2018年06月08日

実在

真実とは、解釈が入り込む前のあるがままのリアリティーのこと。

このリアリティーは努力せずとも、いつもいまここで入手可能だ。


ところが瞬時に、想念や妄念がベールとなってリアリティーの上におおいかぶさってしまい、真実を見えなくさせてしまっている。


坐禅の修行とは単に、想念以前の、このリアリティーに接することである。


この時、実在だけが残る。

「私は在る」という感覚だけが残るのだ。


ただそれだけのためにこうして全国から人々が集う。

何の目的もなく、ただいまにあるということを共感するためだけに、こうしてやってくる。


なんと贅沢な時間だろう。


実在



今日から方広寺の接心が始まった。

昨日も話したように、人間にできる事は全てAIやロボットが取って代わることだろう。

しかも人間以上にスムーズに完璧にやってのける。

思考することさえも、AIの方がはるかに想像力に富んでいるだろう。


しかし、ただ在るということ、これだけは人間に最初から与えられた本質であり、この世の宝であり、至福であり、人工的に作り出せるものではない。

それは純粋意識。

命そのものと呼んでもいいだろう。


このことは、やることではなく、ただ在ることを通して発見される。

これからの人間にとって最も大切な事は、「在る事」を発見することだ。


それはとうに発見されているのだが、先ほども言ったように我々の想念や妄念がベールとなって見えなくさせてしまっているのだ。


ただ静寂であること。

街の喧騒の中にあっても、静寂であること。


その時、あなたは実在に触れていることだろう。


方広寺接心の合間に、音声入力で記事を書いてみた。

なんと正確な文字変換だろう。

テクノロジーの進化には敬服するばかりだ。


ありがとう。







Posted by Toshiro Abe at 18:40│Comments(58)
この記事へのコメント
>昨日も話したように、人間にできる事は全てAIやロボットが取って代わることだろう。

>しかも人間以上にスムーズに完璧にやってのける。

>思考することさえも、AIの方がはるかに想像力に富んでいるだろう。


全くもってその通りでし。
意義無し!!!。、


>街の喧騒の中にあっても、静寂であること。

街の喧騒の中での静寂は不思議な感覚です。
この場に生かされてるとか、そんな思いもなく、
ただただ何か込み上げてくる時があります。

>なんと正確な文字変換だろう。
>テクノロジーの進化には敬服するばかりだ。
>ありがとう。

あたしのスマホ口頭での文字変換できっかな?
阿部さんのスマホのできがよいんじゃね?(笑)


>「私は在る」という感覚だけが残るのだ。


>ただそれだけのためにこうして全国から人々が集う。

天河ワークで命の躍動、方広寺で命の静寂。

やっぱ、ここ、最高だあ(^^)
Posted by いまここじゃ at 2018年06月08日 18:59
今日は達観した人の文章で読み応えがありました。
Posted by 座布団 at 2018年06月08日 19:25
いつもありがとうございます。

今日は飲み会帰りなのでちと自制が効きません。ご容赦ください。
どんなにAI等が発達しようとも「生きる」ことはできません。恐らく阿部さんにはわからないたとえだとは思いますが、ダミープラグはどんなにバージョンアップしても綾波レイや渚カヲルにはなり得ません。
「今ここ」を生きることも感じることもできません。人間とAIの違いはそこにあり、…恐らく超えることはできないと思います。
人間の人間たる長所と短所はそこにあります。…まぁ多分「短所」というのは言葉の意味としては当たっていませんが…。だから人間は素晴らしいのだと思います。
…すみません。言いたいことがうまく言えません。でもこれ以上考えることもできないので今宵はこれで失礼します。
おやすみなさい。

ではこれからも書きたいことをお書きください。
Posted by TSY at 2018年06月08日 20:30
 敏ちゃん! 今日も ありがとう!!

全ては 同時に am 愛じゃね!!
Posted by ビ~ちゃん at 2018年06月08日 20:30
「真実とは、あるがままのリアリティー」

この"あるがままのリアリティー"とは、一体何でしょうね?

そして、それが真実と、どうして言えるのでしょうか? 

人間の五官で知覚し、脳で認識している世界が、人間にとっては、"あるがままのリアリティー"ということなのでしょうか?

禅では、そういうことになっているのですか?
それとも、阿部さんにとっては、そうである、ということなのでしょうか?

"真実"と書かれていましたので、普遍的な真理として理解する上で、疑問に感じた事を、失礼かとは思いましたが、質問させて頂きました。

お返事は無くても構いません。

ただ不思議に感じましたので、そのまま書かせて頂きました。
Posted by 真理世 at 2018年06月08日 20:31
>街の喧騒の中にあっても、静寂であること。

さすが~

ブッダ☆ブッダ☆

おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2018年06月08日 20:37
この記事を音声入力だけで、書いたのですか、毎日更新をするブロガーにはありがたいツールですね。

windows10か、Appleのノートパソコンなどに、予め備わっている機能でしょうか?

それとも、後からインストールされたソフト/アプリでしょうか?

宜しければ、教えて下さい。

私も是非、試してみたいと思います。
Posted by y-be at 2018年06月08日 20:41
阿部さん、皆さん、こんばんは。

>これからの人間にとって最も大切な事は、「在る事」を発見することだ。

何か簡単な事のようですけど、実は難しい事のように僕は思います。なにかつかみどころがないというか。、「在る事」、考えてみたいと思います。それにしても、音声入力、すごいんですね。AIとかともかくそのへんが、全くうといもんで。興味ないんですよね。結局。
Posted by 永井新吾 at 2018年06月08日 20:49
僕はまだ全てが一つという経験がないので、人間目線から今の自分に精一杯出来る事をしようと思います。


現代人のストレスに押しつぶされ凝り固まった心を癒したいです。それだけです。


こうやって阿部さんから広がった輪を、僕は全力でもーーーっとこの国に広げられるよう頑張ります(^^)


コメント欄に確かに居る皆さんに、いつか会いたいなぁ。


今日も、今、幸せです
Posted by ◆がんちゃん◇◆がんちゃん◇ at 2018年06月08日 20:50
静けさや 岩に染み入る 蝉の声

しずけさや むねにしみいる としろうのこえ

      …字余り失礼しました。
Posted by huki at 2018年06月08日 22:35
思考や計算はAIにお任せ。

人生の流れは全体にお任せ。

あれ?私はいない…

いつも素敵なブログありがとうございます♪
Posted by しんのすけZ at 2018年06月08日 23:38
どういたしまして
Posted by チノチノ at 2018年06月08日 23:56
真理世さん


記事のはじめの部分を読み直すと、浮かんだ疑問の答えになりますでしょうか。。


『真実とは、解釈が入り込む前のあるがままのリアリティーのこと。

このリアリティーは努力せずとも、いつもいまここで入手可能だ。


ところが瞬時に、想念や妄念がベールとなってリアリティーの上におおいかぶさってしまい、真実を見えなくさせてしまっている。


坐禅の修行とは単に、想念以前の、このリアリティーに接することである。


この時、実在だけが残る。

「私は在る」という感覚だけが残るのだ。』
Posted by ぶどう at 2018年06月09日 00:16
私にはまだ 在る ということがよくわかりません。

今日はとんでもないことが起きて。
でも、起きることが起きた。こととして受け入れられるようになりました。
起きることは神様が起こしているのですよね。

その中でも必ずいいことはあって、感謝することもたくさんあるのです。
この起きたことがきっといい流れになっていくはずだとも思います。
そして、生きているからできる体験をゲームのようにも感じます。
とんでもないことをこんなに冷静に受け入れられるようになったのは、このブログのおかげと、うーん、誰のおかげでしょう。
わ、た、し、という声が聞こえました。

今日も一日ありがとうございました。おやすみなさい。
Posted by 紫陽花の風 at 2018年06月09日 00:39
AIやロボットは静寂を感じることも出来ないと思いました。
ロボットにとって静寂=静止ではないでしょうか?
ロボットはまた、静寂の意味をかたるでしょうね。ロボットには理屈が必要です。理屈がロボットの原動力だから。
Posted by マリリン at 2018年06月09日 01:50
>思考することさえも、AIの方がはるかに想像力に富んでいるだろう。

>方広寺接心の合間に、音声入力で記事を書いてみた。
>なんと正確な文字変換だろう。
>テクノロジーの進化には敬服するばかりだ。

AIは、『色』を、完全完璧に再現してくれますよね。

でも、前から自分が感じているのは、
この・・・『色』の世界の・・・なんと言うか、『現れ』っぷり?
『自分』という、ちっぽけな『枠』の中ですら、
どうしてこんなにもこんこんと『色』が湧き続けることができるのか・・・・・
そのことに、ただただ驚嘆するばかりです。

「水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり」・・・・・『水の中』どころか、
「あ、確かに、『水そのもの』だわ・・・・・」と、最近腑に落ちたのですが・・・・・

それからというもの、以前にも増して、
どうしてこんなにもこんこんと『色』が湧き続けることができるのか・・・・・
そのことに、ただただ驚嘆するばかりです。

この感動は、AIには分かるめぇ・・・・・て、それすらいつまで言っていられるのか、
楽しみです(笑)
Posted by ただの「自分」 at 2018年06月09日 04:49
おはようございます!

ひゃー
コラボトーク見逃していました!笑
いま、気づいてショック (● ̄ω ̄●)ノ笑

思考が入り込む前のリアリティは結構難しいです。
特に外界での人との対面。

でも、そのまんまで居れるときもあって。
そういうとき、子供に接するような感じでみんなが接してくれる気がします。気のせいかな〜とも思いましたが。自分が子供になったような気がしているのかもしれません。笑
Posted by 薄茶色 at 2018年06月09日 06:09
神とは何なのか。

自分とは何なのか。

生きるとは何なのか。

死ぬとは何なのか。

数日前に、阿部さんがブログに書かれた質問です。

"あるがままのリアリティー"に、これらの答えがありますか?

真実が、これらの疑問への答えでなければ、
私たちは真実を知っても、なお、疑問は残るので、答え探しは続くことになります。

それとも、真実とこれらの疑問への答えは、別ものなのでしょうか?
 
"あるがままのリアリティー"は真実だけれども、
これらの疑問への答えが、この真実の中にある訳ではないということでしょうか?

すべての疑問への答えは、真実の中にあると思っています。

そうでないなら、真実って何なんでしょう?

"ただの事実"ということですか?

真実が、人間の根源的な疑問への答えでないなら、
人間は、疑問に対する答えを、何処に見出したら良いのか?わからなくなりそうですね。
Posted by 真理世 at 2018年06月09日 06:27
>それは純粋意識。
>命そのものと呼んでもいいだろう。


今朝起きてふと思った。

あれ?死んでも命ってあるの?って。

この肉体の命だと思うと、命はなくなってしまうと思っていたけれど、それ以前のシンプルな
       「在る」
って感覚が「正真正銘の命」なのかなあ?って疑問に思った。
生きてる時の命と、この肉体が滅んでもこのありつづける感覚が命?
死んでもいまここ感覚は残るの?
いまここは永遠に在るってこと?・・・。
命って、森羅万象の元の事を言うんかの?
だとすれば、坐禅も瞑想も大切だ。
考えが入り込む前の命に触れるわけだから。
昨夜のコラボトーク、最高でした。
昔?の阿部さんたまに、、顔の表情に険しさを感じる事が少し以前はあったような?今回ずっとこんにゃくで力抜けてました。柔らかい感じ。
トークもいまここで起こる言葉の連発で面白かった。
あれが真理でもある。
静寂は常に背後にありながら、一瞬一瞬に湧く感覚の表現のきらめきを覧させてもらいました。
とても楽しい夜を過ごせました。
ありがとうございます。
阿部さん、更に風格が備わってきた。
いつも変化していて面白い存在だ。
阿部さんからはそれを感じる。
のびしろがあるって、いいですね(笑)
生意気言ってごめんなさい<(_ _)>

全てわたしから、見た阿部像です。
事件の首謀者の裏側まで観る阿部さん、、、
凄いね!!!感謝。
Posted by かりな at 2018年06月09日 07:06
がんちゃん、ブロガーの皆さんに幸あれ♡♡♡♡♡♡
Posted by さっちん at 2018年06月09日 07:07
先程のコメントは、ぶどうさんのコメントを読む前のものでした。

内容的には、ぶどうさんのコメントへのお返事になっているかと思います。

静寂の中に、すべての疑問への答えがあるのでしょうか?

人間が熟睡しているときは、完全な静寂の中にあると言えますね。

エゴは働いていませんから。

私は誰か?神とは何か?生きるとは何か?死とは何か?と疑問を持っているのはエゴですが、
そのエゴは不活性な状態であるだけで、答を得ているわけではないと言えませんか?

その証拠に、目覚めた時に、エゴは全く何もわかっていないので、相変わらず、それらの疑問への答を探し続けるからです。

静寂の中に、すべての疑問への答えがあるなら、私たちは、もうそれらの答えを探す必要はありません。

静寂は、熟睡と同じで、エゴの働きはありませんが、疑問への答をもたらしてくれるわけではない、と言えます。

真実が答えではないなら、私たちの心は、完全には静寂にはなれないでしょう。

疑問に蓋をしているだけで、エゴは答えを得て、完全に納得して静かになったとは言い難いです。

静寂と根源的な疑問への答えをもたらす真実とは、同じものとは言えない、ということ。

そう感じたので、コメントさせて頂きました。
Posted by 真理世 at 2018年06月09日 07:28
ディズニー映画のトュモローランドにあった女の子のAIは人間愛に溢れていたなあ。
AIを愛しいと思った人間の命の中にAIの命が融合されていったと思った。愛って融合していくことなのかなって思った。それが全てひとつなる命。
Posted by 命? at 2018年06月09日 07:38
>ただ静寂であること。
>街の喧騒の中にあっても、静寂であること。
>その時、あなたは実在に触れていることだろう。

静かな場所だと瞑想に入れません。
多分、湧いてくる思考がうるさくてなんだろうと思った。静寂が故に湧いてくる思考がダイレクトすぎて集中できないのかも。
喧騒の中のほうが、坐禅や瞑想がしやすいカラダになってしまった(-_-#)

神様?、これをどうしてくれるんかな?(-_-#)
Posted by 静寂 at 2018年06月09日 07:44
最近、思考を観察するようにしています。

例えば、街を歩いて信号が赤なので止まる。この時「信号が赤なので止まろう」という思考・判断が起こっているはずですが、それが見当たりません。自動的に止まっています。観察していても見逃している思考、当たり前のように流れていて気づかない思考がある。

人は全てのことを思考を通して認識しているが、それに気づいてないんだろうなと思いました。

思考を通さない、直接的な体験がリアリティということなんですね。
Posted by ムジャ at 2018年06月09日 07:57
ぶどうさん

その通りですね。
Posted by しょう at 2018年06月09日 08:26
うん、うん。
在るだけで嬉しい。
すぐ忘れるけど!あはは
Posted by AYAKO at 2018年06月09日 08:51
一体感みたいなものを感じる要因の1つが、自分では 共感 です。

それを止めるには 思考 です。

自分場合ですが、集中しないとならない時や、人前にいるとき、ハートではなく頭で見るに切り替えるといいいみたいです。
Posted by かな at 2018年06月09日 09:08
なるほど…です。穏やかに静かにそうありたいと願い祈り続けます。ありがとうございます。
Posted by brunrun at 2018年06月09日 10:06
阿部さんこんにちは。

森羅万象を「愛する」のが人類のお仕事。
AIにも愛を。

なんちゃって。
Posted by an at 2018年06月09日 10:40
私は、最近やっと携帯を持つことになり、その機能にびっくりしています。
話すだけで、文字に出ますよ。
阿部さんのような言葉も、ちゃんと分かるんですね。すごい!
Posted by ミシェル at 2018年06月09日 10:42
言葉にはエネルギーがありますよね。
吸って私は静か、吐いて私は微笑む、をやっていると本当に穏やかになります。魔法の言葉です。

人は自分の言いたい言葉を発します。それも本当は言わされている?
自分のイメージした言葉が、そのまま同じイメージで相手に届くのはなかなかです。
私はそれで、なんでわかってくれないの?なんでそんなとり方するの?のやりとりを5年間友人と続けました。ほとほと疲れましたが、ひとり一宇宙を知ってわからなくて当然なんだと納得しました。

伝えたいことは言葉そのものではなくて、言葉にはできないなにか。
伝わるかなあ、伝わんねえかなあ、そんなこと言っていた髭のおじさんいましたよね。ふるっ。
今日も生きていました。阿部さんありがとうございました。
Posted by 紫陽花の風 at 2018年06月09日 17:10
まえに
体験といわれるモノが
起こったけど

過ぎ去ったこと
もうあの時の感覚はない

唯いま
わかることは

ここに
ただあると
いうことだけ

人だろうと
石ころだろうと

ただあるだけ

(・∀・)ノ☆
Posted by あるとない at 2018年06月09日 17:58
天河リトリートに参加された方教えてほしいです。

色々な体験を通して静寂 ただ在る などのことを そうだったのかとこのブログや瞑想を通して気づくとができるようになってきたのですが、ふと気がつくとストーリーにどっぷりハマっていて又元どおり苦しんでいたりします。
まだ気づくだけ以前よりはずっといいですが、あまりにもすぐ忘れるのには驚きです。

天河に参加された方、体得された事もう忘れる事はないのですか?
苦しみに戻ってくる事はないですか?
天河から戻ってしばらく経ってからどうか教えてほしいです。
Posted by ゆう at 2018年06月09日 18:39
この時、実在だけが残る。
>「私は在る」という感覚だけが残るのだ。
>ただそれだけのためにこうして全国から人々が集う。

>何の目的もなく、ただいまにあるということを共感するためだけに、こうしてやってくる。
>なんと贅沢な時間だろう。



・・・・みんな、すごい。
欲がない。
あたし、ミーハーだから、向さんに会えるとか、コラボトーク聴けるとか、そんな思い込み込みの目的で参加しちゃうけど、、、。

・・・参加する時は、真剣(在る)そのもの。見習いたい。


「ただ在る」、ここにあれば、なんの不足も比較もない。

在るの感覚をいまここですぐ感じられるようになりたいです。

視界が存在してるのに、思考が挟まない感覚になるまでが在るってことですか?
それとも、思考が浮かんでるを分かっていながら、坐っていることを在るっていうのですか?

どっちかというと、やはり思考が全く介在しない方なのだろうなあ。
Posted by ユリン at 2018年06月09日 19:05
真理世さんのコメント読ませていただきました(^_^)


『静寂と根源的な疑問への答えをもたらす真実とは、同じものとは言えない、ということ。』

と結んであることから、阿部さんの伝えようとしていることと、真理世さんの感じたことに相違があるのではないかと思いました。(もちろんあってもいいと思います)


おそらく阿部さんは、根源的な答えをもたらす真実と、静寂という言葉で指すものを、同じものとして記事上で伝えていると思います。

もしくは、根源的な答えをもたらす真実の入り口としての静寂。と捉えてもいいと思います。(悟後の修行)


『ただ在るということ、これだけは人間に最初から与えられた本質であり、この世の宝であり、至福であり、人工的に作り出せるものではない。

それは純粋意識。

命そのものと呼んでもいいだろう。


このことは、やることではなく、ただ在ることを通して発見される。

これからの人間にとって最も大切な事は、「在る事」を発見することだ。


それはとうに発見されているのだが、先ほども言ったように我々の想念や妄念がベールとなって見えなくさせてしまっているのだ。


ただ静寂であること。

街の喧騒の中にあっても、静寂であること。


その時、あなたは実在に触れていることだろう。』
Posted by ぶどう at 2018年06月09日 20:55
目の前に広がる世界に対しては…

現実であるという視点、幻であるという視点

どちらも選択することが出来ます

真実とはあるがままのリアリティーとは

目の前に広がる世界は現実であるという視点からのものであり

目の前に広がる世界以外は思考がつくり出している幻であって
存在しているようで存在していない

だから

過ぎ去ったことを後悔したり、まだやって来ていないことを
心配したりする必要なんてないんだよ

ということでありましょう

今ここにあるものと共に在ることで心配や後悔から抜け出す…

さぁ、風を感じて…聞こえて来る音に耳を澄まして…

祝福☆祝福☆

おめでとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2018年06月09日 21:07
真理世さんへの答えには、ならないかも知れませんが、
疑問に対しての答えを欲しているのは、
現象界対応の脳ですよね。
真実という言葉が、私にはよくわからないけど、
真理に目覚めたら、静寂の側に視点が移ったら、
疑問て、湧かない感じです。
Posted by ワタシ at 2018年06月09日 21:20
確かに、実在の在るの方がリアルになってくると
至福は度々訪れて、苦しみの感覚が薄まっているなあ。

やっば、瞑想や坐禅はしなより、したほうが良い。
だって、こんなに何の理由もなしにハッピーになるし。

でも、お金ないけど( -_-)笑
Posted by リアル at 2018年06月09日 23:17
阿部さん。この世界は愛に溢れてます。僕は本当に本当に幸せで幸せで、阿部さんになんて御礼を言ったらいいのか分かりません。

生きてて良かった。ありがとうございました。僕は自分の使命を全うします
Posted by ◆がんちゃん◇◆がんちゃん◇ at 2018年06月10日 00:09
こちらこそ、いつもありがとうございます。
Posted by yun at 2018年06月10日 00:37
存在している全てのものは現れては消えて行く幻であり、
存在ではないものだけが不生不滅の真実

目の前に広がる世界は幻であるという視点からなら

まことの悟りは自我の自分が消え去る熟睡中である
と言えましょう

自分がいなければ、自分が死ぬということもない
自我の自分の不在こそが絶対的平安

祝福☆祝福☆

おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2018年06月10日 01:03
ぶどう さん

阿部さんの書かれたことが間違っている、と思っているわけではありません。
阿部さんと論戦を交わしたいわけではないので、その点は、ご理解下さいね。

熟睡状態が、静寂、完全なる静寂をニルヴァーナ(涅槃静寂)とも言いますが、同じであることは確かです。

ですから、人間が”死”と捉えているものも、同じだということになります。

私たちが、毎晩熟睡状態になり、一生ごとに”死”を経験しているにも拘わらず、
私たちは、人間として生まれ、そして、毎晩熟睡状態になり、そしてまた、人生の最後に、”死”を経験します。

これを繰り返す間、私たちは、その間に、「私は誰か?」「神とは何か?」「生とは何か?」「死とは何か?」という根源的な疑問に、確固たる答えを見出せずに死んで行く、ということが、実際に起きています。

このことに対して、宗教や哲学が、それらの疑問に対する答えを見出そうと努力してきたことは、周知の通りです。

もし、この繰り返しに終止符(ピリオド)を打ちたいのであるなら、この繰り返しから抜け出ることが必要です。

それを仏教用語では、”解脱”というようですが、この四つの疑問への答えを掴むことが、この繰り返しにピリオドを打つことができる唯一の方法とも言えるのです。

>その時、あなたは実在に触れていることだろう。

私たちは、いつでも、実在そのものです。

常に、実在と一体であるので、触れることはできません。

私たちが人間である限りは、完全なる静寂の中でも、それは不可能なのです。

完全に熟睡状態の時に、「わたし」を感じることができないのと同じく、
「わたし」という意識がある時、目覚めている時に、実在を感じることはできません。

「わたし」と実在(being)とは、そのような関係にあるので、
どんな状態でも、「わたし」がいる限りは、実在を五官(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる)で体験することは不可能でしょう。

そして、実在は、形あるモノ、人間の五官で捉えられるモノに限定されず、五官で感知できないモノ(空気や力や光を含む電磁波など)でもあるということ。

森羅万象、時空をも超えた存在であるということ。

”無い”も実在(being)である、ということ。

この実在の中に、すべてが内包されているので、人間が抱くどんな疑問への答えも、その中にあるということ。

このことを完全に理解することが、すべての疑問への答えにつながっていきます。

静寂の中に、求めている答えがある訳ではありませんが、静寂を通して、エゴは自己の不在に気づくきっかけを得ることは可能だとは思います。

そして更に、自己の不在を通して、それまで自己と一体となっていた永遠の存在である”実在”が、人間の宿命である生と死を繰り返す「わたし」という”幻想の自己”から目覚めていく、ということは起こり得ることなのです。

瞑想などで心を静かにすることは、心の制御、心を落ち着けることになるとは思いますが、
心の静寂だけでは、私たちは、生と死の繰り返しから抜け出ることはできないでしょう。

完全なる心の静寂状態である毎晩の熟睡を経験しても、自分が誰であるか?について、私たちは何もわからないのですから。

これと同じことが、生と死を経験する私たちの人生で起きています。


>もしくは、根源的な答えをもたらす真実の入り口としての静寂。と捉えてもいいと思います。(悟後の修行)

はい、私は、そう捉えています。

真実はひとつしかありません。

そして、その真実は、私たちが抱いているすべての疑問への答えとなり得るものです。

ですから、この真実さえ掴めば、もう疑問は起こりません。

たった一つの真実が、すべての疑問への答えとなり
その答えをもたらす真実とは、静寂ではなく、永遠の存在である”実在”しかないのです。

そして、その永遠の存在である”実在”とは、人間の認識を超えているので、
人間の五官が捉えている”リアリティー”、それが、”あるがままのリアリティー”であっても、
認識され得る”リアリティ―”と認識を超えている”実在”とは、イコールではない、ということになります。

”実在”は、すべての存在に普遍的に遍在しているので、私たちが何も知らなくても、何の不都合もありませんし、
私たちは、すでに答えである真実そのものなので、疑問への答えを知ろうとしなくても、人間として何も問題はありません。

しかし、永遠の存在である”実在”だけが真実であり、この真実を知ることが、私たちが体験している生と死の繰り返しに、ピリオドをもたらすことができる唯一の方法だということを、異論、反論があることを承知の上で、敢えて書かせて頂きます。

これまでに書いたコメントは、ぶどうさんのお考えにはそぐわない内容だったとは思いますが、
他の方のコメントと同じく、一人の読者の感想と捉えて頂けると、大変有り難いです。

(阿部さん、申し訳ありません。
コメント内容に、書き過ぎた部分がありましたら、お詫び申し上げます)
Posted by 真理世 at 2018年06月10日 01:31
ワタシ さん

>真理に目覚めたら、静寂の側に視点が移ったら、
>疑問て、湧かない感じです。

静寂の側に視点が移り、疑問が湧かなくても、それは一時的なことなのではありませんか?

人間は、ず~と静寂にはいられないと思います。

瞑想や瞑想以外でも静寂になることはあるでしょうが、
「わたし」がある限りは、この世を体験することになっているので、
通常の心の状態では、喜怒哀楽などの感情や、苦しみや悩みや不安、恐れなどを感じて、それらの心を「自分」だと思って生きていると思います。

人間は、熟睡状態では、疑問なんて湧きませんし、喜怒哀楽もありませんし、人生の苦楽も感じていません。

しかし、ひとたび、目覚めたら、疑問は疑問のままであったり、苦しみや悩みも解決していないということが、往々にして起きていると思います。

ですから、完全なる静寂の状態を持続できない限りは、完全に疑問を消し去ることはできないということになります。

瞑想をしていなくても、完全に静寂状態にある人は、この限りではありませんが、通常の人間が、静寂状態を死ぬまで持続することは不可能でしょう。

心は、静寂状態や熟睡状態の間だけは、この世から解放されますが、そうでない時は、この世に縛られたままです。

真実は、人間のこの世に縛られた心に真の解放をもたらしてくれます。

心が静寂であろうと、なかろうと、真実は、心の状態には縛られません

何故なら、真実はすべてのモノを超越しているからです。

それが、私たちの本質であり、この本質は、阿部さんも書かれている(永遠の)”実在”です。

それだけが、真に存在するモノであり、心を持っている「わたし」は幻想です。

このことがわかれば、すべての疑問は消滅します。

それは、静寂とは直接関係がなく、もたらされます。

完全に答えを得ると、疑問は跡形もなく消滅するので、もう二度と湧いてくることはありません。
Posted by 真理世 at 2018年06月10日 02:01
甲賀忍者さんにも祝福がありますように。

神のミステリーの種明かし、楽しみましょう♪
Posted by 真理世 at 2018年06月10日 02:04
議論は自由にやってくれて良いのですが
もっと自分を大切にして、と言いたいです。
静寂、まずは自分からです。
人を説得する必要はありません。
巻き込まれずに放っておけば
自分が静寂でいられます。
Posted by rakuni... at 2018年06月10日 03:20
あっ、向さんだけ褒めちゃった。
阿部さんは見てるたけで、うっとりです。
トークを聴いてるだけでその場が至福状態になります。
Posted by コロン at 2018年06月10日 07:29
明日仕事に行く交通費に手を付けてしまいそうになります。
もし、この500円に手を付けてしまったら、明日は、、、、
仮病、、、、なのかなあ(T-T(T-T)笑えねーなあ。
何やってんだか、、、
風来坊も計画的に生きなければ。
いくら、実在にふれても、今だに金が物を言う世の中だ。
誰も頼りたくない。
けど、仕事先に仮病の電源するのも嫌だ。
きっと、瞑想の量かたりないからだ。
坐禅の量が足りないからだ。
でも、いま、不幸じゃない。
なんなの、これ、この感覚。
心配はあるけど、心配の中にいないような感覚。
どっちがどっちかわからない。
変な感覚。
今夜と明日、朝が峠だ。こう御期待。
在るの中にいても、現実のゲームを攻略するために生きるのであった。
でも、心は酒が入ったようにフワフワ。
今夜が峠だ。
今はいいけどね(笑)
取り敢えず瞑想してみよう、マックで。(嫌味笑)
子供達、母さんみたいになるなよσ(^◇^;)
Posted by とうでもいいはなし、 at 2018年06月10日 07:51
rakuniさん

〉人を説得する必要はありません。
まさにその通りですね。
しかも人様のブログで。
長々と。
一体何がしたいんでしょうね?(笑)
頼むからよそでやってくれ、って感じです。
Posted by パンマン at 2018年06月10日 07:59
アベッチはやっぱ、すごい。

ひとつのことをニュアンスを変えて現せるってすごい。

同じこと書いてるのに、いつも新しい!!!

読んでいていつも新鮮な空気が流れる。

同じ内容なのに、全く違う読み物を読んでる感覚。

アベッチだからデキる技法!!

それもいと簡単に。

そしてアベッチの言葉の余韻の心地よいことこの上なし。
Posted by しょうちゃん at 2018年06月10日 08:14
白隠禅師は、いきなり身に覚えの無い子供を連れてこられて
「あんたの子供だろ」
とか言われても、ただ「あーそうかい」と育て、
実はウソだったから返してと言われても、ただ「あーそうかい」と返したそうですが、
『日常生活』における『静寂』って、そういうことかな、と思ってます。

でも、自分としては、
仮に「ワシの子供じゃ無いわいっ!!」と追い返し、そのことが元であれこれ言われても、
そして、言われたことが元で、あれこれ自分から不安とかが湧いてきても、
その『起こる全て』を受け入れられたなら、受け入れられたその時、
それもまた『静寂』なんだろうと思います。

『人間』やってると、イロイロありますが、「イロイロあってOK」と思ってますし、
だから、一時的にイロイロ湧いても、そのうち落ち着けると思えますし、
実際、そのうち落ち着いてますね。
今までそうでしたし、これからもそうだろうと思いますし、それでいいと思ってます。
Posted by ただの「自分」 at 2018年06月10日 08:38
マックで、今、坐禅しました。
半眼で。
すげー心地良い。
カラダポカポカ。
周りはお喋りの嵐、それが心地よい。
店員さんがお向かいの人に
「ここは、お食事をスル場てす!睡眠はお控え下さい!」
の声かかかって、坐禅から戻りました。
あ~店員さんは、私の変な行動に嫌味言ったのかもしれない。
ここのマックはしっかりしてるわりには、
居眠りする客ばかり。
他の、マックは寝ているを見かけない。
寝ていても注意されない。
寝ている事を注意しようと目をひかられせれば、
ひからせるほど、居眠りするお客様を
引き寄せているのかな?
あ~マックでの坐禅気持ち良かったです。
もちろん、椅子に坐って半眼です。
久しぶりの、座禅、ヤッパ、さいこー。
方広寺で坐禅したら深く実在に触れられるかも。
いつか、参加てきたらいいな。
Posted by マックて坐禅 at 2018年06月10日 09:12
おはようございます。
今日はうっすらと雨が降っています。
紫陽花がよりいっそう美しく見えます。
近くの川にほたるが飛びはじめました。みやびですよー。

色々ある人生でも、どこに照準を合わせて生きるかで、豊かさを感じることが
できますね。
今日も生きています。阿部さん、皆さん、いい気分の一日を。
ありがとうございます。
Posted by 紫陽花の風 at 2018年06月10日 09:39
方広寺に集まる人は向さんと阿部さんと縁が
生じあって今そこにいて、坐禅か起こっているんだね。
私はここにいていまここの人と縁があって、
ここで坐禅が起きたことが何となく分かった。
いま、偶然にも一人も居眠りする人はいない。
今朝の坐禅あけは心地よい。
ウットリ感がまだ余韻として残っている。
Posted by 坐禅 at 2018年06月10日 09:47
パンマンさん

フォローありがとうございます。
補足しますと、私は議論している人を批判してるわけじゃありません。
ただ折角、静寂だった人が巻き込まれているのを見ると
もったいないなと思うわけです。
自分のことだけを考え、自分のために静寂にあれと。。
それでも議論したい人は、好きにやって頂いて結構だと思います。
Posted by rakuni... at 2018年06月10日 10:13
喧騒の中でも静寂である事。なんて贅沢な時間なんでしょう。いつも静寂でありたいです。
Posted by さき at 2018年06月10日 14:08
>テクノロジーの進化には敬服するばかりだ。
>ありがとう。

先日暗闇で少し怖かった時、懐中電灯があればなと思いました。
スマホが懐中電灯代わりになるアプリの事をふと思い出して
ダウンロードしました。
お陰で安心の中で過ごせました。
暗闇の中でも、いまここで過ごせればよいのだけど、
文明の利器を使って、怖さを軽減させてくれたスマホに感謝です。このスマホが私に全てを運んでくれています。

阿部さんとは違う意味でテクノロジーに

ありがとう
Posted by テクノロジー at 2018年06月10日 16:21
真理世さんのお返事を含め、コメント欄楽しく読ませていただきました☆


みなさま、いつもご一緒してくださりありがとうございます(^_^)


これからも、よろしくお願いいたします(笑)
Posted by ぶどう at 2018年06月11日 09:28
働らくのもきつく 生きるのも辛いです。そのくせ甘えがすごくて努力もしんどい。死ぬのも痛みも苦しみと怖いです。なにも読んでもどうにもなりません。
でもありがとうございます。
Posted by ノリ at 2018年06月11日 09:42
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