2016年01月08日

(続) あるがままを生きるってどういう意味? 

それじゃ昨日の続き。

まず結論から言うと、人間があるがままになれないのは、人間が社会的な生き物だからです。

もし孤島で生まれ育ち、人生をたったひとりで生きていたとしたら、その時はあるがままという言葉が不要なくらい、ただ自然体で暮らしていたことでしょう。


人は心の中にいつも社会を持ち運んでいます。

ひとりでいる時でさえ、そこには微妙に他者の目が存在します。

他者の目は同時に自分の目です。

自分の中に、自分を見張るもうひとりの自分が存在するのです。


それはちょうど、ハンディカメラを高く掲げて、頭上から自分を撮り続けているみたいなもの。

そうやって無意識に自分を見張っています。

変な人に見られないように、人から批判されないように、いい人に見られるようにというわけです。


そのカメラがある限り、自分は人生という舞台で演じる役者になっています。

社会で演じるのが悪いのではなく、演じていることを忘れて演技が自分自身と同化してしまうところに問題が生じます。

その問題とは、たとえば、自分を好きになれないという形で現れてきます。

自分が偽物であることを無意識に知っているからです。


じゃどうしたらいいのか。

ハンディカメラを地面に叩きつけて、踏み潰してしまえばいいのです。


それは、自分を見張り続けるもうひとりの自分の消滅です。

このもうひとりの自分は、観照している大いなる自己なんかじゃありません。

他者に対する恐れや不信感が作り出した自我です。

ある種の警戒心のようなものです。


ちょっと自分を正直に見てみてください。

大人になってから、100%人を信頼したことがありますか。

100%自分を開いた経験はどうでしょう。

いつも警戒心とともに生きてきたのではないでしょうか。

こういうことは誰も告白しませんが、あなただけではなく全員が一度はそこにハマり込むようになっています。



また違う表現をしてみましょう。

「ありのままの自分」という中心があるとします。

幼い頃はそれを生きているので、自分であることになんら違和感はなく、とても満たされた気持ちを生きていました。

ただ残念ながらその頃は、自分が満たされていることを自覚しませんし、気づいていません。


そんなある日、何かが起きます。

自分が自分でいられない何かが起きるのです。


もしかしたら親からなにか言われたのかもしれません。

「お兄ちゃんなんだから、もっとしっかりしなさい」

いまのままの自分ではダメなんだという経験です。


その時、自分の中心から自分が離れてしまいます。

そして「ありのままの自分」が終わるのです。


自分がその中心からどれくらい離れてしまったか。

あまりに大きく離れてしまうと、自分を好きになれないどころか、自分を憎み始めます。

人によっては自分の体を傷つけることもあります。


以前、方広寺でリーラというセミナーをやっていたころ、リストカットの跡が生々しい女性がいましたが、彼女はまさに中心から大きくはじき出されてしまった典型でした。

ギリギリのタイミングで来てくれたと思いました。


さて、それではどうやって中心に戻るかです。

昨日話したように、少しずつ新しい習慣を身につけていくことで変えていくことが可能です。


そういえば昨日のコメントに、変えていこうとすること自体が「ありのまま」ではなくなっているという意見がありましたが、「ありのまま」という言葉を完全に読み違えています。

「変える」という言葉も誤解されやすいですが、読む側の臨機応変な読み方がないと、言葉尻にひっかかってしまい、文章全体がなにを言おうとしているかを見失ってしまいます。


さて新しい習慣を身に付けるやり方ですが、実はいくらでもあります。

そのひとつは、最初は嘘でもいいから成りきってみるということです。

たとえば笑う時も、中心から外れていると、本当には笑っていない自分を感じてしまいます。

そう感じる自分を叩き壊して、ただ笑うのです。

笑いを見張る自分を消して、ただ笑うのです。


成りきる

見張り人に消えてもらって、成りきる。

そうやって成りきる習慣をつけていくのです。


またすぐに見張り人が顔を出しますが、それでもいいからやり続けているうちに、いままでとは違う「いま」を生きることができるようになります。

これは現代風の禅修行になりうると思っています。



最後に一言書いておきます。

あるがままを生きるというのは、愛を生きるということだということを。


このことについての説明はやめておきます。

ちょっと書き疲れた(^^;)

自分で考えてみてくださいね。


今日も来てくれてありがとう。



Posted by Toshiro Abe at 09:30│Comments(45)
この記事へのコメント
はい^ - ^

いつもいつも本当にありがとうございます♡
Posted by れいこ at 2016年01月08日 09:55
自分は幼稚園の頃

他の園児に紛れて

ひとりだけ偽物をやってる感が半端なかったです(笑)

だんだん年を重ねるにつれ

周囲にも連帯感は求められるようになりましたが(爆)

信頼については

母親の絶対的な存在が今も大きく

その点は大変恵まれていると思います(⌒-⌒)/
Posted by 内村周真 at 2016年01月08日 10:11
>愛を生きるということだということ

・・・あにぃ・・・泣けるとこ 持ち込んできましたね(笑)

精神世界観の中で 愛を結論めかせて 語る人は多いです。

それは 論理的な道義的な道徳的なカタチで 言ってるだけで

何も 伝わってはきません。

でもね、あにぃの書いたのは・・・うたれるね。。。わかるし。。。
Posted by AQU@ at 2016年01月08日 10:12
>まず結論から言うと、人間があるがままになれないのは、人間が社会的な生き物だからです。(今日の記事から)

>あるがままでないことさえも、あるがままなので、この言葉はどのようにでも使うことができますね。(昨日の記事から)

この二つの文章で使われている”あるがまま”は、どうも同じではなく、別々の意味を持っているようですね(笑)


>不自然さもあるがまま、人為的なものもあるがまま、思考もあるがまま・・・

>実は起きていることはすべてあるがままです。

昨日のコメント欄のコメントでは、阿部さんは、とても納得のいくことを書かれていましたよ(^^;)

もしかすると、阿部さんが記事で書かれた内容から推察するに、
”あるがままを生きる”ではなく、”ありのままを生きる”の方が、ピンと来るかも?と思う次第です。

”在るがまま”と”在りのまま”とは、ちょっとニュアンスが違うかも?と思えるので(笑)

”ありのまま”なら、「アナと雪の女王」の”ありのままで”(Let it go)という歌を思い出しますね♪

歌詞の内容は、昨日、今日の阿部さんの記事の内容と合致しているように感じます^^

”自分らしく生きる”或いは、”ハートで(ハートの声に従って)生きる”というようなニュアンスでしょうか?
(”ハート”は、”愛”なので、”愛を生きる”ということになりますね(^o^)

”あるがまま”は、特にラマナの本を読んでいる人にとっては、阿部さんの書かれたことに違和感を覚えるかもしれませんね(^^;)

言葉って、一文字でも大きくニュアンスが違ってくることもあるので、
本当に、正確に伝えるって、難しいですね(笑)
Posted by H at 2016年01月08日 10:13
ありのまま という言葉だとぴんとこないのですが、、すみません。

おもいっきり遊ぶ!ということかな?と思ったらワクワクしました。
Posted by AYAKO at 2016年01月08日 10:32
おはようございます。阿部さんに感謝、
人類がまだ地球上に存在していない時は正に時が止まったかのよな「ありのまま」の世界がそこにあったのかな?と想像するしかありませんが・・・
宇宙で最初に「あいつの肉が僕のより大きい」と思った奴がいたのかな?と想像もしましたが・・・  僕がやっぱり残念なのが「自分の死体」が、徐々に腐敗して土に還るのを見届けることができない事です(これは日本人の悲悲劇かも)・・・ 母の子宮から「ありのままに」出て・・・ あっ!その前に000があったな、
Posted by 被二元 at 2016年01月08日 10:34
自分の中心とはハート・胸の中心ということ


愛を生きるとはハートを生きること


頭からハートに大きく方向転換して

ハートに集中し続けて

ハートから愛を溢れ出させると

静寂・至福であるあるがままの自分が現れてきます

(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年01月08日 10:50
うんうん☺️✨

ふと
いつ個人があらわれたんだろ(笑)
と、出てきました。

バーン‼️と出たり全く無くなったりを
高校生まで繰り返してから、個人の支配下に

面白いなぁ〜✨
Posted by 天川惠理子 at 2016年01月08日 10:50
敬愛する阿部さんに反論じゃないっスが、


よく、
自身はすでにありのままであって

きみのそれはありのままじゃないよ
...ありのままでいいんだよ

とか他に許可らしいものを与えるっぽい人を
みかけるんだけどちがうとおもうんだ

ほんとうにありのままのひとには
他の『ありのまま』が映るんじゃないかとツネヅネ感じてたんスが
どうだろ。
Posted by いっきゅ at 2016年01月08日 10:56
阿部さんの伝えたいという真摯な思いが伝わってきました。
ただそのまま受け取ります!
ありがとうございます~
Posted by mei at 2016年01月08日 12:01
>ハンディカメラを地面に叩きつけて、踏み潰してしまえばいい

あははは(≧▽≦)!!

岩崎宏美さんの「万華鏡」の歌詞!

つづき読む〜♪
Posted by プリン at 2016年01月08日 12:08
阿部さんの文章、なんかカッコいいッス!
分裂してしまう自己を統一したいと思いました。
Posted by 革ジャン at 2016年01月08日 12:28
ぼ、ぼくも幼稚園に入る前から警戒して生きていたな。
母親には睨みつけられたり叩かれたり、最警戒人物だったな。
今までよく生き延びてきたな。
母親の目がいつの間にか自分の目になっていたな。
カメラを壊す、ただ成りきる、やってみるんだな。
でも、今はおむすびより母親が好きなんだな。
Posted by きよし at 2016年01月08日 12:48
いつもありっがとうございます。

今日も善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2016年01月08日 12:56
「愛を生きる」

本当最高に単純なのに、こんなに難しく感じることって、なかなかないですよね。

心に輝く光のようなものを念じて祈りながら生きる

単純なのに、えごというか、自我というか、カルマというか、ある日にょろりと顔を出してくる。

そんな時に、それを認識して、離れて、棚上げして、振り返って愛を生きるって、最高難度だと感じます。

まあ、人生はこの最高難度に挑戦するためにあるんでしょうかね~
Posted by かわ at 2016年01月08日 13:01
まさにここに書かれていることが昔から感じていた違和感そのものでした。これが人と共有できることだとわかり、改めて安堵しました。もう一回読みます♡ 阿部さん ありがとう♪
Posted by 薄茶色 at 2016年01月08日 13:48
物心ついた1歳半〜2歳くらいから
演じていた気がします。
常に窮屈で、気を遣って。

最近、鎧が取れ、玉ねぎの皮をどんどん剥いたら
空だった〜〜って言うように
楽になり、軽くなり、屈託のない笑顔が出るようになり、
赤ちゃんの時の笑顔と一緒だな〜と感じた最近です❤️
Posted by Dr.Rika at 2016年01月08日 14:13
>あるがままを生きるというのは、愛を生きるということだということを。

愛を生きるって、

ハートから生きること。

ハラから生きること。

ハンディカメラが頭(記憶や思考)のことで、ハラから生きることが禅。

かな。
Posted by 雪光 at 2016年01月08日 16:26
普通は…

浮かんでは消える想念にとらわれ
ストーリーにはまり込んでいるので

まずは

自分を見張る…自分の想念や行為を見張る見守る

ということをやっていいのでしょうね

しかし

見張るということは
見張っている自分と見張られる対象に分離する

ということに気づけば
目覚めるために見張る必要はないことがわかります

ただ在るだけでいい

そうすれば分離が消え去る見張っている自分は消え去る
自分がいないので認識もなく意識もなく気づきもない











菜穂さんのサットサンに参加すれば
この言葉では表現出来ない真実…沈黙を直接経験出来るのですが

遠方などで参加出来ない方でも

科学とノン・ディアリティを視聴すれば
じゅうぶんに味わうことが出来ますよね

何十年に一度だけ公開される秘仏と同じくらい
ありがたく視聴しております


ブッダ☆ブッダ☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年01月08日 17:37
>自分を好きになれない
>自分が偽物であることを無意識に知っているから

そうそう
心がわさわさ落ち着かない時
本来の自分ではなく 
思い込み=偽物 に巻き込まれてる~

人の目を気にせず
自分に起こる事を許す

あらためて想像すると
なんて無防備!
怖くて緊張する

でも本当に誠実だったら 
他を傷付けることなく
サラっとできるのかな~
いいお手本 たくさん見たいな~
Posted by ぷち at 2016年01月08日 18:46
「愛」とは、全てとの一体感です!
全てが一つだと確信できれば、自ずとそこに愛が生じます。
「おまえは・・・・俺だったんだよ~!」の世界ですね。

自分という個の感覚が持続している限り、自分と他人の分離感も持続します。
個が「思考の幻想」である事に気づけば、他人もまた「思考の幻想」だと気づくでしょう。

思考の幻想が見破られれば・・・・そこにあるのは「全体」=「愛」のみです!^^
Posted by 近藤 at 2016年01月08日 19:01
阿部さんの言葉に触れる度に、自分が毎回毎回
新しく生まれ変わっているような気持になります。

日々が新しく、生き生きしています。

カメラを叩き壊すってところが、私は大好きです。
思わず、吹き出してしまいました(笑)

自我を吹き飛ばすイメージで、自我なんてない!って
成りきってみます!(笑顔)

とにかく、やってみます!
ありがとうございま~す。

目を瞑って、カメラを壊しましたが
思わず、自我にごめんねって謝ってしまいました(笑)
今夜は一先ず、仲直りしようね。
自我すら、可愛いなぁって思ってしまう自分がいます。
自分がバカバカしくて、笑ってしまいます。
心、晴れ晴れです。

明日もお仕事、がんばります!
お雑煮、超美味しかったですよ~
感謝、感謝です。
Posted by 輪光 at 2016年01月08日 19:13
こんにちは。

悲しいことがありました。
twitterの知り合いが癌になっていました。手術もすでにしているとのこと。
数年後生き残る可能性は低いようですし、
すでに生活が苦しいようです。
薬代などで数十万必要で、私にもいくらか支援してもらえないかと
頼まれたんですが、いま私も借金あってお金なくて5000円
出すかも悩む状態。。
何も力になれなくて辛いです。。
なんで病気なんてあるんだろう。
Posted by ふつき at 2016年01月08日 19:48
なんか、ありのままとか、自我とか、愛とか、めんどくさいですね・・・・。早く死にたいです。
Posted by ぺろぺろ at 2016年01月08日 19:55
あるがままに生きるとは

すでに
あるがままで在ることを認められていることかもしれませんね

抵抗がなく
疑いもなく
信頼のみ

それを
教えてくれるのは
すぐ目の前あるものかもしれませんよ

あなたが意識しなくても
爪は伸び
毛は伸び
瞬きをし
心臓は動いている
 
あるがままでないとすれば
抵抗してるのは
ただ自分自身の考えのみ

今の苦しみは
苦しみを作り出しているのは
一体だれなのだろう

苦しみってそもそも
あるのか?ないのか?

もしかして
あると思い込んでるのでは
ないだろうか?

気づきは
さらなる気づきを生む

本当に真剣ならば
全てがヒントなのら

鶏ガラスープのお雑煮
美味しかったで〜


(・∀・)ノ✰
Posted by あるとない at 2016年01月08日 20:19
カメラって、ただの悪者?

> もし孤島で生まれ育ち、人生をたったひとりで生きていたとしたら、
> その時はあるがままという言葉が不要なくらい、ただ自然体で暮らしていたことでしょう。

劣等感も、社会の中で生まれるものなので、

孤島で育った人間は、外見コンプレックスなんて、持たないでしょうね。

しかし、孤島で育った人間は、現代社会で生きていけるんでしょうか。

孤島で育った人間は、動物です。おそらく、やりたい放題の大人子供です。


我々は、社会とのつながりを強く欲しているから、のけ者にされないよう、カメラを作ったんです。

そして、小さいころから、人に嫌われる、嫌がられるという経験を通じて、見張りの目を強化していったんです。

カメラは努力の賜物です。

アスペルガー症候群など発達障害の人は、このカメラが作れないことで、どれだけ悩んでいることか。

カメラは、これまで、傍若無人な振る舞いをせずよう自分の行動を抑制してくれていたんです。

「空気を読む」能力を与えてくれてたんです。

でも、やはり、このカメラが人生を不自由にしてたり、時には自分を傷付けたりもします。

バランスなんだと思います。

エゴイスティックな行動は抑制して、ハートからの行動は抑制しない、

より高度なカメラが必要なんだと。
Posted by rakuni... at 2016年01月08日 20:34
私なんか、全身○○ですよ。(笑)

お金かからないセラピーって、サウナ&水風呂かなぁ…。なんか、同じことを
安部さんが菜穂さんにいったそうなので、親近感沸きました。でもね、サウナにテレビはいらないのに、テレビ設置のところばかりです。テレビは内容によってはいっそ、有害なので。

溝口あゆかさんお勧めのマトリックス・リインプリンティング。
あれ、僕には全く、効果なかったですね。
Posted by zensou at 2016年01月08日 20:45
阿部さんのように欲しいものは全部手に入れたという実感は今までにないのでそれを手に入れて幸せになるかどうかはわかりませんが経験してみたいです。

この社会で100%人のことを信頼していたらとても淫らで犯罪だらけになってしまいそうですね。
弱肉強食の自然界の動物達も警戒しあってますよね。
警戒している方が寧ろありのままなような気がします。
自分を客観視できなければ社会で通用しなく、食べていけなくなることもありますし。
正常な本能だと思います。
Posted by もも at 2016年01月08日 21:01
自分を見張っている目があったとしてもそれがその時のありのままなのではないでしょうか?
なのでその状態に抵抗して本来に戻そうとするのはどうかとも思います。
無意識に常に変化し続けるものだと思っているので無理に生まれた時を維持しようとしたり取り戻そうとするのもまたズレているような…
Posted by もも at 2016年01月08日 21:12
自分の嫌いな自分。

でも もっと大きな所から見れば

嫌いな自分でさえ

地球上で たった一人に与えられた自分

自分の尊さに気づけば

また新しいスタートが始まる。
Posted by 打ち水 at 2016年01月08日 21:28
日和るさん
日和るさんのコメントを読むとき
心の中の声が自動的に女性の声になっていました。
これからは意識的に男性の声に修正していきます!
(^_^)b
Posted by 打ち水 at 2016年01月08日 21:35
先日長年通っていて悩みを話せる美容室で「四六時中自分を見張っている自分から逃れられない。自分を愛せるようになりたい。」と話していたので、今回の記事はタイムリーでわかりやすくとてもありがたかったです。
ありがとうございます。
美容室のお兄さんからはその後、山川夫妻が訳した「なまけもののさとり方」の本を貸してくれました。
何だか有難い年明けです。
今年こそ、見張る自分を消滅させたいです。
Posted by こころん at 2016年01月08日 22:32
動画見ました。
保江博士の言われた沈黙とは、おそらくそこにプラシーボ効果的なものがあるかもと、かように思ってる次第です。
プラシーボ現象は我々の行動の起点でもあるかと。
動けると固く思ってるから(信じ込んでるから)動ける分けで、もしも何らかの理由で、自分は動けないのではないかと恐怖感を抱いたなら、それが強迫観念となって、元々から在る動けると言う思いが崩れかねないのかもでして。
鳥は飛べることに疑問を抱いたなら飛べなくなるのではないかと、恐らくそのような自我思考が無いから飛べるのでしょうか?
高所恐怖症などはその良い例で、元々そんなものは無かったのに、何らかの体験が元でそう成ってしまったのなら、これなどはプラシーボ(思い込み)のマイナス効果だと思う分けです。

おそらく、大和田さんを良く知らない人がそこに行ってもあまり効力が無いのかもで、我々がサイババに逢ってビビる? ように、もしもそのような畏敬の念を強く感じたなら、沈黙効果は多大な効果を発揮するのかも知れないと、かように思ってしまう次第です。
その雰囲気に飲み込まれてしまうというか、自我がそれに圧倒されて退いてしまうかのような・・・。

もしくは絶対的な信頼というか、大和田さんが語ることが真実かも知れないと強く感じているなら、それ(沈黙効果)も有りかなと。
元々我々の心が沈黙(静寂)に有る分けなら、そこに我々はあーだこーだと雑音を発して、沈黙(理解)から遠ざかっているのでしょうか!?
大体に於いて、思考ること自体が自我(思考)なる曇り眼鏡であり、大和田さんの言葉に〝もしかしたらそうなのかも知れない〟というような重きを感じているなら、騒音(疑念・色眼鏡)などは生じず、理解しょうとすることだけに精神が定まるのだと思う分けです。
その時、無我夢中(全霊)なる働きとしての潜在意識の発動により、脳が深い黙想(静寂)へと導かれて、やがて元々そこに在った真理に触れる(深く理解する)のではないかと、お酒を飲みながらこのような爆想に憑りつかれている次第ですハイ(酔爆)
Posted by 茶呆り~ら♪ at 2016年01月08日 22:32
>愛を生きる

とは、自分の中に在る”愛”を表に出す(表現する)ことではないか?と感じます。

アッシジのフランチェスコやマザーテレサ。。。など、
多くの”愛に生きた”人々が頭に浮かびますね。

フランチェスコつながりで、ご存知の方も多くいるかと思いますが、
広く世界で「聖フランシスコの平和の祈り」として知られる祈祷文をご紹介させて下さいね^^


主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのある所に、愛を置かせてください。

侮辱のある所に、許しを置かせてください。

分裂のある所に、和合を置かせてください。

誤りのある所に、真実を置かせてください。

疑いのある所に、信仰を置かせてください。

絶望のある所に、希望を置かせてください。

闇のある所に、あなたの光を置かせてください。

悲しみのある所に、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、

愛されるよりも愛することを求めさせてください。

なぜならば、与えることで人は受け取り、

己を忘れることで人は見出し、

許すことで人は許され、

死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。
Posted by H at 2016年01月08日 22:34
>人間があるがままになれないのは、
人間が社会的な生き物だからです。


そうですね…。

阿部さんも、あるがままになれなくて

辛いときありますか。


答えなくてもいいです。

ぐっすり、お休みになってくださいね。
Posted by ようこ at 2016年01月08日 22:48
> 孤島で育った人間は、動物です。おそらく、やりたい放題の大人子供です。

すいません。乱暴な言い方でしたね。
Posted by rakuni... at 2016年01月08日 23:21
笑っていて感じたのですが、自動的な行為こそ開放ではないかと。

傍から見れば鬼の行為はおぞましいと映るけど、でもそれを自動的にさせられている本人には何の苦痛もないなら、まさにそれは苦の奥にこそ救いがあることに成ります。

苦にサレンダー(自力放棄)して苦と共に在るなら、そこに自動的行為が生じて開放がえられ、どうにかしょうとする考えも失せてしまうのではないかと。
Posted by 茶呆り~ら♪ at 2016年01月08日 23:38
Hさん、その祈祷文はあくまで向う側の人が創った理想に他ならないのではないかと!?

あくまで聖人の誓いというか、凡夫にはどだい無理な誓いのように感じます(汗)
それでは僕のような人間は、永遠に浮かばれないかもです。
もしも僕が祈祷文を作るならこのように成ります。


憎しみのあることを許してください。

侮辱を感じることを許してください。

誤ったことをしたのを許してください。

疑うことを許してください。

闇のある心を許してください。

愛いするより愛されたいと思うのを許してください。

なぜなら、煩悩を受け入れて貰らうことで人は癒され、そこに平和を見出すと思うからです。


まぁ、あくまで僕個人の思いです。
インナーチャイルドでしょうか、自我の根底にあるエゴともいえるもの、これを否定するならそこに葛藤が生じ、逆に肯定してハグするなら癒しが起こるのではないかと、かように思った次第です。
嫌な気持で苦しんでる己を、暖かくハグして包み込んであげれば、もしかしてそこに癒しが起きるのではないかと!?

それではグッナイトです(-_-)zzz
Posted by 茶呆り~ら♪ at 2016年01月09日 00:43
引用

>精神世界観の中で 愛を結論めかせて 語る人は多いです。
                 ーー中略ーーーーー
何も 伝わってはきません。Posted by AQU@

ここまで



なんだろ?ヘッドが ......

張り子にんぎょうべこの如し

そうそう  いるいる  まただまただ

しゃぁない しゃぁない



こりゃ〜ぁ  永遠だね。
あ、これすごくね?
Posted by 日和る at 2016年01月09日 00:53
阿部さん、昨日の続きありがとうございます〜。カメラを叩き潰すって、

『Fuck it!』

って感じでかな。

黒彩さんの新刊のタイトル。

ひと昔前に流行った「そんなの関係ねぇ!」

もいい感じがします^ ^。


明日(もう今日)、両国でお会いできるのを

楽しみにしています!
Posted by TT at 2016年01月09日 01:25
打ち水さんへ

やもすると打ち水さんの世界では日和るという人物は女性かも
しれません。

心理学では個々のフィルターを通して  とも
ここでは個々人には個々の世界がある  とも
PCに映し出される文字も幻想ならありえるかな  とも

はたまた、幻想ならそんな世界が無限にもできそう とも

もっと言えば、もともと 素粒子 ひっくるめてえねるぎーだけの
そうアニメーションでつぶつぶの砂のような粒子で人物、物が描かれ
風が吹けば描かれた像はさらさらと消えてなくなる よおな

そんな感じで起きた 7時15分

おはよおサンです。
Posted by 日和る at 2016年01月09日 07:18
茶呆り~ら♪  さん

そう感じられたのですね^^
それは、それでいいと思いますよ。
何を感じても、自由なので。

ただ、人間は、多かれ少なかれ、
そして、自覚していようと、いまいと、
この”理想”に向かって、前進している、ということです。

”愛”という体験を通して、”自己の完成”に向かっているのです。
(もちろん、時空間のある次元でのお話しです)

そして、この祈祷文は、マザーテレサが毎朝唱えていたことでも知られています。
もし”理想”が無くなってしまったら、人間は闇の中を迷って終わってしまうでしょう。
少なくとも、そう、個人的に感じています。
(押し付けてはいません。
 こんな祈りもある、とことでご紹介させて頂きました)
Posted by H at 2016年01月09日 08:02
日和るさん

>しゃぁない しゃぁない・・・永遠だね。(笑)

探求は終わっても 愛に生きることに おわりはないですね。
Posted by AQU@ at 2016年01月09日 08:47
Hさん

10年ほど前に買った江原啓之さんの本にその祈りが紹介されていた
のを思い出しました…

(これも全体の表現ということなのでしょうが)
千年も前にこういう人がいたということに感動ですよね

茶呆り~らさんの祈祷文も感動いたしました


愛☆愛☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年01月09日 10:38
今日の記事は、今の私には、とてもタイムリーな内容で…まさにこの2〜3日他人の上流階級風の価値観を押し付けられパワーバランスの事情により相手に苦しい心うちを伝える事も出来ず(まぁこうなるまでには、私もわるいんですが…)毎回彼女に、私とあなたは、生きる場所がが違うといわんばかりの事を言われる度に、ありのままの自分では、ここでは、受け入れてもらえないから自分を否定しようとすればするほどぬかるみにはまり、消えてしまいたいとなり…余計トラウマの扉が開き苦しくそれでも何とかおさめようとして苦しんでました…嫌ならここから抜け出る事もできるのですが…その勇気もなく…けど、その苦しみは、自分がまいた種とはいえ、今日のこの記事をより深く理解するためのまさに与えられたものなんだと^ - ^
今まさにその苦しみを味わってて良かった、時間たって何とか収集ついてる頃なら、どんよりの気持ち薄れてて同じ文読んでも感度が鈍ってたかもです…苦しい思いをした私、そして、嫌な役回りをしてくれたあなた事、私、ありがと
Posted by む〜さん at 2016年01月09日 14:10
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