2015年04月26日

真実は一見冷淡だけど・・・真実だけが本当の救済です

今日も来てくれてありがとう。

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楽しめない夢さんからきたコメントです。


阿部さん、いつもありがとうございます。

どうしても悲しみを引き起こす思考があります。

親を自殺で亡くしています。

それも完璧な出来事なのか、教えて頂きたいです。


自殺した本人と子供である私も、そのシナリオが必要な出来事だと納得しているのか。

阿部さんも自殺はするなと書かれていましたが、最愛の家族を突然そのように亡くした者にお言葉を頂ければ幸いです。

(夢の中とはいえ)実際にその悲しみを経験し、それを背負って生きて行かなければいけないのは、大きな苦しみです。


10年が過ぎましたが、いつも限界で自分も(他に家族がいないので)自殺を考えることがあります。

親の病死も経験しましたが、自殺は自責の念と後悔で…言葉に出来ない苦しみです。

本当は誰もいなくて一つの意識があるだけだと分かっても、最愛の家族に会うことができないストーリーは悲しすぎます。

重い内容で申し訳ありません。




このコメントをもらったとき、ふと一人の人が頭をよぎりました。

先日紹介した、大和田菜穂さんです。

彼女なら、どのようなな回答をくれるのかと思い、楽しめない夢さんのコメントをコピペしてメールしてみました。

すると、こんな返事を送ってくれました。




ここから出る言葉をそのまま書きますね。


悲しすぎる出来事ですね。

そして、この方が10年経った今でも苦しいのが伝わってきます。

でも、ここから伝えているメッセージは、誰かが楽になる為のものでも、自分に起きたことをストーリーとして理解することでもありません。

完全に違う世界の描写だけなのです。

だから、個人が、起きた現象をストーリーだと理解しようとしても、辛さは変わらないし、個人にはストーリーだということが本当には分かりません。

夢、ストーリーということを、苦しみを抱えている人に言っても、怒りになるか、絶望になるかだけで、一生懸命に単なるストーリーと思い込むことで、楽になる為のメッセージではないのです。


彼女の悲しみも、親の自殺も、ストーリーも、全部同じ所からでていて、全部全体の表現で、誰かが経験している訳ではないし、誰かに起きている訳でもありません。

でも、これを個人に伝えて、受け入れろと言う方が無理ですし、普通は受け入れられないのが当たり前です。

ここから言えば、残酷に聞こえても、冷たく聞こえても、全てがそのままの描写なのです。


一つだけ彼女に言えることは、自由は、その悲しみの中にあります。

悲しみを避けようとすると、苦しみはより大きくなります。

悲しみの感情の中に自由があるのです。


・・・・・・・・



彼女が伝えたいのは、悲しみの経験をした人が、「これは夢だから。これはストーリーだから」と自分に言い聞かせても、何にもならないということです。

文中に出てくる、「ここから言う」というのは、ノンデュアリティの世界から言うということです。


確かに夢であるということが真実ですが、そう思おうとしている「自分」がある以上、たんなるごまかしに過ぎません。

彼女の言うとおりです。

身も蓋(ふた)もない言い方に聞こえますが、徹底的にその立場から伝えることは、たとえ反感を買われても大切なことだと思います。


「それじゃ、どうしろというのだ」と自我は叫びますが、どうにかするということではないのです。

真実は人を助けないように見えますが、真実だけが本当の救いに導くことが出来ます。

これも言葉の限界で、実際には導かれるような人は誰もいないのですが。


ただことは起きている。

感情や思考さえも、ただ起きているということであり、それを経験している「私」は存在していないということです。


阿部流に言わせてもらえれば、自殺も起きることとして起きました。

それ以外は決して起きなかったのです。


でも実際には自殺した人はいません。

最初からその身体の中には個人は存在せず、全体がその身体を通して表現されていただけだからです。


あなたも同じです。

あなたはいません。

違う言い方をすれば、あなたが全体であり、永遠です。



楽しめない夢さんの気持ちが、少しでも楽になることを願っています。


そして最後の言葉


「一つだけ彼女に言えることは、自由は、その悲しみの中にあります。

悲しみを避けようとすると、苦しみはより大きくなります。

悲しみの感情の中に自由があるのです。」


素晴らしいですね。

菜穂さん、ありがとうございました。




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Posted by Toshiro Abe at 12:40│Comments(107)
この記事へのコメント
眠って悪夢を見ているとき

それは本当にリアルで苦しい体験になります。


悪夢を見ている間は

その苦しみは続きます。


しかし、悪夢から目覚めるときが必ず来ます。


悪夢から覚めれば

「ああ、あれは悪夢だったんだ。夢だったんだ。」

と気づきます。


夢を見ている自分も

夢から目覚めた自分も

いまここにずっと変わらずに存在しています。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2015年04月26日 12:49
いつもありがとうございます。
Posted by ほったん at 2015年04月26日 12:52
菜穂さんのメッセージは
素晴らしい。

本当の救いですね。


心で感じるメッセージです!
Posted by はなた at 2015年04月26日 12:52
 人間誰でも「自分が浸っている現実」を客観的に見ることができず、ついつい「感情移入」しすぎてしまうんですよね。普段は私もそうですが。
 そしてその状態なことすらリアルタイムで生きている間はなかなか気がつきません。
 誤解を招く言い方かもしれませんが、「自分の悲しみ」に浸りきっていらっしゃるんですね。他人にはどうすることもできません。いくら慰めても、共感のコメントをしても「悲しまれている自分」が「そこ」から抜けないと変わりません…いえ、変われません。
 早く「自分は悲劇なシナリオに沿っているんだな。」と突き放すきっかけが訪れるよう祈ります。
Posted by オーベルシュタイン軍務尚書 at 2015年04月26日 13:10
菜穂さんのメッセージ、ピュアですね♪


深く響いてくるものが在りました。
安らぎと共に・・・



阿部さん、
シェアして下さってありがとうございます(^^)。
Posted by とこわか at 2015年04月26日 13:27
このメールの方には申し訳ないですが、
この記事を読んでいると、じわじわと安らいだ気持ちになってきました。
そして、微かなワクワク感も。

瞑想などをされるといいと思いますよ。
Posted by ribe tomoki at 2015年04月26日 13:41
今日も有難うございます。
>悲しみを避けようとすると、苦しみはより大きくなります。
>悲しみの感情の中に自由があります。

自分の場合を言えば、悲しみがあるならそこから逃げたい思うでしょう。
これは無意識なんで、自分には分かり辛いかもです。
なんでそう思うかと言えば、悲しみを受け入れたいとは思っていないからです。
つまり、そのような状況を、無意識的に拒否してる分けでしょう。
ああ、あんな事が無ければ良かったのにと・・・・・。

なら、状況を受け入れれば、それはもう悲しみ(死)自体として在る訳で、
それは例えて言うなれば、家族が死んで残った自分が憂うのではなく、
この自分自身もまた死んだ分けであり、まさにこれは大和田さんが言われるように、
>完全に違う世界・・・・・
であり、今まで居た世界を憂いていてもしょうがない分けでして。
これは正に、今までの世界からの開放だとも、言えるのではないでしょうか!?
状況を憂いてもしょうがないと、我々(エゴ)が完全に諦めがつくかどうかだと思うのですが・・・。
そしてそのとき、未知成るもの(エゴなる憂いを超えたもの?)が現われるのでしょうかね。
Posted by 茶舗リーラ at 2015年04月26日 13:42
阿部さん、大和田さん、メッセージありがとうございます。
きっかけをくださった楽しめない夢さんありがとうございます。

僕は、自殺は多くの死の中の一つの区分に過ぎないと思います。
ですから、自殺で亡くなられた方が死後特別どうなるとも思いませんし、
遺族が罪悪感を感じたりずっと引きずる必要があるとも思いません。

今、苦しみで動けないことはどうしようもないことです。
しかし、しがみつかなければ苦しみにも必ず終わりが来ます。
しがみつかないようにするのは難しいことかもしれません。
「自分」というものは何かにしがみつかなければいけませんし、
それをやめるのは「自分」の死になり、恐ろしいことだからです。
ここのところ特に言われている自己の不在は、
しがみつくことをやめることにつながり、苦しみから解放されます。
自分も、苦しみも、それをよく見るからこそ実体がないと気づけます。

残された者が幸せに暮らすことができるようになれば、
記憶も幸せな意味に変わっていきます。
そう変わっていくことに罪悪感を感じることはないと思います。

苦しい時は、今の気持ちや状況が未来永劫続くように思えますが、
そんなことはないし、そうする必要もないと申し上げたいです。
自死遺族や関係者の方々が癒されるようお祈り申し上げます。
Posted by rebirth at 2015年04月26日 13:58
私もきのう、自殺?した兄の13回忌の法事がありました。

私から何も言えることはありませんが、
自分のストーリーの中では、兄は完璧な筋書き通りの人生だったと思っています。

死や悲しみや不条理な出来事などの経験を身をもってさせてもらったことに感謝しています。

私の親も長いこと悲しみの中にいましたが、大分癒えてきました。

悲しいなは当たり前な感情なので、そのまま感じてあげてもいいのではないでしょうか。

無理になんとかするより、時期が心を癒してくれるのを祈っています。
Posted by 朝顔 at 2015年04月26日 14:04
アハハ、今日の記事に、阿部さんご自身のお考えではなく、大和田さんのお考えがアップされるとは意外でした(笑)
同じことを言っていても、人間にはそれぞれ個性があるので、人により少しずつ表現が違っていて、それを味わうのも楽しいですね。
何よりも、一人でも多くの人に素直に受け入れてもらえる言葉で伝えることができるのは、素晴らしいことです。

多くの人に、真理の言葉が届きますように。
伝える人が、阿部さんであろうと大和田さんであろうと、全体からしたら、その違いに意味はありませんから、
これからも、このような場で、アドヴァイタの考えを広く一般に伝えて下さると、個人的にはとても嬉しいです♪
Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月26日 14:05
こんにちは。
ここから出る言葉を伝える前に、
涙が出ます。
大声で叫びます。
両手両足バタバタさせながら、
暴れ転げます。
あなたの為ではなく、
私が「いまここで」泣き続けます。
どうもありがとうございました。
Posted by 夢子 at 2015年04月26日 14:06
ご両親が自殺とのことで、おつらい毎日をおすごしと思います。

わたし個人がおすすめするのは
瞑想です。

私自身
瞑想する事でものすごく楽になったことがあるからです。
(瞑想状態から帰ったときは悩み事が単なる出来事として受け止められたりします)

世の中には
瞑想誘導CDがいろいろありますので
そういうツールを使うと比較的簡単に瞑想状態に入れます。

思考がぐるぐるしだしたときは
そこから抜けるしかありません。

抜けれれば良いので
ツールは何でも良いのですが
瞑想は他にも良い事があるのでおすすめしたいと思います。
Posted by 瞑想をお勧めします at 2015年04月26日 14:07
今、難病に苦しんでいる自分にとっては、今日のお話は、どこかがすっきりする反面、どこかがしっくりこないです。

阿部さん。
おすすめだったFF瞑想。
これからも続けていく意義はありますか?
瞑想しようとしても、迷いが湧いてきてしまいます。

瞑想は、ひと時の現実逃避(ストーリー逃避?)をしているだけなんじゃないかって…。

どうなんでしょう。
Posted by あけがた at 2015年04月26日 14:20
こんにちは


    緑☆


緑☆  緑   緑☆


    緑☆


ノン・デュアリティ


悲しみを私の悲しみと解釈せずに

悲しみがこの肉体にただ起こっているだけ

と気づいていることで

自我の自分は消え去り

自我の自分からの自由がある

ということでしょうかね


私もあなたもいない


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2015年04月26日 14:25
>悲しみの感情の中に自由があるのです。

・・・この表現は きまくりますね(笑)まちがいなく、「核心」

悲しいという感情を 私達は、人として 人間として 抱くことを 避けることができません。なら、抱けばいいし、泣けるだけ 泣けばいい。
悲しみの総てを 感覚として 感性として 精神の状態として 真我なる存在の意識にまでも 浸透して 溶け込むトキにだけ その感情、その感性は、
それを体験させるもの、その体験を可能にさせている 私を 示し、 導いてくれるものです。そこにある 自由とは 悲しみを悲しみとして 感じることのできる自由であり 悲しみに束縛される 不自由さとは、別離しきったものです。

もし、悲しみの感情を・・・あ あぶない、ここ阿部さんのブログでした(爆)
Posted by アゲハ・・・阿部さん、楽しましたね(笑) at 2015年04月26日 14:41
童謡「犬のおまわりさん」

はじまりは、
「迷子の迷子の子猫ちゃん」

迷子から抜け出すのでなく

迷子から、さらに迷子になれればいいのでしょうか?

この歌、結局、落ちもなく子猫は迷子のまま歌は終わります。
Posted by すずめ at 2015年04月26日 14:42
楽しめない夢さんの心が癒されますよう


お祈りいたします。
Posted by ねこ at 2015年04月26日 14:53
あ 茶舗リーラ さん、私の心が反応しました。(笑)  

>なら、状況を受け入れれば、それはもう悲しみ(死)自体として在る訳で

これ 解ります。まさに この感覚を ストレートに書くと、痛みを持たれる方には 痛みとして 届いてしまいますが、実際には これ以外には ないことです。状況を受け入れる。この心的状態が なかなか表現に苦慮するとこです。
Posted by アゲハ・・・コメ連続ごめんなさいね。 at 2015年04月26日 14:58
難しいですね。・・・頭で理解しようとすると尚更です。

・・・「生きていく」とは、どういうことなのでしょう?

ただ事は起こっている。 

すべてがそのままの描写。

・・・この世に生を受けて、これからも生きていくという事に、

「私」が意味を持ちたがりますが、その「私」を納得させる事は・・・

「私」を自分だと思っている以上、無理なのでしょう。

・・・「ただ在る」という事。

「自由」という事。

それは、生きていく可能性も含めての「自由」なのでしょう。
Posted by hiro-k at 2015年04月26日 15:02
結局、頭で納得出来ることではないということですよね?

大和田さんとのコラボ講演会、気になります
Posted by ジュリエット at 2015年04月26日 15:29
いつもありがとうございます。

悲しみを味わい尽くしたその先に、私のストーリーが落ちた世界があると思います。期待と希望を捨て、諦める、絶望する勇気(ボタン)がそこにあるような気がします。
Posted by まっす~ at 2015年04月26日 15:36
私も小2の時
家を全焼させてしまいました
40年以上前のことです
今も正直
あの罪悪感と惨めさを
リアルに感じます
本当の自由は
その中にあるとは
どういうこと?
Posted by momo at 2015年04月26日 15:47
真実
経験しているのは現実

この矛盾があったうえで、まぁまぁうまく生きていく方法や選択肢を、誰にでもわかるように言葉で説明は出来ないものでしょうか?

真実を理解している同士だけの会話は.....
Posted by ねこ at 2015年04月26日 15:50
コメントありがとう。

どんな日曜日をお過ごしですか?

僕は新刊の原稿を一気にまとめていて、たったいま終わりました。

タイトルは

「檻を壊して自由になるための【さとりの一撃】」かな?(笑)

PHP研究所から初夏に発売される予定です。


momoさんへ

その火事はあなたのせいじゃありません、気休めではなく、ただそういうことが起きたのです。

「今も正直あの罪悪感と惨めさを・・・」

とありますが、それはまさに、まさに「いま」ですか?

それとも最近でもよくそう感じるという傾向のことでしょうか。

もし後者なら、それをストーリーと言います。

まさに「いま」感じているなら、その感情の中にただ入っていけば、ストーリーを持ち込まずにただ入っていけば、それはもはや苦しみではなく、そこには感情に影響されない何かがあるのです。

経験だけがあり、経験している「あなた」はいません。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2015年04月26日 16:01
阿部さん、いつもありがとうございます!

大和田さん、大好きです♪ これからは大和田さんについてゆこうと思っています(*≧∀≦*)

阿部さんの講演会の時とかブログ読んだ時とかに思うのですが、質問をしてどんな回答を頂いても「その状態」にない限り理解不能だろうということです。逆に「その状態」にあったら全て理解できているので質問は一切思いつかない。だから会場で「質問のある方!」と言われても、最近は質問しないことにしてます ^^

で、「楽しめない夢さん」の場合も今は「その状態」にいないと思われますので、どんな言葉も彼女(?)を本当の意味で癒すことは出来ないと思います。ただ、全て完璧で何も起きていなくて誰も傷ついていなくて、それを「その時」まで信じて前向きに生きて下さい、ぐらいしか言えないのではないかと思います。

私の母がいつもTVの天気予報を見ては「明日は良い天気」だとか「悪い天気」だとか言うんですが、そもそも天気に良い・悪いはなくて、晴れか曇りか雨か雪かという状態があるだけで。で、人生というか、この「五感で知覚できる世界」も良い・悪いはなくてただ「そういう状態が起きている」だけ。でもそれもキャラクターとしてどっぷり浸かってしまっていてはそう思うことは不可能に近いので、意識を向けるものを変えるかただただ「その時」を待つしかないのかなぁと思います。
Posted by 黒崎顕 aka たこぴゃろ at 2015年04月26日 16:05
>経験だけがあり、経験している「あなた」はいません。

あ 苦慮してたこと簡単にかかれちゃいましたね(笑)やっぱ 真打ですね。。
Posted by アゲハ・・・素敵な日曜日ですわ(笑) at 2015年04月26日 16:14
自分は実際には居ないとか、これは夢だ、とか、言葉だけで念仏のように唱えても、苦しみは増すだけなんですよね。

こういうのが意味を持つのは、体験があった人だけで。

言葉だけで自分を納得や救済させようとしても、それは苦しみを大きくするだけなんですよね。

それだったら、そんなもんだったら、捨ててしまった方がいい。

スピリチュアルの耳触りのいい言葉にすがったって、それが絵に描いた餅なら何の効果も意味もない。

そんなことより、自分がリラックスできるツールや、心が安心できる物事を行ったほうがよっぽど救いになると思います。

そのツールや物事ってどんなものがあるのかって、私も探索中なのですが、自分にとってはお風呂・銭湯とか、人によっては楽器だったり絵だったり。
周囲のリラクゼーションとはこうあるべき情報を気にせず、自分にとって心地良いことを自分と素直に語り合って実践していくのが一番かなあと思いました。
ちなみに、最近は瞑想も自分にとっては良いリラックスツールになってきました。
Posted by 鈍宮 at 2015年04月26日 16:36
ちょうど「降参のススメ」を読んだところで…

その中で
「人は実は “自分のしたいことしかすることができない” “心底やりたくないことをやることはできない”

悩んだほうが悩まないでいるより自分にとっていいと、そう思うから悩むんです。」
とあり、はっとさせられました。

“人は心底やりたくないことはやることができない。”
正にそうだなと思いました

とてつもない悲しみの中におられる方にとっては、厳しい言葉になるかもしれませんが…。
Posted by C at 2015年04月26日 16:44
ありがとうございます。私の姉も同じ形でなくなりました。家族全員が時をたがえて鬱になりました。姪は13年経ってもまだニートです。人間不信がとれないのです。しかしながら、あたしも更年期で神経バランス崩しましたが。快方に向かっています。姉の魂が死んでないと感じるからです。意味づけもやめました。足が立たなくなり半年休みました。ただいまあることにフォーカスしたのです。セラピーもやめました。解決をやめました。感情解放もやめました。なんにもしないことにフォーカスしたのです。すると事が勝手に動いていったのです。くたびれてますが今は元気に働いてます。なにがおきてるのか、よくわかりませんが。勝手に元気になってるようです。がんばろうとした自分にきづいたら、何にもしないことにスイッチした、ただそれだけなんですが。いまあることにただただ感謝がわいてくるのです。姪や母のかなしみをいやそうとするのもやめました。つれづれなるままに。
Posted by なな at 2015年04月26日 16:55
この人には、自殺した家族がいたということですよね。

その事実を経験して生きているということですね。

家族の自死など、同じように苦しんでいる方向けのサイトもありますから、そういったのを御覧になったらいかがでしょう。

生きるテクニック 「生きテク」 というサイトはいかがでしょうか?

いくら悟ったとしても、この世の生活は続きますから、現実のことと折り合いをつけていったら良いと思います。

あの世話からすれば、あなたはいない、そんな経験はしていないということなのかもしれませんが

当事者は長く引きずるものです。

過去は存在しないとはいいますが、人には記憶というものがありますからね。

その時のショックや、喪失感はなかなかゼロにはなりません。

身軽になれるのには、まだまだ時間がかかるのでしょう。
Posted by 隣町 at 2015年04月26日 16:57
>自由は、その悲しみの中にあります。

深い言葉ですね。
何度もかみしめます。

転載ありがとうございます。
Posted by さつき姫 at 2015年04月26日 17:23
阿部さん

今日もありがとうございます。

やはり男性からのアプローチと女性からのアプローチは同じことを伝えていても、感じ方がかわり、とても広がりを感じています。ありがとうございます!


[楽しめない夢]さんへ

私も大事な人を突然亡くしました。

心が少し落ち着いてきたときに、その人へ聞いて見ました。
するとしっかり繋がっていることに気づきました。

親御さんへ聞いたことはありますか?

あなたのお気持ちをぶつけてみたら、あなたにちゃんと分かる方法でメッセージが返って来ると思います。

あなたに素晴らしい気づきがおとずれますように…心からお祈りします。
Posted by えんじぇる at 2015年04月26日 17:24
過去に起こった出来事は、人間は記憶(情報)として脳内に保存します。
場所は、脳科学の分野では、海馬と名付けられた場所に保存されるとしています。
この出来事の記憶(情報)と共に、その時味わった感情も一緒に保存されます。
蛇を見て怖いと感じると、蛇を見た経験と共に、怖いという感情も一緒に海馬に記憶(情報)として保存される、ということになります。

そして、人間は、この記憶(情報)を何度も何度も海馬から引き出し、出来事とその時味わった感情を呼び起こして、すでに終わったことであるにも拘わらず、再体験するのです。
これを悔恨、後悔、罪の意識、などと呼ぶことがあります。
これが高じると、過去に起こった出来事に囚われてしまい、そこから自力では抜け出られなくなってしまうことがあります。
この心の作用が、あまりにも個人の人生に影響を与えてしまう場合は、
うつ病や心的ストレス症候群(PTSD)などという病名がついてしまうこともありますので、
過去を思い出すにしても、自分を責めたり、過去のトラウマに囚われてしまい、その時感じた感情に没入しないようにするという注意が必要です。
Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月26日 17:32
阿部さん、菜穂さん、メッセージをありがとうございます。

また、コメントを書いて下さった皆さんにも感謝いたします。

「彼女の悲しみも、親の自殺も、ストーリーも、全部同じ所からでていて、全部全体の表現で、誰かが経験しているわけではないし、誰かに起きている訳でもありません。」

「全部同じ所からでている」
これがお聞きしたかったことです。
良かったです。

本当にありがとうございました☆

最愛の親が死ぬ理由など全くなく、助けるためなら、どんな事でもできたし、どんな事も全く難しいことではなかった…との思いが最も無念でなりませんでしたが、

この10年、生かされて、生きてこれたのは、悲しみよりも大きな両親からの愛と両親への愛の所以です。

限界と感じるのは、自分が生きているのではなく、生かされているという意識があるからです。

ライフが生きてるのだと。
Posted by 楽しめない夢 at 2015年04月26日 17:40
先のコメントで、一番書きたかったことを書くのを忘れました(笑)

その記憶(情報)を引き出すことを止めれば、その時に感じた感情、その時の自分に対する自己批判、自己否定の気持ちは生じなくなります。
もうすでにその時に、学ぶべきことは学んでいるはずなのですから、
その後もずっと自責の念にかられる必要はないのですが、
あまりにも忘れ難い記憶、思い出である場合、忘れるには時間がかかることでしょう。
手放すのも自由、頑なに掴んでいるのも自由。
すべては、自分次第。
人間には、常に、選択の自由が与えられているのです。
そのことをわかった時初めて、自分は囚われていたのではなく、自分が自分を縛っていたのだと気付くでしょう。

忌まわしい過去は、貴方の頭の中だけにあります。
それは、すでに単に記憶という情報です。
その情報に縛られないことです。
今生きている貴方という存在は、過去という記憶(情報)よりも尊いのですから。
Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月26日 18:11
自分の運の悪さと
私の存在に対する罪悪感
年老いた両親に会った時
きちんと謝りたい
そんな気持になりました
あんな苦労をひきおこして
ごめんなさい

言えませんでした
別れる時に
二人から何のことだか
ありがとうと言われました

ストーリーと思われる現象は何度も何度も現れています
ほどほど疲れ、もう十分と
経験だけがあって、そこに自分がいなかった
感情の記憶に振り回されているだけ
Posted by momo at 2015年04月26日 18:36
これのこと ジョーイ・ロット 著

大和田さんと同じことを書いてくださっています。

とても辛い「わたし」の体験があった著者の言葉は

ドーーンっと来るものがありました。
Posted by h at 2015年04月26日 18:45
10年もの間、辛かったですね。。。
楽しめない夢さんは
楽しいときでも、苦しいときでも
どんなときでも変わらず愛の存在です!
わたしは、そんな楽しめない夢さんを信頼します☆

「これもまた過ぎ去る」
今は辛くて、そうは思えなくても
これもプロセスの一部です。

最も苦しいときこそ目覚めるチャンスです!
手に負えない苦しみに陥ったときこそ
人は自我劇場を手放す気になるからです。

祈ってますよ☆
Posted by ウクレレ at 2015年04月26日 18:55
実際に、楽しめない夢さんの状況になってしまった時
起こるべき事が起きただけだと、冷静でいられる人は
ほんのわずかしかいないのではないでしょうか?
阿部さんも実際に長男さんがもし自死したら
起こるべき事が起きたと、冷静にしている
様子は想像できません。

最近感じる事は、ここに集う人達は
阿部さんの考えに添うような
意見が多く、わたし的にはもっと
多種多様な意見をお伺いしたいなーと・・

そぐわない意見は削除されてるのでしょうか?

悟りをひらいた人ばかりの話しを
聞いても取り残され気分になる事があります。

あと、検討違いかもしれませんが
質問者様は、大和田さんの意見を
聞きたかったのではなく、阿部さんの
答えをもっと聞きたかったのではない
でしょうか?

阿部さんがいくら勧めても、大和田さんの
事を、好まない人もいるでしょう。
Posted by ami at 2015年04月26日 19:10
本日の話題と見方が少しずれるかもしれませんが、
経験には自分に特有のパターンがあるようでいて、
どうやらひとつひとつが似て非なるもののように思います。

つかまえたひとつひとつは、繰り返しという形を伴うことで、
二度目が決してないことを切実に伝えてくれている気がします。

>茶舗リーラさん

幾つか前の記事のコメントで丁寧なお返事をいただきまして、
ありがとうございました。

お礼の言葉を入れておいたつもりが、
時間が経過し過ぎているためか上手く表示されなかったみたいで、
こちらであらためて感謝をお伝えしますm(_ _)m
Posted by 内村周真 at 2015年04月26日 19:24
amiさんへ

質問者さんの返信を読み、そしてもう一度あなた自身が書いたコメントを読んでみてください。

あなたのコメントからは多くの「決めつけ」と「判断」を感じました。

厳しさを横に置いて、みんなで優しさを与え合えたらいいですね(^^)


楽しめない夢さん

>ライフが生きている

ありがとう(^o^)
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2015年04月26日 19:36
鈍宮さん、よく言ってくれました^^

グランディングと言うのかどうかは判らないのですが、
僕はマイナスと思うモノを、地球の中心6000℃の中に落として浄化させています。
太陽の表面温度もその位あると云われてます。
核廃棄物なんか、ロケットに積んで太陽に飛ばせば、一件落着のようにも思えますがね(爆)
おそらくですが、マグマや太陽は、あの世(霊界?・広義の意味)では熱くなくて、
生命体の浄化力とか、活動エネルギーの源とかに成ってるんでしょうか。

モノというのもまたエネルギー体のようですが、マグマはマイナスな面を浄化してくれるようです。
僕はこれでパソコンの不調を直したのですが、おそらく誰でもと言う分けにはいかないのかもで、
霊感とか何か、そういう類のものが必要なのかも知れませんね。
というか、風水や占術やヒーリングなど、全てがそのようなものなのかもです。
でも、やってみなければ、誰にそれがあるのか分からない訳でして、
一度や二度やっただけで運命的に無いのだと諦めるのもいいかもですが、
でも、諦めずにやっていれば、そのうち発現する運命なのかも知れなくて・・・・・。

おそらく幅広く使えば、ホ・オポノポノのようなことも可能なんではないかと。
つまり、病院まるごと浄化するとか(笑)
これは、軟酥の法のように、どれだけマグマの波動をリアル化できて、
そしてその霊妙性によるプラシーボー効果を、どれだけ潜在意識の中に引き出せるかがカギなのかも。
僕のやり方は独自性(偏見と独断^^;)があるんで、多分どこにも載ってないかもです。
簡単に説明しただけなんで、判って貰おうとする方がムリですが、
この様に自分で色々やってみるのも楽しいですね。
瞑想もまたしかりかと(^^)v
Posted by 茶舗リーラ at 2015年04月26日 19:37
阿部さん
いつも、有難うございます。

菜穂さんのメッセージもシェアして下さり有難うございます。

今度、菜穂さんのお話会に参加するので楽しみです。


私も耐え難い現実が起きたこともありますが、体験を通して真実が腑に落ちてない限り、真実の自分は無条件の愛で在るだけなんだと受け入れることしかありません。

あとは、神のみぞ知るに委ねるだけだと感じています。
Posted by なな at 2015年04月26日 19:52
永遠のリーラさんのコメントはいつも興味を持って読んでいますが、

スピ系から今回のように現代の脳科学に話が及ぶときがありますが、

ノンディアルティの話だと、自分がいない、からっぽの自分なら

思考も自分とは別物と .......

脳の機能は関係ないのでは ...... ?

素朴な疑問です。

理解を深めるため、書いてみました。
Posted by 日和る at 2015年04月26日 19:58
あけがたさん

>おすすめだったFF瞑想。

>これからも続けていく意義はありますか?

>瞑想しようとしても、迷いが湧いてきてしまいます。

>瞑想は、ひと時の現実逃避(ストーリー逃避?)をしているだけなんじゃないかって…。

>どうなんでしょう。


もちろんです。

FF瞑想はとても素晴らしい瞑想法です。

瞑想は現実逃避ではなく、唯一の現実に出会っていきます。

むしろ現象に埋没して、思考の世界を生きるほうが現実逃避です。

ですから、逆です。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2015年04月26日 20:00
ななさんがいらっしゃったのでなな7という名前にしました。

私は、フラをしているのですがいつか阿部さんの唄に合わせてフラを踊ることが夢なんです♪♪

それだけです。
失礼致しました。
Posted by なな7 at 2015年04月26日 20:02
茶舗リーラさま

それと同じことが書かれていたものを見たことがあります。
たしか明治時代の本で 祖父が持っていたものでしたが
茶舗リーラさんの書かれていたことを
富士と鳴門のしくみ と書かれていました。
自分で請け負ってきた「個人意識」が終わったら、他のひとの「
個人意識」も、その人の代わりに頂くと書かれていまして、
それを「贖い主(あがないぬし)」と確か書かれていました。
わたし、勝手に、きっと阿部さんも自分の請け負ってきたものは終わり、他の人の「個人意識」を戴いているように思っていました。
Posted by ひ at 2015年04月26日 20:02
amiさん

コメントを書かれる際、かなり勇気を振るわれたのではないでしょうか?
おっしゃってることは、この人間社会においては全く正論です。

阿部さんのブログで主流を占めている意見は「非人間的」なものです。
それは、人情や優しさが無いという意味での「非人間的」ではなく、
人間社会の常識には全くそぐわないという意味でです。

釈迦は解脱後、教えを決して語ろうとはしませんでした。
理由は、人間社会に生きる人達には決して理解はできない、もし理解で
きても理解してしまったら最後、人間社会を破壊すると考えたからです。

それでも、釈迦やキリストを代表に覚者達は教えを語るのでしょう。
それは人間社会に生きる限り、決して逃れることの出来ない「苦」
から一人でも多くの人を救済したいとう願いからなのです。

大和田さんのコメントも真理です。(正論ではありませんが)
悟りの視点から楽しめない夢さんに話しかけても即救済とはなりません。
でも、いつか楽しめない夢さんが目覚められるようにと話しておくこと
もありだと思います。
阿部さんのブログにはそんな言葉が一杯詰まっています。
残るは、各々が実践するのみなのです。
Posted by 模察 at 2015年04月26日 20:05
阿部さん、はじめまして。
いつもありがとうございます。

質問があるのですが、大和田さんの、「全部全体の表現で、誰かが経験している訳ではないし、誰かに起きている訳ではない。」というのは、阿部さんもずっと今まで一貫して仰ってこられた事のように思いますが、阿部さんは、「夢」に過ぎないことであっても、自我が経験していることには神の意志が働いていて、それぞれの自我にとって必要なことが起こっていると伝えてこられたように思います。
大和田さんは神の意志や意図もなく、「ただ、起こっている」というニュアンスのみ伝えられてるように思いますが、このあたりの違いについてはどのように解釈すればよろしいでしょうか?
Posted by surrender at 2015年04月26日 20:40
はじめて、コメントします、阿部さんには、本当にお世話になります、いつもありがとうございます。楽しめない夢さんに、届くかどうか分かりませんが、伝えたくて、のどが渇いた時のビールは、旨いです、喉の渇きが、強いほど飲んだときの味は、格別です、あまり喉が渇いていないと、ままです。楽しめない夢さんも、必ずビールを飲みます、楽しめない夢さんのビールは、バカうまでしょう。
Posted by あみの助 at 2015年04月26日 20:52
 大変な思いをされていて、読んでいて胸が痛かったのですが、最近では相手を癒そうとかなぐさめたいとか励まそうは違うなぁと思うようになり、見守るということだけです。

 阿部さんや菜穂ちゃんのコメントは人によってはなんて冷たいんだって、思う人もいると思うというかそう思うひとが多いと思うけれど、こういったコメントを違和感なく読めるワタシはだいぶ変化したなぁと感じました。

 ジョーイ ロットの「これのこと」はワタシもオススメです。
 
Posted by コーヒー&ナッツ at 2015年04月26日 20:58
本筋ではないのですが、コメントは書き始めてから 時間の経過したものは
届かないようです。いくつかの私のコメントは みなそうであり、さっき書いたものも、届いていないです。熟孝しすぎたものは はじかれてます(笑)
おそらく、15分位経過したものは、認識されないようです。
Posted by アゲハ・・・ワンポイント余計な情報(笑) at 2015年04月26日 21:45
ひ さん、恐れ入ります。
そうですか、本の詳細は良く判らないのですが、僕の初案かと思ってたけどやはり甘かった(笑)
でも実際、んな分けないとは思ってましたけどね・・・(小笑)
まぁでも、自分のインスピレーションも捨てたものじゃないと分かって、かなり自信になります。
有難うございます。
Posted by 茶舗リーラ at 2015年04月26日 21:46
楽しめない夢さんへ


コメント読ませていただきました。ありがとうございます(^^)

両親からの愛と、両親への愛の所以です。とあり、

お強い方だと、感動いたしました。


これを機に?

ご自分のことを褒めてあげてはいかがでしょう?

「こんなに大変な思いをして、よくやってるわ~私」ってね(^^)

ほんとうに、そうだと思います(^o^)
Posted by ようこ at 2015年04月26日 21:58
ジョーイ・ロット 「これのこと」
最高でした!
阿部さん ぜひ!
大和田さんもご存知でしたよ♪
Posted by まき at 2015年04月26日 22:01
日和る さん

>ノンディアルティの話だと、自分がいない、からっぽの自分なら
>思考も自分とは別物と .......
>脳の機能は関係ないのでは ...... ?

その通りです(笑)
今回のコメントは、二元の世界の視点で書かせて頂きました。
哀しさや苦しさを体験している人に、あなたが感じている感情は、幻であり、
それを感じている「あなた」はいません、などと言っても、
自我意識にとっては、それを体験している現実が、唯一のリアルなので、
アドヴァイタ(=ノンディアルティ)の考えは、戯言の一種であり、ただの机上の空論にしか感じないでしょう。

ご質問の脳の機能とアドヴァイタ(=ノンディアルティ)の関係ですが、
脳の機能は、肉体に起きていることです。
脳の働きは、身体の法則(ダルマ)ですから、万人に当てはまるルールです。
このような法則(ダルマ)は、この世界には数種類あります。
因果の法則もその一つですね。
このような法則(ダルマ)を知っていることは、多少なりとも、精神世界についての理解を助けてくれます。
何故なら、この身体も、それに働く法則(ダルマ)も、私たち人間が造ったものではなく、
私たちは、それに生かされている存在に過ぎないからです。
法則(ダルマ)を知ると、目に見えない存在の意志というか意図のようなものが、その内に働いているのを感じることができます。
そういう意味では、科学と宗教(精神世界)は相対するモノではなく、今後は、融合していくことと思います。

このことを踏まえた上で、日和るさんの質問に対して書かせて頂くならば、

「ノンディアルティの話だと、自分がいない、からっぽの自分なら思考も自分とは別物と .......。脳の機能は関係ないのでは ...... ?」ですが、

自分がいる、いない、としているのは、誰ですか?
”からっぽの自分”の”自分”とは誰ですか?
”自分がいない、からっぽの自分”と決めているのは誰ですか?
思考も自分とは別物と、誰が思っているのですか?
(その思考は、誰が考えているのですか?)
これらすべてを疑問に思っているのは、誰ですか?

この”それを考えているのは誰か?”と、自問自答していく方法は、
かのラマナ・マハルシが提唱された「真我実現」のための有効なメソッドです。

これらの思考が起きているのは、脳ですね。
脳は、少なくとも「あなた」(わたし)の全てではありません。
脳は、「あなた」(わたし)の一部です。
脳の中で、「わたし」という意識が生まれ、
「わたし」が存在していると思い込んでいます。

この脳で生じている「わたし」という意識が、あたかも「わたし」という存在そのものであるかのように錯覚しています。

寝ている時、或いは、病で自己のアイデンティティーを失ってしまった場合(アルツハイマー型認知症など)など、
「わたし」という意識は消えてしまい、本人の自覚なしに、存在としては「在る」ということが起きます。

アドヴァイタ(非二元論)とは、もう一歩進んで、この「在る」は、人間の自我意識が観ている夢だとしています。
すべての人間の脳の機能が停止した状態になったと仮定してみて下さい。
人類全員が、自己に対するアイデンティティーを失ってしまった世界を想像してみて下さい。

そうなると、この世界を、今私たちが認知しているように認知できる存在はいなくなってしまいます。
それは、映像が流れていても誰も見ていないので、映像自体存在していることを誰も実証できない、ということになります。
つまり、この世界は存在しない、と同じことになるのです。

宇宙に於いて、少なくとも、この地球に於いて、
人間の脳の中の「わたし」という自我意識だけが、この世界をこの形で認知している唯一の存在なのです。
しかし、その「わたし」という自我意識でさえ、実在ではなく、ただの脳の働きの一つでしかありません。

これが、この世界の真実なのです。

それでは、人間の脳の働きがすべて失われてしまったとしたら、
すべてが無になってしまうのでしょうか?

いいえ、その時に現れるものこそが、存在の本質なのです。

私たちを生かし、非実在を実在であるかのように根底から支えている存在が、
私たち、すべての存在の本質であり、この宇宙で唯一の実在なのです。
それは、二元対立(二元の世界)を超えた存在であり、アドヴァイタ(ノン・ディアルティ=非二元の世界)が表しているところのモノなのです。

覚醒体験は、身体に起こることですが、
その中でも、メインは脳に起きることです。

覚醒は、「脳」がキーワードです。
脳の働きを考えずして、覚醒を客観的に理解することは、ただの戯言になりかねません。

これから、脳科学が更に進んでいくにつれ、多くの疑問が解明されていくことと思います。
覚醒体験も、アドヴァイタ(非二元=ノンディアルティ)も、やがて科学的に語られる日がやって来ることでしょう。
その時、阿部さんや大和田さんのメッセージや、今私たちがここでワイワイやり取りしている内容が、
科学的ではないにせよ、それほど誤ったものでもない、ということがわかることでしょう。

それでさえ自我意識が観ている夢なので、
夢の中で、「これは夢なんだ!」といくら訴えても、一笑されるのは仕方ないと感じていますが、
同じ考えでいる人がいるのは、少数派だけに、やはり嬉しいです^^

日和るさんのご質問のお答えにはなっていないかもしれませんが、
長文を読んで頂きまして、ありがとうございました^^
Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月26日 22:16
こんな感じでしょうか?

個人→氷
全部全体→水蒸気全体
一つの意識→水蒸気全体

それを経験している「私」→氷
身体→氷
全体→水蒸気全体

感情や思考→風

悲しみを避けよう→風に抵抗しよう
苦しみはより大きくなります→風当たりが強くなる
抵抗をやめる、受け入れる→風がただ通り過ぎて行く

大きな苦しみ→氷だと思い込み続けること

悲しみの感情の中に自由がある→悲しみも水蒸気でできていると知る
              →水蒸気でいれば風はただ通り過ぎて行くだけ

本当の救い→水蒸気全体だったと思い出す

永遠→ずっと水蒸気全体
Posted by とらのすけ at 2015年04月26日 22:45
業務連絡です。

朝顔さん

imacocoa@nifty.com

にメールください。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2015年04月26日 23:07
私も、自分がいなくて、だけど、自分が全てである感覚があります。
この世界で、自由意志がないなら、どうしてその中の悲しみが、自由だと彼女は言うのでしょう。
私はいないのに。
この世界のライフの中で私は生かされている。
だけど、違和感があるのは、私達は何のために在るのですか?
ライフの中で生かされている、ただの金魚なのでしょうか?
それすら、探究している「私」を解放する為に、ただ在るのでしょうか?
私が在って、私はいない。でも、ここには、ただ在る。
それのみで、それだけで、だけど、ただ流れるままに在れないのです。
それは、意志というものが在ると思っているのからかもそれません。
Posted by miu at 2015年04月26日 23:20
楽しめない夢さんへ

私も両親が他界しています。母は突然の病死で、父は自殺しました。姉が一人いますがほとんど他人のような関係です。両親が他界して10年以上経ちました。やっと今幸せを感じ、感謝が沸いて来る日々を送れるようになりました。母の死も父の死も、直接関係していなくても自分を責めた時もありました。でも、本当の意味で自分が救われたのは、阿部さんのブログに出会ったからです。やっと自分がスッキリと受け入れられるメッセージにたどり着いた感じです。おおざっぱすぎてあまり気持ちが伝わらないかもですが、自分に全ての許しを許可してあげてほしいです。
Posted by masami at 2015年04月26日 23:21
(アゲハさんの助言により夕方送信したものを再送します)

楽しめない夢さんへ

私も同じ経験をしています。
去年の秋です。
楽しめない夢さんのお気持ちはとてもよくわかります。同じような思いも持ちました。

私なりの経験と理解をシェアさせてください。

はじめは、とことん悲しみましたし、死んだ親に恨みつらみの思いも持ちました。
もちろん自分を責めたりもしました。
もっと出来ることがあったのではないかと。

そのことについて、いまここ塾の終わりに阿部さんに質問したり、チャネラーの方からメッセージ聞いたりと自分なりにできることに色々と取り組みました。そして、いまは消化(昇華)できました。

それは、そうとしか起こらなかった と。
そうなるしか他にはなかったのです。
それは、あきらめとは違います。

阿部さんのおっしゃる、
ただことは起きている というふうにです。

そして、さらに先日のこと。
そのことが深く理解できた出来事がありました。

久しぶりに死んだ親のことに思いが巡ったのです。

そして、やはり落ち込み始めました。
ああ、親は自ら死んでしまった•••悲しい•••かわいそう•••なぜあの時•••
自分を責める思いも湧き、心はどんよりしていました。

けれど、その時にふと我に返りました。

あ、また妄想してしまった!
現実(いまここ)ではない過去のこと、そして妄想に囚われてしまった!本当のところは本人にしかわからないのに。勝手に意味をつけていた•••。

あれ?
いまふと親の事が浮かんで、連想するように思考が湧いて•••
それに繋がるように感情が湧いてきたよね?

思考•••
もしかして、思考がなければ、感情も存在しない•••!?

思考することで、その感情が湧き、それに取り込まれていた•••!?

思考することをやめた時には何も起こらない•••。

つまり、我にかえった時、「 いまここ」に意識が戻ったんです。


あれれ?

そこで気づいたのです。

「 いまここ 」には 何もない じゃないか!! と。


死んだ親を思い出し、過去に思いが巡り、感情に取り込まれていた私。

かわいそう•••
悲しい•••
つらい•••

それは真実ではなかったのです。

それに気づいた時、私たちは全ての物事や出来事に同じことをしているのだ、という理解が起きました。

勝手に解釈し、過去(未来も)を妄想(思考)し、感じ、それをあたかも有るものとして信じてしまっていたのです。

これに気づいた時、親の死もこの気づきに繋がっていたのかもしれない、と感慨深いものがありました。

これも、菜穂さんや阿部さんのおっしゃる「 私のストーリー」に過ぎませんが。

お二人は究極の次元からのお話をされていますよね。その理解が起こるにはマインドでは無理だとも。
なので、一見冷たいような(笑)、矛盾する発言のような気がするのもわかります。

ですから、いまの楽しめない夢さんや私 にできることは、無理に理解しようとするのではなく、
「起こったことをありのままに見る 」ことなのではないでしょうか。

よ〜く、よ〜く見ていくと、思考がありとあらゆるものを呼び起こしているということに気づけるはずです。そこに必要のないものをたくさんくっつけていることに。

でもそれは悪いことではなくて、私たちはそうすることしか知らなかったから仕方ないんです。

そして、誰も悪くない。
自殺した親も残された子も。

ただことは起きている。

いまここにあることの大切さ

それらを阿部さんが発信し続けてくださったことで、
私にはこんな経験と理解が起きました。

この真実に出逢ってなかったら自暴自棄になっていたかもしれません。
乗り越えられなかったかもしれません。
何より大切な真実に気づけなかったと思います。

すべて、繋がっていますね。
といいますか、すべてがひとつだからなんですね。

楽しめない夢さんが悲しみの中から真実をみいだすことができますように。
Posted by 再び私よ at 2015年04月26日 23:40
「悲しみの感情の中に自由がある」
なんか初めて聞いた言葉だけど私のどこかで響いている。
阿部さん、大和田さんありがとうございます。
そして楽しめない夢さん、ありがとうございます。
今日もここリーラに来てよかったなと真底感じました。
Posted by saeri at 2015年04月26日 23:47
楽しめない夢さんへ

もう、自殺をされた親御さんを許してもあげてもいい時期なのではないでしょうか?

その親も、ほかの命と同様に死ぬまで一生懸命生きた命だったのです。

あなたが苦しんだように、親御さんも何かにもがき苦しんでいたのです。

だから、もう許してあげてください。

そして、あなたはもっと自由になっていいのです。
Posted by 雲黒水 at 2015年04月27日 00:18
永遠のリーラさん

ご丁寧な文面で恐縮です。

非二元論や、ことはただ起きてるとか、.......

もう、自我意識はどこなのかもわからなくなっていました ....
二元界の考え方が、まだ使えることが逆にうれしいです。

自我意識は脳。

所在がはっきりしてすっきりしています。



さて、ついでで申し訳ありません。

覚醒についてですが、まだ混乱した理解度前提で述べます。

読者の表現で、
「自分が消え、目の前の机も、草も木も構造物も「わたし」という
表現がよくされます。

それは、自我意識がうっすらと消え、(脳は連絡ツールとして)
他次元の真我とつながり、真我から観た情景である。

肉体の目が見ている対象物は、物の固さ、ニオイ、感触、全て錯覚である。

覚醒の瞬間に、真我がそれはをひっくるめて半端ないほどの情報量が瞬時に流れ込み、それは自らが創造したものである。と教えている。

阿部さんの言う、「世界は人の数だけある」⇒真我がそれぞれの自我に見せてる世界である。

自我の思考に惑わされた世界が現れ、その中で肉体が動き回り、
思考によりストーリー展開、自我が主人公。 ..... の構図。
他の出演者は、主人公のストーリーの助演、エキストラ等、
親、兄弟であろうが、親族、友達、近所の人全て、お役目のエキストラ。
その親、兄弟、それぞれも他の世界となる。
ただ、それぞれの世界の交錯する構図はわかりませんが、....

何というか創造エネルギー体みたいな物で個々の世界が創られ
てるようなもの?
そしてその世界の中の法則は当然ながら二元界の自然物理学の構図。



また、次いでですが、
真我と大いなる意識はイコールでしょうか(=)?
いやそうではなく、真我の先⇒大いなる意識の階層となっている?



世界観?の確認です。

..... 伝わるといいのですが.....?
Posted by 日和る at 2015年04月27日 02:46
>2015年04月26日 19:10
>amiさん

>
>最近感じる事は、ここに集う人達は
>阿部さんの考えに添うような
>意見が多く、わたし的にはもっと
>多種多様な意見をお伺いしたいなーと・・
>

私もそう感じています。優秀な人たちだけが残ってコメントをしているんだなあー…と。

最近はあまりに、あの世からの視点、アプローチの話ばかりなので、逆に吐き気がしてくる時があります。

親しい人の自死とかもありますが、この世では、人を殺したり、逆の立場で殺されたりという事件もあるなかで、やはり近くでそんなことがあれば、人間、衝撃を受けますね。


それでも、完璧である。すべて同じところから…と言われても、体験のないものは、とても納得のいくものではありません。

あちらの世からすれば、殺して殺されて、プラスマイナス ゼロ! みたいなもんなんでしょうか?

この世からすれば、そんなあっさりとはいかない、不条理を感じたり、恐怖を感じたり、割り切れないものが漂います。

時がたつにつれ、記憶が薄れはしますが、何かの拍子にふとまた思い出したり、そういうのは誰にしもあるし、この世からはなくならないものでしょう。

最近、若くして見性体験をした人のブログを見ると、あまりにポジティブ過ぎて、シラケますね。(^_^;

何だか人間のわびさびがないような… 変な印象を受けますね。あまりに偏り過ぎているんでしょうね。
Posted by 隣町 at 2015年04月27日 03:09
苦しいや悲しいという否定的な言語に拘束されているという事を認識して、
それを徹底的に考えてみれば何かわかるかもしれませんね。
苦しい感情を味わうのではなく苦しさに理性的なアプローチをしてみるのです。
お試しあれ。

今年はノンデュアリティとネオアドヴァイタというキーワードが流行りそう。
Posted by おたんこ茄子 at 2015年04月27日 05:47
2015年04月26日 16:01の としろうさん(笑)のコメントに 気がつくものがありましたので、まとめてみます(笑)長文になりますが、私には 大切な内容です。失礼します(笑)

前者・後者の別は 思考の堂々巡りなのか、不快な感情を今に体験しているのか、その別かと思います。

思考のリピートならば、過去も未来も 頭の中の記憶上にしかないことを論理知で理解できれば、「また 同じ事を考えている。」で おわります。

不快な感情体験のリピートならば、これを「徹底して体感」しつくすと、二度同様な不快感情を体験しません。「」これを 味わうとか、カルマ(感情の残りかす)の解消とか、自分と向き合うとか、見つめるとか、観察する行為とかって表現がされています。「」の精神行為を見い出して、或いは発見して これに成功すると、心は 軽くなっていきます。ひとつの感情は 消え、違った感情は残りますが、これを まめに繰返していきますと やがて 総てが消えます。

書いてみれば それ程 難しい作業ではないのですが、実際には 思考が邪魔して うまくいかないかもしれません。ポイントは 今が 不快感にあることです。今 それが体験されているのであれば、それを とらえることができます。苦しみが チャンスと言われるのは そのためでは?私はそのチャンスに見性しましたよ(笑)

ですから、体験者の導いた結論を信じることは 知ですが、実体験を通した結論は 智となり本人の真実(心)となります。

瞑想は在り続ける自分の継続、内観は滞っている感情の発見。
日常は感動体験の場。そのように思います。
Posted by アゲハ at 2015年04月27日 08:04
虚無感てこんなに辛いんだ(T . T)
YouTube見る前に戻りたい
Posted by ラン at 2015年04月27日 08:41
Rich Warrenという神父さんがいます。
2年前の4月に彼は息子を自死で失っています。
この人のことをまったく知らなかったのですが、テレビのインタビューで彼の宗教を超えた’起こることが起こっただけ’という立場に、ただならぬ強さを感じました。
親とこどもという逆の立場ですが、神父ということで身も知らぬ他人から子供を自死させた親として、ものすごい非難、批判されたようです。

親と子と立場が逆ですが、どうか楽しめない夢さんの気持ちが少しでも軽くなるように祈っています。

それにしても、大和田さん。
ぶっとんでますね。

Echartのライブをダウンロードして聞いたときに、ここで笑うか?(そんなHNの人がいましたね)というところで ふふって笑っちゃう彼は、もはや異星人。どなたかも指摘していたように、大和田さんも同じ。なに、、その、ふふって。内輪の人だけにしかわからないわよねー。って感じの笑い。いやーね。
この二人は(もっといるであろう)異星人なので、言葉が理解できない。
理解できないのだが、おもしろいので聞く。
理解できないことがおもしろい、と思うのはめずらしいので、たぶん何かが共感しているのだと思う。

阿部さんの場合はかろうじて、なんとか、ワタシニホンゴスコシハナセマス、といってくれているので、わからないながらも、するめを噛むように、かみかみしながら、味わって読むことができます。

阿部さんのありがたさがつくづくとわかったような気がする。ふふっ。
Posted by 青紅緑 at 2015年04月27日 09:41
一見、真実は冷たく感じることがある・・・。

私も時々、そう感じることがあります。
何でかな?そこが理解できてないからかな。

でも菜穂さんのメッセージには寄り添う優しさや思いやりを感じました。
私の中にもある苦しい部分も同時に癒された感じです。シェアありがとうございました。

必要なメッセージは質問者さんにも届いた感じがします。良かったなと思います。
少しでもココロが和らぎますように。。
Posted by J at 2015年04月27日 10:16
「悲しみの感情の中に自由がある」
これを読んだとき、何かがこみ上げて泣きそうになりました

起きていることはすべてがただ起きているということなんですね

阿部さん、大和田さんのメッセージを伝えてくださりどうもありがとうございます^_^

そして阿部さん、大和田さんというのも見かけ上の違いで、そこにはただメッセージがあるということなんですよね。

どうもありがとうございました!
Posted by 鈴木太郎鈴木太郎 at 2015年04月27日 10:44
世界中に定められた どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は どんなに素晴らしいだろう

世界中に建てられてる どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう

見えない自由が欲しくて
見えない銃で撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ~

Train-Train 走ってゆく
Train-Train 何処までも
Train-Train 走ってゆく
Train-Train 何処までも
Train-Train 走ってゆく
Train-Train 何処までも
Train-Train 走ってゆく
Train-Train 何処までも
Posted by 雲黒水 at 2015年04月27日 10:45
山川さんなら、なんて答えてくださるのかしら?
そして、その答えは、相談者さんにどんな風に響くのかしら・・・。

新刊 「不死の秘密」は面白かった。
何が面白かったか・・・これは、二人の意見が微妙にかみ合ってないところ、ここに尽きる。
これが一番際立っていたのが、”自死” についてのところでしょう。

世界を事実から見ているのか、あるいはストーリーから眺めているのかによって、人間の死生観には、ヒステリックな反応を引き起こすような差異まで出てきてしまう。

古代ギリシャの設問で、阿部さんが「相手を殺して 云々」言っていたが、山川さんの過剰な反応がなければ、あながち冗談でなかったかも(笑)。

ほんとうの優しさ、慈しみ、愛って、
意見すると非情なものの奥を突き破ったところから刺し込んでくる光のようなもの・・・かしら。
Posted by 大きな輪 at 2015年04月27日 13:17
【訂正】
意見すると → いっけんすると
Posted by 大きな輪 at 2015年04月27日 13:28
私が自死をしようと考えてしまうとき
そこにあるのは「責任感」

「~したのだから、~の責任がある」

取り返しのつかない事をしてしまったとき
もう決して元には戻らないことをしてしまったとき

自他共に明らかに私が行ったことで
その事が起きていると思うからこそ

他人からは責められ
自分でも自分を責める

「ただ事が起きているだけ」
と思い込もうとしても
やっぱり
「私がやったのだ」という事実は変わりません

その責任感を放棄することは
人間を放棄することになりそうで
できないし、

例えこれが夢であったとしても
醒めるまで(=死ぬまで)は夢なのでしょう?

あぁ
絶望の中にもいろいろな種類があって、
気楽な絶望なんてものがあるのでしょうか

二元律を捨てたら
人間も捨てなきゃ
ならないのでしょうか

私のような罪深き人間には
背後にある責任感が
それを許してくれそうにありません

それとも
「責任感」という名前の檻の外へ出たら
そこに何かがあるのでしょうか


机上の空論としては
皆さんのおっしゃることも
わかる気がするのですが

朝目が覚めて、現実に戻って
社会のルールの中で考えていると
本当にわからないのです…


本当に勉強不足な人間の意見で
すみません
Posted by Mark at 2015年04月27日 13:45
本当に、悲しい出来事でしたね。

私も、自殺ではありませんが若くして主人を病気で亡くしました。
思いがけない出来事でした。
何故か、瞑想を始め自分と向き合う覚悟が起こってきました。
今も、向き合っている最中ですが、理屈を超えた何かを感じ始めています。
上手く、表現できませんが悲しみの奥に救いがあるのをなんとなく味わっているところです。
ほんの少しでも、参考になればと思い書かせて頂きました。
Posted by M at 2015年04月27日 13:45
悲しみの感情の中の自由が分かれば、楽に生きられそうですが、、全く理解出来ません(涙)
ストーリーも、そんな人はいない、というのも、私はいない、というのも、全然分からなくて、もう離れようかなと一瞬思うんですが、阿部さんの優しい語りかけから、逃れることも出来ません。

2006年のブログをもうすぐ読み終えます。私には昔のお話がちょうど合っています。過去のにもコメントすみません。。
『アミ 小さな宇宙人』凄く良いお話でこれは良く理解できました。
Posted by まゆみ at 2015年04月27日 14:24
日和る さん

日和るさんのコメントを読んで、
全体的に感じたことを書かせて頂きますね。

まず、思考に振り回されていませんか?
思考は思考を呼び、果てしなくエンドレスで続きます(笑)。
まずは、考えることを止めましょう。
思考はただ頭の中で生じている雑音(粗い振動)だと思って、
湧いてくる思考に巻き込まれないことです。
そのためには、瞑想などで頭をからっぽにすることが有効です。
どんなに考えても、自我意識は頭の中から出ることは出来ません。
それが、自我意識の性質から来る宿命です。

最近では、目覚め系、悟り系のスピリチュアルな情報を、
本や講演会やセミナーやブログやHPから、好きなだけ、好きな時に、比較的簡単に入手できるので、
それらから発信されている溢れる情報に、多くの人が振り回されているように感じます。
それもその人に必要だから起こっていることだという見方も出来ますが、
Aさんの意見とBさんの意見が違っていたら、どちらが本当で、どちらを取り入れたらよいのか、わからなくなってしまい、
却って知らなくても良かったと思ったり、スピリチュアルの迷路に迷い込んで、自分を見失う、ということが起きているのではないかと感じることがあります。
だからこそ、思考(情報)に振り回されないためにも、瞑想や禅、ヨーガといった実践が大切なのです。
思考のトラップ(罠)は、実は、自我意識の得意技です。
頭だけで、あーだこーだと考えずに、阿部さんもブログでよく薦められている実践メソッドの中で、ご自分に合ったものを日常に取り入れられると、
思考と一体化していた「わたし」から、少し距離を置くことが出来るようになると思います。
思考を客観視できるようになることが、まず必要です。
そうすると、感情というものも、思考の一種だということが分かります。
思考、感情、そして行動、これらと一体化している「わたし」を客観視できるようになると、「わたし」の正体が段々とわかってくると思いますよ。

日和るさんのご質問の中で、

>真我と大いなる意識はイコールでしょうか(=)?

これについて感じたことを書かせて頂きますね。

結論から言いますと、YESです。(だと思っています)

以前、阿部さんと黒斎さんとのコラボ講演会に参加した時、
黒斎さんが、たとえ話を使って、このことを上手に説明されていました。
さすがだな~と感心したのですが、それをここでご紹介させて頂きますね。

中に空気が入ったフーセンがひとつあります。
このフーセンを、「わたし」という個(人)だと仮定します。
針か何かで、このフーセンを刺して、割ります。
すると、フーセンは割れて、中の空気は、周りの空気と一体となります。
中の空気は、真我、周りの空気は、大いなる意識、とすれば、
真我=大いなる意識ということが、この例えからよくわかると思います。

フーセンのゴムの部分は、自我意識です。
それが無くなったら、消滅したら、真我が在るのみです。
そして、その真我は、実は大我(大いなる意識)である、ということになりますね。

自分自身が、真我であるとの気づきに至る方法は、
先日も日和るさんにご紹介させて頂いた、ラマナ・マハルシの「真我実現」のためのメソッドが、とても有効だと感じています。
ヨーガの世界では、真我をプラーナという言い方をしていますが、同じものですので、ヨーガもお薦めメソッドです。
(アシュタン・ヨーガなどは、そのためのヨーガです)

いろいろな覚醒体験があるようですが、それにはあまり囚われない方がいいと感じています。
人生(ストーリー)が人それぞれ違うように、それに至る道も人それぞれだと感じています。
どのようなストーリーが用意されているのか、わかりませんが、
求めなくては得られない、というのも事実だと感じます。
(これは、二元の世界の考え方ですが、肉体は二元の世界に在るので、
二元の世界の法則、因果の法則に縛られているのは、仕方ありませんね。
それから、求めても得られないのは、準備に時間がかかっている、ということなのだと思います)

しかし、ここで阿部さんが語られていることを理解しようとすることは、
思考(思い込み)のかなりの部分の書き換えが求められますので、
理智(ブッディ)の認知間違いを正すには、有効だと感じます。

知識と実践、両方されるとバランスがよいと感じます。
頭でっかちにならないためにも、実践は必要です(笑)

日和るさんのご質問のお答えにはなっていないかもしれませんが、
感じたことを書かせて頂きました。
長文、読んで頂きまして、ありがとうございました^^
Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月27日 16:59
菜穂さんの動画を拝見しました。
それ、そのものをシンプルに語っていらっしゃって、とても心地よいものを感じました。

そして、たまにクスッと笑われる所は菜穂さんが、そのものでいらっしゃる現れであり、表現であり、意味なんてなにもありません。

批判、批評なんていらないから、素直に感じとりましょうね。

真実はシンプルで、
皆は既に知ってる事だから、素直に阿部さんと菜穂さんの語りかけに耳を澄ませてればいいと思います。
Posted by サンサンサンディッシュ at 2015年04月27日 17:42
同じ様なメッセージでも、発信している人によってハートにすんなり入ってくる場合と、頭の中をグルグル回るだけの場合とがあります。相性なのでしょうか?
なので、言っている内容より、自分の心に響くか?気持ちよく感じるか?を基準にしていくのがいいのかな〜と思っています。
何が真実か?とかはもういいかな。
色々勉強になりました。
ありがとうございました。
Posted by keiko at 2015年04月27日 17:52
阿部さん、業務連絡ありがとうございました。

悲しみの中に自由がある。

噛みしめています。
Posted by 朝顔 at 2015年04月27日 18:22
Markさん

責任感を掴まえてください。
あなたから離れないとおっしゃっているのですから絶対に出来るはずです。
あなたの頭や体から離れないないのですから実体として在るはずです。

責任感ってどんな形をしていますか?どんな感触ですか?
責任感の音は? 色は? 匂いはありますか?

真剣に探してみてください。探した結果を教えてください。
Posted by 模察 at 2015年04月27日 19:51
こんばんは。
祖父がそうでした。
Posted by ザクト at 2015年04月27日 19:56
菜穂さんと
阿部さんのコメント(ここでのご返信含む)
二元どっぷりの私には、頭では何が何だかわからない感じだったのですが
何か、地球丸ごとひっくり返るような・・・
身体的には、思いっきり前転(でんぐり返し)をしたいような衝動に
かられました・・・

その感覚が面白いので、何度も読み返しています。
ありがとうございます。
Posted by リン at 2015年04月27日 20:09
2度目の投稿ですが・・
>ななさんへ
ななさんのコメントを読んでなにかとてもほっとしました。
ありがとうございます。

>なんにもしないことにフォーカスしたのです。
何度も読み返しました。
セラピーもやめられとのこと。

今はお元気になられて良かったです^^
Posted by さつき姫 at 2015年04月27日 20:28
ここ一年ぐらい仕事がうまくいかずに、辛い日が続いています。
それに合わせるかのように、阿部さんのブログの言葉が、どこか別世界の事のように感じてしまいます。
それまでは、思うように人生が展開していたから、阿部さんのブログの言葉が違和感なく、心に刺さっていたのに。
自我が外の出来事に振り回されているからなんでしょうか❓
Posted by 自己嫌悪 at 2015年04月27日 20:31
ただ 思い出しただけ。

思い出していない人と 思い出した人を足すと 私達の総てになります。
そこに 差をつける人と 差があると思い込んでいる人達との つなひきみたいな、自我ならではのやり取りが あるだけでは ないでしょうかね?
Posted by アゲハ・・・ at 2015年04月27日 20:57
>真実は一見冷淡だけど・・・真実だけが本当の救済です

私たちは、身体の具合が悪くなると、病院へ行き、治療を受けます。
病によって処方される薬が違いますが、薬を飲んで一時的に症状を軽くする、という方法を大抵の人は取ります。
それは現代の日本のような国では当たり前のことなのですが、
実は、薬は病の根本的な治療法ではなく、対処療法とされています。
つまり、頭痛で頭が痛い時は、頭痛薬を飲んで、一時的に痛みをしのぎますが、
薬は、頭痛の起こる根本原因までは直してくれないため、また、後日、頭痛は起こることになります。
こうして、頭痛がなぜ起こるのか?に対する根本的な理解がないため、
それに対する根本対策を取らずに、その場しのぎの対応で何とか誤魔化して、生きて行くことになります。

この”頭痛”のところに、”悲しみ””苦しみ”を当てはめて考えると、
何故、阿部さんが『真実は一見冷淡だけど・・・真実だけが本当の救済です』と書かれたのか?がはっきりとしてきます。

耳に優しい労わりの言葉や慰めは、病に対する”薬”と同じようなものだと感じています。
”悲しい””苦しい”ことが起きるたびに、”薬”を必要とし、その時に欲しい”薬”を手に入れ、その時は一時的に癒されても、
また、時間が経つと、形を変えた”悲しい””苦しい”ことが起きるのが人生なので、また、それに対する”癒し”を求めます。
”癒し”が手に入れられない場合は、じっと我慢し、それに独りで耐えなくてはならないこともあります。
病の場合も、適切な薬が無い場合は、病の症状にじっと耐えなくてはなりません。

そして、その一方で、病の根本治療を望む人々がいます。
これは、病の対処療法とは違い、身体の自然治癒力をUPさせ、身体が健康になることで、自然と病から立ち直ろうとする方法です。
それが成功すれば、身体は本来の働きを取り戻し、病気の症状は消えます。

人間の感じるあらゆる苦しみ、悲しみは、人間が生み出す現象、行為に対する自然な反応です。
肉親の死や理不尽な出来事に対し、苦しみ、悲しみを感じることは、人間としてとても自然です。
人間に感情が起こることは、とても自然なことなのですが、
頭痛が起こる根本原因を理解すれば、二度と頭痛に苦しまないように手を打つことも可能であるのと同じく、
感情に対しても、その起こる根本原因を理解すると、起こる感情は抑えることは出来ませんが、起こる感情に対する適切な対応を取ることは可能となります。

>真実は一見冷淡だけど・・・真実だけが本当の救済です

この一文は、このことを言っているのだと感じました。
一時的に身体の不具合を和らげくれる”薬”は、一時的な救済でしかありません。
それは、根本が改善されていないので、同じことがまた起こります。

真実は、急場しのぎの”薬”ではなく、
人生、いえ、数えきれないほど繰り返されてきた人生において、
心からの救いを求めたその求めに対する、唯一の答えであり、
人生のいかなる艱難、苦境にあっても、その人を一時的に助けるものとして働くのではなく、
時間が来たら朽ちる肉体ではなく、永遠に朽ちない精神(spirit)を根本的に救っていく真の救済として働くものなのです。

真の智慧と愛は、どんな感情をも否定するものではありません。
人間は、感情があるからこそ、労わりや慰めや隣人愛などの同胞意識が芽生えるからです。
しかし、人類の歴史から見ても、感情が時として、人類の悲しみや苦しみを生み出してきた、という事実を無視することは出来ません。
人間の持つ怒り、憤り、不安、恐怖など、が人類に与えてきた”痛み”は、計り知れません。

あなたは、この”痛み”に対して、根本的な治療、救済を望みますか?
それとも、これまでと同様、この”痛み”に対して、誰もが知っている対処療法、一時的な救済で甘んじますか?

阿部さんや大和田さんは、根本治療、真の救済としての”真理”を、私たちに示そうとしています。
それを受け入れるかどうは、私たちひとりひとりの選択次第なのです。
Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月27日 21:07
辛い辛い体験ですよね。そこまで耐えたご自分を、悲しみを癒して頂きたい気持ちです。
私なら後を追ってます。きっと。

それに、ご両親の気持ちが痛いほど分かります。もう疲れたんですよねきっと。私も同じ気持ちです。

臨死体験をしたことある私ですが、肉体がなくなるって、最初理解できないんです。ここだよ!って全体に溶け込めるところに導かれても、自分というものがなくなるのが本当に怖くなるんです。でも溶け込んだ先には幸せしかないんです。

どうかどうか、もう頑張らなくてもいいんだよ。そこに溶け込んでもいいんだよ。そこにはこの世にない眩しく素晴らしいものがあるんだよってご両親に声をかけてあげて頂きたいんです。そして、同じ一つの大いなるものとして、私も時がきたら行くからねと。
自殺は決して悪いことでも、罪なことでもないと思うんです。一足先に大いなる一つに戻れることなんですよね。この歌を聞いて下さい。

https://m.youtube.com/watch?v=ZYCJLWPq1ls

気持ちが楽になりますように☆
Posted by ゆっこ at 2015年04月27日 21:38
おこるべきして、おこったことなんか、

ないです。

自分でえらんで、おこったです。

その、スパンは、

とても、長いから

たんに、おこるべきで、おこったといってるだけです。



だれだって、また、覚える贖罪は、

かかえます。


まえより、たくさん、罪を重ねることも

あります。


それは、自由だからです。

愛されてるからです。



どんな結末も自分でえらべたから、


ただ、悲しみの所在は

この一生でおしまいと思いこむことから、


なくなることは、ないと、理解できたら、


ともかく、自由になれて、よかったね、

いいかたは、むずかしいけど、

そんな、かんじです。


自分で自分を苦しめないは、

とても、大切。

甘いお菓子も甘くなくなる。


なぜに、あなたきいたのに、

引用されるか、わかりません。
Posted by あたし at 2015年04月27日 21:48
模察さんと 永遠のリーラさんと サンサンさんの対話を読んでみたい。

きっと ひとつに溶け込んだ、真理が語られるのでは?
Posted by アゲハ at 2015年04月27日 23:15
永遠のリーラさんのお話しわかります。

私は今回、二元の視点からのコメントを投稿させていただきました。

それが、今の私がやることでした。(^_^)
Posted by ようこ at 2015年04月28日 02:33
お話しわかります。は、21:07のコメント内容のことです。念のため(^^)
Posted by ようこ at 2015年04月28日 02:49
私もただひとりの親と質問者様と同じ別れ方をしています。
10年では拭い去れない深い悲しみ、孤独感お察し致します。
けれども、ご高齢者がこれまでの壮絶な人生を終わらせ、命を全うした瞬間は涙が出るほど感動します。
生きるという事のすごさ。
生きるとは素晴らしいです。

私は孤独になり何度も死を望みましたし
何度も這い上がりました。その後、子ができ新しい世界にいます。
シングルマザーですが、人生のドラマを楽しめています。
私達は悲しみ苦しみを十分に味わいましたから、喜びや幸せを味わうのも大切だと思います。
質問者様の心の解放を願います。
Posted by サトウ at 2015年04月28日 06:07
菜穂さんの本を読みました!
これが感覚的に究極だと感じました
ただ捉え方が混乱することが多く
今回のように阿部さんの解説があると
非常に分かりやすかったです
Posted by ゆかり at 2015年04月28日 08:43
模察 さん

ありがとうございます。

昨夜、責任感を掴まえてみました。

それは、
重く、冷たく、固く、がんじがらめで、
鬱蒼としていて、少し錆びくさくて…

そこまできて
鉄格子の牢獄の中に、足枷をはめられている自分が見えました。

苦しくて、苦しくて
そのまま眠ってしまって…


今朝、目が覚めて
顔を洗って、外に飛び出したら
そこには
ひんやりと透き通った空気と
きれいな青空が広がっていました。

そして
「いまここはからっぽ」
という言葉が浮かんできました。


何だろう、
現実って
もっと頑ななものだとばかり思っていたのですが…
Posted by Mark at 2015年04月28日 11:51
Markさん

気付きがあったようですね。嬉しいです。
その通りです。
責任感を捕まえことは不可能です。
捕まえるとは、捕まえる主体と捕まる客体が存在する
ことで成立します。
捕まえる主体のあなたが居ないのですから、捕まえることは
不可能です。

Markさんは、責任感という檻に私がいつも捕まってると思って
らっしゃたようですが、檻の中の私が居ないことに気付かれた。
そのに残ったのは、中身が空っぽの責任感という檻だけでした。
その方向は間違っていません。
責任感だけでなく、全てがそうなんです。

「私の◯◯」なんていう所有は成り立たないのです。
Posted by 模察 at 2015年04月28日 12:11
最近 多忙だから、本を買うことが無かったけれど、
この記事を読んで、大和田菜穂さんの本が読みたくなりました。
さっそく購入して、合間 合間に読みま~す(^_^)/~~☆
いつもありがとうございます!
Posted by yukiko uechi at 2015年04月28日 15:06
〉悲しみの中に自由がある

これだけが知りたい。わからない。
セドナとか、マネゲとかの書籍とおなじ

ほんとは少しわかる気もする。

Love love love...
Posted by たんつぼ at 2015年04月28日 21:04
最近、何度かここを訪問させて頂いてます。

ノンデュアルティと身近な人の死について思い巡らせたことを少し書いてみます。

自殺ではありませんが、僕自身の責任で身内を死なせてしまったことがあります。

当時のことを思い出せば何もかもが停止してしまいます。

この世界で僕が主張出来るものは何もない。

そんな感じです。

でもね。

美味しいと感じます。

楽しくて笑う時があります。

人の悪口を言ってる時があります。

だけど。

いつもニュートラルな自分に戻ってきます。

誰も悪くない。

僕自身何も言えない。

でもね。

罪悪感に苛まれているわけではないんです。

発狂しそうな自分もいると思います。

ただ、そこに意識の焦点を合わせないのです。

音楽を聴くときは耳を意識します。

匂いを嗅ぐときは鼻を意識します。

考え事をするときは頭を意識します。

意識しすぎて、それ以外のことを忘れてしまうことだってあると思います。

この意識しているところに「私」があるのだと思います。

私の耳、私の鼻、私の頭、私の考え、私の心。

一人の人間の中において、それを複合的に感じての「私」なんだと思います。

足の痛み、頭の痛み、心の痛み。

痛みがなければ、自分の体の中であっても普段はあまり意識していませんよね。

自分の体の痛みは、自分自身の体のバランスに気付かせてくれます。

自分の心の痛みは、自分と自分の外の世界とのバランスを気付かせてくれるのではないでしょうか。

他人との関係、自然との関係。

自分の体の内は意識出来るのに、自分の体の外は意識出来ない。

この境界がある故に、恐れや孤独といったものを感じているのではないでしょうか。

ノンデュアルティ。

二つではないもの。

釈迦の話だったと思います。

我が子を無くし泣き叫ぶ母親。

どうやったらこの悲しみを乗り越えられるかと問う母親に、釈迦は死人の出たことのない家を探してきなさいと言います。

すごいうる覚えで申し訳ないのですが、母親は何軒もの家を訪ねた果てに、誰もがいつかは死ぬのだということに気付くに至ったというような話だったと思います。

デュアル。

二つのもの。

あなたと僕。

みんな自分の人生を守ることに必死なあまり、他人のことは関係ないと思うどころか、敵とまで見なしてしまうことも多いのではないでしょうか。

ノンデュアルなんて実感のしようがありません。

僕自身ですが、大きな苦しみを抱えながら何軒もの家を訪ね歩いたあの母親のように、いろんな人に出会い宗教や、精神世界、科学など、この世界を探求してきました。

そして、どの家にも共通するものを探してきました。

いや、見えてきたもの。

それが、ノンデュアルティであり、ワンネスであり、無でもいいし、神でもいい。

それを表す言葉に過ぎません。

今の流れで表すなら。

意識しているもの。

あなたを意識しているもの。

あなたの耳を意識しているもの。

あなたの悲しみを意識しているもの。

あなたの喜びを意識しているもの。

あなたの考えを意識しているもの。

あなたの中で起こる全てを目撃しているもの。

あなたは、あなた自身を観察しているに過ぎない。

あなたが神で、無で、ワンネスで、ノンデュアルティなのです。

あなたが体の各部を意識するように、神はこの世界の各部の中で、それぞれを意識しているのです。

目を閉じ、思考を止め、動きを止め、ただそこに存在しても、自分がそこにいるという感覚。

無の中に生じたデュアル。

無数のデュアルの組み合わせの果てに一人一人の人間があります。

大元の神は無であり、その無の中に生じた無数のデュアルを総じて全知と呼ぶのではないでしょうか。

私達一人一人は無から生じた無限なる創造の末端であり、私達一人一人のドラマの中で新しい自分を創造していくこと。

そして、世界と繋がり新しい関係を、新しい社会を創造していくこと。

それが私達の生きる意味だなんて言うのではなく、それをただ味わうことなのではないでしょうか。

デュアルの中にワンネスを感じるときに喜びという感覚が生じます。

僕は僕自身を眺めます。

そして、僕の周りの世界を眺めます。

恨みや、恐れや、悲しみでバラバラに分断されてしまった世界。

だからこそ、微かな繋がりに大きな喜びを感じることが出来るのです。

平和な世界を望む気持ちはノンデュアルからやって来ます。

調和、完全なる調和。

ノンデュアル、無の中にどんな自分を創造するのも自由です。

この世界の中にノンデュアルを見つけ出すことです。

心の叫び、悲しみは、あなたがノンデュアルを知っているが故なのです。

あなたが、あなた自身で心の平安を取り戻して下さい。

自分の悲しみを癒す方法を探してあげてください。

その一歩一歩がノンデュアルに近付いていく過程なのです。

一つの死にも様々な要因があります。

世界中で起こり続けている無惨な死に意識を向けてください。

関係ないという思いが、あなたをノンデュアルから切り離してしまいます。

多くの悲しみを知ってください。

多くの悲しみと重ねてください。

悲しみはこの世界の一つの側面に過ぎません。

大きな悲しみの裏には、大きな喜びがあります。

大きな喜びを知れば、大きな悲しみを知ることにもなるでしょう。

どちらにも執着しないで下さい。

本当の幸せは、そのデュアルの真ん中にあるのですから。

でも、その真ん中に執着してもダメですよ。

喜びと悲しみを、怖れずに力一杯味わってください。

ノンデュアルになろうとしても、なれるものではありません。

あなたの中のノンデュアルから生まれる望みを精一杯生きたとき。

あなた自身がノンデュアルであることに気付けるのですから。
Posted by むーん at 2015年04月28日 22:04
模察 さん

ありがとうございました。
今日は一日、不思議な感覚に包まれて過ごしました。

なぜって、
今までの人生のすべては
私がなくならないように
私の存在意義を保つために
必死になって生きてきた時間だからです。

それが、
「私はいない」だなんて…

からっぽを通り越して
何と言うか、
「虚無」…ですね。

それでも
耳に触れるいつもの音楽は
美しく、心地よいのです。

腑に落ちるまで
もう少し、味わってみます。


きっかけを与えてくださって
ありがとうございました。
Posted by Mark at 2015年04月28日 22:47
>悲しみの感情の中に自由があるのです。

津留晃一さんのメッセージで、ここに通じるメッセージを見つけたので載せてみます。
ちょっと長いですが…

まず心を満たすところから初めて下さい。
それはほんの一瞬ですむことです。
あなたをこの次元に留め拘束しているのは、
あなたの「ねばならない」とする考え方です。
こうしなければならない、あれをしなければ、
という思いが、考え方が、今の自分を縛っています。
 自分の考え方を手放したとき、
「ねばならない」とする思いが消えたとき、
肉体はこの三次元にありながら、
神と一つになった新しい生活が始まります。
あなたはこの次元に、
必ずしも都合の良い事をするためにだけ
降りてきたわけではないはずです。

何不自由のない無限の領域から、
わざわざこの不自由な世界に降りてきたのには訳があります。
それは体験してみたい何事かがあったからです。
それは無限に自由な世界では
決して体感することの出来なかった事であったはずです。
思うがままに生きていたあなたが体験できなかった事とは、
まさに不自由さそのものではなかったでしょうか。
思い通りにならないとは、一体どんな感覚なのだろうか? 
好きでもないことをやらねばならない時、
どんな感じがするのだろうか? 
そんなじれったいフィーリングを体験してみたかった・・・。
そのことを私は思い出しました。
 
今、気に入らない事があったらそれを充分に感じとり、
そのフィーリングをこそ体験しつくして下さい。
それがあなたの生の目的なのです。
それがあなたが今ここにいる理由なのです。
あなたの仕事とは感じることです。
あなたの唯一の役割とは、
あなたのねばならない唯一の事とは、
今、そこを体験し感じとることだと伝えられました。
 好きなことはもちろん、
好きでないことをこそ感じとってみて下さい。
それを忌み嫌うことなしに・・・。
そこを感じつくし、味わいつくした時、
あなたにはもはやこの次元で体感するという学びがなくなり、
次なる学びの場である次元環境が
あなたのために用意されることとなるようです。
 
それを可能ならしめるのは、今そのままのあなたを認め、
そのままの自分を心に抱き、
無条件に自分をただ愛しつくすこと、ただそれだけです。
これで完璧なのだと気付けば、
ただそれだけであなたに変容が起こってきます。
今の自分ではダメだと思っているあなたが
変容することはあり得ません。
何故なら全ての創造主であるあなたが
自分はダメだとそう決めているのですから。
 
今、あなたはそのままで何も問題はありません。
このことに例外はないようです。
今、あなたがどんな意地悪な考えを持っていようとも・・・。
そんな意地悪な考えが頭をよぎる自分を、
それでも良いのだとただ認め、
そんな自分をそのまま条件をつけることなく愛して下さい。
ねばならない事があるとするならば、あなたのしなければならない事はただそれだけです。
どんな条件もつけず、
今の目の前の生をそのまま受け入れ、
心に抱き、ただ自分を慈しみ愛して下さい。
今、あなたの目の前にあるものを愛することを通して、
あなたはあなたの神と一つになります。
あなたの源へと帰り着きます。
これがあなたのするべきことであるといえるでしょう。
あなたは愛から生まれ、愛を通してのみ源と一つになります。
それが万人のゴールです。
 
全てのものに、どんな意味も付けることなく、
愛することが出来たとき、そこがあなたの源。
神の位置であり、源との融合の瞬間です。
Posted by 雪光 at 2015年04月29日 08:10
雪光サン

美しいですね、胸に刺さった、ありがとうー
Posted by たんつぼ at 2015年04月29日 21:54
たんつぼさん

最近、津留晃一さんのメッセージが、数年前よりずっと、
すーっと入ってきます。

レスありがとうございます^^
Posted by 雪光 at 2015年04月30日 20:55
楽しめない夢さんのメールを菜穂さんにふって、
「菜穂さん、素晴らしいですね。」
って、これが言いたいこと、に見えました。

ま、すべてはおこっているだけですけどね。
Posted by ゆうがお at 2015年05月09日 19:24
旦那さんの家系にそのような事が過去何件かあったから、今日ここに来られて良かった。
rakuni...さんからのURLを辿ってきました。
この間の10の牛のやつも、rakuni...さんからのURLなんだよね。
一期一会だな。
rakuni...さん助かりました。有難う。
伝わってないと思うけど(笑)
Posted by ふ at 2017年03月27日 18:50
ふさん

伝わるまで1年と4カ月ほど掛ったようです。

https://abetoshiro.ti-da.net/e9283820.html

の記事で私が書いたコメントから辿られたのでしょうか

見てくれて、ありがとう。

伝わらないかもだけど (^ ^
Posted by rakuni... at 2018年08月03日 00:01
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。