状況に飛びかかっていって、何かを改善しようという攻撃性がありません。



いまここに在るというのは、とても寛いだ状態です。



すでに、挑戦者でも探究者でもない。


すでに誰でもない。



この自動操縦の演劇に参加してはいるけれど、登場人物に成りきってはいません。



ほんとうは誰もが客席なのですが、劇の中の誰かさんのつもりで生きています。




真理は笑っちゃうほど単純で、あまりにも当たり前すぎて見失っている何かです。



だから



「いまここ」だと言い聞かすのではなく、



ただ力を抜いて



寛いで



耳を澄まして



見るでもなくぼんやりと見てみる。




視覚も、聴覚も、感覚のすべても、自分の外側で生じているかのように、それらを風景のようにして観察してみるのです。



あなたはただそれらを見守るもの。


見守っている内容がどのように変わろうが、見守っているあなたは変わらずに「いまここ」に在ります。


その見守るあなたが無ければ、何が起きても何一つ存在でききません


もう一度言いますが、あなたは人生の登場人物ではなく、それらすべてに気づいている意識なのです。




登場人物としての「私」が消えた時、


分離という錯覚も消えていて、


あなたの意識は完全に「いまここ」にあります。





最後に一つ言えるのは、「いまここ」に在るためには、何の努力も要らないということ。


本当はすでに「いまここ」にいるのだから。



「いまここ」とは、本当のあなたの別名です。


それは努力して達成するようなものではありません。


















Posted by Toshiro Abe at 09:51│Comments(21)
この記事へのコメント
ただあるがままのいまに在る

いまここに在るというのは

挑戦者でも探究者でもない


春分の満月

イチローの引退

多くの 感動を ありがとう




阿部さんに

 いまここから

  ありがとう
Posted by CHUYOSPACE at 2019年03月22日 09:59
阿部さん、いつもありがとうございます!
実は冬至のとき、車の助手席で、道行く人、歩く鹿(奈良市内を走っついたので)、道の看板、乗っている車、隣の人、すべてが一つというか、私としいうか、とても凄い一体感のエネルギーになって、涙が溢れて止まりませんでした。
あの時の感覚を知ってしまい、あの時から離れている感覚が切なくて苦しくて。
どうしたらまたあの感覚を味わえるのか…なんて愚にもつかないことを考えてしまいます。
Posted by ちづる at 2019年03月22日 10:05
いまに安住することが
いまに在る

ということですね^^
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2019年03月22日 10:08
真言、2日目が終わった時点で6000回。
あと1日で4000回やらなくてはーー
大変だけど苦痛ではないんだな、なぜか。
ラストスパートだ!
Posted by パンマン at 2019年03月22日 10:20
今日の阿部さんは冴えわたっていますね。いやあ感服しました。
明日はいよいよ札幌ですね。楽しみすぎるー。よろしくお願いします✨
Posted by キイロイトリ at 2019年03月22日 12:09
いまここ、は特別なことではないのですね。
いまここという言葉を知らない人でも当然のようにいまここにいることがあるし
一日の中で誰でもいまここにいるときがある。
そんな感じでしょうか。
知りたいことだったので、今日のブログありがとうございます。
Posted by 風 at 2019年03月22日 12:21
阿部さんも私と同んなじなんだって(^^)
痛みも、傷つきも、喜びも、悲しみも、な~んだってある♪感情も感覚も思いも♪ぜ~んぶ一緒って分かっただけ。理解しただけ(^^)v

だけど、投影しちゃってま~す笑

阿部さんは私にとって、

現代版ブッタです\(^^)/
Posted by ともこ at 2019年03月22日 13:08
ステキですね
Posted by Okan at 2019年03月22日 13:10
阿部さんこんにちは!
今日のお話はとってもわかりやすいですね(≡^∇^≡)
ありがとうございます!
とってもいい気分になりました\(^o^)/
Posted by しろ at 2019年03月22日 13:29
本当は、
見ようとしなくても『見ることができて』いますし、
聞こうとしなくとも『聞くことができて』いますしね。
息をしようとしなくても『息をすることができて』いますし、
それらの『既にそうできていること』に『お任せ』すれば、
仕事とか、自分で必死に覚えて、必死にしようとしていることも、
しようとしなくても『することができて』いることに気付いたりしますね・・・・・
・・・・・てあれ?

そう言えば、新しい何かを『覚える』のは、『自分で覚えようと』しなければ覚えられない気がするのですが。
そう思うのは、
『覚える』ためには、『覚える必要があること』と『覚える必要が無いこと』という『判断』が、
どうしても必要になってしまうと思い込んでいるからですが、

阿部さんとしてはいかがでしょうか?
『覚える必要がある』と『覚える必要が無い』という『判断』すら、
『起こるまま』に『お任せ』しておけばいい、て感じでしょうか?
そう言えば、『覚える必要がある』と『覚える必要が無い』という『判断』も、
何故『そのように判断できているのか』なんて、わからないですしね・・・・・
『自分が行うこと』ひとつ取ってみても、『起こること』って、『そう起こることができている』という、
ただそれだけで、奇跡だと感じます・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2019年03月22日 13:54
>私が世界を生きているのではなく、私と世界が一つになっています。

はじめから世界とひとつなのですが

人間の発達した脳がいまここで創り出すストーリーに
はまり込むことで

幻なんだけれど、考えている私と世界に分離している

なので

風を感じて…聞こえて来る音に耳を澄まして…

いまここにあるものと共にあることで思考が静まり返れば
考えている私も消えて分離も消える

そんな感じでありましょう

ただこれは静のいまここでありまして、リラックスしているわけですが、

動のいまここは、
例えば皿洗いをして三昧に入り思考が静まり返り私が消える
スポーツをしてゾーンに入り、思考が静まり返り私が消える

そんな場合もありますよね

(もちろん夜は熟睡中であります)

いまここ☆いまここ☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2019年03月22日 15:01
視覚も、聴覚も、感覚のすべても、自分の外側で生じているかのように、それらを風景のようにして観察してみるのです。

阿部さんのいつもの表現だと、自分の内側じゃない?笑
間違ってらすいません。 あと細かくて。笑
Posted by pino at 2019年03月22日 15:26
リラックス、
リラックス、
リラックマ
(๑´ω`ノノ゙✧
Posted by 薄茶色 at 2019年03月22日 16:12
>視覚も、聴覚も、感覚のすべても、自分の外側で生じているかのように、それらを風景のようにして観察してみるのです。

一時期、この手の世界に何の興味もない頃、自分の五感や行動がなにか他人がやっているような距離感があって、自分が離れているような感覚があったのですが、これはただの離人症と呼ばれるものですか?
もとに戻るのに結構時間がかかりました。

阿部さんの言っていることと、離人症の違いはどこにありますか?
Posted by ケント at 2019年03月22日 20:00
今 目の前の事や人と ひとつになっている時 私はいなくて思考のおしゃべりも無く〜
そこには心地良さだけがあります。
私は仕事の時 この一体化するのを良く使うのですが〜
リラックスしているのでスムーズに仕事が流れて行きます。
とてもラクです^_^

又 ひとつになると慈悲の心が芽生え目の前の人や物に 愛おしさを感じるようになります。
本当に いまここって愛なんだなぁ〜って感じます。
なので 何が起きても。。。
『大丈夫〜心配ないよ〜』を実感しています。
Posted by Atsumi at 2019年03月22日 20:12
すごく小さい頃は、、
木を見て、緑 葉っぱ 大きい 実がなってる
など思わなかったような気がする。
Posted by 引っかき猫 at 2019年03月22日 21:56
小学校低学年の頃、今は亡き父に連れられて
山菜採りによく出掛けました。
山林のなかで、夢中で必死に探し続けている時に、
探している自分の姿も、草木も、香りも、空も、木漏れ日も、何もかもを、見下ろしているような、
何もかもと区別がつかないような、
不思議な感覚がありました。

今でも微かに覚えている。忘れてない感覚。
それは気づきとかではないのかもしれませをんが、
時々思い浮かぶ。
持ち運ぶ、と言うほど強烈ではなく、忘れていることがほとんどで、後付けの記憶なのですがね。

ただ、阿部さんと出会えてから、
これらのこと、
悟り、真実、などに対する特別意識?が、少しずつ薄れていってる気がします。

探求は、人に生まれたからには、尽きないものだとあきらめてもおりますが(^^;

じんわりじんわり染み渡っていく感じです。

本当にありがとうございます✨
Posted by サウナ at 2019年03月22日 22:24
今日の記事を読んでの散文....

お釈迦さまのように目を半開きで、
ゆるりと楽しもうととやってきました

でもできなかった、だって、ちゃんと見開ける両目を授かってしまったから

じっと物事をみつめて真剣に生きてしまったんです

真剣に生きたから、好きな仕事を手にして、好きな伴侶にであって、愛する家族を持って、社会にほんのちょっぴり貢献して、そして困らないお金を手にいれました
そして、幸せをいつも感じています

それでも、時々、心や体が重くなるんです
そしてこの幸せは、無理してるんじゃないかって感じるんです

なぜなら、重さのない完璧な幸せの状態を味わったことがあるから

そこにもうそろそろ帰りたいな

だから、ここを読みに来てるんだね
Posted by kiki at 2019年03月22日 22:31
昨日、居心地が何となく悪く、座りの悪い椅子にもたれてる感じでした。
きっと、がっつり演劇に参加して主人公になりきっていたからなんだと今思いました。
ようやく、阿部さんの言わんとするとこがさっき感覚で伝わってきました。
あ~ホッとしました。
これを読めて良かったといま、本当に感じました。
昨日は意味が分からなかったから?
今朝、腑におちましたあ。
ありがとうございます。
Posted by もとき at 2019年03月23日 05:09
阿部さんの今回のこのメッセージって、
『いまここに在る』だけの感覚を表現しているのかな。

わたしが疑問に思った所はここ、

>状況に飛びかかっていって、何かを改善しようという攻撃性がありません。
>いまここに在るというのは、とても寛いだ状態です。

わたしのここの解釈の受け取り方は完璧誤っているのですが、
猫はシャーシャー唸ったり、とーーっても低い変な声を出して威嚇しあったりするじゃないですか?
あれはいまここで事が展開している様に見えているだけで本当はあれって何も起きていないのかなって不思議に思いました。
だって、人間があれやっちゃダメでしょ?
何で人間はダメなんだろ。

『いまここに在る』と『いまここ』の使い分けと解釈に少し頭を捻りました。

外側の状況に振り回されたりせず寛げないときも阿部さんの現すいまここによって簡単に寛げるってことなのかな。
Posted by しず at 2019年03月23日 06:04
まだまだ私は、改善しようという気持ちがありますね。それでも少し薄まってきたでしょうか。
それがなくなってきたら、現役じゃなくなるのかな?
Posted by ひよどり at 2019年03月23日 09:13
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