2017年10月29日

生まれもしない、死にもしない

昨夜は、昔の歌を聞いてもらうためのささやかな音楽会を東京の自宅で開きました。

なんせ25人でいっぱいの会場。

40年近く前の歌を唄いながら、時の流れの不思議を感じました。

yjimage (1)

昔取った杵柄とは言え、ギターの指が勝手に動いていく。

歌っている者は昔と何も変わらない。

違いがあるとすれば、頭の中の記憶が増えていることくらい。


このような経験の中で、自分が時間を超えて存在していること、自分の内側は歳を取っていないことを実感します。

この内的感覚は、幼少のころから持ち合わせていて、いまも変わらず内側にあって、この先何十年が経とうと、このまま変わらないのは明らかです。

実は赤ん坊の頃も、さらには胎内にいたころもこの感覚を持ち合わせていました。

もっと言えば、生まれる前から「これ」はあり続けています。

もちろん死んでからも、何一つ変わらず在り続けます。


それが本当の自分。


だから、「本当の自分は生まれもせず死にもしない」と言うのです。


名前や、生活態度や、社会的立場がどう変わろうと、何も変わらず自分として在り続けているもの。

その存在は外側の出来事や、内側の感覚に影響されることはありません。


しかもそれこそが本当の自分。

このことが分かれば、何があっても救われていることが分かりますよね。


だから昨日と同じことを言いますが、


心のままに思い切り生きて下さい。



・・・・・・・


【お知らせ】


禅サンガオープンキャンパスの公開は残り2日間。

お申し込みは明日までです。


今日は東京で雲黒斎君との阿雲の呼吸。

都合がつく方はいらして下さい。


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Posted by Toshiro Abe at 10:51│Comments(24)
この記事へのコメント

これまで着てきた服がどんな服であったとしても

いま着ている服が新しくても古くても

服を着ている自分が存在しています。


過去世で着てきた肉体がどんな肉体であったとしても

いま着ている肉体が新しくても古くても

肉体を着ている自分が存在しています。


それは心の本質です。

それは胸の中心から宇宙全体に広がっている永遠の愛の光です。


思い切り心を集中して

思い切り心を輝かせて

思い切り心を広げるほど

胸の中心から宇宙全体に広がっている永遠の愛の光が現れてきます。


わたしたちはみんな永遠の愛の光です。
Posted by 大空 at 2017年10月29日 11:13

あまりにも馴染みすぎていて、忘れてしまっている「これ」。

いつも「わたし」として在り続けている「これ」。

「これ」こそが、本当の実在。

「わたし」は、かりそめ。

どんな言葉でも語れない「これ」。

「これ」であることを知らなくても、
「これ」でしかない私たち。

人間(肉体)は消滅するけれど、
「これ」は在り続ける。

すべてが「これ」。

「これ」だけが実在。

このことを知ることができるのは、
この地球では、人間だけ。

ということは、考えようによっては、
「これ」を知ることは、人間のノルマ?なのかもしれない。

人間って、悪いことも沢山するし、
他の動物を殺ったり、人間同士で殺り合ったりするけれど、
「これ」のことを知るように運命づけられてもいるわけだから、
深いところでは、ドエライ存在だってことになる?(笑)

だから、ギター片手に音楽を奏で、歌を唄い、愛と真理のメッセージを語り、
あなたはドエライ存在なんだということを、語り続けることは、
蟻とキリギリスで言えば、キリギリスだけれども(笑)、
人間が、人間であることを最高に楽しんでいる姿だとも思う。

これからも、お元気で、楽しんで、活動されて下さいね(^o^)
Posted by 真理世 at 2017年10月29日 11:43

自分という個人が幻であれば…

この世で精一杯生きるということも幻であり
あの世で霊として生きるということも幻

となります

しかし、それでも大丈夫

本当の自分は静寂なので…

>生まれもしない、死にもしない



ストーリーにはまり込んでも良し

ストーリーから抜け出しても良し

どっちでもええんよ〜

良し☆良し☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2017年10月29日 11:52

阿部さんの表現ってなんでこんなに、かっこよいんだべか?
歳を全く感じさせない表現力。
そして、言葉が難しくない。
内側にある変わらないものがあるからか、それとも、個性なの?
少し気取ってかっこつけてるとか?ソレハナイナ。(笑)
みんなのある内側にある、変わらない「それ」。
じゃ、みんなヤングマンなんだね。
老いも若きも赤ちゃんも、胎児も内側はみんなおなじやん。
すげーまじすげー。
だから、全てはひとつなんだね。むふんべつちやわ。

阿部さんのギターってマジ一音一音クリアなんだよね。
さすが過去吟遊詩人。
みんな喜んだべなあ。
いかった、いかった。
普段の講演でも弾き語り時間あればいいのにな。
でも、そんな、安売りしちゃいけません。
阿部さまのギターの音色は神がかっとんねん。もったいない。

元々救われてるのに、今日のブログでもっとまたまた救われました。
ありがとうございます。

思いっきり生きるってどういうこと?(笑)


Posted by くっぱ at 2017年10月29日 12:05

多分に「これ」とは意識のことであり、我々の本質が意識だということは、我々にはもはや既知と言えるのかも知れません。
しかしその意味の重要さが未だに分かってないとも言えるんでしょうか。

いつもは意識を自覚してませんが、けどそもそも意識が無いなら、我々は只の動く人形と言う事かもでして。
まぁでも、本質的に人間世界とは人形が動いるようなものであり、人形が行う思考や感情などの行為に後から意味づけをし、我々がそれをしてると思い込んで、そしてそれを真我(魂?)が楽しんでいるんかもで。
だからもしも苦しみの真っ只中で、意識自身が自らが個我演技(個我意識)をしてるのだと気がついたなら、運が良ければ全体意識(ワンネス)へと移行するのでしょうか・・・おそらくですが^^;

ところで、自覚(認識)があるから我々は諸々の活動を出来る分けであり、認識力が低下すれば(意識が薄れれば・又は意識朦朧とすれば)痴呆と同じで自分が何をしてるのか分からなくなってしまうかと。
と言う事はつまり、普段よりも意識の力(認識力・又は知覚力)が高いと肉体の感受性(五感)も鋭く成っていて、今のこの次元(肉体次元・物質次元)の最高のものを観ることに成るやも知れない分けで、それがつまりマリファナなどの覚醒現象かと思う分けです。
彼等(ヒッピー)の言う神との遭遇も、それは向揚した意識、つまり向揚感(超越の力)がもたらす自縛からの超越(解放)により、自らのから本質が現れ出たのかもで、しかし次にそれに頼らず自らの行などによってそこに至るようにすれば良いのですが・・・・・。

next。
Posted by It's a Sony ?[ ?ω? ]? ♪♪ at 2017年10月29日 14:00

ではどの様な行をするかですが、一般的には瞑想等でしょうけど、まぁ個意識と全体意識、どちらも意識の現れですが、主旨は意識の拡がり(個体意識から全体意識への移行)が要点と言えるのかもで、実際に於いて、悟った人は全体意識の方が素晴らしく感じる分けでしょう。
そして、我々としては直接に意識に的を絞る方が効率が良く、だから禅などもずっと続いている分けでしょうか。

僕が思うに、我々の意識が全体意識に還るには、日常つねににこの意識を自覚してるのが有効かもで、思考や感情に没入するというか、無意識と成って幻想ゲームにのめり込まれない為にも、この様な客観的態度でいることは重要度が高い気がする分けです。
マインドフルネス(没入感覚・意識の手放し)と成って人生を楽しむのも良いのですが、アウトローよろしく何処までも意識の追及(保持)を目指すのもアリではないかと。
これが即ち「私は誰か!?」の追及であり、「私は意識である」を何処までも保持して行くことがその答えで有るかと。
しかしあまりに単調ゆえに人は続かないのかもで、これにどのような興味付けをするかがその人の課題ではないかと、このような呆想をしてしまった次第なんですが・・・・・今日も舌好調だったりして(*≧▽≦;)ゞピッ
Posted by It's a Sony ?[ ?ω? ]? ♪♪ at 2017年10月29日 14:01

子供のころ、冬の夕方の記憶。
お庭の隅で、焚き火をしてた。
ほとんど炎は消えて、枝が炭のようになって、赤く灯っている。
空は下の方に仄かな光を残して、あとは夕闇に覆われている。
染みるような冷たい空気と、残り火の暖かさ。
それを、ただみていた。
「これ」が、みていた。
その時の「これ」。ずっとある。不変の「これ」。

最近、内側とか外側とか、従来の定義が崩れはじめている。
自分の内側だと思っていたものすら、顕れては消える観察対象なのだと。
外側と内側?境界線?どこ?外とか内とか、そんなのなかった。
「これ」と「内容・思考」が一緒に起こっている。
「これ」と「内容・思考」を分ける事すら本当は必要ないのではないか、という気がしてきている。


遅れましたが…
阿部さん、お誕生日おめでとうございます♪

私は、この世界?ジャンル?への入口が阿部さんでした。
入口が阿部さんで、寄り道しながらも、軸はずっと阿部さんでした。
真実の香りみたいなものへの直感。それには、あらがえなかった。
真実の香り…それって、「これ」のこと!だったんだ!

ここから始まり、ここへ帰る。
「これ」の香りを、道なき旅の道標にして。
Posted by Ayumi at 2017年10月29日 14:26

幼少の頃、水にブクブクと潜る映像や、プールの波打ち際のような映像に何度も惹きつけられることがあり、子ども心に何でだろう?と思っていたけれど、今思えば、あれはきっと胎内記憶というやつなのかもしれない気がしてきました! あの頃から感じていたんだなあと思うとスゴイ!の一言しか出てこない。
何が起きても同じことなら、心のままに行きたいものだなあと思います。もちろん少しずつでもいい。勝手に起きていくから、どうなるかはそれしかいつもないけれど。
今日は阿雲の呼吸かあ!雨すごいですね。
Posted by 薄茶色 at 2017年10月29日 14:48

いつもありがとうございます。
良き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2017年10月29日 15:38

じゃ、服や肉体が気に入らなければ 変えたいよね。。

服着て福来たる
Posted by rakuni... at 2017年10月29日 17:36

>だから昨日と同じことを言いますが、



昨日でもいいです。
阿部さんのこう言う所が良いと思う。
身内じゃないから。

身内だったら、いい加減にしてって
言ってたはず。

昨日でも一昨日でも、大した違いはない。
大元が伝わってれば!
それでよし。
いつもありがとうございます。
Posted by ロン at 2017年10月29日 18:00

本当の自分というのは、星を動かしているものでしょうか?電気みたいに供給されているものと言えましょうか。

星の配置による運気の変化を、ただただ体験してゆく気持ちになれば、すべてが通りすぎてゆくもの。困難も少なくなる。

山も谷もあるけれど、すべては、通りすぎてゆくもの。この人生劇場で展開してゆくけれど、実は地球が回転し毎日太陽が出てくる。月も地球のまわりを回っている。他の星も。

それにより合図が出されたり、舞台セットが変更になる。そういう仕組みが出来上がっている。それで自分たちが踊らされている。

私たちは電気エネルギーみたいなものなのだろう。死んだら回収されるのだろう。過去生なんてのもないんだろう、単なる電気だから。

全体の一部だから、「私はイエスキリストの生まれかわりです」と誰もが言っても間違いではない。

ただ宇宙の記録レコードというのはあるのかも知れない。
Posted by ひよどり at 2017年10月29日 19:36

阿部さん
有り難う

本当に本当に、起きた事、起きている事、起きる事全てに感謝〜  ?
Posted by 月野道 at 2017年10月29日 20:25

どうせ どうにかなる

どうせ なんとかなる

どうせなら好きに生きよう

どうせならこの人に着いていこう

どうせ この人の責任なんだから

どうせ なんだから
Posted by みちばた at 2017年10月29日 21:47

今日もありがとうございます。良い宵を。
Posted by 林ゆみ子 at 2017年10月29日 22:13

思考が捉えているものは
ほんとうでもあるけど
(リアルに感じますね)
と、同時に全部気のせいでもあって 笑

生きていると本当にいろいろあって
辛い事もあっていっぱい泣いちゃったりもするけれど

言葉では指し示せないほどの
愛の真空パックの中にいるようなもので
ほんとうに涙の一滴さえも、この外側にはいられないの エゴでさえも笑

私たちの本質はこの全てである愛そのものでもあって


生まれたというのも、人類が持った共同幻想

生まれてもないから 死ねるわけもなく


全てに 遍く ずっとある それ だから
絶対大丈夫!

私も辛い時、阿部さんの
気楽に行こうぜ!に助けられた一人です。感謝??










Posted by スミレ at 2017年10月29日 22:24

ありがとうございます。
Posted by s at 2017年10月29日 22:32

みちばたさんの「私たちは電気エネルギーみたいなものなのだろう。」というご意見に、
とても近いものを感じています。

人間の肉体を器とすると、その器に満ち満ちているモノが在り、
日本では「気」、中国では「チー」、インドでは「プラーナ」、イスラエルでは「ルアーク」、
初期キリスト教では「聖霊」(プヌーマ)と呼ばれて、古くからその存在が知られていましたが、
科学が登場してきた近代では、波動、振動、バイブレーションと言われている、所謂、この体を動かしているエネルギー(電磁波の一種)が存在しています。

パソコンを動かしているのは、プログラムですが、
このプログラムも電気が無ければ、作動しないので、一番重要なのはエネルギーです。
それと同じく、人間の肉体も、エネルギーの供給が途切れると、動かなくなります。

それが、所謂、「肉体の死」ですが、
受精により、肉体を形作るプログラムがセットされると、
そこにエネルギーが供給され、また新たな肉体(=わたし)が形作られます。

こうして、今や70億もの人間がこの地球上を闊歩しています。

時には、人間間での小競り合いが生じたりしますが、
概ね人間は、同じプログラムで構成されているので、
個々人の差は僅かであり、違いはほとんど無いと言えます。

人間からすると、肉体が(自由)意志を持って、動いているように感じますが、
実は、その背後で働いているプログラムとエネルギーが、鍵を握っています。

パソコンが、プログラムとエネルギーによりパソコンとして作動するように、
人間も、男性原理(ダルマ)と女性原理(シャクティ)の合一の結果であり、
プログラム(DNA)とエネルギー(電磁波)により動く存在となっています。

この合一は、果てしなく続く生命の神秘とも言えるものです。

そう考えると、この物質宇宙は、ダルマ(法)とシャクティ(力)の合一の結果と言えるかもしれませんね(^o^)
Posted by 真理世 at 2017年10月30日 00:25


阿部さんが

>このような経験の中で、自分が時間を超えて存在していること、自分の内側は歳を取っていないことを実感します。
>この内的感覚は、幼少のころから持ち合わせていて、いまも変わらず内側にあって、この先何十年が経とうと、このまま変わらないのは明らかです。

と書かれたような、物心ついてから、ずっと、『全く変わっていない』と感じるところ、自分にもあります。

同時に、今思い返すと、どうやら物心ついてから、ずっと、『全く変わっていない』と感じるところ、
もうひとつありまして・・・・・ずっと、『社会的役割』がピンとこないんです。
『役』に『埋没しきれない』んです。
なので、ずっと「上っ面」とか言われてきました。
今は結局、『社会的役割』はいちいち気にせず、自分の感覚を表現した際のトライ&エラーの
データベースの平均値を取って表現することを心がけ、一応『社会生活』できている状況ですが、
『社会的役割』がピンと来ない根本は変わっていません。

阿部さんは、以前の記事で、子供の頃から周囲の人の感情面に違和感を持たれていたことを
書かれていたと思いますが、『社会的役割』についてはいかがでしょうか?
Posted by ただの「自分」 at 2017年10月30日 01:08

阿雲の対談で感じたこと。
阿部さん、大人。(当たり前だけど)
阿雲用の阿部さんでした。
偉い!
拍手!
素晴らしい!
阿部さんは水の様に、形を変える天才だと思います。
阿部さんの偉大さが知れて楽しかったです。
ありがとうございました。
また、是非参加させて下さい。
Posted by 賢也 at 2017年10月30日 02:13

>心のままに思い切り生きて下さい。


自分流解釈

おめ〜の勝手にしろ!(笑)

やさしく表現してくだりありがとうございます。
Posted by のん at 2017年10月30日 06:55

他に自身を明け渡さず、自分を大切にする

>心のままに思い切り生きて下さい。

自分を消してしまうと、自分がかわいそう。
そういうのが自信になるような気がしました。ありがとうございます。
Posted by yun at 2017年10月30日 08:56

阿部さん、思い切りという所が、怪しい所ですが、心のままに思い切り生きてみたいと思います。
いつも応援、ありがとうございます。

Posted by 永井新吾 at 2017年10月30日 20:37

昔の歌の音楽会 行きたかったな
どんな歌だったのですか?私は囲いを下さい、少女よ が大好きでした。たかく飛ばしたらも その他懐かしい歌が沢山あります
Posted by きょう at 2017年11月01日 04:46
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