2021年07月31日

コロナワクチン

みなさん、どんな2021年夏をお過ごしですか。

コロナ禍が始まって一年半にもなろうとしていますが、普通の生活をしていた頃が懐かしく感じるようになりましたね。


以前このブログで、ワクチン接種についてどう思うかという質問が寄せられていました。


いろんな考えがあると思いますが、もしよければみなさん自身がどのように考えているかを教えてくれませんか。

このブログに集まってくれる人がどう考えているのか興味があります。






僕自身が決まった答えを持っているわけではないので、本当に聞いてみたいです。






  


Posted by Toshiro Abe at 22:40Comments(126)

2021年07月30日

自分というこの上なく大切なもの

昨日の阿(おか)さんの本が言いたかったのは、

誰もがこうして生きているだけで無上の価値があるということです。


その価値は無条件のものであり、しかもこの宇宙に価値と呼べるものはこれしかありません。

それ以外の価値はすべて、人間社会の価値観によるものであり、時代や文化と共に変わっていきます。



誰もがたとえ何もしなくてもこのままでいいのだという真実は、人を根底から安心させてくれます。

表立って誰かの役に立たなくても、社会に何の貢献をしていないように見えても、そんなあなたが宇宙には必要だというのは真実です。





昨日の阿さんの本の中に、とある農学者の研究が書かれていました。

ほんの一握りの土の中には一兆個以上もの微生物が生きているが、そのほとんどが未知なる存在で、どんな働きをしているのか解明されていないのだそうです。

でもその多様な微生物がいないと土はやせてしまい作物が育たなくなってしまうとか。


人間社会も同じように、無価値のようなレッテルを貼られている存在も、実はどこかで社会の不可欠な要素として存在しているのかもしれないし、実際そうだと私は思っている。

と結んでいます。



なるほど、よくわかります。

僕も自分の内側で同じことを感じているから。


たとえ人が人里離れた山奥で、たった一人で自給自足して生きていたとしても、その人の存在は宇宙全体に大きな影響を与えています。

その人がいなければ全体は存在できないといってもいいでしょう。


これには幾つかの理由があります。


一つの理由は「諸法無我」。

何一つ単独で存在しているものはなく、すべては一つに繋がっているということ。

全体を大きな風船に例えるなら、そこにほんの少しの欠損が生じて穴ができてしまったら、時間の問題でその風船は存在できません。


僕がいなければ、そしてあなたがいなければ、この宇宙は存在できないのです。


僕たちは幼少のころから、人様の役に立つこと、社会から必要とされる人間になることを叩き込まれてきました。

でも実際には、寝たきりになって人の世話になるだけだとしても、その価値は他の人と同じように計り知れないものがあります。


社会主義国は人間を物として見るので「働かざる者、食うべからず」などといったスローガンが生まれますが、人間は物質ではなく霊性によって生かされている霊的存在なのです。


この先は科学技術のおかげで、ますます人間が働く機会が減っていくと思われます。

そんな新しい時代には、新しい指針が必要です。

それは、こうして存在しているだけで、あらゆる人が無上の価値を兼ね備えているという真実に基づいたものになるべきです。



今日はこれくらいにします。



深呼吸でもして、いま生かされている喜びを感じてみて下さい。


すべては繋がっていて、すべては一つです。



・・・・・・・


9月のハートマントラ瞑想の日程が決まりました。

チャクラ瞑想が初めての方は、ハートマントラがお勧めです。

詳しくはコチラから。








  


Posted by Toshiro Abe at 11:14Comments(8)

2021年07月29日

不要不急

不要不急の外出は控えるように!

と言われて、何が不要で何が不急なのか迷った人もいるかと思います。


阿部なりに大上段から言わせてもらうと、

存在の真理を悟る、

本当の自分を知る、

分離意識から全体意識にシフトする、

夢から目覚める、

これ以外は、すべて不要不急のことです。


しかし世の中は、いま挙げたいくつかのことは精神世界にハマった人間の趣味のようなもので、不要不急の代表のようなものだと位置づけます(^^;)

まあ、そんなことはいいでしょう。






さて、混迷の時代を生き抜くヒントとして10人の僧侶が寄稿した「不要不急」という本が刊行されました。

読んでみてとても面白かったです。


出演は鎌倉円覚寺管長の横田南嶺老師など個性あふれる僧侶たちですが、ZENサンガの柱の一人である阿純章(おか じゅんしょう)さんも登場していて、ひいき目かもしれませんが、阿さんの話が特に心を打ちました。


阿さんの文章は、このような出だしから始まります。


「すみません!お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」

旅客機内に緊迫した声で客室乗務員のアナウンスが響き渡る。

すると一人の男が手を挙げて

「はい、何か緊急ですか?」

と尋ねる・

「そうです。あなたが必要です。今すぐ来てください!」

そう言われるがまま男はさっと立ち上がり、客室乗務員の後について乗客の視線を浴びながら通路の先へと足早に急ぐ・・・。


そんなワンシーンが映画の中にありそうだ。

しかし、もしこれが

「お客様の中に僧侶はいませんか?」

ではドラマにならないだろう。

「私にはお坊さんが必要です。すぐに仏の教えを説いて導いてください!」

なんて言われたことは、少なくとも私の人生の中では経験がない。

果たして僧侶はこの社会で必要急務の存在なのだろうか。

お寺は今の時代に求められているのだろうか。

それは現代仏教の大きな課題である。




面白い出だしですね。

しかし阿さんが本当に言いたいのはこのことではありません。


この時代は、人より抜きんでることや、人より豊かになることが急務であり、「自分が、自分が」と力を競い合い、どちらが上か下か、勝ちか負けか、損か得か、そうやって未来に引いた矢印の先には理想の社会がある、幸せな人生があると思っている。


とあり、さらには


「我」をベースにした社会は、ただ生きるというだけでは許されない。

自分という存在に何か特別な意味を求め、目の前の人に対しても、その存在をそのまま認めることができず、この人は自分にとってどういう意味があるのか、損か得かなんて勘定する。

それだから自分のスキルやら資格やらと、いわばスペックが重要視され、それが人間の存在価値を表している。

一言でいえば能力主義社会だ。

そういう社会では自分の仕事や自分という存在が不要不急であることに耐えられないだろう。

自分の能力を発揮できない人間は役立たずというレッテルを貼られ、生きる資格がないような社会的空気が作られてしまう。



というように、徐々に真実への洞察に誘ってくれます。


あなたも僕も、こうして生きているだけで無上の価値を兼ね備えていることを知ることは、生きる上で極めて大切なことです。

そしてこちらが真実なのです。

このことをどう実感してもらうかが阿さんや僕たちの役目だと思っています。



「不要不急」と題されたこの本は、阿さんの話を読むだけでも満足できることでしょう。

他にも多様な僧侶の方々の真実の話に触れることができて、お勧めです。


このブログで特定の図書を推薦することは少ないですが、実際に感銘を受けたのでご紹介します。


不要不急ー苦境と向き合う仏教の智慧ー (新潮新書)858円








  


Posted by Toshiro Abe at 09:38Comments(12)

2021年07月28日

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり

2015年の夏、道を歩きながら

「2015年夏、2015年夏」

と繰り返しつぶやいていたのを思い出しました。


どうしてそんなことをしたのかというと、ともすれば流されそうな毎日に自覚を持とうとしたからです。

そうすればいつまでも忘れないかなって。


案の定、2015年の夏のことはいまも色鮮やかに思い出すことができます。


それなのに、2016年も17年も18年も19年も2020年の夏も、なんだか良く分からない(笑)


覚えていることがいいとは限らないけれど、こういう試みもメリハリがついて面白いですよ。

特に歳をとると毎日が飛ぶように過ぎていくからね。


ちなみに、いまを生きるというのと、記憶を持たないというのは違います。

記憶も思考もいま出てくるのであって、問題があるとすれば、それらに巻き込まれていまを忘れてしまうことです。





そんなわけで、今日からでも思い出したときに、「2021年夏」とつぶやいてみませんか。

何年か経ったときに、喜びも悲しみも、そしていま起きている出来事も、何もかもが通り過ぎていることがよく分かります。


とはいうものの、

将来を心配している人は、その時も将来を心配していることでしょう。

なにかにつけ批判的な人は、その時も他の何かを批判しているかもしれません。

人の観念や、人生への態度は持続する可能性が高いです。


でも森羅万象は過ぎ去っていきます。



そして一つだけ、絶対に変わらないものがあります。

それは「いまここのあるがままの命」


それ以外はみんな移り変わっていくのです。




「これもまた過ぎ去る」


このことを理解すると、起きていることに対する一喜一憂が減っていきます。


いまどんなに大変な思いを抱えていても、「これもまた過ぎ去る」

もう絶体絶命だと思っていても、「これもまた過ぎ去る」

今日、何かに怒っていたとしても、「これままた過ぎ去る」



2021年夏


「これもまた過ぎ去る」






【ご連絡】

本日のマントラ瞑想会はLINEでお知らせすることができません。

マントラ瞑想の実践者で、今日のメールが届かない人はメールでお尋ねください。





  


Posted by Toshiro Abe at 09:51Comments(9)

2021年07月27日

バカの話

昨夜、雲黒斎くんのライブ配信に初めて参加して、面白かったです。

思えば黒斎くんのだけではなく、人様の配信を見るのは初体験。

なんでも初体験は甘酸っぱいものですね。



とにかく黒斎君くんの話は面白かったです。

最後は、自分がバカだということを認めようって話でした。


バカだから悩む・・・うん、そのとおり。

バカだから不幸・・・うん、そのとおり。


反発をくらいそうな話を、よく言った!!

褒めてつかわす(かなり上から目線)


もっとも、この世にはバカじゃない人なんていません。

自分をバカだと認めた稀有な人と、自分はバカじゃないと思っている普通のバカがいるだけです。


そして自分はバカで、どうしようもなくて、救いようがなくて、なんの希望も持てないことを理解すれば、あっさりと自分を手放すことができます。


でも多くの場合は、希望を持ち続け、バカをカモフラージュしながら、「ちょっとした人」を生き続けるのです。

それもしかたがない。

バカだから。


あはは、昨日の黒斎くんよりもっと過激になってきた。



そういうお前はどうかって?

そりゃあなた、正真正銘のバカです。

バカが消えるのは阿部が消えている時だけ。





今日の最後にどんでん返しのオチを言えば、実際にはこの世にバカは存在していません。

存在しているのは目覚めた純粋意識だけだから。


そしてすでに誰もが純粋意識なので、それを獲得する必要もありません。


だからいままで通り当分はバカを生きるとしましょう。

心底うんざりするまでね(^^)


ま、気楽にいきましょう。









  


Posted by Toshiro Abe at 08:50Comments(13)

2021年07月26日

「自分を生きる」ということの真実の意味

何を指針にして生きていますか。

親や教師や人の目が指針になっていませんか。

刷り込まれた倫理や道徳が指針になっていませんか。


これらに主導権を渡してしまうと、決して心の満足は得られません。

何かが違うという感覚を持ちながら生きることになります。


なぜそうなってしまうかと言えば、本当の自分を見失ってしまったから。

自分という存在を、他者の意見によって作ってしまったからです。


これが昨日の瞑想会でお話しした「偽の中心」です。


瞑想の本来の目的は、本当の自分の中心を再発見すること。

それは自分が宇宙全体だったことの気づきです。


そのとき初めて人は自らの直感を指針として生きることができます。


誰に命令されることも支配されることもありません。

社会全般がどんな正しさを持っていようと影響されません。

自らの光が、そして自らの真意が拠り所となります。


これが釈迦が最後に伝えたという

「自らを拠り所にせよ」(自灯明)

の意味です。






「自灯明」という言葉を聞いて、多くの人は偽の中心を持ったまま自分を拠り所にしようとします。

その自分は他者の意見の寄せ集めであり、迷いと怖れに翻弄されていて定まるところがありません。

だから拠り所になどできるわけがないのです。


全体としての自分を発見して初めて人は、自灯明を生きることができます。

そしてその時、本当の個性が開花します。


偽の中心を持った状態は、真の個性ではなく借り物の個性、すなわち社会用の仮面を生きることになります。

繰り返しますが、そのような状態では、いかに社会的に成功しようと決して満足を得ることはできません。


満足とは本当の個性を生きることだからです。


社会人の生き方は、みんな似たように見えます。

目には生気がなく、まるでロボットのようです。


本当は一人一人が極めて個性的なのです。

それが総じて、宇宙的秩序による人類の開花に繋がります。


イミテーションからリアリティへ。


これが人生の究極目的であり、喜びに至る唯一の道です。








  


Posted by Toshiro Abe at 08:40Comments(11)

2021年07月25日

静寂

Face Bookでは、何年か前にアップした記事が書いた本人に紹介されるけれど、今朝なにげに開いたら3年前の今日の記事と写真が出てきました。


文章にはこうあります。


この会場も8年間にわたり、毎月使わせてもらってきたけれど、なんとなく次の段階に移る予感がしている。

これからどうなっていくのか、先のことはわからないからワクワクして面白い。

でも何がどう変わっても、いまここの静寂は何も変わらない。

ずっといまここにあるんだなァ。



当時からいまの変化を予想していたんですね。






両国の会場。

懐かしい人も多いのでは?


ちなみにこれは皆さんが瞑想から出てくるときの写真です。


この時感じていた静寂も、いま感じる静寂も同じもの。

この静寂はいついかなるときも心の底辺に流れていて、

増えることも減ることもなく、

決して汚れることもなく

生まれることも滅することもありません。


これはいつも「いまここ」にあるのです。


誰もが持つこの次元から見れば、何一つ起きてこなかったし、これからも何一つ起きることはない。

そしてここでは意見が消えているので対立することもない。


この静寂をあらゆる人が感得したとき、本当の平和が訪れるんですね。


今夜もあらゆる意見から離れて「ここ」に戻りましょう。



アドレスはこちらです。

https://youtu.be/T4awBzg8ZYo






  


Posted by Toshiro Abe at 09:36Comments(9)

2021年07月24日

微細なる神気

夜、誰もいなくなった天河神社の神前で瞑想していました。

心に迷いが生じたからです。


そこに漂う神気を言葉で表せば、空気の粒子が極限まで細かくなった感じ。

しっとりと優しく、すべてのことに「いいよ」と言ってくれているのがわかります。





これと同じ空気は、人生で2回経験しています。


一度目は、天河神社でのご奉公を終えてすぐ、偶然が重なりインドのOSHアシュラムに行ったとき。

アシュラムもよかったけれど、サニヤシン(OSHOの弟子)たちが暮らす小さな集落はまさに天河と同じ微細な空気に包まれていた。

OSHOが亡くなる半年前のことです。



もう一回は嵐の沖縄で野外コンサートを決行したとき。

奇跡が何度も重なって、コンサートが無事に終了しようとしたとき、会場の「くるくま」を覆った神の気。


そのときは思わず

「まるで天河だ」

と声を上げていました。


何も信じられなくなっていた僕の中で聞こえた声。

「この現実を誰が作っていると思っているのか!」

威厳のある男性の声でした。


このエピソードを忘れないようにとコンサート終了後すぐに書き留めた手記は、ブログにもアップしています。

かんながら月光編




かんながら たまちはえませ





明日(日曜日)の瞑想会のアドレスはコチラです。

https://youtu.be/T4awBzg8ZYo






  


Posted by Toshiro Abe at 11:50Comments(8)

2021年07月23日

シンプルライフ

とんでもない暑さが日本列島を襲って、数々の醜聞と開催反対の声の中、今夜はオリンピックの開会式。

いろいろな考えがあるとは思いますが、これしか起きていないのだから、これをどう楽しんで人生物語の一部にするかは個々のセンスにかかっているわけで、スポーツ観戦が好きな私としましては、各種競技の世界大会が見られるのはとても楽しみであり、今日から2週間は人生最後の国内開催オリンピックを満喫しようという所存です。


人の数だけ世界があって、人の数だけ考え方があります。

そのどれが一番正しいのかみたいなバカな比較はやめにして、いまここにある天地いっぱいの命を感じながら、全てに達観して生きたいものです。


起きていることは一つでも、世界は人の数だけあることを忘れなければ、なんだっていいじゃないかという感覚を持つことができます。

みんなが同じ世界を生きていると思うから、自分とは違う意見の人に腹が立つのです。



そんなわけで、後先のことに惑わされずに、いまという唯一のリアリティに触れる時間を増やしましょう。


それ以外は、各々のマインドが作り出している夢物語。

一日の中で、思い出したら間髪入れずにすべての行為を「Stop!!」して、それまで関わっていた世界から完全に手を引きます。


皮肉なことに、手を引いて初めて真実の体験が可能になります。

それまで関わっていたと思っていた現実は、絶え間なく紡ぎ出していた自分本位のストーリーであり、真実ではないからです。



ダイレクトにいまと出会うこと。

これがブッダフッドと呼ばれる境地であり、人間の大人以外は幼児たちも他の生き物たちもみんなそうやって生きています。


ただし彼らは、そのことに無自覚です。

人間だけが自覚と共にブッダフッドを生きることができます。


この自覚こそが宇宙をより豊かにしている力。

何故なら宇宙は意識だから。


また壮大な話になってしまいました。





それはともかく、今日から沢山の一流アスリートたちの活躍を見られるというのは有難い。

難しいことは難しいことが好きな人たちに任せて、シンプルに生きていきましょう。


それにしても静岡のお茶は美味い。


そんなこんなで、みなさんごきげんよう。






  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(13)

2021年07月22日

幸せへのちょっとした工夫・追記

昨日紹介した感謝の行。

どんな具合ですか。


中には上手くいかない人もいるかと思います。

こんな気持ちでいるのに感謝なんかできないよというものです。


大抵の場合は被害者意識になっていて、心に恨みつらみや怒りが溜まっているので、それらが収まるまでは感謝などできるはずがないと感じます。

そして言うまでもなくこれらの感情が不幸をもたらしています。


そのような人へのアドバイスですが、心に怒りをためたままでいいから、表面的だとしても感謝の気持ちを持とうとしてみることが大切です。

完璧に成し遂げようとしないで、上辺だけでいいから、やっているつもるになってみるのです。

それでもやらないよりマシです。






苦手な相手に無理やり感謝の念を送った時、その恩恵を受けるのは相手ではなくあなた自身です。

なぜならすべてはあなたの中で起きていることだから。

究極的には自分も相手もなくて、すべてはあなたの意識が織りなしているドラマです。


ですからそのドラマを癒していけるのはあなたしかいません。

たとえ形だけの感謝だとしても、それを試みた分だけ癒されています。

それくらいの緩い気持ちで実践してみるといいでしょう。



昨日も伝えたように、我々の自我はすぐに何かを批判したがります。

自我自体が苦しみなので、その苦しみを少しでも和らげるために、心の中で批判したり罰したりするのです。


批判すればするほど、分離した自分を強く感じることになります。

その分離感がさらなる心の痛みをもたらし、それに従って批判が強くなります。

無自覚でいれば、このようなマイナススパイラルに巻き込まれてしまうのが我々の日常です。


多かれ少なかれ誰もがこのような状況にあることを知れば、自分を卑下することもなくなることでしょう。


ドラマの配役やシチュエーションは違えども、みんな似たような旅をしているのです。


気楽にいきましょう。


愛と勇気が友達です。






  


Posted by Toshiro Abe at 10:38Comments(12)

2021年07月21日

幸せへのちょっとした工夫

先日の向禅師の法話の最後のメッセージをシェアします。

向さんは眠る前に、今日出会った人を一人一人思い出すのだそうです。


そしてその一人一人を心の中で描きながら

「ありがとう」

と伝えるのだとか。


僕は何でも試してみるタイプで、さっそく一昨日からやってみました。

まだ二日目ですが、これがすこぶるいい。


ともすれば流されてしまいがちな毎日の中で、こうして立ち止まって感謝を伝えるのは大切だと思いました。


もしあまり好きではないタイプの人がいたら、自分の内なる反応を引き出す役目を負ってくれたのです。

それは掛け替えのない人です。

だって1億人以上の中から、自分のためにそんな役目で登場してくれたのだから。


そうやって振り返ると、いかに多くの人たちによって自分が生かされているかを自覚します。


ああ、ありがたい。



この感謝の心こそが幸せに直結する道です。

うっかりすると文句ばかり言っている自分をニュートラルに持っていくためには、出来事を感謝の心で振り返るというのはアリです。


究極的には、我々の目の前に現れる人の目的は一つしかありません。

それは我々の覚醒を促すためです。

表面的にどう見えようと、全ての人は自分にとって神の使いなのです。

実際に目覚めたとき、そう思う人は多いでしょう。






だから今日出会った人たちに、心から「ありがとう」。

そして一人一人の幸福を願います。



これは他でもない、自分が幸せであるための秘訣だと思います。

どうぞ一度試してみて下さい。


「出会ってくれて、ありがとう」







  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(15)

2021年07月19日

人はどうして固執するのか

昨日のミニ講演は久しぶりに娑婆の話。

全勝優勝した白鵬への感想と、オリンピックのこと。


僕なりの考えが口から出てきたけれど、一夜経ってみればどうでもいい話です。

子供の頃に、自分の考えをしっかり持つようにという教育を受けたので、若いころから政治信条など、一つの意見にこだわるようにして生きてきたと思います。


あるときは酒を飲みながら意見の違う友人と口論したことも。






口論して何を得たかったのか。

自分の正しさを証明したかったのだろうか。

相手を負かしたかったのか。


いまとなっては、そんなのどうでもいい。


意見などというものは、たった一つの情報で簡単にひっくり返ってしまうし、単に受け取り方の問題だったりもします。


TVでもネットでも、口から泡を飛ばしながら、あの人は正しい、あいつは間違っている的な話が横行して、

「あなたはどう考えますか」

みたいな振りも多く見られます。


「あなたはこのことをどう考える?」

と聞かれたとき、向禅師はこう答えていました。


「なんでワシが考えなきゃいかんのだ」


あはは、こりゃいいや。



家族間でも仲間内でも意見が対立する場面があるかもしれないけれど、ほぼ例外なく

「そうだね」

と言っていれば世の中丸く収まる。


自分を主張しなければいけないことなんか、本当に少ないしね。

相手がそう考えるなら、それでいいじゃないって感じです。


何を考えようが、何をしようが、起きることが起きているのだから。



春が来て、また冬が来て

去り行く命、生まれ来る命

泣く人がいて、笑う人がいて

この世はすべて事もなし



30年前に作ったこの歌は、いまも、そうだなァと思います。



何も起きなかったし

これからも何も起きないことでしょう。



話は変わりますが、すっかり家族の一員になった迷い猫のクレハさんが、昨夜の生配信でいい仕事をしてくれました。


猫はいつもいまを生きていて、瞑想の達人です。


そんな昨夜のクレハさんを3分間のショート動画にまとめました。








  


Posted by Toshiro Abe at 10:02Comments(14)

2021年07月18日

過ぎていくから心配ない

人生で起きることのすべては過ぎていくことばかり。

いいことも、悪いことも、次々に訪れては過ぎ去っていきます。


そのたびに一喜一憂する自分がいるけれど、過ぎてしまえばみんな同じこと。

何を大騒ぎしていたんだろうってね。


もしかしたら根っからのサスペンス好きで、いつも刺激を求めていたかったのかもしれない。

だからとりあえず大騒ぎして、生きているという実感を強く味わいたかったのかも。



最近はそんなころの自分を味わいたくて、何か起きた時に大騒ぎしようとするんだけど、どうにも集中できない。

すべてはスクリーンに映った幻だって知ってしまったからだろうか。

それとも単に歳を取っただけなのか。


たぶんその両方だと思います。

いまでもドラマが起きては過ぎていくけれど、そこに参加する自分は消えていて、いまはただ起きる現象を見守っています。


このような心境も、そうではない時期があったから味わえるのであって、最初から達観していたら人生は面白くありません。

出来事に巻き込まれるならとことん巻き込まれて、ニチモサッチモいかなくなるくらい巻き込まれて、疲れ果ててすべてを投げ出したときに

「あー、そうだったのか!」

ってなるのも悪くないですよね。



それまでの思い込みが強ければ強いほど、それらが見抜かれたときの解放感はまた格別です。

もしかしたら、その解放感を味わいたくて、わざと自分を締め付けて苦しめていた可能性さえあります。


したがって何でもいいのです。

挫折しようと成功しようと、夢に違いはないのでどちらも似たようなものです。

そう思えば何でもできるし、何もしなくてもいい。

どっちだっていいのだから楽勝です。



そんなわけで、今日も好きに生きるとしましょう。

何が起きてもすべては過ぎ去っていく。


だから心配ないよね(^^)


・・・・・・・・・・・・


今夜の瞑想会アドレスです。

過ぎ去ったものは過ぎ去ったままにして、世の中からも手を引いて、誰でもない人になって、一緒に時間を過ごしてみませんか。

https://youtu.be/CbwR7dT0vso






  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(11)

2021年07月16日

妄想時代

「天河瞑想道場」

ZENサンガ会員だけでなく、瞑想したい人は誰でも使える施設を目指しています。


人々が人生での役割や経験してきたことなどを横に置いて、誰でもない人に戻って、自らの純粋生命に触れていく。

そこにこそ人生最大の秘密が待ち受けていていることを教示する場でもありたいです。


すべてに吉野杉(人の意識を浄化しやすい)を使用し、ただそこにいるだけで邪気を祓ってくれるような空間を作る。

たとえばいまの天河神社の神前がまさにその気であり、あたりの空気の粒子が細かくなったような優しい波動です。


そして目の前には禊殿と高倉山(ご神体)と禊場の滝。

眼下には天の川が流れています。

星を観ることを目的にした庭では頭上にも天の川が流れている。






なんてことを、一人で想像して楽しんでいます。

大抵の場合、この手の計画が動き出すと、出来上がるものは当初の予想をはるかに超えた良いものだったりします。



そんな楽しみを胸に今日も淡々と生きています。




  


Posted by Toshiro Abe at 13:11Comments(11)

2021年07月14日

少年時代


みんなみんな何処へゆく

街に花咲く乙女たちよ


大昔の歌謡曲の一節です。

誰もがいつか恋をして、どこかに嫁いでいくんだろうなと歌っています。


このころの乙女たちも、はや70代。 

どんな人生を歩んできたのでしょう。



この歌を口ずさんでいたのは小学生のころ。

急に当時を懐かしく思っていたら、妹が、あの頃の通学路をまた歩いてみたいなんて言いだすものだから、今日は妹と浜松で待ち合わせしました。




あの頃片想いだった同級生はどうしているかなぁ。

そんなわけで少年時代を探してきます。





  


Posted by Toshiro Abe at 12:53Comments(13)

2021年07月12日

直接体験

無数の言葉を使って真実を表現しようとしても、いつも遠巻きの説明に終始してしまいます。

ところが真実に対する直接体験があれば、わずかコンマ数秒で、何千冊もの書物を超える理解が訪れます。


この直接体験は、ある種の条件を満たしたときに訪れるのではなく、いつもいまここに用意されている永遠の真実です。





実際のところあらゆる経験はいまここにあり、直接性を持たないものはありません。

過去や未来を想像する思考も、いまここにおける直接体験です。

ところが人は、思考を一過性の現象と捉えるのではなく、その思考が紡ぎ出すストーリーに埋没してしまいます。

夢を見だすのです。

これがすべての迷いや苦悩の素になっています。



昨夜の話は、人間が陥ってしまった状況について語りました。

この話が理解できれば、もう他に知るべきことはありません。


時空間という幻想も

分離した自己という幻想も

ストーリーという幻想も

すべてはたちどころに消え失せます。


どれか一つの幻想が消えることで、他のすべての幻想も消えて無くなるのです。


それは直接体験によって可能になります。

動画を見る時は、自分の意見をいったん横に置いて、何を言おうとしているのかを身体で感じようとすれば、答えに誘われるかもしれません。


こうしてショート動画をアップするのも恒例になってきました。


昨夜は最初の15分間、ずっと口パク状態でした。

その間に1200を超えるチャットの書き込みがありましたが、意外なところで盛り上がるものですね。

やはりその部分はカットしてお届けします(^^)






・・・・・・・・・・・・


8月のハートマントラ伝授の予定が決まりました。

チャクラマントラ瞑想は、これからの人生の相棒になってくれるでしょう。

詳細はコチラから。







  


Posted by Toshiro Abe at 09:09Comments(13)

2021年07月11日

今夜の瞑想会

7月7日のNIKE瞑想会を見て、何があるわけではないのにただただ温かい時間を過ごすことができました。

智子さんと普仁くんには何の作為もないのに、見事なコンテンツが出来上がっていた。

二人の人間性もあるのでしょうが、猫のプーちゃんも含めて、完璧なチームワークだと思いました。


これからの時代は、たとえそれがどんなものであっても、そこに愛があるかどうかが最も大切な要素になってくることでしょう。

水曜日の生配信はマントラ瞑想を実践している人が対象ですが、配信後はこうしてみなさんにも公開して、瞑想に役立ててもらえたらと思います。

コチラから



今夜は僕が天河からお届けします。

天河の家に住みついた猫のクレハさんは、プーちゃんほどのタレント性はなく、せいぜい寝たままだと思いますが、もしその時間家にいたら出演してもらいます。

白猫のプーちゃんと黒猫のクレハさん。





今夜も頑張ります(^o^)

https://youtu.be/FAWHF0nfQ1s




今日はこのあと15時半から、天河神社でサンガ12期会員のみなさんのご祈祷をしてもらいます。

会員ページの「ライブ配信」からご覧ください。

15分くらい前からだと余裕で入れます。



7月16日と17日は天河神社の夏の例大祭。

昨日から神社周辺には大きなノボリが何本も立っています。

平成元年の今頃は、汗をかきながらノボリを立てて回っていました。

まるでタイムスリップしたみたいです。



それではまたお会いしましょう。




  


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2021年07月10日

ただ・いま

言葉で伝えられないことを言葉にすることは、やりがいがあることです。

時折、自分でも想像しなかったような表現が出てきて、内心「やったー!」と喜んだりもします。

でも結局は言葉で伝わりようのないものであり、気づけばまた振出しに戻っています。


そんなことを繰り返しながら何十年も経ちました。

おそらく何百万の言葉を駆使してきたと思いますが、にもかかわらず伝えたいことは一つであり、いまだに伝わりきっていません。


伝えたいのは時間とストーリーがない世界。

空想や妄想ではなく、いま目の前に起きているリアリティーのこと。


こんな明白な事実を無視して、マインドが作り出す架空の物語の中に埋没してしまうのが人間なのです。

それもいまに始まったことではなく、わかっているだけで何千年も前から同じ錯覚の中にいます。


イエスは言います

「あなたがたは何千年も夢の中に生きてきた。もう十分だ。目覚めなさい」


あれから2000年経っても人間は同じままです。

夢の内容が近代化されただけで、夢を見ていることに違いはありません。


しかも人類の苦しみや暴力は、すべてこの夢から発生しています。


時間という幻想を見抜けば、各自のストーリーは消滅します。

そして探していた全てがすでに手中にあることを見出すのです。



ストーリーとは何でしょう。

ズバリ言えば、自分や世の中が、どこかに向かっているという感覚です。


起きていることをより良くするために自分がいると考えるのです。

物事には「あるべき姿」があり、いまのままでは十分ではないと。


より幸せに、より自由になるために、今日も生きるというわけです。


そうやって何十年も生きてきて、どこに至りましたか。

あいかわらず目の前には問題や足りないものがあるのではないですか。


これがストーリーという幻想の特徴です。

どこまで行っても、どこにも行き着かないのです






目覚めとは、いまが結果であるということ。

このいまの中には意味も目的もなく、ただ宇宙エネルギーが戯れのように表現されているのです。


この宇宙の戯れを、古代ヒンズーの人たちは「LEELA」(リーラ)と呼んできました。


そういえば、30年前に活動を始めた当時の名称が「リーラ」でした。

いまブログを読んでくれている人やZENサンガの中にも、リーラ時代の受講生がいます。



当時もいまも同じことを伝えていますが、これからも変わることはありません。

真実は実にシンプルだからです。


ただ・いま


この言葉をどのレベルで理解するか。

そしてこの感覚があなたの中に定着したとき、実際には何もしなくていいことを発見することでしょう。


なぜなら、いまが結果だからです。



こうして自分の言葉で真実を解説できることは嬉しいことですが、同時に限界を感じながらの毎日です。



かんながら  たまちはえませ







  


Posted by Toshiro Abe at 08:57Comments(13)

2021年07月06日

純潔なるもの

あなたは、あなたの過去ではなく、いまを生きる純粋な命です。

過去に起きた何事も、いまの純粋な命を汚すことはできません。

あなたは、いままでにあなたに起きたこととは何の関係もないのです。


いままでに起きたことや、いま起きていることや、これから起きるかもしれないことを、どう考えるかが、あなたのストーリーを作り出しています。


こうするべきなのに、それができない自分は・・・

私を裏切ったあの人は・・・

子供の頃に虐待された私は・・・

誰にも愛されない私は・・・

不幸な運命の私は・・・

というように、ストーリーが自分を定義するとき、自由が制限されます。


誰でもない人になることの大切さはここにあります。

なぜなら、いまのあなた自身は、ストーリーによって決められたあなたではなく、誰でもない純粋な命だからです。


すべてのストーリーは狭い視野の中で、さも事実のような顔をして展開しているフィクションです。

そのフィクションの中心に、フィクションの自分がいます。


夢から覚めるというのは、フィクションの「自分という夢」から覚めること。

そのとき、他のすべての夢も霧のように消え失せます。


何度も言いますが、そのための最も簡単なアプローチが、「誰でもない自分」になるということです。


瞑想を始める前に、まずは自分の社会での役割を一つずつ取り去っていきます。


あなたが幾つだとか

父親だとか、母親だとか、

誰それの配偶者だとか、独身だとか

会社の部長だとか、就活中だとか

生い立ちがどうとか、性格がどうとか

そういったすべてを、少しずつ外していくのです。


そして残るのが、まさにいま存在している純粋生命です。

それがあなたであり、生まれてからずっとあなたとして何も変わらずあり続けています。


この純粋生命は、いままで一度たりともあなたから離れたことはなく、ましてや失くしたこともなく、傷ついたことも汚れたこともありません。

それは現象界を超越しているので、この世の出来事に影響されていないのです。







ちょうど大空が、どんな黒い雲に長年覆われていても、何も変わらず純粋なままなのと同じです。


雲とはストーリーを作り出す思考のようなもの。

そしてあなたは思考ではなく、雲ではなく、大空そのものなのです。


その大空は、全ての存在が共有して持っているものであり、個人的なものではありません。

だからあなたは全体だと言うのです。



いつも同じ話ばかりしますが、この一点さえ見抜けば、たとえいまどんな苦しみの中にいようと一瞬にして救われます。



僕はこの世から苦しみを減らしたい。


ただそれだけです。







  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(35)

2021年07月05日

鳥かご

自由とは、

私が自由になるのではなく

私から自由になることだ。


そんな言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。

まさにそのとおり。


自由を阻んでいるのは他者でも環境でもなく、それらを解釈している自分です。





それでは自分から自由になるにはどうしたらいいのか。

存在のからくりのすべてを理解すればいいのか。

高い意識を獲得して、自己の不在を見抜けばいいのか。


いえいえ、もっと簡単なことです。

それは僕が瞑想会のたびに伝えてきたことに尽きます。


「誰でもない人」になること。


私はこういう人間だという社会での役割や、過去の経歴や経験を横に置いて、ただいま存在しているあるがままの命に落ち着くことです。


そのとき純粋な命としての存在だけが残り、特定の過去を持った特定の人は消えます。


そこに浸透してくるのが自由なのです。


あなたを閉じ込めている鳥かごの正体は、あなたの過去の記憶です。

そしてそれは実際には存在していません。


人間はありもしない檻によって閉じ込められているのです。



昨日の瞑想会では坐禅と瞑想との違いを解説しました。

坐禅も瞑想も誰でもない人になるという点で共通しています。


できたら一日に2回、特定の個人としての自分を横に置いてみる。

この習慣が、あなたに洞察を与えることになります。


これは知的に学習することではなく実践なのです。












  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(11)