2009年07月31日

涅槃

昨日行った場所で一番印象に残ったのは、チェンマイを代表するドイステープという寺院でした。


せっかくカメラを持って行ったのに、写した写真は数枚で、しかもあんまりお寺とは関係ない写真ばかりです。

何かというと、境内に入るには靴を脱いで地面を裸足で歩くんですが、そこを歩いていたら、猫が寝ていたんです。


しかも祈りの中心地みたいな仏舎利塔の入り口で、しかもこんな恰好で。










もっとアップにして角度を変えると、こんな格好です。















その仏舎利塔の周りの回廊を3周してお祈りするのですが、その回廊の中にも、しかも仏像の足元に、兄弟とおぼしき猫が・・・

















アップにすると










死んでるみたいだけど、二匹とも気持よさげに寝ているんですよ。



この安心しきった寝姿は何を意味するかといえば、この寺院の人も、そしてここを訪れる人たちも、みんな心優しい人たちだということです。


日本のお寺だったら、係員に追い出されるのではないでしょうか。

「ここはお前のようなモノが来る所ではない!」・・・みたいなね。



ところがここには、そのような権威的な威圧感が何もないのです。


「みんなおいで・・・みんな同じ命だよ」・・・みたいな。



それでいて澄みきった神聖な波動が、あたり一面に漂っていました。




優しいっていいですね。

どんな立派な真理よりも、優しさが好きです。




あー気持ちがよかった。

本当に、ものすごく気持ちがいい場所でしたよ。







おまけ

無理やり2ショットに納まろうとする変な日本人。
       ↓





また明日ね(^o^)/  


Posted by Toshiro Abe at 08:45Comments(100)

2009年07月30日

ボブさん

おはよう!!

昨日無事に到着しました。

チェンマイは豊かな緑に囲まれた、とても美しい町です。


なによりホッとしたのは、こうしてネットに自由にアクセスできること。

この数年で世界のネット環境は飛躍的に向上したみたいですね。



今日と明日は集中訓練の予備日で、本格的な瞑想は明後日から始まるそうです。

集中瞑想した後は新陳代謝が下がりっぱなしで遊ぶ気にならないそうなので、今のうちに思い切り楽しんでおいたほうがいいとアドバイスを受けました。


ということは2日間は遊べる??



昨日はフルフィルメント瞑想の創始者であるボブ・フィックスさんが、空港まで迎えに来てくれました。


ボブさんとの最初の出会いは、15年ほど前にボブさんの著作「アセンション」を読んで感銘を受けたことに始まります。

その後、勝手に<かんながら・天河の巻>の中に、ボブ・ミラーという名前で登場してもらいましたが、その時は、まさか実際にお会いする日が来るとは夢にも思いませんでした。


15歳でマハリシ・マヘッシ・ヨーギに弟子入りしたのが50年前と言いますから、もう65歳になられるはずです。


でもね・・・・どう見ても40代そこそこにしか見えないんですよ。

うっかりすると30代に見えます。


やはり瞑想を長く続けている人は、実年齢よりも10~20歳は若く見えるんですよね。

キラキラしていて、素敵な男性です。


滞在中に彼といろんな話ができることも楽しみの一つです。



とりあず今日はエンジョイさせてもらいます。


明日は写真をアップできるかもしれません。

また見に来てくださいね。



そんなこんなで、チェンマイでの初日がスタートしました。




また明日ニコニコ
  


Posted by Toshiro Abe at 09:14Comments(73)

2009年07月29日

いつまで経っても同じ「いま」・どこまで行っても同じ「ここ」

20年以上も前の日記に「いまを生きよう」って書いてありました。

この先いくら時が過ぎても、相変わらず「いま」があるだけだから、あわてず騒がず、淡々といまを生きていこうって書いてありました。


あの時に予想したように、いまも相変わらず同じ「いま」があって、あの時と同じように自分が「ここ」にいます。

ということは、これから何年たとうとも、やはりこうして「いま」があって、同じように希望を胸にした自分がいるんでしょうね。


自分が今以上には幸せにならないということを理解するのは、自分にとって最高のプレゼントになります。

なぜなら、その時初めて「いま」を生きられるからです。

そうしないと、ずっと未来の幸せを夢見て暮らすことになってしまいます。




それじゃ、行ってきます。


でもね、どこに行っても同じこと。


やっぱりいつも「いまここ」があるだけだから。



この世で一番の旅は、遠い異国に旅することではなく、自分の内側の旅だと思います。


今回の旅も、実際には内側の旅なのです。


また「いまここ」でお会いしましょう。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:25Comments(63)

2009年07月28日

ゾルバ・ザ・ブッダ

夏の風物詩と言えば花火ですね。

夜空一杯に開く花火の美しさは、他にたとえようがありません。

しばし時を忘れて、幻想ショーに酔いしれてしまいます。


もし花火が、バッと開いたまま消えなかったら、あそこまでの感動はないでしょうね。

消えるからこその儚(はかな)さであり、美しさだと思います。



僕はよく、現世の喜びは儚いものだという言い方をしますが、だとしたら儚さを楽しめたらいいですね。

お金も、地位も、名誉も、何もかも、全ては移り変わっていきますが、それらを手に入れることが悪いわけではありません。

それを束の間のものとして楽しめばいいのです。

もちろん同時に知っておくべきことは、外側の所有物や快楽は、決して僕たちを心から満足させてはくれないということです。

心からの満足は内側の真理でしかないからです。

それは神との合一であり、それ以外にはありません。


そのことを知った上で、この現象界を楽しんでいきましょう。

これも神が与えてくれた機会なのですから。


あれはいけない、これもいけないと、自分から喜びや快楽を遠ざける必要はありません。

そんなことと、精神的な成就は何の関係もないからです。

僕たちには、この世の満足を全て味わう権利があります。


ただし執着しないこと。

そして、それらがもたらしてくれる限界を知っていること。

その儚さを知った上で、一瞬の美しさに身を投じるのもいいものです。

ちょうど花火の幻想ショーを楽しむようにね。



この世には本来、いいも悪いもありません。

生涯にわたって世の中の教師たちから、たくさんの立派な生き方を教わってきましたが、そこから何を採用して、どんなルールで生きていくのか、最終的に決めたのは自分自身です。

自らを見張り、そこからはみ出しそうな感情が芽生えると自分を責めながら生きてきました。

楽しみは後回しにして、重荷を背負い、真面目に、深刻に、坂道を登って来ました。

僕たちはすでに自分なりの人生脚本を書き終えています。

そしてその脚本に沿って忠実に生きているのです。


そんな生き方を茶化しているんじゃないですよ。

すべては自分が作り出しているという事実を指摘しているだけです。



僕はこう考えています。

一度きりの人生、思いのままに生きていこうと。

欲しいものはすべて手に入れて、外側での束の間を楽しみ、内側で永遠を達成しようと。



高徳な聖者よりも、ちょい悪ブッダが目指すところです。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:52Comments(52)

2009年07月27日

神の仕事場

人間は、自分のことを特別な存在だと考えがちです。

人よりも何かが勝っているとか、密かに神から選ばれた人間であるとか。

あるいは反対に、誰かが幸せになったとしても、自分にはその資格がないとか、自分には運も才能もないから、大した成功はできっこないとか・・・

両方とも特別意識の現れです。

どちらにせよ、自分は人とは違うという感覚を持ちたがるようです。


しかし残念ながら、神の目から見た時、人は何一つ変わらないと言ってもいいくらいに同じに見えます。

そして、神は決してエコひいきをしません。

誰かを優先したり、誰かを見失ったりすることはないのです。


それはちょうど太陽が、誰のことも同じ光で照らすのと似ています。

太陽もエコひいきをしませんね。


ただ、その光を受け取る側が、心に大きな傘をさし、自分を閉ざしてしまえば光は届きません。

それは受け取る側の問題であって、与える側の問題ではありません。


神はいついかなる時も、僕たちを光で満たそうとしています。

「彼」の関心は、僕たちが幸せであることだけです。


そのための見えない援助は、片時も休むことなく続いています。



最近、神と言う言葉を多く使うようになりましたが、どこかで開き直ったのかもしれません。

以前は極力誤解されないようにと、様々な表現で神を言い表していました。

でもこれからは、「神」を多用していきます。

僕が神と言った時、それが何を指し示すのかは、過去ログで繰り返し説明してきたので、もう必要ないでしょう。

それは僕たちを生かして止まない、無限の力です。


僕たちは、自分で人生をコントロールしていなければ、いずれ混乱に陥ってしまうと考えがちですが、それは大きな間違いです。

そこには神に対する信頼がありません。

それこそが、心の傘になっているのです。

もう一度言いますが、神の意図は、僕を、あなたを、幸せにすることでしかないのです。



一時、引き寄せの法則が流行りましたが、確かにあれには一理あります。

意識の力が、現象界に作用すると言うのは本当です。


しかし、人間が思い描くビジョンは、神のビジョンに比べたら、取るに足らないくらいに貧しいものです。

たとえそれが巨万の富に結びついたとしても、真実の愛から見れば紙屑のようなものです。


それを理解できたら、自分のビジョンを神のビジョンにすることです。


わかりやすく言えば、自分の人生を神の仕事場にするのです。

そうすれば、考えられる限り最高の自分になって、最高の人生が展開します。


神の仕事場・・・それは何だと思いますか。

それはいつも「いま」、愛を選択していく生き方です。


後は神にお任せです。

それは自分が頑張って生きていたころよりも、比較にならないくらいスムーズで楽しい人生を与えてくれます。


それが神の仕事だからです。



あはは、いっそクリスチャンになろうかな(笑)



・・・・・・・・・・・


明日は中城村で「いまここ塾」があります。

明後日の「水曜の会」からお休みになります。

8月18日に帰国し、そのまま那覇市てぃるるで「いまここ塾」を開きます。

8月22日は博多、23日は大阪です。


暑い毎日が続きますが、お体を大切にご自愛ください。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:56Comments(39)

2009年07月26日

7月26日の日記

先日、ずっと長いこと放っておいた虫歯の一部が欠けてしまいました。

痛みはないのだけれど、それからというもの、僕の舌はその欠けた部分をまさぐり続けています(笑)

似たような経験はありませんか?


欠けた先が尖っているので、舌が少し傷つき、そこは痛みがあるのですが、それでも無意識にその部分に舌が向かってしまいます。

どうやら欠けた部分がとても愛おしいようです。



全般的に人間というものは、足りない部分や、うまくいっていない部分に意識が向かうようです。

そこ以外は全部満たされているのに、うまくいっていないワンポイントを考え続けるのです。

そして落ち込んだ気分を選んだりもします。

自分の中には何百ものうまくいっている部分があるのだから、そちらのほうにフォーカスして生きていたいものです。


もし何かの悩みに圧倒されている人がいたとしたら、その悩みは自分自身のほんの一部でしかないことを思い出してください。

そこに気づけば、そのほかの健全な自分から、多くのメッセージがやってくることがわかります。

悩みから逃げたり葛藤したりするのではなく、ただ静かに自分と一緒にいるのです。


大丈夫です。

すべてはうまくいく方向に向っていますから。

その力が自分の中にあることを信じて下さい。




さて、昨日の東京ライブは、僕自身がものすごく楽しませてもらいました。

みなさんが心配してくれたように、少し調子に乗って飲みすぎました。

しかも搭乗時間にぎりぎりセーフで、タクシーの運転手さんにも大変お世話になりました。



一夜明けて、今日もすこぶる元気です。



みなさんも、いい日曜日をお過ごしください。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:05Comments(20)

2009年07月25日

7月25日の朝に

今日も思ったままを書いてみます。


人間は、五感から入ってくる情報によってのみ生きているわけではありません。

僕たちはその情報を「現実」と呼び、その現実と対応することで時間を費やしています。

しかしそれが人生の全てではありません。

むしろそれは、命の表面的な小波(さざなみ)のような現象に過ぎません。



それでは僕たち人間とは、いったいどんな存在なのでしょうか。

それは宇宙全体をつかさどる、とてつもなく大きな意識が、人間という体を使って、この物質界に存在することを選んだ、まさに小宇宙そのものです。


小宇宙は大宇宙に比べて、何かが劣っているわけではありません。

そもそも大きさなどないのですが、わかりやすく表現するために「小」という言葉を使いました。


僕たちは、いままでに一瞬たりとも宇宙意識から切り離されたことはありません。

それはいつも、あなたと共にあります。


もし孤独の中で、苦悩の中で、耐え切れなくなってしまったら、自分の内側に向かって心から願うのです。


「宇宙が持つ完全な平和を感じさせてください。本当の安心を感じさせてください」


そして静かな気持ちになって、自分を全体に委ねてみます。

それが大いなる自分との出会いのきっかけになることでしょう。



疲れ果てた時が、チャンスです。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(21)

2009年07月24日

インスピレーションの朝

今朝、思ったことを書きます。



信頼とは、流れを信頼することです。

なぜなら、すべては刻一刻と変化しながら流れているからです。


何一つ固定されたものはありません。

すべては流れの中にあります。


したがって、信頼とは、流れを信頼すること以外にないのです。



もし流れを信頼できたら、肩の荷は全部下ろせます。

だって、何がどうなろうと、その移り変わり(流れ)を作り出している大元を信頼しているからです。


何もかもが、その対極に移り変わっていきます。

もし片方の極だけを信頼していたら、それは時間の問題で失望することになるでしょう。

いかに多くの人が、このようなことで苦しんできたことか。



この先、何が起きたとしても、そのことが次の展開につながっていきます。

忌まわしい出来事が幸となり、ラッキーだと思ったことが災いに転じるかもしれません。


その時々の出来事に一喜一憂するのではなく、その流れに身をまかせながら「いま」に最善を尽くすこと、それが信頼です。

抵抗せずに、まずは受け入れるのです。


だからと言って、何もしないで状況を放置するわけではありません。

投げやりになるのとも違います。

そのような態度も、心の底の抵抗が生み出しています。


秘訣は、抵抗しないことです。


起きていることは、受け入れようが抵抗しようがあるがままにあります。

その起きている事実の単純さと取り組んでいくのです。

そして結果はお任せです。

それを作り出しているのは全体である神であり、部分である自分ではないからです。

そして神は、あなたの味方なのです。


神は生きています。

神とは存在の全てであり、それは刻一刻と、新しい「いま」を創造し続けています。

神とは固定された名詞ではありません。

神とは現在進行形の動詞です。

それは全体の流れそのものです。




信頼とは、流れを信頼すること。

信頼とは、人生そのものを信頼すること。

信頼とは、神を信頼することです。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:16Comments(45)

2009年07月23日

偽物の死と、死なない本物

毎日たくさんの迷惑メールが届きますが、その中に占い関連のメールがあります。

中にはついうっかり開いてしまう人がいるから、こうしてせっせと送り続けるのでしょう。

いつの世も、未来を言い当ててくれるものに人は惹かれます。

不確実な未来を、何かしら知ることによって、安心したいのかもしれません。


でもこの先、あなたの人生に何が起こるかは誰にもわかりません。

それが真実です。


と同時に、ひとつだけ確実なことがあります。

絶対に起こることがひとつだけあります。



死です。


それ以外に、確実なことは何もありません。




死と言う言葉を聞いただけで、イヤな気持ちになる人もいるかと思います。


普通僕たちは、どこかで人の死を聞くと、「あー可哀そうに」と憐みます。

そして自分の死を恐れ、それを忘れようとします。


死は生を破壊するもの。

それが大方の人の死に対する観念です。



でもいつかきっと知る日が来ます。

死によって死ぬのは、偽物の自分であって、本当の自分は何一つ変わらず「いまここ」に在り続けることを。

本当の自分は死なないということを。



それは生死を超えています。

一度も生まれたことがなく、一度も死んだことがないのが本当の自分です。



この身体は死んでいきます。

さらにはその死と共に、この数十年のあらゆる騒動が、みんな煙のように消え去っていきます。

誰かと敵対したことも、悔しかったことも、悲しかったことも、好きな人と思いを遂げられなかったことも、いつも明日を心配していたことも、何かを求めて走り続けたことも、そのすべての大騒ぎが、自分の中から落ちていきます。


それは、考えられる限り、最高の救済です。




その救済を死まで待つ必要はありません。


僕たちは、生きながらにして死ぬことができるのです。

それこそが僕たちの人生で達成できる、最高の経験になります。



瞑想とは、偽物の自分の死を通して、永遠なる本当の自分に出会っていくメソッドです。




来週の水曜日から8月18日まで、タイのチェンマイに行ってきます。

いま学んでいる瞑想の提唱者であるヨーギの方とお会いし、さらに理解を深めてこようと思っています。


その間、ブログをどうしようかと考えました。

というのも、現地では毎日20時間くらいの瞑想生活に入ると聞いたからです。



で、結論ですが、残りの4時間でブログをアップします(笑)

そのためのミニノートPCと、万一のためのグローバル携帯を入手しました。


そんなわけで、タイの報告もリアルタイムでお届けできそうです。



時代は急激に変化しています。

そんな時代にあって、あふれる情報を精査しながら、最も必要なポイントを伝えていきたいと思っています。



今日もここに来てくれてありがとうございました。



  


Posted by Toshiro Abe at 08:54Comments(49)

2009年07月22日

ほら、目の前にあるよ

毎日こうして伝えたいことは、普遍的なことで、時代を超えていて、誰にでも当てはまる極めて単純な事実です。

そのことは古今東西、様々な言い回しで、様々な角度から表されてきました。

禅もその一つですし、いまや多くの書物でそのことが伝えられています。



しかしなぜか言葉になると、とても凄いことのように見えてしまうのです。

本当は、真理とは、あまりにも当たり前すぎて忘れてしまったことであり、少しも難解なことではありません。

だって、知ろうとしている自分自身が、探し求めている真理そのものだからです。


ちょっと想像してみて下さい。

僕たちには五感がありますが、仮に味覚しかなかったとしましょう。

そして宇宙の真理を、味覚によって知るしかないとします。


その宇宙の真理の味はどこにあるのかと言うと、自分の舌にあります。

他人の舌ではなく、自分の舌にだけそれがあるのです。

舌はあらゆる外部の味を味わうことができますが、自分の舌を味わうことだけはできません。

それが、僕たちが真理を体感できない理由なのです。



真理は僕たちの身体の奥に、心の奥に、いつも静かに横たわっています。

しかもそのことを、僕たちはよく知っています。

ただ、ずっと自分としてあり続けているので、「それ」を「それ」として認識できないだけです。

一度も失ったことがないので、客観的に認識できないのです。




それは映画のスクリーンによく似ています。

人生という映画をずっと見続けてきましたが、その映像はただ映っているだけの幻影なのに、あまりにも映画の内容に夢中になってしまって、本当の自分であるスクリーンの存在を忘れてしまったのです。


たとえ映画の中で、スクリーンについて語られたとしても、所詮は映画の中のことで、実体であるところのスクリーンを知ることはできません。

唯一の可能性は、瞬間でもいいから映画を映すのをやめることです。

そこに汚れなき、純白のスクリーンを見つけることができます。

それが無思考の状態であり、目覚めと呼ばれる経験です。


もし一度でも、自分がスクリーンであることに気づけば、たとえどんな映画をやっていようと、自分はいささかも傷ついていないことがわかります。

もう映画の展開に惑わされることはありません。



僕がこのブログで、「みんな大丈夫だよ」というのは、どんな惨めな映画を上映していようと、どんな幸せそうな映画だろうと、僕たちは映画そのものではなくスクリーンなので、いついかなる時も純粋で汚れなき存在だから、安心していいよと言うことです。

たとえ映画の中で機関銃が乱射されても、スクリーンは何一つ傷つかないのですから。




さて、このような説明も繰り返ししてきましたが、これを読んでスクリーンをわかったと思ってはいけません。

このブログも、あなたの映画の中で上映されている一コマだからです。



大切なことは、映写機のスイッチを切ること。

あるいは電気をつけて、あたりを光で満たすことです。




今日もここに来てくれてありがとうございました。



・・・・・・・・・・・



9月19日に、向禅師&阿部敏郎のコラボ講演会を大阪で開催します。


参加ご希望の方は、コチラからお入りください。




今日は日食で、沖縄地方は快晴ですが、たとえ日食専用のメガネでも、太陽は直接見ないほうがいいですよ。

どうしても見たいなら、ごく短時間にしましょう。


念のため。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:23Comments(22)

2009年07月21日

あたりまえに生きる

昨日のコメントでも多くの人が書いてくれましたが、向さんの魅力のひとつは、いつも自然体で普通でいることです。

僕たちもそのようにありたいものですが、つい自分を飾ってしまいがちです。


普通でいようと意識するのも、これまたおかしなことで、普通とはこういう状態だという考えは、本当の普通ではありません。

ましてや、誰か自然体に見える人の真似をしてもしかたありません。

ただ自分として普通にあるということです。

それは人の数だけあって、しかも一人の人の中にはあらゆる可能性があるので、これが普通の自分、これが自然体の自分などと呼べるスタイルはあり得ないのです。


ただリラックスして、その瞬間の自分として在ることなのでしょうね。



さて向さんはたくさんの生きるヒントをくれましたが、その中に人との関り方がありました。

人との関わりの中で、何をするべきか、どう喋るべきかを決めるのではなく、相手の存在の深いところまで感じようとする、そんな態度が大切だと話されていました。

まさにそのとおりで、僕たちは相手の表面的な印象や、社会的立場などだけを見て相手を決めつけてしまい、その人を生かしている大いなる存在までを感じることは稀です。


もしそれを感じながら相手と出会ったとしたら、それは何かの形で相手にも伝わるでしょうし、自分が深く承認されている安心感を持ってくれるかもしれません。


今日も出会う一人ひとりに、そんなふうに接することができたらいいですね。



今朝は母のパソコンを借りて書いています。

母は一昨日89歳になりましたが、いまだ現役で、毎朝このブログを読むことを楽しみにしています。

特にみなさんからのコメントが、何より楽しみなのだそうです。


パソコンを操作する母を見ていると、僕はすごい人から生まれてきたと思います。




今週の土曜日はギターを抱えて再び上京します。


ソロライブはまた違った雰囲気を楽しめますので、物好きな方はいらしてください(笑)

詳しくはコチラから。


受け付けは終了しました。ありがとうございました。




このまま土曜日まで東京にいたらとも思いますが、毎週続けてきた「いまここ塾」は、僕にとって大切な時間なので、いまから沖縄に帰ります。


そんなわけで、今夜は那覇市てぃるる(866-9090)で19:30からです。




今日もこのブログに来てくれてありがとうございました。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:26Comments(28)

2009年07月20日

悟りについて

一昨日の大阪、そして昨日の向和尚との東京での講演会にお出かけくださりありがとうございました。

どちらも大変有意義な時間でした。


昨夜は都内のホテルに泊まりましたが、ご一緒した向さんも大変喜んでくれていました。


実は今回の向さんとの本番のやり取りのなかで、改めて学んだことがあります。


それは「悟り」について。



僕はよく向さんを紹介するとき、「向さんは大きな悟りを何度もしている禅僧です」という言い方をします。


ある女性がこんな質問をしてくれました。


「大きな悟りとはどのような経験ですか」


すると向和尚は答えました。


「大きいとはどういう意味でしょう。

本来の我々の命の基盤であるとこころの真実を体験したとき、その体験からどれくらい離れていた自分がいるか、その距離が大きければ大きいほど、気づきの経験は大きくなります。

最初に真実に触れたときが一番大きな経験(悟り)でした。」



なるほどそうか!!!


真実の命(大いなる存在)に、大きいも小さいもないわけで、大きな悟りとかいう言い方自体がおかしかったのです。


僕も内心そうだとは思っていましたが、禅関連の本などに、「大悟」などという言葉を見つけると、まだ自分には知らない次元が存在するような気になってしまっていました。


大きい小さいは、その経験をするときの自分の状態によります。

それまでに、縮こまっていればいるほど、開放感は大きくなるわけです。


したがって大きな悟りを何度もしたというのは、悟ったにもかかわらず、性懲りもなく何度も縮こまったということになります。

少しも褒め言葉ではありません(笑)




一度でも強烈な目覚めを体験した人は、もう一度同じ歓喜を味わいたいと思い、あれこれと修行を試したりしますが、二度と同じ経験はありません。


大切なのは瞬間の歓喜ではなく、日常においていかに真実の地平に立った生き方ができるかです。





この続きはまた書きます。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:52Comments(25)

2009年07月18日

お任せしよう

空を見上げたらね、どこまでもどこまでも高く広がっていた。

この何もない宇宙空間に、ポッカリと地球が浮かんでいて、その表面に僕たちが張り付くようにして暮らしている。


不思議だ。


この不思議が何もわかっていないのに、人間はどうして目先の問題に没頭できるのか、それもまた不思議。


ひとつだけわかっているのは、結局人間は何もわかっていないということだけ。


何もわからないんだから、降参しよう。



宇宙君、あなたにお任せします。

あれもこれも何もかも、全部お任せです。


あなたに比べたら、僕たちはあまりにも微細です。

僕たちは、象の背中に乗っかったノミの足についてるゴミに無数に生息しているバクテリアよりもっと小さな存在です。


そのバクテリアが、他のバクテリアと比較したり競争したりして、中には自称霊能力を持ったバクテリアがこの先の象の運命を予言したりして、まあうるさいのなんのって。


あはは、だからね、じたばたしないでお任せしましょう。





ああ、今日もいい天気だなあ。




今日は大阪のいまここ塾。

またみなさんにお会いできるのが楽しみです。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(33)

2009年07月17日

いまもって修行中

今日は、僕の昔話から入ってみます。


30歳の時、初めて見た超意識の世界があまりに強烈で、すぐその翌日、それまでやっていた仕事をやめてしまいました。

もう一度、ゼロから生き直してみたいと思ったのです。


仕事もせずに、自己流で瞑想したり、本を読んだりしていましたが、やがて経済的に苦しくなってきたとき、業界(芸能界)のドンと呼ばれた人が、救いの手を差し伸べてくれました。



その時、彼が聞いてくれた一言が忘れられません。

「阿部ちゃんは、何が欲しい?」


僕はすぐに答えました。

「死んだ後に持って行けるものが欲しいです」


相手はキョトンとした顔をしていましたが、そんな僕が面白かったのか、その後再び仕事を辞めて天河神社に奉公するまで、とても可愛がってくれました。



あれからいろんなことがありましたが、その気持ちは今でも変わっていません。

お金も、名誉も、人間関係も、何もかも、死が全てを奪い去っていくというのに、そのようなものを集めるために奮闘することが人生だとしたら、あまりにも不条理です。

その空しさを早くから感じ取れたのは幸運でした。



でも、死んでからも残るものが一つだけあります。

それは、自我を超えた、自己の霊格のようなものです。

究極的には自己は存在していませんが、自覚は残ります。

それを高めることが、死んだ後も続いていく魂の旅にとって、唯一の財産になります。


そのためには修行しかありません。


修行と言っても、どこか山奥に独居して、黙々と坐禅をすることだけではありません。

もちろんそれも有効な修行法ですが、実際にそれを選べる人は少ないと思います。


結局は、社会の中にあって、この娑婆(しゃば)に身を置きながら、生活そのものが修行になっていくような生き方が求められます。

多くの人がその道を選ぼうとしますが、しかしそれは、出家して山に入るより、難易度が高い厳しい道だということを忘れてはいけません。

実生活の中では様々な問題が生起し、ほんの少しの油断で、また欲望の世界に引きずり込まれてしまうからです。

そして修行さえも、欲望の手段になってしまいます。



こんなことを言っている僕も、何度も欲望の世界に振り回されてきました。

そしてまた我に返り、瞑想修行を続けています。



僕たちは、悟りたい、目覚めたいと言いながら、いままでの人生で得たものを何一つ失いたくないのです。

あれも欲しい、これも欲しいと、結局はどっちつかずの人生を送ってしまいがちです。



そんな自分を戒めながら、30歳のころの原点に戻って、身を律しながら生きていきたいと思う今日この頃です。



それは真面目に生きるとか、頑張って生きるとかでもありません。

心の中に蔓延(はびこ)る欺瞞(ぎまん)の皮をはぎながら、いまここを無垢な心で楽しんでいく、そんな生き方です。



ただいま、修行中です。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:40Comments(30)

2009年07月16日

わっはっは

最初に向禅師に会って思ったことは、この人はよく笑う人だなということでした。


大きな口を開けて、しかも大声で、「わっはっは」


悟ると、特別な境地を手に入れて、特別な人になると思われがちですが、向さんを見ていると、そうではないことがわかります。


悟りとは、ただの人になること、普通の人になることなのです。


そしていまこの時を無心で楽しみ、無心に笑います。


「わっはっは」



向さんとは長年にわたって活動を共にさせてもらいました。

かんながらの方広寺の巻に出てくるように、禅の心を現代人にわかりやすく翻訳する工夫をしてきました。


そんな二人の講演が、初めて東京で開かれます。

何をしゃべるかということよりも、その場に起こる波動を共有できることが嬉しいです。


これを契機にして、できるだけ多くの皆さんに、本物の禅僧を紹介していきたいと思っています。

(また詳細はお知らせしますが、9月19日には大阪でも開催予定です)


禅というと何やら難しそうな響きがありますが、「こだわりのない素直な心に戻ること」、それが禅の目指すところです。




口を大きく開けて、身体全体で笑ってみましょう。


最初は、振りだけでもいいんです。


両手を広げて、胸そらして、天に向かって大声で笑うんです。



「わっはっは」





はいもう一度



「わっはっは」




ね、ちょっと幸せな気持ちになったでしょ。




これは大きな秘密ですが、これ以上の幸せはありません。


人生で何が起きていようと、頭の中で何を考えていようと、いつだってあるがままにあるだけの話です。


深刻さにしがみつきたい気持ちもわかりますが、それを振り切って無垢な気持ちに戻れば、それが新たな人生のスタートになります。




すべては「気」の持ちようです。




「わっはっは」




ニコニコ


  


Posted by Toshiro Abe at 09:25Comments(34)

2009年07月15日

慈悲

昨日、僕たちが抱えている自我の側面をたくさん書きました。


tomatomaさん

>みんな同じ特徴をもってるのですね。

>やっぱり、同じひとつだ!


いいね(^o^)

そういう感覚で人を見ることができれば、人の過ちに対する寛容の心が生まれます。

さらに、その寛容さから慈悲が育ってきます。



慈悲とはなんでしょう。


よく時代劇なんかで

「おねげーでございますだ、お代官様。お慈悲でございます」

なんてセリフが出てきますね。

ニュアンスとしては憐みのようにも感じますが、この言葉は相手よりも自分が優位に立って、何かを施したり、助けたりという意味ではありません。

むしろ、相手と自分がまったく同じ存在であるという理解から生まれた言葉です。


僕たちは根っこでひとつにつながっていて、同じひとつの命に生かされている同じ存在です。

そのことがわかれば、誰彼と区別差別することなく、偏見の心を持たずに接することができるでしょう。

自分が幸せを望むのと同じように、もう一人の自分(相手)も幸せを望んでいるのだから、みんなが幸せであることを願い、幸せを与えていきたいと思います。

それが「慈」です。



しかし人間は「自我」を持っているので、自分は人とは違う存在だと感じています。

実際にはひとつにつながっているのに、自分は全体から切り離されて「個」として存在していると思っています。

そこから、昨日書いたような自我の様々な特性が生じてくるのです。


それによって、孤独感や、劣等感や、不信感や、不満な心を抱えることになり、それが苦しみになっていきます。

自我の大きさと、その人の苦しみの度合いは、比例していると言ってもいいでしょう。


僕たちは、他者の自分勝手な振る舞いを見て腹を立てますが、その人に仕返しをしなくても、すでにその人は十分な苦しみを生きているのです。


僕たちはみんな自我を抱えているので、その分みんなが苦しんでいます。

その苦しみを知れば、苦しみを和らげてあげたいという気持ちが生まれてきます。

その気持ちを「悲」と言います。




昨日の「いまここ塾」の中で、瞬間のひらめきがありました。

僕たちが煩悩(自我の作用)を持ち、それによって苦しんでいるのは、同じように煩悩に苦しめられている衆生を理解し救うためではないかと。

もし自分に煩悩がなければ、どうやって人の煩悩を理解するというのか。

煩悩こそが菩提の素であり、「煩悩即菩提」とはそのことを言っているのでないかと。

自我は、自我を超えて悟る為の、大切な原材料なのだと。




仏教用語は何かと難解な熟語が多いですが、実際にはとてもシンプルなことなのだと思います。

僕たちが「ひとつ」なるものだということを理解すれば、そこから様々な智慧が生まれ、それによって人を苦しみから救うことができるということではないでしょうか。



慈悲は、そんな智慧の一つなのだと思います。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:28Comments(38)

2009年07月14日

政治 Ⅱ

僕たちは通常、自我の世界を生きています。

素直に自分を見つめて、自我を分析してみると、そこにはたくさんの特徴が見えてきます。


ちょっと書き出してみましょうか。




自分をよく見せようと、いつも演じている


心の底から愛したことがない


心の底から信頼したことがない


自分の安全だけは確保したい


人の成功が喜べない・・・と言うよりクヤシイ


ライバルの失脚は内心嬉しい


心を開いたことがない


自分は特別な人間だと思っている


誰よりも優れていたい


人を見下している


自分さえよければいい


疑り深い


自己イメージを高めてくれるものが好き


敵には容赦しない


孤独


偽善者


ナルシスト


裏表がある




あはは、気が滅入ってきますね(笑)


でも正直に自分を見つめてみれば、誰でも多かれ少なかれ心当たりがあるはずです。

これらは誰かにあって誰かにないというようなものではありません。

これが自我です。


したがって自我とは、個人的なものではなく、人間という生物が共有しているある種の特徴です。


僕たちはこのような自分を心のどこかに抱えながら、少しでも美しく気高く生きたいと願います。

極力、このような傾向を外に出さないように努力しています。


だからこそ、他者の中にこれらの面を見つけると、許せない気持ちになるのです。



「あなたがたは、兄弟の目にあるオガ屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」

マタイ伝 / ルカ伝

(最近はよく聖書の言葉を引き合いに出しますが、キリストは真実を端的にわかりやすく語っているから好きです)




さて、今日のテーマです。

良いとか悪いとかではなく聞いてください。



このような自我が選んだ代表が政治家です。

一般の自我が選出した、研ぎ澄まされた強い自我と言ってもいいでしょう。

その人達に、国家の利益、地域の利益、自分の業種の利益、自分の生活の利益のために働いてもらおうというわけです。



しかもそんな自我の代表が集まる場(たとえば国会)で、他の自我たちを調整し押さえながら頭角を現わさなければ仕事にならないのですから、並みの神経では務まりません。

強い強い自我が必要です。


自我が強くなれば、先に挙げたもろもろの特徴がすべて強くなります。



その人達が言います。


「みなさんのために頑張ります」

「自分を捨てて奉仕します」

「愛です。友愛です」


そしてこのような矛盾を、これまた商業主義の偽善の代表であるマスコミが、あれやこれやといじくり回し、正しさを振りまくので、もう何が何だかわからなくなってしまいます。



やや極端な言い方になってしまいましたが、これが僕たちの抱える現実です。

誰か特定の人を責めているわけではなく、誰も指摘しない事実を明らかにしようとしているだけです。



もうわかりましたね。

世の中が変わる為には、政治や制度がいくら変わってもダメなのです。

与党が野党になろうが、与党が与党のままだろうが同じことです。

どちらも遅かれ早かれ失望することになります。


それは政治家の責任ではありません。

人間という生き物のレベルの問題です。



僕たちに必要なのは、まず自分自身を見つめ、自我の支配から逃れること、自我を超えた存在にたどり着くことです。

具体的に言うと思考を超える能力を養うことです。


そこに愛があります。

そこに、本来誰もが兼ね備えている美徳がすべてあります。




今日の最後は道元禅師の言葉にします。



仏道を習うというは、自己を習うなり

自己を習うというは、自己を忘るるなり

自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり

万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり

悟迹(ごせき)の休歇(きゅうかつ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ




仏道を習うというのは、自分自身を習うことである。

自分を習うというのは、自分を意識しないことである。

自分を意識しないということは、全てが宇宙の計らいであることを知ることである。

それは、自他の区別、主体と客体という概念を捨てることである。

その悟りは、永遠かつ不変のものである。



これから迎える地球規模の大変革は、単に政治や経済の仕組みが変わることではなく、それを構成する人間一人ひとりの意識が変わることなのです。



最後まで読んでくれてありがとうございました。



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9月の東京いまここ塾の受け付けは終了しました。

たくさんのお申し込みありがとうございました。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:46Comments(45)

2009年07月13日

政治

東京の「いまここ塾」の日は、ちょうど都議選の前日で、僕たちの会場にも時折、選挙カーからのお願いコールが聞こえてきました。


内田茂さんという方でしたよね。

あの方は、千代田区選出の現職の自民党都連幹事長で、6期連続して都議を務められたベテラン議員さんだったようです。

結果は落選。


たった3週間前に立候補を表明した26歳の若者に敗れ去ったそうです。

実は昨夜、コメントでおなじみの黒田さんが、選挙速報と言って結果を知らせてくれました(笑)


国民が、とにかく変化を求めているということを表す、象徴的な選挙区だったようです。



とは言うものの、政治が政治屋さんたちの権力争いの場になっている現実では、僕たち市民に関心を持てと言われても限界がありますね。


実際のところ、政治家を選挙で選んでいるうちはダメなんじゃないかって思っています。

国民のレベル以上の政治が生まれようがないからです。


本当は、天才たちにやってもらうのが一番なんですよ。

国の財政は、経営の神様に任せるのがベターではないでしょうか。


その昔、松下幸之助さんが、「もし自分に日本の経営を任せてもらえたら、10年で税金をタダにしてみせます」とおっしゃいましたが、あながちホラ話じゃなかったように思います。

もちろんそこには、リーダーを信頼して、意識改革に取り組む国民側の努力も必要です。

ちょうど、社内が一致団結しないと企業が発展しないのと同じことです。


この国を、より住みよい国に変えていこうという想いは共通しているわけですから、みんなで協力できたら一番いいんですけど。


与党だ野党だやっているうちはダメでしょうね。





さて、今日は月曜日。

「やれやれ、また一週間が始まるのか」と思っている人、こんな時こそ、「いま」を生きる練習をしてください。


いまを生きれば、金曜日も月曜日も同じこと。


応援していますよ。



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お知らせ



「東京いまここ塾」9月の受付を開始します。

日程は9月20日(日)です。

参加ご希望の方はコチラからお入りください。

受け付けは終了しました。ありがとうございました。





7月19日(日)の向禅師と阿部敏郎コラボイベントに、若干名のキャンセルが出ました。

参加ご希望の方はコチラから。

受け付けは終了しました。ありがとうございました。




明日の沖縄いまここ塾は、中城吉の浦会館です。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:57Comments(31)

2009年07月12日

言葉の罠

昨日は東京講演会、大変お世話になりました。

このようにして実際にお目にかかれるのも何かのご縁。

ソウルグループの話をしましたが、あながち外れていないと思います。


それはこのブログに興味を持ってくれた人みんなに言えることで、ここの文章に何かしら感じてくれたとしたら、潜在的に僕と同じようなセンスと理解を持っているのだと思います。


読んだ人みんなが気に入るわけじゃないですからね。

むしろ気に入るのは一部の人だと思いますよ。



そんな一部の人であるところのあなた、仲間のあなたに、今日もアドバイスさせてください。



いつも感じることですが、精神霊的な世界を学び出すとハマりがちな罠があります。

それは、言葉に縛られるという過ちです。



たとえばあなたが企業の営業部に勤務する営業マンだったとします。

ある時あなたは思いました。

「よし、もっと頑張って成績を上げよう。隣の課のA君を追い抜くんだ」


すると、心の中で声がします。

「汝よ、欲張るのはやめなさい。競争するのはやめなさい。比較はいけません」


これ、誰の声だと思います?

ビックブラザーであるところの神の声でしょうか。


いえいえ違います。

これはBig Brotherを装ったBig Meの声です。

これこそが自我君の声なのです。


もしあなたが、自社の製品の良さを知っていて、それを広く知らしめることが自分にも会社にも、そしてクライアントにも良いと感じるのであれば、自分の想像力と行動力を駆使して成績を上げようとすることに何ら問題はありません。

そのための目安として、そしてモチベーションを上げる手段として、隣の課のA君を目標にするのも悪くありません。


比較や競争や意欲が悪いわけではなく、そこに取り憑かれてしまうことを諌(いさ)めているのです。

むしろそれらを意図的に使っていくならば、人生を豊かにするための道具になってくれることでしょう。


どんな言葉にも縛られてはいけません。

それらの言葉は、何か他の事(たとえば分離意識を超えて全体意識になるとか)を伝えるための方便であり、生活のあらゆる局面に当てはまることではないのです。


言葉は、それを発した瞬間に意味があり、それを後生大事に持ち運んでしまうと、その意味が死んでしまいます。

そして亡霊のように、人の心を拘束します。



賢明な読者諸君には、いまさら余計なアドバイスだったかもしれませんが、心のままに、思い切り生きて下さいね。

そして同時に、瞑想によって社会のあらゆる事象から離れて、自分の内側の静寂と共にいることを覚えれば、それがベストの生き方だと思います。


「静と動」

このバランスを大切にしてください。




今日もここに来てくれてありがとうございました。



・・・・・・・・・・・



P.S.

明朝(13日)から、「9月東京いまここ塾」の詳細を載せ、受付を開始します。

またお会いできることを楽しみにしています。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:50Comments(27)

2009年07月11日

愛する人へ

昨日のみなさんのコメントを、じっくり読んで思ったことがあります。

僕たちはみんな同じなんじゃないかって。

表面的には違いばかりが目立つけれど、素直になれば、あなたは僕で、僕はあなたで。

そう思えるくらい、みなさんの言っていることが、全部自分の中にありました。



さて、神についてですが、「神とは何か」という問いかけ自体が、「神とは○○である」という限定された答えを引き出してしまいます。

神と呼べるような個的な存在がいるのではなく、森羅万象のすべての存在が、というより「存在」が神であり、神でないものは存在しないのだと思います。


このような言い方は、答えになっているようでなっていません。

あまりにも優等生的な回答ですね。


もし存在の全てが神であるならば、神などという言葉を作らなくても、「存在」と言えばいいのに、やはりそこに神と呼びたくなる何かがあるのです。


それは何でしょう。



それは「意志」であり、「意識」です。



ただ自然発生的に万物が存在しているのではなく、そこには、そのように在ろうとする意志の力があるのです。


僕やあなたの身体の中には、数十兆もの細胞がありますが、ただ偶然そのように配置され運動しているのではなく、それを意識的に動かしている力があります。

同時にこの宇宙にある星の全ての配置や運行も、秩序(意識)の中で営まれています。

その星の数は、まさしく星の数だけあって、一つの銀河に二千億の星、その銀河がおよそ一兆個、そうなると、星の数は・・・・え~と・・・・え~と・・・

超ミクロから超マクロまで、すべてに浸透したひとつの意識があるのです。


僕が遭遇したのは、まさにこの、とてつもない「意識」でした。


たとえば親が子供をいつも見守っているように、その「意識」は、僕のことを、そしてあなたのことを、一瞬も忘れることなく愛の力で生かしています。

僕たちにも意識がありますが、それはもっとクリアーな意識です。

一切の混乱がない、一切の曇りがない、とてつもなく澄み切った、そして知的な意識です。


しかも無数の存在を同時に意識しているのですから、まさに神業(かみわざ)であり、神としか呼べない力なのです。


僕がこうしてみなさんにお伝えしてきたことの根幹は、誰ひとり宇宙の迷子ではなく、みんな神とつながっていて、だから安心して大丈夫だよということです。



それは経験してわかることで、その経験をするまでは、昨日の禅道さんのような懐疑的な態度でしかるべきだと思います。


神とは「神を経験すること」です。

その大いなる意識が、自分の中で自分を生きていて、まさに自分こそが神そのものだったことを、感覚として知ることです。


それは火の中に手を入れたら熱いと同じように、確かな感覚です。

「その熱さは幻想だ」とみんなから言われても、熱かった人は事実を知っています。

それくらい確かな経験なのです。




ゆりさんが言っています。


たぶん何不足なく暮らしているのだと思います。
それでもどこかぽっかりとした穴があるんです。




その穴は、自分が全体から分離していると感じている以上、決して埋まることはありません。

その穴を埋めてくれるのは神(神の経験)だけです。

だから、まずそれを求めるのです。



「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、他のものはすべて与えられます。」

マタイ福音書




アナタハ、カミヲシンジマスカァ?




・・・・・・・・・



この記事を書いている今は、朝の4時です。

すぐにアップしてしまうと、読者登録をしている人が携帯の音で目を覚ましてしまうかもしれないし、今日は土曜日なので9時半にセットしました。


その時間は東京に向かっているはずです。


今日の「いまここ塾」で何を喋ろうか、柄にもなく考えたのですが、やっぱり何も決められません。


すべては、その瞬間に起こることなので、今日もお任せしようと思います。


神の力にお任せです。  


Posted by Toshiro Abe at 09:30Comments(24)