2018年03月28日

ゾルバ・ザ・ブッダ

来てくれてありがとう。



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朝起きて、昨日いただいていたコメントを読ませてもらいました。

匿名さんのコメントを読んで感じた事。


同じではないけれど、僕も似たような境地にいたことがあると思った。


早い話がエネルギーの停滞。


社会のことも、真実のことも、なんとなく見えているんだけど、だから何なのよって。


そもそも人生は、生きるに値しないということがわかってしまったわけ。

これは、人生に疑問を持たずに邁進できている人よりも一歩進んだ状態だ。

傍目には後退しているように見えるけどね。


敏感だったからこそ見抜くことができた。


そして訪れたデッドゾーン。

ある種の閉塞状態のようなもの。


ここで死を選ぶ人もいるけれど、匿名さんは死ぬ勇気もないと言う。

これも昔の僕と同じ。

実際には感じないだけで、さらに心の奥には「生きたい」という気持ちがあるんだけどね。



さてと、この状態からどう抜けるか。

実は簡単なことで、キーワードは「愛」


こうして書いてしまうとただの言葉だし、何の力も持たないけれど。


でも愛だけが解決の道だ。


ゾルバ・ザ・ブッダ



さて先日、アセンションという言葉をあらためて紹介しましたが、それは新しい人類の誕生です。


彼らは「富を享受する精神主義者」たち。

従来の宗教がタブー視してきた性も財産も、何一つ否定することはなく、あるがままの命に落ち着き、慈愛にあふれ、自然と共存する人たちです。


OSHOはこれを

「ゾルバ・ザ・ブッダ」

と呼びました。



またの名を「タントラ」

タントラと言うと性の部分ばかりがクローズアップされますが、実際には生命への全肯定のことです。



その基盤にあるものが、「愛」です。





最後まで読んでくれてありがとう。

よかったらクリックしてください。


ゾルバ・ザ・ブッダ




・・・・・・・・・・・・



なんてこと書いていたら、いま来週末からの天河神社での「再誕と新生のワーク」に空席が出ました。

もし待っていた方はコチラからお入りください。




4月開催の「創造の法則・仕組みと実践」

お申込みありがとうございます。


沖縄は締め切りました。

東京と大阪

詳しくはコチラから。










Posted by Toshiro Abe at 11:48│Comments(41)
この記事へのコメント
いつもありがとうございます。
今日も善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2018年03月28日 11:58
そうそう、死にたい気持ちになる場合の本当の望みは死ぬ事ではないんですよね。

生きたいなんですよね。

こんな風に、あんな風に、と。

望んでいいし、そう生きてみていい。

死にたくなる気持ちはダミーなんですよね。本題じゃない。

自分の命、表現を否定しているときに死にたくなります。

でもほんとはそれらを肯定したい。

それができれば死にたくなる必要もなくなるし、肯定して生きることの方が実は心の底から望んでいることだったりします。
Posted by 薄茶色 at 2018年03月28日 12:07
物質世界にばかりとらわれ
精神世界をないがしろにすると
人生のバランスを崩します→(>_<)←

精神世界にばかりとらわれ
物質世界をないがしろにすると
人生のバランスを崩します→(>_<)←

わたしたちはみんな物質世界で生きている精神的存在です。

ハートという中心に安住しながら
物質世界と精神世界のバランスを取り
幸せに生きていきたいですね←(*´▽`*)→
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2018年03月28日 12:12
阿部さん
いつもありがとうございます。

阿部さんでもやはりあったのですね、そんな状態。
匿名さんにも禿同ww

私はここ数年まさにエネルギーの停滞です。
やりたいことがない、生きたくない(もち勇気もなし…長生きなんてまっぴらごめん)

ここ数年いろんな勉強をしました。(絞り出してお金もいっぱい使いました)
真理の一部かも知れませんが、自分なりにつかめた気がします。(それはなんとなくわかったけど、いかんせん命さんがが続いてるしなぁ…)

でも経済的な理由で、「今に在る」ことができず
恐怖から来る「行動」にフォーカスしてしまいます。

とにかく今まで、降り掛かってくる火の粉をどうやってうまく逃れていくかという生き方をしてきました。

それなりに結果は出たものもあるけど、それが何って感じ…

言い訳をすると自分ひとりなら、もう終わっていいけど、両親や妻、娘に迷惑をかけてくない、ならその人達のために無私でがんばれってなっても、気力が湧かない…

でも、やっぱり富も性も欲しいな。(どっちやねん)
でもしんどいのはやだな…

ウダウダ、ネチネチ、くどいやつですみません。
でも阿部さんに甘えます♡(きもいかww)
Posted by はまちゃん at 2018年03月28日 12:18
阿部さん!
いつもブログアップしてくださって、ありがとうございます。

(^-^)

愛か・・・・

>さてと、この状態からどう抜けるか。
>実は簡単なことで、キーワードは「愛」
>こうして書いてしまうとただの言葉だし、何の力も持たないけれど。
>でも愛だけが解決の道だ。

愛か・・・・

「愛ってなんだろう?」

根底に流れているものだからなにも心配していないけど、
「愛って?」
なんなのか分からなくなる時があります。(笑)


「これって愛からのもの?」
といつも確認している状態というか。


この抵抗力からなかなか離れられず。
そして、すぐ死にたくなる。(笑)


先日、とある映画を観に行って、
愛を「魂が揺さぶられるもの」
「魂が喜ぶもの」ということにしようって・・・


それ以外も全て愛なのだろうけど。

人間として生きていくには、情熱が必要なんだな~って。思うし。

(もっと違うことコメントしたかったのにな)

感謝をこめて
Posted by 北の大地の女神 at 2018年03月28日 12:22
Oshoさんと言えば、本は何冊も買ったんですが、
ちょっと読んだら、読む気がなくなっちゃって。。

好みの問題なんですかね。

手にするのが早過ぎたのか、私には必要ないのか。

他の人のは読めるんですが。

不思議です。
Posted by サクラ at 2018年03月28日 12:33
ゾルバ・ザ・ブッダ…

性も財産も究め、精神性も究める

普通の人なら

性や財産を究めるだけ、
精神性を究めるだけで人生終わり。

ということになるのでしょうが

OSHOは両方究めなよ!と言うわけですから
さすがですね

愛☆愛☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2018年03月28日 12:55
今朝、懐かしい感覚を感じました。
生きることも真理も何も響いてこない空虚な感覚。
いつから消えたのだろう、、、久しぶりだった。
朝日を浴びながら深く感じにいったら、胸が温かくなって消えてしまった。細胞なのかいのちなのか、、そのなかに深く感じられた沢山の記憶のようなものが溢れだして涙となって消えてしまった。
愛ということに改めて驚きました。
Posted by AYAKO at 2018年03月28日 13:22
このイラストが、雲間の向こうに愛がしっかり存在していることを表しているように見えます。


私たちが、真に望んでいる姿なんじゃないかと思います。


同時に、それが阻まれていることの理解も伝わってくる感じ。。


閉塞感。雲に覆われたままだと、生きながら死んでいる。 


そもそも、本当に生きたことはあるのだろうか?
Posted by ぶどう at 2018年03月28日 13:23
ゾルバ・ザ・ブッダって響きが何だかこわい(笑)
初めて聞きました。
匿名さんのお陰で今日の素敵な記事を阿部さんが書く事ができたのですね。
匿名さんって、ある意味凄い人だと思う。尊敬です。
Posted by さっちん at 2018年03月28日 13:28
>彼らは「富を享受する精神主義者」たち。
>従来の宗教がタブー視してきた性も財産も、何一つ否定することはなく、あるがままの命に落ち着き、慈愛にあふれ、自然と共存する人たちです。
>OSHOはこれを
>「ゾルバ・ザ・ブッダ」
>と呼びました。


阿部さん、セレブと違う意味なんですよね?
セレブにみえるけど、実は叶姉妹ってスゲーなあって思う。
真理を知らなくても簡単に豊かさを享受できる人も
いるんですよね。
何でだろう~♡♡
Posted by さっこ at 2018年03月28日 13:36
どうしても元気になれないとき私もあります
誰かに元気づけて貰っても、有難く受け取れなかったり。
人の好意を全く目に入ってこないように、無意識に遮断します。よく目をそらします。
そんな時ってどうやっても、笑えない。
人の言葉も虚しくしか感じられない。
相手を信頼できない、疑いしか感じられない。
そんな感じの日が数日間ありました、

苦しい時、たまに訪れます。
瞑想してもどうしても駄目だった時もありました。

取りあえず死なないですんでます。
死ぬ勇気はでないので。

うわ、暗い事コメントしてたら、その感覚にまた染まってきた。
Posted by もちか at 2018年03月28日 13:56
>でも愛だけが解決の道だ。

どうやったら愛を感じられるのですか?
瞑想すれば、愛の感覚をとりもどせるのですか?
全体愛と自己愛は別物ですよね。
コメント欄の愛のやりとりってどうすればいいですか?
ハグはできないし、言葉も空しく感じるだろし、
ただ、だまって愛であるがままの命に落ち着いていれば
いいだけですか。
心静かなにするのがこちら側の対応ですか?
一言、匿名さんにコメントした方がいいのか
悩みました。
でも、阿部さんの記事を読んで通常運転再開出来てるかもしれないので、私まで、お節介に心配らなくていいのかしら?
Posted by 真北 at 2018年03月28日 14:05
ゾルバ・ザ・ブッダの意味が詳しく知りたかったので、
検索してたら、こんな文面に出会った。
戦いな好きな戦士がOSHOに質問した所の解答なのか、
自分頭悪いので、良くわからんが、読んでいて、スッキリした。

『人はいたずらに問題を作りだす。私があなたに理解してほしいのは、生にはあなたが作りあげたもの以外に問題はないということだ。ちょっと見ようとしてごらん。何であれ、あなたにとっていい感じがするものは、いいのだ。そのときは最後までやり抜きなさい。たとえ全世界がそれに反対しようとも、関係ない。そして、あなたがそれを余すところなくやり抜いたかどうかは、その報酬によって決まる。』

もっと大事なメッセージっぽいのもあったけど、この文章に感じるものが、今日はあった。

ただそれだけ。
Posted by たこ at 2018年03月28日 15:03
この文章読んでなんか、なんか、解けそうなそんな感覚になった。




(戦う本性に手放しで入る)

 「私は戦士です。戦うことしか知りません――さらに悪いことに、それが "好き" なのです! 最強の嵐に正面から立ち向かって、笑うのが好きです。太陽の光を浴びて横になり、溶けてしまうのは好きではありません。」

 【それには何の問題もない。もし自分は戦士だと感じていたら、戦うことが楽しかったら、それだけではなく、戦士であることを誇りに思うのであれば――そうであれば、リラックスしなさい。最後まで戦いぬきなさい! 自分の戦う本性と戦ってはいけない。それがあなたにとっての手放しになるだろう。

 最強の嵐に立ち向かって、笑うのは、まったくすばらしい。罪悪感をもたないように。ちょっと、ひとつのことを理解しようとしてごらん。私が手放しと言うとき、私が言っているのは、あなたは何かを変えなければいけないということではない。私はただ、あなたが自分をどう感じていようとも、そのすべてを許しなさいと言っているのだ。

 自分の全存在をあげて戦士であるがいい。そうすれば、あなたはこの全体性のなかでハートが溶けることに気づくだろう。それが、あなたが全体的であることの報酬なのだ。あなたはそのために何かをする必要はまったくない。報酬は自ずとやってくる。自分が好きなこと、自分が誇りに感じることが何であろうと、完全にその中にいるがいい――完全にその中にいなさい。分裂を生みだしてはいけない。どっちつかずではいけない、中途半端ではいけない。もしあなたが全体的であれば、ある日――最強の嵐に立ち向かい、笑っていると――あなたは突然、自分のハートが太陽の光のなかで溶けていくのを感じるだろう。それはあなたに報酬としてやって来る。

 人はいたずらに問題を作りだす。私があなたに理解してほしいのは、生にはあなたが作りあげたもの以外に問題はないということだ。ちょっと見ようとしてごらん。何であれ、あなたにとっていい感じがするものは、いいのだ。そのときは最後までやり抜きなさい。たとえ全世界がそれに反対しようとも、関係ない。そして、あなたがそれを余すところなくやり抜いたかどうかは、その報酬によって決まる。

 もしあなたがあるポイントで、突然溶けるのを感じはじめたら、あなたは自分を騙してはいなかったことが、自分を偽らずに誠実だったことが分かる。その今こそが、ほんとうにあなたが誇れるポイントなのだ。 】

ごめんなさい、阿部さんはとっくの大昔に理解できていて、それを享受してるのだろうけど、
自分にとっては、全く未知の世界なので、
ゾルバ・ザ・ブッダとか、
タントラとか、
衝撃的だった。

>実際には生命への全肯定のことです。

生命の全肯定なるほど。

罪悪感と言う観念を落とさないと、生命の全肯定って難しいわけだ(笑)

愛って、簡単なようで今はまだ複雑に感じるです。
Posted by 凧、OSHOに今日初めて感動した! at 2018年03月28日 15:25
世界のなかで 日本人が一番ネガティブらしい

抜けるために 愛 が一番

そうですね

自分が自分を愛せない
自分という存在を受け入れることができない
自分に完璧を求めることができない

愛とはそこね

そこ知らぬから 落ちる

内観をするとよいでしょう

大声で泣いてみるといいですよね
すっきりと感情と決別することですよ

死にたいと思い続けて
天国の階段まで行った者が言うのです
上がりきって 雲を下に見ていましたけど・・・

試す価値ありですよ
Posted by 無有 at 2018年03月28日 16:11
こんにちは愛=神 その通りですね喜怒哀楽も愛無くは味わえないから、死ぬまで生きるだけ(笑)!ありがとうございます
Posted by ピエコ at 2018年03月28日 16:29
マザー・テレサの言葉です。
「愛の反対は憎しみではなく無関心です」

心に「人生は、生きるに値しないということがわかってやる気がしない」と浮かんだのなら、そのことを認めて関心をもってあげること。

心に「死にたい」と浮かんだのなら、そのことを認めて関心を持ってあげること。

関心とは、気付いてあげること、見つめてあげることと同じ意味です。

関心を持って浮かんでくる思いを優しく見つめてあげると、心の奥底に隠れていて気付いていなかった本当の気持ちが浮かんできます。

「本当はやりたいことがあるのに、自分で諸々の言い訳をしてやりたいことを押さえていた」とか「本当は行きたい」

ネガティブな感情や思いが浮かんでくるのは、関心を持って貰いたい、つまり愛されたいからなのです。
Posted by 模察模察 at 2018年03月28日 17:32
ありがとうございます。
Posted by りゅうじ at 2018年03月28日 18:04
阿部さーん よかったら答えてくださーい

1日3回はクリックしてますよー
Posted by 布 at 2018年03月28日 18:26
私も匿名さんと似たような感じが何年も続いてたなぁ。

その状態がずっと続くと思ってし、
なんとかしたい気持ちもあったけど

阿部さんと智子さんの瞑想に出会って
瞑想はその時の自分に必要なことがおきる
って教えていただいて
湧いてきてしまう気持ちや感覚を、私がなんとかしなくてもいいんだぁって思ったらとても気持ちが楽になったのを覚えています。

あと、誰かが誰かを想うって「愛」じゃないかなあと思います。
たとえ知らない人でも。

昨日も今日もたくさんの人が匿名さんを想ったんじゃないかな。
私も想ったよ。
みんなの愛が届けばいいな。

今日もありがとうございます。
Posted by あみやん at 2018年03月28日 18:31
>愛だけが解決の道

・・・自分の場合だと、娘の存在が、私に生きる「力」を与えてくれました。。。誰にも言えない気力もやる気もない暗黒の時代にw・・・家族は、自分を支えてくれてそして、愛してくれている(はず?)ことが、デッドな場面から はいあがるwキッカケになりました。気がつくことなのでしょう。。。いつも ある・・・「愛」ってやつにね。
Posted by AQU@ at 2018年03月28日 18:42
怪盗ゾルバ=タントラ·ヨーガ=生命への全肯定=ブッダ?

何でそうなるのか?よくわかりませんが、
バグワンがそう言っているのですね。

そして、それが今の阿部さんなんですね!

黒マスク、黒マント、黒ハット、手には鞭を持った怪盗ゾルバの姿が目に浮かびました(笑)

ウ~ン、でも何でゾルバなんだろう?
Posted by ✕✕✕ at 2018年03月28日 19:20
自分も、本気で死を考えた時期がありましたが、
街中で肉の塊を掃除させるのも迷惑かかるし、
かと言って、山の動物たちに食べてもらおうと思っても、
その山までは、はたから見て違和感の無い服装で行かなければならないので
今度は山に『文明のゴミ』を残してしまうことになる・・・と、
ただ死ぬだけでも何かしらの迷惑がかかることになるのに気付いたのと同時に、
こんな時でも、『社会』や『環境』への迷惑を考えてる自分にも気付いて、
面白いもんだとか思ってましたね。

その上で強行するとして、なんとなく、自分の体に聞いてみました。
そしたら、『死ぬ』の嫌みたいなんですよね(笑)体のどこかしらから
必ず抵抗が起きます。

だったら、勝手に死ぬ訳にはいかないかなぁ・・・と思って、やめました。

この時の感覚が、後で、どんなに辛く苦しい心身の苦でも、
それはただ生きようと頑張ってくれてるから苦しいのであって、
悪意とか嫌がらせで苦が湧いている訳ではない、という気付きにつながったと思います。
以来、自身の心身から苦が湧いてきても、まずそれらに対する感謝の気持ちが
起きやすくなり、「本当はどうしたいのか?」のように対話するようになり、
苦しいと思い込んでる時にも、視点が変わって、楽になりやすくなりました。

自分も含めて、周りの世の中全部に嫌気がさし、全てを無かったことにしたい
という思いから死を考えましたが、自分の場合はこうして、
肉体・思考・感情・感覚という、「いろんな自分たち」の『愛』に気付いたのでした。
Posted by ただの「自分」 at 2018年03月28日 19:39
阿部さん、こんばんは。今日の皆さんのコメントを読まさせていただいて、皆さんスゴイナーと感心ばかりでした。

たしかに「愛」が全てだという感覚はあります。生命への全肯定。ある時期、死ぬ事しか考えられなくなった事がありましたが、ともかく自分を全否定していました。思考がもうその事ばかり。精神病院に入院し、復活。現在も2週に1度通院しています。

自己愛が復活(もともとは裏に強くあったのかもしれません)し、今は、いろいろありながらも、なんとかやっています。

>従来の宗教がタブー視してきた性も財産も、何一つ否定することはなく、あるがままの命に落ち着き、慈愛にあふれ、自然と共存する人たちです。「ゾルバ・ザ・ブッダ」

良いと思います。その基盤にあるものが、「愛」なんですね。今日は、阿部さん、皆さんのお陰で、良い勉強になりました。
Posted by 永井新吾 at 2018年03月28日 19:41
私も、一昨年最愛の家族たちを立て続けに亡くし、生きる力がもはや無くなっていました。何をするにもパワーが出ず、「ワクワクしよう」や「引き寄せよう」なんて話はうんざりしていました。
そうですね、「愛」が唯一の救いですよね!でもその「愛」って言葉すら響かなくなっていました。そしてそんな自分に思い切り自己嫌悪していました。
先日のシスター・チャイさんの動画を拝聴した後、なぜか、今まで食わず嫌いだったHAPPYちゃんの動画を目にしました。こんな私の心から、どうパワーを取り戻していけるか、大きなヒントを得ました。
https://www.youtube.com/watch?v=n9PWXzYaqmc
Posted by bell♪ at 2018年03月28日 21:39
そうか、すべてを失ったと思い込んで、絶望の底に沈んでいた時でさえ、
それでも、自死しないで、何とか生き延びて来られたのは、「愛」があったからこそなんですね!

目に見える形での両親の愛、そして、目に見えない形での神の愛。

その後、苦しい時でも、ず~と歩んで来られたのは、人の情けや神の愛があったからこそ。

無色透明の無想無相の神は、人間には掴みにくいですが、愛という色付きなら、何とか掴めますものね。

考えれば考えるほど、感謝以外ありません。

愛は、人間に生きるエネルギーを与えてくれますね。

本当に、有り難いです。
Posted by 真理世 at 2018年03月28日 22:46
「愛」



本当はいつもそこにあって

生き生きと活動しているのに、雲に覆われて、愛の躍動を感じられない。

雲は、今までの過程で知らずに身に付けてきた思い込みのようなものだとして、

その思い込みがあるから、生き生きとした愛を感じにくくなってしまう。
  
瞑想は、この思い込みの雲を取り去る力があると思う。

雲の状態は個人差があるだろうから、雲が晴れていく過程もまちまちかもしれない。

ときには思うように晴れず、雲の切れ間から薄日が差しても、また覆われることもあるかもしれない。


ぐっすり眠るのも重要な休息で、睡眠によっても生きる力が充電されるから、この力も重苦しい感情には有効と思う。

瞑想も睡眠も愛に帰ること、私たちの本質に帰ることだから、元気を補充するには不可欠だと思う。

あとは、目が覚めても愛を意識してみてはどうだろうか。

例えば、自分はどうしたいか聞いてみるとか、食事もなにが食べたいか聞いてみるとか、いま感じていることはどうしてなのかとか、自分を労る、関心を向ける、理解していくようなこと。

それと、いつも一緒にいてくれてありがとう。と伝えるとか(^_^)


瞑想をサボっている怠け者からの伝言でした~☆
Posted by ぶどう at 2018年03月28日 22:55
「ゾルバ・ザ・ブッダ」初めて聞いた言葉です。が
エネルギーの停滞=流れられないのか~ しんどいですよね。
そこの拘っている所に気づいて流せるようになると楽になれるかな。
現実で起きたトラウマと重ねてることが、なぜか私にも浮かんできて、怖いので物事をあまりクリアーに見ることができなくてすいません。
また、瞑想できたらいいですよね。
ってか、習慣にできてない自分がいうのも変か・・・ごめんなさい。
苦悩が少しでも減らせるといいなと願っています。
Posted by yun at 2018年03月28日 23:09
死は永眠とも言うし、

睡眠が愛に帰ることであれば、死も愛に帰ることなんでしょうね
Posted by rakuni... at 2018年03月29日 00:24
人間に二元性を見ると、
ゾルバとブッダ、両者がいるように思えますが、
一元性しかないとなれば、ゾルバもブッダもいません。

性も財産も、そこにリアリティを感じるから、罪悪感や執着心につながってしまうのです。

すべて在るようで無いとわかったら、それに囚われることはなくなると思います。

また、ゾルバやブッダに見えるのは、外見上だけです。

人間が、ゾルバとブッダに分けて、両者を区別して、ゾルバよりブッダを優れた者としているだけです。

人は、習性から、ゾルバだと言われると、ゾルバだと思ってしまいます。

観念に囚われなければ、
みんながブッダも、みんながゾルバも、同じことを言っています。

ゾルバ、イコール、ブッダということですね。

観念的な囚われが、この世に、ブッダとゾルバを作り出しているのかもしれませんね。
Posted by 真理世 at 2018年03月29日 01:09
非二元について語っておられたある方が、「自死も個人が選択して自ら命を絶つわけではない。」ということを言っておられました。

それと、阿部さんが前に書かれていた、脳科学の最新の発見として、人の意思や行動は、その衝動が現れるコンマ数秒前にすでに決定されている ということから考えると、とある個人の自死という出来事を引き起こしているのは、全体である本質=神?=愛?という捉え方をしてしまうのですが、どう思われますか?

このブログに不適切な質問のようなら削除お願いします。
Posted by アキーム at 2018年03月29日 03:16
阿部さん 皆様 ありがとうございます
お1人ずつ返信するべきなんですが
とにかくお礼を言わせてください 本当にありがとうございます

自分のブログに書くような内容ですがお許し下さい

ただ生きたい ではないです
お金積まれても家をもらっても自由に生きられても解決することではないです そういうことじゃないんです
ボランティアも違いました 与える 確かに心地良く 貢献感が芽生え相手にも感謝されて嬉しい でもそれだけなんです 消えるんです

空しいです 瞑想坐禅できた頃は空しいでいられ、それは幸せ不幸せ両方ないただそれでした ですがいまはそこに死にたいが入ってきている 死があると思うと救われ それ自体悪くない ですがそれに使われてる感覚です 主人が変わってしまってる そういう時間が多くなってきてる
ぶっちゃけ勇気がないんじゃないです はまっちさんに近い感覚と
坐禅中に感じた事 阿部さんの記事と合わせて 肉体的な死は死じゃないことがうっすらわかっているからです

ただただ流れることも出来ない 中途半端なのかもしれません

すみません 文面での解釈なので誤った回答しているかもしれませんし自分の文も抽象的で伝わるかわかりませんが

まもっちさん
ありがとうございます 大阪育ちの東京です
そういえば吉本は観た事なかったですね
ですが難しいです
誰かとお会いする際は相手に心地良く過ごしてもらいたい せめてもらえるように振る舞いたいのですが自信がありません
これは別に誠実ぶってる訳ではなく 嫌われること 否定されることに極度の恐怖がある故のただの自衛です
お誘い嬉しかったです ありがとうございます
Posted by 匿名 at 2018年03月29日 03:34
私も停滞期なのかなぁ。

小さなことは願ったらわりとすぐに目の前に用意してくれてるというのはきづいた。
今、幸せなことしかないなぁ…なんて思ってた矢先。
ある出来事から人を通して感じる自己否定や罪悪感が噴出しました。
自分は必要とされていないっていう強力な思いは自我がコテンパンにされるまでとけないのかな。
そんな体験したくないなあ。

今日は悲しくて会社で泣いてしまいました。
Posted by まー at 2018年03月29日 05:55
長いけど わかり易いので 切らずに張ってみます。

『これは、ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です。苦は、渇愛から生じます。渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち、五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています。』(初転法輪経)

 tanhâ(タンハー)とは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています。
 渇愛の特色の一つは『punabbhava』。これは puna (再び) と bhava (成ること) からできた言葉で、成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです。そうやって動きながら、瞬間瞬間、私たちは変化していきます。それは止まりません。「私はこれで終わった、もう何もする必要はない」という心の状態になることは、決してありません。次から次へと「何かになること」をくり返していきます。
 次に『nandî râgasahagata』。nandî は「喜び」。râga は「愛着」。両方とも喜ぶ心です。 sahagata は「伴っている」。渇愛には喜びが伴っているというのが、二つ目の特色です。三つ目は、『tatra tatrâbhinandinî』。tatra tatraは「その場その場で」abhinandinî は「喜び」。自分の状態をことごとく気に入っていること、大事だと思ってしまうことです。渇愛の三つの特色のうち二つまでが喜ぶことで、とにかく渇愛を喜ぶ心が私たちの中にいつでもあるのです。「渇いている」というと苦しいようですが、生命は何かを探し求めていくことを気に入っていて、いくら苦しくてもそこから離れたいとは思いません。決して自分の生き方を捨てたくはないのです。幸福な人がその状態を楽しむのはわかりますが、不幸な人でさえ、自分の状態に愛着しています。すぐに怒って喧嘩をする人はそれがよくないとわかっていても、やめたくありません。病気になったら、病気が生き甲斐のようになってしまいます。そういうふうに生命のシステムができているのです。
 次に、渇愛には三つの側面があります。三本の糸を寄り合わせて一本にしているような状態なのです。
その三つとは『kâmatanhâ』『bhavatanhâ』『vibhavatanhâ』です。
 『kâmatanhâ』は五官(眼耳鼻舌身)に刺激を与えたいという欲です。食べたり、運動したり、遊んだり、勉強したり、仕事をしたり、結婚したり、離婚したり、すべて五官に刺激を求めているのです。私たちの生活はほとんどこの kâmatanhâ という欲によって動かされています。
 『bhavatanhâ』というのは生存欲です。「生きていきたい」「死にたくない」という気持ちです。
次の『vibhavatanhâ』というのは破壊欲、「嫌なものを排除したい」という欲です。生命は生きていきたい。そのためにずっと競争をしたり戦ったりしています。そして自分にとって好ましいものを欲しいと思い、プラスにならないものを憎んで破壊したいと欲します。人間は自分にとってマイナスだと思えば、平気で何人でも人を殺します。人を殺すと罰されるから我慢をしているだけです。どうしても戦う対象に勝てなくて怒りが大きくなると、自殺をします。この破壊欲は、あらゆる場面でいろんな形で現れています。
 すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです。仏教では、「ほしい、ほしい」と思うのは真実がわかっていないからだといっています。無明から渇愛が生まれるのです。無明と渇愛がうまく絡み合って、無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています。そこから脱出しましょう、客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです。
(スマナサーラ師の講義より編集/文責;早川瑞生)
Posted by まるまる at 2018年03月29日 07:31
生きる。

「くう」「ねる」「あそぶ(目的)」「だす」

じぶんの求める「愛」は何?
Posted by 日和る at 2018年03月29日 08:11
絶望や絶体絶命の恐怖、死にたくなってしまうほどの苦しみなら、体験したので、わかるのですが、
自分という存在事由が、根底から揺らいでしまうような虚無感は体験したことがないので、
阿部さんや匿名さんが書かれていることは、想像するしかないのですが、そういうことが実際に起きてしまうこともあるのですね。

その時も自分が無くなるというより、自分だと思っていた者が消えて、違うモノが現れて置き換わったという感じで、虚しいというより、歓び、至福があるだけでした。

歓び、至福は、人間は気がつかないでいることが多いですが、常にあります。

虚しさを感じるのは、心が働いているときだけで、熟睡している時は、心が働いていないので、どんな感情もありません。

虚無感も苦しみと同じく、心が作り出しています。
その心に乗っ取られないことです。

私たちは、肉体でも、心でもありません。

ブッダが差し出した一輪の花の中にさえ、存在することへの歓びが輝いていると感じます。

この宇宙には、人間と同じような働きをする心を持っている存在は、人間以外にはいないでしょう。

その心を使って、この宇宙で人間としての体験が起きているだけです。

心の正体を見破れば、苦しみが消えるように、虚無も跡形も無く消えるはずです。

心が、すべての色付けの根本原因です。

本来は、色のない空です。

しかし、この空は、空しいの空ではありません。

死にたくなる気持ちは、その空に色としてただ湧いて来る感情のひとつであるだけなのですが、
心がそれを掴んで離さないままでいると、その印象が強くなり過ぎて、人間はそれしかないように思い込んでしまうのです。

肉体も心も、この世を体験するための乗り物なのですから、それに従属して束縛されないことです。

永遠の命、完全に自由で至福の存在、それが私たちの本来の姿なのですから。
Posted by 真理世 at 2018年03月29日 09:01
まるまるさんの記事に共感しました。
ホントはわかってるのに、目的があるから同じことの繰り返し
Posted by N at 2018年03月29日 10:57
性のことを含めてJOYにオープンであること、

繊細なテーマですが、バランス感覚と受容性が深まればOSHOがタントラを題材に語りかけてくれたことを世の中でも受け止めていけそうですね。

まずは自分らしく生きることにOKを出すことからはじまるのかなと思います。
Posted by Origin at 2018年03月29日 14:46
匿名さんの

>使われている
>主人が変わってしまっている

これ、匿名さんの感覚等と同じかはわかりませんが、
この文を読んで物凄く反応する感覚が、自分にもあるんですよね・・・・・

と思ってから、

「あ、そう言えば、『主人』とか、そういう感覚あるんだな」
と気付きました。

ちょうど、そんな感じ・・・自分の場合は、いろいろ疑問だ不安だと
わちゃついてる感覚が優勢になっている状態・・・に対して、
うっすら残ってる、でも、確かに『こっち側』、つまり、疑問とか不安とか
無い側が、本当に求めていることだから、
『そこ』から「こっちの方がいいよ~」と、今優勢になっている、
いろいろわちゃついている側に対して呼び掛け、
『こっち側』に『主導権』を取り戻そう・・・・・

・・・・・と思ってることに気付いて、ハッとしました。

「そんなもの、『無い』じゃん?」

瞬間、意識がグルッと反転?裏返って?わちゃついてるのはそのままに、
わちゃついてるのも、「こっちだよ」と思ってる『安心』の側も、
同時に『無い』ところから湧いてる感覚になり、
意識の空間が広がった感覚にもなりました。

自分も時々、こんな感じで、うっかりします。
『無い』のが本当、としか言えないんですが、『無い方に』と『定義』するのも
違う感じです。『無い』のは『無い』と、気付くしかないです。
『無い』なんて『虚しい』とか思うなら、『虚しい』すら『有るもの』なので、
それすら『無い』んです。
本当に『無いところ』に落ち着けたら、先に書いたとおり、
『無いところ』から『全ての有るもの』が湧いてると感じられると思います。

少しでも参考になればと思って、重ねてコメントさせていただきます・・・
Posted by ただの「自分」 at 2018年03月29日 17:35
阿部さんこんにちは。
自分、早くゾルバザブッダになりたい。
今日、感動したショーがあったのに、
それに対して換金という、形で示してあげられないのが不本意でした。
最後の必殺技を覧ないで立ち去りました、。
換金してあげられないから。
あんなに凄いもの見せて貰って、楽しませて貰ったのに。
正当な評価を形として現せる自分でありたい。そう思った。
因みに感動したパフォーマンス組は過去アクエリアスのCMにも出演あり。ディズニーランドのトアルショーにも参加してるとか。
リフティング大会の初代チャンピオンでもあった。
ディープパープルのスモークオンザなんちゃらの曲に合わせてリフティングボールをカラダ全体を使って自由自在に操る。それとは別に都知事からもお墨付きの伝わらない細かい芸も堪能しました。客席の人の心を掴む話術も素晴らしかった。
ただでみるのが申し訳ないぐらい素晴らしく、だからこそ最後まで覧れなかった。
楽しませて貰った物に対して換金という形で現せる様になれたらなあ。
豊かになりたいなあ。
Posted by ゾルバざゾルバ at 2018年04月01日 16:57
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