2018年06月15日

覚醒

すべては変化していきます。

あなたの外側のあらゆる現象も変わり続けているし、自分の肉体も心も変わり続けています。


あなたが認識できるもので、同じままであるものは何一つありません。


すべては変わり続けているので、変わらないようにとしがみつけば苦しみが生じます。

ここが人生ゲームの厄介なところ。


最愛の子供や親兄弟や、親しい人やペットとの別れ。

何ひとつ留まるものはありません。

最後は必ず別れなければなりません。



じゃ、どうしたらいいんでしょう。


簡単に言えば、

変化を認め、変化と共に生きること。



社会を捨てて出家しようと、どこへ逃げようと変化はついてくるのだから、変化と闘うのではなく、変化を信頼し変化と共に生きるのです。

現象界の動きに抵抗せず、完全に流れに身を任せた時、もはや変化は苦しみではなくなります。


そして突然の閃きが起きます。

それは、変化の中にあって、何一つ変化しないものの発見。



その発見はサレンダーした時に起きます。

完全に寛いだとき、100%リラックスした時に内側から訪れる洞察です。


わずかな葛藤でもあれば、内側にある不動の中心は見えません。

その不動の中心が、永遠の命であり、いまここです。


そしてそれが、本当のあなた。



あなたが知るものの中に変化しないものはないけれど、

それを知る者だけは変化せずに在り続けています。


覚醒



あなたは子供の頃のあなたを知っています。

でもその子はいまのあなたとは関係ありません。


肉体の細胞はすっかり入れ替わっていますし、心の中身も変わっています。



でもあなたは、自分が子供の頃の写真を取り出して

「これは私だ」

と言うことでしょう。


なぜなら、子供の頃もいまと同じようにして自分を見ていた者がいたから、その子供が自分だと知っているのです。


そしてその者はいまも同じようにあり続けています。

これからもずっとね。



あなたの死さえも見届けることでしょう。

その時、死にゆく自分と同化しているのと、それを見ている者であるのとでは全く違います。



見ている者であり続けること。


それが覚醒です。



そこに至る第一歩は、流れを受け入れてリラックスすること。

人生の流れや変化を完全に信頼すること。


それが最初の一瞥に繋がっていきます。



・・・・・・・・・・



【お知らせ】


今年最後の

再誕と新生のワーク in 天河


日程は9月7日、8日、9日、10日

に決まりました。


お申込みの準備ができましたらご案内します。










Posted by Toshiro Abe at 09:44│Comments(33)
この記事へのコメント
ありがとうございます。今、変化することに不安を絶えず覚えていた時です。グッドタイミング!!今日まさに今変化を信頼して受け入れていきたいと思います。すべては流れのままに・・・
Posted by らぴ at 2018年06月15日 10:08
無常の現象を体験しているわたしは常に存在している

非常に単純明快な真実です。

常に存在しているわたしは胸の中心にある光り輝く心です。

常に心を集中して

常に心を輝かせて

常に心を広げていると

常にわたしが光り輝く心として存在しているという真実を実感できるようになります。

←(*´▽`*)→←(*´▽`*)→←(*´▽`*)→
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2018年06月15日 11:20
いつもありがとうございます。
>変化を認め、変化と共にいきる
なにかぐっとくるものがありました。
他人からはへんかもしれませんけど(笑)
善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2018年06月15日 12:12
この宇宙には、唯一の傍観者がいます。
この表現は、正確ではありませんが、人間には、イメージしやすいので、そう書きます。

私たちは、夜夢を見ている時は、夢の傍観者です。
夢の中では、自分でああしたい、こうしたいという想いとは別に、夢は展開していき、私たちは完全に傍観者になっています。
そして、睡眠中は、「わたし」という意識が完全に無くなる熟睡状態が訪れます。
たとえ、「わたし」が消えていても、肉体は残っているので、この宇宙の唯一の傍観者は、私たちを見ています。

熟睡中は、脳の働きが一時的に休んでいるため、「わたし」というエゴの働きが消滅していますが、傍観者だけは在り続けているのです。

何故、この傍観者は、私たちの意識が無くても存在していると言えるのか?

それは、私たちは、睡眠から目覚めた時に、よく寝たとか、よく寝られなかったとかいう感想を持つことができますが、これは、私たちの意識が働いていなくても、傍観者がいて、私たちを見ているから、という見方ができるからです。

ですから、熟睡中は、「わたし」は消えて、傍観者だけになっている状態と言えます。

瞑想は、この状態を、睡眠ではなく、覚醒した意識の中で、再現しようとする試みと言えるかもしれませんね。

熟睡中は、私たちは完全にリラックスして、寛いでいます。
肉体感覚も消滅し、自分の心も働いていないので、エゴは消え去り、傍観者であるソレだけが存在する状態です。
ソレと「わたし」が一体である時、私たちは、この世の存在であることができます。

そして、肉体の維持が不可能になると、肉体は消滅していくので、それと共に、「わたし」という意識も消滅します。
個人の「わたし」という意識は、肉体から生み出されているのです。
こうして、個人の死が訪れます。

しかし、傍観者は、私たち人間の肉体や意識とは全く別の存在なので、私たちの肉体が消滅しても、何も変わらず、そのまま在り続けます。

この傍観者は、永遠の実在であり、私たち人間を含むすべての存在の本質です。

形あるものが消滅しても、ソレは変化に影響を受けることなく、在り続けます。

始めなく終わりなく、在り続ける、この宇宙で唯一の実在。

それが、私たちの本質なのです。

人間としての命には、限りがありますが、永遠の実在には限りがありません。

イエスが、「永遠の命」と言ったのは、この「永遠の実在」のことです。

命と言うと、有機的なイメージがありますが、永遠の実在は、有機的な存在ではありません。

永遠の実在は、無から有を生み出し、この世にリアリティを与え、維持し、在り続けさせている力の源です。

すべては、コレから生じ、コレに帰滅します。

私たちは、肉体の死を恐れますが、このことが理解されると、死への恐れは和らぐことでしょう。

個人は、この肉体が在る間だけ、この世でリアリティを感覚知覚器官を通して経験しますが、それは永遠の実在によってもたらされている錯覚であり、肉体が消滅すると、この錯覚も消滅します。

それは、さながら、昼間は覚醒して、この世を体験し、夜には完全なる熟睡状態となって、この世の体験から離れていることによく似ています。

そして、傍観者にとっては、この世は、ただ見ている夢にしか過ぎず、この宇宙のすべての存在は、その夢の中に登場する実体のない顕れては消えていく幻のような存在と言えます。

このことを知るだけでも、この世への執着は薄らぐでしょう。

執着が私たちをこの世に縛り付け、苦しみの原因となっています。

この世で修行とされている多くは、エゴの想いである執着を薄くしていくための行と言えます。

この世に執着しているのは、エゴなのです。
しかし、エゴは肉体における反応の一つであり、それ以上のものではありません。

そのことをエゴが完全に理解し納得するには、自己の不在を自己が体験するという、何とも不可思議な"一瞥体験"が、人間には必要なのかもしれませんね。
Posted by 真理世 at 2018年06月15日 12:15
なんとなく、
応無所住形而生其心
な感じ?
Posted by タコロール at 2018年06月15日 12:19
いつもありがとうございます。

…しがみついちゃってますねえ。
家族(母)に、そして何より自分自身に。
執着がなくなるには高齢の母が亡くなるのを待たねばならんのかなぁ。…嫌ですが。
むしろ自分自身が終わるほうがまだいい。
先日、「3日目の夜」に自分自身については幾らか軽くなった気がしましたが、時が経つにつれ戻ってしまった感じです。近隣のカラオケルームに篭ってみようか、とか考えてますが一時しのぎにしかならないと自分でも思ってます。
何かキッカケがあればとも思いますが、心からのサレンダーに至るにはどうしたらいいのでしょうかね。
自分自身わかりません。

ではこれからも書きたいことをお書きください。
Posted by TSY at 2018年06月15日 12:19
今日のブログを読んでいたら、その境地はまるで弥勒菩薩の質感の様に感じました。
Posted by おすず at 2018年06月15日 13:40
今、踏切に立ち止まっていましたら・・

目の前を「ゴーッ」という轟音と共に、雨の中でしぶきを撒き散らしながら、猛スピードの列車が通過して行きましたが・・

もし、この電車に乗っていれば、そんな体験や思いもしないだろうし、

たとえ猛スピードで走っていても、その中にいれば、自分と列車のスピードの違いはない(無)ので、寛げてしまうし・・。
Posted by y-be at 2018年06月15日 13:54
空即是色。。。を意識するようになってから 随分心の平安を得られるようになりました。

折角 この肉体を持って生まれてきたんだから 色々な気分を味わいたいと思うようになり〜〜
1日に何度か立ち止まって
『今の気分は〜⁉️』って確認出来るようになりました。

パラダイムシフトが起こり 自分の立ち位置が変わったように思います。

後悔の無いように 人生ゲームを味わい
楽しみたいと思います。
Posted by Atsumi at 2018年06月15日 14:24
こんにちは!
お久しぶり.最近この界隈の 5 ch の 掲示板を読んでて,当時のオレと比較して(オレはヨガ的だったな~.)と思ってました.
>そこに至る第一歩は、流れを受け入れてリラックスすること。
そのようなことがなかったので,(阿部さんは,オレと較べると,タントラ的なのかな?)と思いました.真摯な内容に雑念を返してスミマセン
Posted by 太郎 at 2018年06月15日 15:55
はあああああ、

大きく息吐いてます。

個人的な意識にはどうしようもないんだなって改めて感じてたら
大きく息を吐きたくなりました。(魂の示唆を受け取って身体はそれを行なって意識は見てるだけなんだなと思って)
スッキリ さっぱり さわやか に。(合ってるかな?) えがお(^^)
Posted by 薄茶色 at 2018年06月15日 17:25
>あなたの死さえも見届けることでしょう。
>その時、死にゆく自分と同化しているのと、それを見ている者であるのとでは全く違います。
>見ている者であり続けること。

死ぬ時、ジダバダしている自分を感じながら、死ぬって事?
後悔、やり残したこと、おっか、まだあったなあって、
チッキショー(ToT)って。悔ししくて、泣けて泣けてたまらない、その感覚をかんじながらでも覚醒になるの?
覚醒って、死ぬ時全く後悔の念を残さないってことですか?
Posted by まもこ at 2018年06月15日 21:31
昨日、今日の記事の内容は
まるで身体中のすべての細胞に、
働きかける様に
静かに浸透していきました。

生きる為の強さだったり、
儚さが入り乱れ、
未だ出たり、入ったりの繰り返しで落ち着かなく
過ごしてはいますが。

自分の心をまるで見透かされているかのような気がした本日の記事で、
全て解消された訳ではないのですが

思い留まる事ができました。
道無き道を手探りで
歩み続け、どのくらい経ったのかな

正直、今朝の記事を拝読するまでは
限界を感じ、、国内外枠を超え
もはや出家した方が早道なのかな、とさえ思い馳せておりました。
出来るか?出来ないか?なんて事は深く考えずとも、脳裏を絶えず行き来しています

今も正直、息が詰まりそうであります。

しかし、また今日という日を乗り越えるために、一眠り。。
上手くリセットできればいいのですが。
神さま、私をみてくれていますか?

その前に、いちにのさんで、瞑想
はじめてみますかね

いまココに
変化を感じてみたいと思います。
ありがとうございます。
Posted by やっぱ瞑想しかないっすね at 2018年06月15日 22:29
覚醒って、比較判断がないことですか?
いまここにほっこりあるがままと共にあるってことが覚醒ですか?
なら、出来るかも。
Posted by t at 2018年06月15日 23:31
やっぱり阿部さんが目覚めの話をしてくれると、すごくスっと入って来ます。
飛びすぎてなくてシフトしやすいというか…。自然に、そこに、戻れるような感覚になります。
これからも読みたいです。よろしくお願いします!
Posted by みやみや at 2018年06月15日 23:59
>その時、死にゆく自分と同化しているのと、それを見ている者であるのとでは全く違います。

寝ている時に見る夢の中に登場する「わたし」と、その夢を見ている「わたし」は、同一人物の「わたし」ですが、「見られるわたし」と「見るわたし」は、立場が全く違います。

両者は、同時には存在できません。
(「わたし」が夢から覚めると、夢の中の「わたし」は消えます)

それと同じように、死にゆく自分と、それを見ている者も、同じような関係にあり、同時に存在することは不可能なのです。

通常は、見る者と見られる者は、一体化しており、顕在意識が優位な時は、見られる者がこの世を体験しており、熟睡時などの顕在意識が休んでいる時は、見る者だけとなっています。

見られる者が、どのように、見る者を認識できるのか?不思議です。


>見ている者であり続けること。

これを書かれた阿部さんにおいては、どのような時に、「それを見ている者」であるのでしょうか?

「見ている者」と「見られる者」は、いつも一体なので、「見ている者」と「見られる者」が分離することはあり得ませんし、肉体がある人間において、「見ている者」が「見られる者」に取って代わることは、もっとあり得ないことだと思うのですよね。

しかも、「見ている者であり続ける」ということは、ヘタをすると、「見ている者」と「見られる者」という二者が一人の人間の中に同時に存在することにより、自己の分裂を招きかねません。
離人病ということも起こり得ますので、人間である限りは、「見ている者であり続ける」ことは、不可能ですし、それを望むことは、真理体得という点においても、的外れとしか言いようがありません。

すべての存在(見られる者)は、「見ている者」である「永遠の実在」を内包しています。
(通常は、両者は同化しているので、「見られる者」に「見ている者」を認識することはできません。それは前述の夢の話の譬えからも明らかだと思います)

つまり、すべての存在には、スピリット(霊)が宿っているということです。

そして、このスピリット(霊)だけが、永遠の存在で、肉体は滅びる存在であるということ。

このことを知るだけでも、死への恐怖は和らぐことと思います。

肉体のある人間が、スピリット(霊)だけになるということは、あり得ないと思うのですよね。

通常は、肉体とスピリット(霊)は、同化していて、肉体の消滅時に、スピリット(霊)はこの世から自由になりますが、生きている人間が、「見ている者」(=スピリット)で在り続ける状態が、どのような状態なのか?よくわかりません。

もしかすると、「見ている者」の定義が違っているのかもしれませんね。。
(阿部さんの記事から、「見ている者」=「永遠の実在」(スピリット)だと思ってしまいましたが、その結果、辻褄が合わなくなってしまいました><;)
Posted by 真理世 at 2018年06月16日 00:10
覚醒って、阿部さんにしては珍しい御題。

お堅い、スピリチュアル用語っぽい。

覚醒って、一般市民向き用語じゃなくて、

スピリチュアル上級者向けの言葉だと思っていた。

キリストとか、スゲー人がなるやつみたいな。

覚醒、うーーーん、ちと御題、堅かったかにゃ?(笑)

メッセージの内容はわかりやすかった。
死ぬ瞬間そんな感覚でいられたらいいなって思った。
でも、覚醒って言葉が投入されると、とたんに?ハテナに
なってしまう感覚はなぜだろうか。

猫ちゃんが帰ってこなくて、それから永遠に帰ってこなかった時、絶望した。
面倒見のよくない私でも、辛かった。
よそ様のちゃんと愛情をかけて可愛がっている方がたは
飼い猫が亡くなったりしたら、どんだけ辛いだろうなって思う。
ペットロスになる人の気持ち少し分かる様になって良かった。

うちの家族はわたしロスにはならないらしい。
家族に全く貢献しなかった努力の証です。

阿部さん死んだら、
阿部さんファンは阿部ロスになるかな?
大泣きしてもらいたいですか?
今の所わたしは、泣く気配はないようです。
多分、思い出せば幻想の阿部さんはそこら辺に漂ってそう。
キモーーーイ。
Posted by さっちん at 2018年06月16日 00:20
やはり基本的なメッセージが一番心地いいですね。

ホッとします。ありがとうございます。
Posted by 木造り at 2018年06月16日 01:03
先程、6月17日の講演会の参加希望の申し込みいたしました。
納入遅れて申し訳ありません。
ありがとうございました。
講演会で起きるエネルギー、楽しみです。昭和初期の方のお話しを聴ける事は今は早々ないです。
貴重な体験になります。
Posted by まもこ at 2018年06月16日 01:13
>すべては変化していきます。

しかしながら

すべては愛だから大丈夫!

愛☆愛☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2018年06月16日 03:17
あれ・・・・・?コメントしたつもりが、自分のPCでも、コメントした形跡が残ってない??
夢でも見ていたのでしょうか(笑)

>あなたは子供の頃のあなたを知っています。

という、その理由は、脳みそがあるからとか、そんなのではなく、

>なぜなら、子供の頃もいまと同じようにして自分を見ていた者がいたから、その子供が自分だと知っているのです。

そうなんですねぇ~・・・・・そうでした・・・・・子供の頃から、無自覚に、そこへ逃げ込んでましたもの(笑)

そう思えば、物凄くわかりやすいですし、そう思えば、

>あなたの死さえも見届けることでしょう。

>その時、死にゆく自分と同化しているのと、それを見ている者であるのとでは全く違います。

確かにそうなんだろうと思えます。

>そしてその者はいまも同じようにあり続けています。

確かにそう感じてますし、

>これからもずっとね。

とは、そういうことだったんですねぇ・・・・・

ありがとうございます。
Posted by ただの「自分」 at 2018年06月16日 04:35
ほんまそうだね

絵がほんたんに似ているのでいつか
そういう日が来るの
いや!!!!!!!ーーーー

めっちゃ抵抗しとる、けど抵抗がナチュラルねー
だっていやなんだもん

わたしが全部なかもそとも全くちがうのに変わってるの
わかるよ、完全にちがう
Posted by あべさーん at 2018年06月16日 05:03
内側の変わらないもの。

あなたは誰?

誰でもない。

内側にあるもの?。

それはわたしのもの?

ものじゃなない。

感覚?認識?

このおしゃべりしてるの誰?


誰もいない。

ただ、内側に静かにあるもの。

この内側にあるもの。

これはこの全体に広がる命と比較など起きえない。
同じ命が現れてるだけ。

内側はみーーーんな同じ。

ぜーーー!んぶがただいのちの現れだ。

アーー、そう思うと、辛くない。

やる気でてきた。

ぜーーんぶ、ただいのちがあらわれているだけだ。

その時、あたしはいねーー。

あーほっとした。命がただあるだけだ。

あたしとかあの人とかはない。

このテーブルも紙おしぼりもただ同じ命の現れ。

だから、信頼して今日も生きよう。

起こる事が何だろうと受けいられる。

デニーズの朝に感じた覚醒です。

こうやって、変化があるから、人生って面白い。

内側はただ、鎮座してるのかな、静かに何も語らず。

ありがとう、語らないでくれて。

それがありがたい。
Posted by ぜーー!んぶいのちだけ! at 2018年06月16日 06:24
がんちゃん、頑張っ!!!!

大丈夫だよ。

何とかなる。

色んな思いがいつかは花になる。

君の踊りに現れる表現の花になる。

変化と共に今日も一緒に生きよう。

内側は阿部さんと天使達と違いのない同じいのち。

心配すんな、そのまま、行こう!!

何処に向かわなくていい。

ここにただたとう。
Posted by がんちゃん、ファイト(ToT) at 2018年06月16日 06:32
おいちゃん、

天河財団なるものを創って下さい。

命を表現する、若者達の支援、支えになるような

バックアップ体制。

命の表現するのに、苦労ってひつようなのかな?

わざわざ抱えなくていい苦労まで背負わず、

やりたいことが存分に出来る社会になりますように!!!
Posted by 願い at 2018年06月16日 06:47
y-beさん

自分は、逆な感じですねー。

『電車の中』が『苦』でしか無いとしたら、
(例えば、たまたま一両しか無いのに苦手な『にほひ』が充満していて逃げられないとか)
もう、『苦』でしか無いんですよね・・・・・

『外』を眺めても、『外の人たち』は、そんな自分の『苦』とは無縁に見えたりして、
ただ羨ましいだけで、たまに止まって『ドア』が開くと、少しだけ『にほひ』が薄れるので、
気付いて出ようとしても、既に『ドア』は閉まっていて、
やっぱり自分は『外』なんて関係無い、自分は一生、この『にほひが充満している電車』に
乗り続けなければならない・・・・・とか、思い込んでしまったり。

なんとかして『電車』を降りて、『にほひ』から解放されても、
『どこに降りたか』分からず、不安なので、また『電車』が来たら乗ってしまったり。
そのたまたま飛び乗った『電車』では、『喧嘩』の真っ最中で、巻き込まれないように
隅っこで身を縮めているみたいな。

で、ある時、ふと思いついて、『電車』から降りて、今度は『電車』が来ても乗らずに
眺めていると、ただ「ゴーッ」て、物凄い勢いで通り過ぎてくだけなんですよ。
周りを見ると、あちこちで同じように『電車』が、ただ通り過ぎていくだけ。

「なんだ、ただ、これだけのことだったんだ」

でも、『乗らなければ』、それぞれの『電車』での、体験や思いも無いでしょうし。
だから結局、『乗る』んですけど、それも自由だし、『乗って』も『どこまで行く』か
わからないけど、気に入らなければ自由に『降りられる』し、

そういう意味では、『思考』『感情』『感覚』という『電車』で体験する『苦』からは
自由になってるなぁ~、て感じですね。
Posted by ただの「自分」 at 2018年06月16日 06:57
まだ、まだ、雨とむちの世の中なのか?

そんな風にしかみえない、わたしの我がお馬鹿なのか?

だとすれば、この世の中はわからないことだらけだ。

外側に意識をもってかれる、一瞬で巻き込まれる。

外側の現象に正解はない。よいも悪いもない。

内側に意識持ってく感覚を養おう!!!


阿部さんと向さんといる禅サンガで学びたい。

そう思いました。
Posted by はゆん at 2018年06月16日 07:06
見ている者であり続けること。


>それが覚醒です。
>そこに至る第一歩は、流れを受け入れてリラックスすること。
>人生の流れや変化を完全に信頼すること。
>それが最初の一瞥に繋がっていきます。


がんちゃん、ここ読んでくれてるといいな。
Posted by 願い at 2018年06月16日 07:20
ガンチャン思いを今演じてますが、
これも、ただの通勤時間での暇つぶしだったのかもしれない。
真実はマインドからは現れない。
ってか。
やっぱ、阿部さんの表現スタイルが一番だ。
多くを、語らず、言葉にできない真理のみを表現すること。
これが、一番か。
すげーーなあ。
阿部さん、。、
Posted by まもこ at 2018年06月16日 08:05
わたしの人生、という本を書いてみました。
分厚い茶色い表紙にアジサイの絵が描いてあります。

その本は、生まれる前、お母さんのお腹に入ったいきさつから
 瞬間、瞬間、起きたこと、その時の感情、全てが書かれてあります。
 ぬくもりも痛さも感動も恐怖も希望も絶望もすべてです。

 最後の締めくくりの感情は、とても言葉にできません。
 感謝と美しさがあふれていました。


その本を抱きしめた時、愛おしくて愛おしくて涙がとまりませんでした。
わたしの人生 その本を書いたのは、本当はこのわたしではありません。

今日のページには何がかかれているのでしょう。
なんせ不思議な本ですから、文字が踊って配置が変わることもあるかもしれません。

何が書かれていても、まぶしいほど光り輝いて、愛そのものの本であることには間違いありません。

阿部さん、皆さん、ありがとうございます。
 
Posted by 紫陽花の風 at 2018年06月16日 08:18
ひさしぶりに、鼻の頭みようと思いました。
Posted by 鼻のあたま at 2018年06月16日 08:49
全ては愛だと信じています。いつもありがとうございます。
Posted by ◆がんちゃん◇◆がんちゃん◇ at 2018年06月16日 09:30
よく理解できたような気がします。

とても安心しました。
Posted by さき at 2018年06月16日 13:30
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