2007年12月31日
いまここ
深刻さの反対・・・笑、安心、くつろぎ
そこに真理があります。
真理と言うと大げさに聞こえますが、あるがままの事実(リアリティー)のことです。
それはいつも目の前にあります。
いいも悪いもなく、ただ淡々と目の前に展開しています。
僕たちは目の前のそれに自分の解釈を加え、「こうのようなことが起きた」という印象を経験として持ち運びます。
その記憶を連ねて「人生」と呼んでいるのです。
「人生」とは記憶の束のようなもの。
時間という幻想の中で組み立てた、自分本位のストーリーです。
それは頭の中に存在するだけで、リアリティーではありません。
それは「夢」のようなもの。
だから前世は「昨日見た夢」のようなものだと言い続けてきました。
リアリティーは時間を超えていて、ただ「いまここ」で変化し続けています。
僕たちの真の存在も「いまここ」で、時間を超えて存在し続けています。
それは決して死ぬこともなく、生まれることもなく、始まりもなく、終わりもなく、永遠に「いまここ」に存在し続けているのです。
その本性は、祝福であり、感謝であり、悦びであり、愛そのものです。
それが究極的なリアリティーです。
自分の本当の姿が、そんな途方もない幸福感そのものであったことを見抜くために、僕らの「人生」という夢の旅が計画されたのだと思います。
目覚めはもう目の前です。
あなたは、最初から救われています。
想像できる最大の祝福と栄光を最初から携えています。
目覚めはもう目の前です。
今年最後の記事に、何でも思ったことを書こうとして、何も考えずにただ自由に書いてみたら、こんな文章になってしまいました。
手直しせずに、このまま載せることにします。
出会ってくれてありがとう。
このご縁が、お互いのさらなる開花につながりますように。
2007年12月31日
PS
今夜10時から母家(866-5880)でカウントダウンライブやっています。
年越しそばもありますから、都合がついたら遊びにいてください。
Posted by Toshiro Abe at
10:05
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2007年12月30日
究極の静けさ 2
古今東西、これほど多くの瞑想法があるというのに、それが一般の僕たちに対して十分な功を奏してこなかったのは、瞑想に入る準備段階に対して手つかずで来たからだと考えています。
向和尚のような禅のエキスパートは、坐禅によって瞬時に瞑想状態(いまここの覚醒状態)に入れますが、普通の生活を送る我々はそうはいきません。
多くの場合は、あれこれという心の会話に囚われ、長時間の足の痛みに耐えることが坐禅の経験になってしまうのです。
そんな状態を坐禅によって克服するには、数百時間、数千時間、ことによったらもっと長い時間を坐禅に費やさなければならず、それは現実的ではないですし、ほんのわずかな人間しか、その結果を享受することはできません。
僕たちが瞑想状態に入れない最大の理由は、僕たちが心の中に神経症を抱えているからです。
社会は人間を、一定の形にはめこんできました。
どのように生きるべきか、どのような人間になるべきか、その理想を押し付けることで、僕らは自分の存在のほんの一部しか認めずに、他の大部分を抑圧してきました
それを見事に抑圧し、社会が求める部分だけを発揮する人間を、「いい人」「よくできた人」と称賛してきたのです。
抑圧された部分はどこかに消え去ったわけではありません。
それはいつでも心の底に闇として渦巻き、日常の多くの場面に影響を与えています。
だから、あるがままの自分を受け入れようとしても、どうしていいかわからなくなってしまうのです。
「あるがままを受け入れなさい」
「自分自身を愛しなさい」
何度そう言われても、できない原因はそこにあります。
僕は新しい瞑想法を提案します。
それは分裂してしまった自己を再び本来の統一体にもどし、生き生きとした自分を取り戻すものです。
その感覚を復活させれば、瞑想はもっと単純なものになります。
何もせずに、深い安心感の中でリラックスした状態。
意識の断片が統一された状態。
これらは同じ状態です。
その状態を「瞑想」と呼ぶのです。
新しい年を迎えるにあたり、もうそろそろ、そんな実践的な段階にはいってもいい時がやってきたと思っています。
明日もこの続きを書かせてください。
Posted by Toshiro Abe at
10:09
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2007年12月29日
究極の静けさ
年末の忙しい時に、ここにきてくれてありがとうございます。
ここは、娑婆(しゃば)の世界がどういう状態であろうと、静かな自分に戻れる場でありたいと思っています。
今日はとても大切な話をしたいと思います。
心落ち着ける時間と場所を見つけて、読んでみてください。
自分の周囲で何が起きていようと、そこに巻き込まれずに、そのすべてを観照しているような存在、それは真理に覚醒した不動の意識です。
禅の世界ではそれを、「不動心」、「主人公」、「無位(無為)の真人」などと、多くの言い方で呼びます。
それこそが瞑想で達せられる境地です。
覚醒した意識がすべてを観照している状態・・・それは行為ではありません。
それは僕たちの本性です。
存在の純粋性なのです。
すべての行為をやめて、深く深くリラックスして存在の中にくつろいだ時、それはあります。
だからある師はこのように伝えます。
「リラックスしなさい」
「くつろぎなさい」
それは完全に正しく、まったく異論はありませんが、でも僕たちには自分の意志でリラックスしたり完全にくつろぐことはできません。
もちろんある程度なら可能です。
いつもの騒々しい自分を沈静化させるくらいはできるでしょう。
それだけでも効果があるし、やってよかったと思う人もいますが、ここで伝えようとしているのは究極の体験です。
その究極に至らない限り、我々の苦しみは消えることはなく、何度鎮静化させても根っこが残っているので、それはまた繰り返されるのです。
さてそれでは、いかにして深いくつろぎの状態、何もしない状態(無為)に至るのか。
それが昨日の宿題でしたよね。
もったいぶるわけではないのですが、その前に僕の経験談を聞いてください。
そのほうが理解しやすいと思います。
あれは昭和60年3月のことでした。
その2年ほど前に初めて精神の深みに触れた僕は、すべての仕事を辞めて、毎日のように精神世界の本を読み漁り、聖地と呼ばれる場所を訪ねたりしていました。
ある夜、同じように精神世界にはまった仲間たちと、車座になってディスカッションをしていました。
10人くらいいたでしょうか。
それぞれが自分の意見を述べ合いました。
まだそのような人たちが少なかったので、そんな世界に興味を持つ自分たちを特別視していたと思います。
いま思えば一人ひとりが、自分が一番深く理解しているということを相手に印象づけようとしていたと思います。
みんなが心の底ではライバルであり、いかに自分が優れているかを言葉で表し、相手を論破しようとしていたのですから、それこそ精神の名を借りた新しい競争の場でした。
そのうち、その場がバカバカしくなってきました。
場を破壊したくなったのです。
仕事を辞めて、その世界に人生を懸けたのに、いったい自分は何をやっているんだろうという気持ちになったのです。
そこで考えました。
どうせなら今一番やりたいことをやってしまおう。
それは心の底に渦巻いている消化不良の思いや感情、ストレスや怒り、そんなものを全部吐き出してしまうことでした。
そこでいきなり輪の中央に進みました。
みんなが何が起きたのかと驚く中で、いきなり仰向けに横たわり、手足をバタバタさせて、幼子が駄々をこねるような感じで、言葉にならない声を発して大声で泣きわめき始めました。
一番見られたくない醜態を、一番見られたくない相手の前でやるのは、かなり勇気がいたと思いますが、きっと人生を懸けていたからできたのだと思います。
自分を制御せずに、やりたいように解放していきました。
まったくの狂気です。
でもその狂気をどこかで見つめている自分がいます。
そう、今思えばそれは意識的な狂気の解放だったんです。
周囲は唖然としていました。
そのうちリーダー格の一人が言いました。
「彼の前世のカルマが出たんだ」
でもそんな言葉はまったく僕に影響しませんでした。
僕には、狂ったようにのたうっている自分の姿も、それをどう解釈していいかわからない仲間の姿や心の中も、全部手に取るように見えたからです。
僕の外側は暴れていましたが、その内側の中心は、まったく静かなまま、すべてを理解していました。
僕はさらに続けました。
このまま呼吸が止まって死んでしまう、このまま疲れ果てて麻痺してしまう、そんな地点に至るまで、全身全霊を込めてのたうちまわったんです。
誰も僕を止められませんでした。
100%のエネルギーを発揮している存在を、理性で自分を抑制している人が止められるわけがありません。
その差は圧倒的です。
10分間くらい続いたでしょうか。
僕の声も体も限界に達しました。
出せるものはすべて出し切ってしまい、もうこれ以上の努力も緊張もできない地点に達していました。
行為は止まりました。
すると体と心が、急速に静けさの中に引きづり込まれていきました。
僕が何かをしているわけではありません。
それは起きているのです。
僕はただ、その現象を見守っている観照者です。
すべての怒り、すべての悲しみ、すべてのストレスを出し切ってしまった後の、完全な静寂が僕を包み込みました。
そしてそこで出会ったのです。
真実の自己と。
時間と空間を超えた、真実の存在が「いまここ」にありました。
それは圧倒的な存在で、感謝と悦びそのものでした。
一度それを見てしまえば、人生観も、生き方も、180度変わってしまいます。
もちろん全てが楽に好転し始めます。
もう自分一人で奮闘することはありません。
人生が神との共同作業になるのです。
誰もがその可能性を携えています。
そしてそれはいつも「いまここ」で起きるのです。
この話は初めてしましたが、僕の人生においてもっとも祝福された体験でした。
今年が終わる時になって、この話をあなたと分かち合えてよかったです。
ほんの少し先を歩む者として、あなたに伝えたいことがたくさんあります。
出会ってくれてありがとうございます。
Posted by Toshiro Abe at
10:44
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2007年12月28日
無為
2007年も終わりに近づいてきた。
物質文明も過渡期を迎えて、これからの時代は、ますます心を重視した時代に入っていくだろうね。
その中で一番大きな役目を果たすのが瞑想だと思う。
でもわかっているようでわかっていない瞑想の真の姿。
今日も瞑想について話をしようね。
瞑想とは、何もしないってこと。
何もしないことが瞑想だよ。
何かをしたら、その何かをしているということ自体が瞑想状態を妨げる。
なーんだ、何もしなきゃいいのかって、ところがそれが難しい。
僕らは何もしないではいられないんだ。
どのようにして何もしないでいるかと考えたとしたら、「どのようにして」という態度そのものが何かをしようとしていることを意味する。
したがってそれについては、何もできることがない。
何もせずに、何もしない状態に至らなくちゃならないんだ。
僕が何言っているかわかる?
言っている僕が混乱してきた(笑)
瞑想をするための環境を整えて、姿勢を正して、正式なやり方で瞑想を始めても、頭の中はゴチャゴチャと考え事が続き、思考という行為がますます盛んになり、なんとか思考を止めなきゃっていう意思(これも行為)が新しい思考を生んで、それが堂々巡りを始める。
外側からその人を見れば瞑想しているように見えるけど、実際にその人がやっているのは妄想だったりする。
目を閉じて静かに坐ると、頭の中の活動が活発になるのが普通だ。
あれこれと絶え間なく考え事が出てくる。
それは日々の生活の中の出来事を、完了されないまま持ち運んでいるからだ。
僕らの意識の中にはそんな未完了なガラクタがいっぱいに詰まっていて、それがいろんな思考となって現われてくるんだ。
それは神経症そのものだ。
僕らは程度の差こそあれ、みんな神経症にかかっている。
そんな状態から自分を救うためにも、瞑想はすごく大切なんだけど、神経症を治すために瞑想しようとしても、神経症が邪魔をして瞑想状態に入れない。
これが僕らが入り込んでしまうジレンマだよ。
それじゃ、どうする。
今日はすぐに答えを言うのをやめてみます。
さらっと読んでしまっても、何も残らないかもしれないから。
それでは問題です。
まったく何もしない状態に入るには、どうしたらいいでしょう。
もちろん眠ってしまってはダメだよ。
そのことを理解するのは、瞑想の本質を理解することになると思うので、じっくり考えてみてください。
年末年始も休まずブログを続ける予定です。
Posted by Toshiro Abe at
08:53
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2007年12月26日
ちょっと一息
あと一週間か・・・
今年はどんな年だったかというと・・・けっこうブログを頑張った一年だった。
よく書いたよね。
仕事でもないのに、毎日午前中はブログを書くことに費やしてきた。
時間を自由に使える点で、僕は恵まれているんだろうけど、それにしてもよく続いたものだ。
なぜこんなに頑張って書いてきたのか自分でも理解できないけど、いま振り返ってみれば、このブログが果たしてくれた役割は大きかった。
新しい出会いもたくさんあったし・・・
文章を書くのが苦手な僕が、人生の中盤を過ぎて物書きみたいな生活になるとは夢にも思わなかったけど、もう少しこんな生活を続けてみよう。
そんなわけでこれからもよろしくお願いします。
今日は何も内容のあることを書けなかったけど、こんな日もあっていいよね。
これからも肩の力を抜いて、マイペースで楽しませてもらいます。
Posted by Toshiro Abe at
09:29
│Comments(8)
2007年12月25日
瞑想について
瞑想について質問を受けたので、お答えします。
> 私の考える瞑想は「集中すること」だと思います。例えば、集中して音楽を聴き、音と音の区別を聞き分ける。こういった行為は自然と瞑想になると思います。
> つまり、瞑想とは何かに没我すること。そういう意味では我を忘れる行為(夢中)が瞑想とも言える…とも思っています。
一般的にこのように思っている人も多いみたいだけど、実際には正反対なのです。
瞑想は集中じゃない。
むしろ集中をやめることです。
集中というのは、特定の対象を決めてやっていくよね。
集中していないものに対しては無自覚になるでしょ。
瞑想とは、あらゆる対象(それはもはや対象とはいえない)に自覚をもたらしていくことです。
集中は心を狭めていくけど、瞑想は心を広げていく。
集中は選択の結果だけど、瞑想は無選択。
僕らは普段の生活の中で、何かしらに集中している。
何かを考えているときは、その考えに集中しているし、何かの行為をしている時はその行為に集中している。
生きるためにはそのような心の絞り込みは大切で、集中すればするほど成功率は高くなる。
それは実利的な生き方にとって大切な手段です。
だから僕たちは幼いころから、集中する生き方を学んでくる。
勉強とかスポーツとかでね。
そうやって社会で通用する人間になっていくんだけど、その傍らで大切な何かを失っているんだよ。
実利的な生き方は生存するには必要だけど、人生には生存以上の意味があるからね。
生きるために絞り込んだ意識を「顕在意識」っていう。
その際に捨ててきた部分が「潜在意識」。
この二つはいつも葛藤を起こしている。
顕在意識は、どのように生き残るかという観点から考えて、やりたくないこともやるし、思ってもいないことを言ったりする。
さらにはやりたいことを我慢したり、言いたいことを言わなかったりもする。
潜在意識は「嫌なものはイヤ」だし「やりたいことはやりたい」から、そこに葛藤が生まれる。
多くのストレスや情緒不安定は、この二つの意識の戦いによって生じるていると思う。
瞑想とは、集中の過程で捨て去ってきた「無意識」と呼ばれる部分を開花させること。
自分のすべてを全面的に受け入れることです。
それを許されて初めて、僕らの存在は大きな歓びを感じることができるんだ。
それまでは何を手に入れたって無理だよ。
だから瞑想ってのは、本当の歓びに向かう確実な手段だと思う。
修行なんかじゃない。
快感のための行為だよ。
悟りというと大げさだけど、快感と言えば身近でしょ?
そんなわけで瞑想を奨励しています。
ちょっと興味持ってくれましたか。
これからも瞑想については、さまざまな角度から解説していきます。
Posted by Toshiro Abe at
10:57
│Comments(7)
2007年12月24日
プレゼントです
ハッピークリスマス
今年もありったけの愛を贈ります。
今宵、あなたの胸が、やさしい気持ちで満たされますように。
何もないけれど、家族の健康と笑顔に囲まれています。
こんなに恵まれた国に生まれ、こんなに恵まれた夜を過ごしていることを、心より感謝します。
この静かな幸福感を忘れずに生きていきます。
2007年12月24日
イブの日に
Posted by Toshiro Abe at
20:27
│Comments(10)
2007年12月24日
聖なる人
メリークリスマス
今日は、2000年前に地上に現れた、まれに見る覚者(ブッダ)に思いをはせてみましょう。
ヨーロッパに生まれその短い生涯を閉じた奇跡の人です。
昔から彼の言葉が大好きで、方広寺の研修でも、「いまここ塾」でも、さまざまな講演会でも引用させてもらってきました。
彼が説いた「愛」が、いまだに地上に実現されているとは思えませんが、すくなくとも、その方向に向かわなければ、人類の生存自体が危ぶまれる時代になってきています。
「愛」ということから言えば、キリストこそが地上における最大の貢献者だと思います。
さまざまな宗教がある中で、これほど見事に「愛」を表現したものを他に知りません。
書きたいことは山ほどあるのですが、今日はあまり人が話さない観点から、僕なりの考えを述べてみます。
キリストについては、生まれた時からの様々な奇跡が伝えられていますが、その最大の奇跡は、磔というもっとも過酷な刑に処せられ、想像を絶する苦痛の中で、まさに今自分を殺そうとしている者たちのために祈ったことだと思います。
石をパンに変えたり、水の上を歩いたりといったことは、現代に生きる者、ましてや信心の厚くない僕のような者にはあまり説得力を持ちませんが、十字架上での最後の姿には、大いに感じるものがあります。
彼を死刑にせよと叫んだのは、善良な市民たちです。
何百年もの間、ユダヤの民を救済する神の出現を待ち望んできた信心の厚い人たちでした。
もし彼らがキリストの生(なま)の姿や行為を見て「神」を認識できれば、彼を殺すことはなかったでしょう。
ということは外観からは、それがわからなかったことになります。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中にも、もしキリストが現代に現れたら、神の名を語るペテン師として殺されてしまうだろうとありますが、それはありえることだと思います。
「神性」はその人の内側で達成されていることであり、その人の真理に対する深い理解や洞察によって証明されるものです。
ところが人間は、外側の印象でしか人を判断できません。
「神とは・・・」「聖者とは・・・」という固定観念があるので、神性を達成した人にも人間的な面があることを受け入れられないのです。
もしキリストの奇跡が、言われているように目に見えるものであったとしたら、いくら当時の人たちでも、死刑にすることは躊躇したでしょう。
彼らから見たら、キリストは神の名をかたるペテン師だったのです。
ところが、そんな民衆も、最後の最後に奇跡を見たのではないでしょうか。
十字架上のキリストは、激痛の中で、我々の常識をはるかに超えた美しさを見せたのではないかと思うのです。
まさに、自分を殺そうとしている者たちのために祈ったのです。
「神よ、彼らを許したまえ。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」
これほどの愛があるでしょうか。
これほどの理解と包容力があるでしょうか。
まさに、人間を超えた神なる者の態度です。
それは一緒に処刑された他の罪人の姿とは対照的だったことでしょう。
そのとき初めて民衆は、自分たちが誰を殺そうとしているのかに気づいたのではないでしょうか。
だからこそ、生きている間は多くの民から迫害された者が、その死後になって世界を席捲するほどの影響力を持つようになったのではないでしょうか。
言葉足らずで、ほんのわずかしか考えを伝えられませんでしたが、僕はそのように思います。
わずかなことで腹を立てたり、人を恨んだりしている日常の自分を、こんな日こそ見つめなおしてみたいと思います。
最後まで読んでくれてありがとう。
明日の「いまここ塾」では、1945年にエジプトで発見された「トマス伝」の内容について、話させてもらいます。
トマス伝については、裏ブログ<かんながら>南朝の巻でも述べています。
Posted by Toshiro Abe at
11:14
│Comments(7)
2007年12月23日
あなたは贈り物
みなさんから頂いた、ブログへのコメントをアップすることは日課になっていて、日に何度かは携帯電話からアップしています。
レスはできないことが多く、できたとしても次の日や、数日後になってしまいます。
昨日は一日中母家のライブの手伝いをしていて、深夜に帰宅し、寝る前に最後のチェックをしたのですが、とても悩んでいる方がいたので、何か一言でもと思いながら、そのまま眠ってしまいました。
先ほど目が覚めて、またコメントをチェックしたら、その方に向けて数人の人たちが温かい想いを綴ってくれていて、とても嬉しく思いました。
昨日の「こと」さんという方のコメントです。
名前から想像すると、女性なのかと思いましたが、男性の可能性もあります。
でも苦しい時は、男性も女性も関係ないですよね。
僕たちは、幸せで心から笑っている時は、世界中が一緒に笑ってくれますが、苦しい時はひとりぼっちです。
何もかもから切り離されて、まるで宇宙からひとりだけ捨てられて迷子になってしまったような気がします。
そこに虚無感や、無意味感、無価値感が漂い始めます。
「世界」や「人生」というのは、自分が思ったとおりのものなので、その時はその感覚がとてもリアルに迫ってきます。
そんな時、僕らにはどんな励ましができるのでしょうか。
僕が思うには、何を言ってあげられたかではなく、少なくとも自分の存在を誰かが認めてくれた、自分の気持ちをわかってくれたという、そのことが救いに繋がるのではないでしょうか。
だから、昨日のコメントを見て、すぐさま書き込みをしてくれた人たちに感謝します。
きっと、その人たちも深い孤独感や、悲しみ、苦しみを経験されているのでしょう。
でなければ人の痛みはわからないはずですから。
僕も人生で何度も、人生そのものをやめてしまいたい衝動に駆られたことがあります。
今はわかったことを言っていますが、将来、またそんな日が来るかもしれません。
その時は、その気持ちを誰かに伝えようと思います。
もしブログを続けていれば、きっとここに書くと思います。
ブログは、人の姿は見えませんが、その思いは不思議なほどに表現される媒体です。
悪意も善意も、そのままストレートに伝わってきます。
もし「こと」さんが、またここを見てくれたら、何かが変わるきっかけになってくれるのではと思いました。
レスのコメントの中に
「この世の中はただひとりのアナタの為にあると思えばいい」
というものがありました。
これはある意味で真実だと思います。
僕たちが魂の最も高みに到達した時、すべての出来事、そして通り過ぎていったすべての人たち、敵も味方も、自分を傷つけた人も、憎んだ人も、すべての人たちは自分のためにいてくれたことを、心の底から理解し、感謝するでしょう。
人生は困難な旅ですが、しかしその背後に大いなる愛がひかえていて、僕たちは全員、完全に祝福されています。
感謝
Posted by Toshiro Abe at
10:15
│Comments(9)
2007年12月22日
霊魂について
霊性はもっとも大切なものです。
我々の存在は霊性そのものだからです。
リアルに感じる物質も、その実態は「空」なるもので、それは最新の物理学が証明しています。
2500年前に釈迦が自らの内に深く入っていって発見した真実を、やっと科学が証明したことになります。
さて霊魂についてですが、「霊魂は存在しない」という見方もあるということを改めて伝えておきたいと思います。
僕は仏教徒でもキリスト教徒でもありませんが、釈迦やキリストの深い洞察には感銘を受ける者です。
釈迦も霊魂を否定していますが(というよりそのような議論を相手にしていない)、彼の言う「諸法無我」は、この宇宙の真理を見事に表していると感じます。
この世に個別の実体は何一つ存在していません。
すべては「ひとつなるもの」の「いまここ」での戯れにすぎません。
自我の存在を肯定すれば、霊魂は存在します。
これは3次元における錯覚だというのが僕の考えです。
僕自身、霊的な体験は数多くしてきました。
見えない力が存在していることは、疑いようのないものです。
しかし、もし個別魂を肯定するなら、過去や未来という「時間」や「自我」を肯定することになります。
もちろんそれらは「ある」といえば「ある」のですが、今この時代、我々の意識はさらに高い現実を理解する方向に向かっていると考えています。
深い瞑想状態でいつも感じるのは、何一つ言い切ることはできないということです。
彼方の次元は、僕らの想像をはるかに超えていて、とても言葉で言い表せるものではありません。
それを簡単に言い表してしまう現代の風潮に待ったをかけようとして、あえて「霊魂は存在しない」という断定的で挑戦的な書き方をしました。
誰かが指摘してくれたように、一方の考え方が強くなって常識のようになってきているので、あえて反対の立場から発言しているというのが、僕の真意です。
余談ですが、先日、臨済宗の大本山の指導的立場の人たちが一同に会して、現代の「霊魂」や「前世」というものが、テレビなどの影響で、常識的な感覚で多くの人たちに浸透していることへの問題が話し合われたそうです。
現代の僧侶は、葬式のための職業に成り下がってしまって、心から尊敬できるような人が減ってしまいましたが、それでも中には、真理の探究と体現に命を懸けている人たちもいます。
彼らはそれだけを専門的に追及してきていますが、彼等の考えが世の中に出てくることは稀です。
むしろ「霊能者」と言われる人たちのほうが世の中に信頼され受け入れられています。
そこには真実も含まれているのですが、それも表現のひとつの形態だと考えたほうがいいと思います。
真理は言葉では言い表せない、したがって「我々は何も知らない」というのが正しい態度だと思います。
僕自身は「霊魂は存在しない」という考えに固執する気はありません。
「自己は存在しない」というのも、究極的な真実だと感じていますが、それさえも言葉にしてしまったら誤解を生むので、固執する気はありません。
僕らにとって大切なのは、骨が折れる作業でも、自分自身を深く見つめていくことだと思います。
そして自分の欺瞞性の皮を一枚ずつ剥いでいくことだと思います。
本当の精神の道は、「霊」や「超常現象」を論じることではなく、真実の自己、大いなる自己を発見していくことだと思っています。
やはりそのためには「瞑想」しかないのかもしれません。
そんなわけで、これからも「瞑想」に関する理論と実践についてお話していきたいと思います。
最後まで読んでくれてありがとう。
Posted by Toshiro Abe at
11:24
│Comments(14)
2007年12月21日
昔の新聞
先日、面白いものを借りてきた。
それは昭和11年の東京日日新聞。
今の毎日新聞だよ。
それも切抜きじゃなくて全部残っているんだ。
紙面は軍事一色で、当時の世相をうかがわせるけど、僕が興味を持ったのは3面記事の片隅にあった自殺の記事。
いま手元にあるから、記事をそのまま転載してみるね。
不忍池に投身
哀れな婆さん
廿八日午前四時廿分頃、上野不忍池の橋上から飛び込み自殺を企てた老婆を通行人が発見、上野署で取り調べると、神田区泉町中村すじ(五四)とて身寄りがないので老い先を悲観したもの。
まったくお気の毒な事件だが、なにより驚いたのは、婆さんの年齢が54歳だってこと。
婆さんかいな。
どうやら40歳くらいから婆さんあつかいだったらしい。
最近は60代でも目を見張るような美しい人がいる。
吉永小百合さんなんか、液晶テレビの看板娘だし。
この変化は時代の恩寵かな。
だってこれくらい生きて初めて人生の酸いも甘いもわかってきて、やっと人生が面白くなってくるんだからね。
そこに若さがあれば最高だ。
僕なんか、まだまだこれから楽しいことが山のように待っている予感がするし。
まだ何も終っていないどころか、まだ何も始まっていないという、青年時代のウキウキ感をそのまま持たせてもらっているんだから、今の時代に生まれてよかったよ。
時代には、その時代の方向性みたいなものがあって、この新聞は明らかに国全体が戦争に向かっているムードがあるし、現代は物質文明が過渡期を迎えて、心や魂といった見えない世界への関心が高まっている。
僕のような者の講演会に毎回多くの人が集まってくれるのは、時代の流れのように思う。
いい時代に生まれてよかった。
子供の頃から、自分が生きている間に世の中のとんでもない変化(社会が根底から逆転するようなプラスの変化)を目撃するっていう予感を持っていて、もしかしたら、そのことを知ってこの時代を選んで生まれてきたのかなって思うときもある。
あなたもそうかもよ。
いろいろ人生に不満を抱えた人もいるかもしれないけれど、少なくとも昭和11年に暮らすよりも、今の時代のほうがはるかに恵まれているのは言うまでもないよね。
ラッキー
ツイてる、ツイてる
今日もいい一日でありますように。
Posted by Toshiro Abe at
09:13
│Comments(8)
2007年12月20日
アセンションの矛盾
僕は人付き合いが淡白で、昔から友人と呼べるような相手はほとんどいない。
一見社交的に思われるんだけど、パーティーや宴会のような場にも出たことがない。
したがって今年も、忘年会、新年会の類はひとつも出ないし、それは毎年のことだ。
自分から人を飲みに誘うこともないし(今はお酒をやめたから、ますますありえない)、誘われてもほとんど行ったことがない。
僕には会話したい内容がひとつしかなくて、それはこのブログに書いているようなことで、それ以外はどうでもいいことなので、あえて人と会って話をしたいと思わないんだ。
だからと言って人が嫌いなわけじゃない。
ことさら自分から会いたいとは思わないだけだ。
講演に呼んでもらうのは大好き。
だって独壇場で、自分が話したいことだけを話して、しかも人が喜んでくれて、お金までくれる。
毎日でもいいくらいだ。
浜松にいた頃も、向和尚とばかり会っていたし、沖縄に来てからも、くるくまの仲本さんとたまに会うくらいで、自分から人に会いに行くことはほとんどない。
沖縄ではこんな僕の状態を「やーぐまい」というそうだ。
ところが・・・そんな僕に友人ができた。
友人と呼んでいいかはわからないが、少なくとも、自分から会いに行って話しがしたくなる相手ができた。
理由は単純だ。
話したいことだけを話して、しかも相手もそんな話だけが好きな人なので、きわめて僕と似ているわけだ。
しゃべっていると時間を忘れてしまう。
その彼は、このブログを気に入ってくれたようだ。
だけど、ひとつだけ違和感があると言っていた。
それは「アセンション」について。
うむむ・・・さすがに鋭いところを突いてきた。
「アセンション」
2012年までに地球の波動が上がり、我々の存在が3次元から4次元にシフトするという話。
霊魂も前世も一刀両断にするくせに、こんな荒唐無稽のことをツラツラと書いているのはたしかに変だ。
実は、最初の頃に書いたように僕自身も半信半疑なんだ。
でも捨てきれない実感があることも確かで、話としては近年になく面白いのでいろいろ書いている。
でもこれとて「方便」
単に我々を彼方に向かわせる道具みたいなものだ。
この方便(アセンション)には、根本的な欠陥がある。
大きな矛盾がある。
というのも、我々の存在は、進化するわけではないからだ。
何もどこへも向かっていない。
すべてはいつだって「ここ」にある。
すでに完璧な世界が「いまここ」に存在している。
足りないものも、成長すべきものも何もない。
物事が変わり続け、動き続けているのは確かだが(諸行無常)、何かが高くなるわけでもないし、何かが低いまま置き去りにされるわけでもない。
そもそも高い、低いという考え方が、3次元の制約された考え方だ。
そういう分別や区別から自由になれば、直ちに世界観が変わるだろう。
何一つ、優れたものも劣ったものも存在しない。
すべてが神聖なものになる。
飼い犬の目の中にブッダがいる。
テーブルの花の中に光明がある。
それはすでに「いまここ」に、神々の戯れとして、祝福として存在している。
アセンションの最大の欠点は、そんなすばらしい世界を未来に設定し、目的志向のところだ。
もう一度言うけれど、事実は何一つどこへも向かっていない。
「いまここ」がゴールだ。
でも、アセンションのような考え方は、時間と空間に制限されたこの次元に暮らす僕たちに役に立つ。
自分の意識の焦点を何処に向けたらいいのかが、よくわかるからだ。
同じような疑問を持った皆さんに、僕なりの説明を述べてみました。
ブログはどうしても細切れになってしまうけど、これからも毎朝書き続けようと考えています。
最後まで読んでくれてありがとう。
Posted by Toshiro Abe at
10:56
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2007年12月19日
時代遅れの独り言
数あるブログから、ここを選んで来てくれるマニアックなみなさん、今日もご来店ありがとうございます。
書きたい事が湯水のように湧き出してくる日と、何も出てこない日とあって、今日はどうかというと・・・洪水状態。
瞑想に関する記事だけでも、一年分くらい書きたい事があるし、他にも書きたい事がいっぱいあって、ありすぎるのもそれはそれで難しい。
こんな日は、意識の表面にモヤモヤと漂っていることを書いてみよう。
なぜモヤモヤしているかというと、書こうかやめようか迷っているから。
何故迷っているかといえば、書いても「受けない」って思っているから。
なんだ、結局受け狙いで書いていたのかって思う自分もいて、そうやって分裂しているからモヤモヤしているわけで・・・
よし、いつも生意気にのたまっているように、人にどう思われるかを気にしないで、勇気を持って自分を生きよう。
ジャジャジャーン!!
それでは発表です。
モヤモヤしていて書けなかった私の言いたいこと。
その1.
「霊魂は存在しません。それは想像力豊かな人の妄想です」
うわ!言っちゃった。
その2
「UFOは存在しません。それは暇な人たちの戯言です」
うわ!もっと過激に言っちゃった。
その3
「前世は存在しません。それは昨日見た夢の様なものです」
この世にはまことしやかに何かを信じる風潮があって、それを信じないと堅物に見られたり、時代遅れに思われたりするけれど、ここは勇気を持って伝えておこう。
「霊魂やUFOや前世を信じない人のほうがおかしい」というこの風潮こそがおかしいと思うのであります。
一度信じてしまうと、こういう意見には抵抗があるかもしれないけれど、せめてもう一度真っ白な状態から検証してみたらどうかと思うわけで。
以前、サイババがブームになったとき、あれは単なる手品だって言ったら、多くの人(有名人も含む)から、「君はそうやって否定するが、私は奇跡を目の前で見た。彼は本物の聖者だ」ってバカにされた。
世界中の人が手の中から「聖なる灰」を出しても、世の中何も変わらないと思ったから、「聖者ってそういうものじゃないんじゃないか」って、ちょっとトーンダウンしながらも、それでも言い続けたら、あるとき彼のトリックが暴かれて、それ以来、あんなに信奉していた人たちが黙り始めた。
あの時も僕は、時代遅れの堅物に見られたっけ。
そういう全体のムードみたいなものが、いつの時代もあると思う。
僕たちがいまこうして存在していること自体が、あまりにも神秘なのに、そこに目を向けずにファンタジーに走ってしまうのは、せっかくの宝を前にして、グリコのオマケを集めるみたいなもんだと思う。
別にそれが悪いわけじゃないけれど、しっかり地に足をつけてみよう。
そうすれば、霊的成長(霊魂じゃないよ)や、この世の成功も思いのままだ。
好きな事をやって、好きに生きられる。
そのほうがよくない?
そんなことがモヤモヤと心に漂っていたけど、ま、言えてよかったかな。
このこと(霊魂・UFO・前世)に関しても、僕なりに解説してみたいけど、かなり長くなるから今日はこの辺で。
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09:51
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2007年12月18日
サンサーラ
ディズニーアニメの中で、僕の一番のお気に入りは「不思議の国のアリス」
何回くらい見たかな。
登場人物が唄う歌は全部覚えている。
その中でアリスが、自分が流した涙の海から這い上がってくると、浜辺で魚達が同じ場所をグルグル回りながらカケッコしているんだ。
ほんの短いシーンだけど、とても深いメッセージを感じさせる。
V6じゃないけど、「♪ラーラーラ、輪になって走ろう」ってな感じで走り続けている。
今日はその「輪」の話をしよう。
輪の名前は、サンサーラ。
別名、欲望の輪。
僕らは欲望に従って走り続けるけど、それは決してどこにも行きつかない。
行き着かないのは走り方が足りないからだと思って、もっと速く走ろうとする。
いつも前には誰かが走っている。
あいつに追いつけ、そうすればもっと幸せになれる。
後ろにも誰かが走っている。
あいつに抜かれないようにしよう。
これ以上惨めになりたくない。
そして必至で走って、どんどん追い抜いて、かなり前に進んだと思ったら、まだ前に誰かいる。
そいつの顔を見て驚いた。
え?ずっと以前に自分の後ろを走っていた奴じゃないか!?
いつの間に追い抜かれたんだろう。
そうじゃない、一周遅れで前にいるんだ。
だって走っていたレーンは輪になっていて、ぐるぐる回るだけで、どこにも行きつかないのだから。
僕らはその輪の周囲を回り続ける。
そしてどこにも行き着かない。
その輪は強力なパワーで、何度死んでもその輪の中で生まれ変わり、また走り出すことになる。
立ち止まっても無駄だ。
だってそこには、数限りない欲望があって、それが否が応でも自分を前に押し出すからだ。
かつて存在した一切の欲望が、その輪を回し続けている。
後ろからは押されて、前からは引っ張られて・・・
アー疲れた。
もうこの辺りで走るのをやめにしないか。
やめる人はこの指とーまれ
そんなわけで、このブログは、エンドレスの超長距離レースをリタイヤする人のために書いているのであった。
やめたくてもやめかたが分からなくなってしまった人のための、やめ方ガイドです。
この続きはまた明日書くね。
今夜も「いまここ塾」で会いましょう。
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08:40
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2007年12月17日
気楽にいこうね
え?また月曜日?
おかしいな、昨日が月曜日だと思ったのに、また月曜日だなんて。
さてと、ブログに瞑想の事を書こうって決めたおかげで、今まで以上に瞑想をする時間が増えている。
瞑想ってコツみたいなもので、いったんそれを掴めば、すぐに深い状態に入る事ができる。
そのコツは、自分のものにしてみれば、たいして難しいことじゃなくて、誰にでもできる事だって分かるんだけど、そうなるまでにけっこう練習が必要だったりする。
自転車に乗るのと似ているかも。
自転車も乗れる人にしてみたら簡単なことだけど、乗れない人には高等技術に見える。
乗るのはちょっとしたコツだよね。
ちょっとした感覚を掴めば、誰だって乗れるようになる。
でもそのコツは、人に教えることはできない。
何故人が自転車に乗れるのか、なぜ2輪が倒れずに前に進むのかの理論を、何十時間も講義しても、聴いた人が乗れるようになるわけじゃない。
やっぱり実際の練習が必要でしょ。
瞑想も同じで、自分であれこれ試してみるしかない。
そして一度でも「自分の不在性」を見て取ることができれば、次からは簡単にそこに行きつくことができる。
コツをつかめばこっちのものだ。
その境地に入れば、たちどころにして全ての悩み苦しみは霧のように消えてしまう。
そして腹の底から笑えてくる。
ことの全体があまりにも馬鹿馬鹿しくて、しかも自分もその世界に参加していて、普段はそこにのめりこんでしまっているから、真の姿が見えなくなっていて、そんな自分がまた悲しくもおかしい。
この馬鹿馬鹿しさは、ある一定の距離を持たなければ見えてこない。
その距離を作り出すのが瞑想だよ。
そのときに理解する事がある。
あらゆる不幸や苦しみは自分が作り出していたんだって。
なのに人は、自分の不満や怒りを世界や周囲のせいにするんだ。
ある人は評論家になり、いかに世界が間違っているかを論じる。
ある人は運動家になり、様々な集会に出かけていって平和を叫ぶ。
ある人は妻を夫を変えようとして、あれこれ試みる。
ある人は他人を批判して、自分はそんな人たちの犠牲者だと言う。
「私は幸せになりたい。私が幸せになるためには世界を周囲を変えなくてはいけない。世界がしかるべき姿になったとき、私は幸せになれるはずだ」
だけど、その「私」が幸せになる事は絶対にない。
だって「私」こそが、多くの不幸を作り出している根源なのだから。
僕らには世界を救うことなんかできない。
そもそも、そんなことは自分の仕事じゃない。
僕らの仕事はただ一つ、自分を救うことだ。
そのための処方箋が瞑想なんだと思う。
この先も、いろんな角度から瞑想の必要性を話していきたいと思っています。
実際には瞑想のやり方は人の数だけあるんだけど、いろんな具体例も紹介していきますね。
最後まで読んでくれてありがとう。
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10:31
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2007年12月16日
人生は遊び
昨日ライブで「瞑想」のことを話したら、つらつらと言葉が湧き出してきて驚いた。
そうか!こういう言い方にすれば言葉にできないことも伝わるぞ、そうだ!このことを明日ブログに書こうって思ったんだけど、一晩たつと何を喋ったか忘れてしまう。
やっぱり、何事もその時に起きることなんだろうな。
昨日の記事に対するコメントでも、瞑想に興味を持ってくれた人がいたし、よくよく考えてみれば一番大切なことだと思うし、今日もそのことについて書いてみます。
瞑想を理解するためには、いったん自分が持ってしまった瞑想に対する先入観を捨て去ることから始まると思う。
たとえば坐禅。
坐禅を修行だと思っている人、坐禅を悟るための手段だと思っている人、坐禅は厳しいと思っている人、そういう考え方はやめたほうがいい。
なぜかというと、深刻になってしまうし、それは間違いだから。
瞑想の基本は、一切の深刻さが消えた状態に至ること。
もっとわかりやすく言えば、瞑想とは、もっとも楽しくて、もっとも気持ちがいい、最高の道楽だってこと。
しかもタダだ
坐禅を40年以上もの間、とことんやってきた向禅師の口癖は
「坐禅は、草津の温泉につかるみたいに、身も心もほっこりとする最高の時間」
これは本心で、だから今でも続けているんだと思う。
彼は最高の道楽者だ。
僕ごときが言うのは気が引けるけど、僕も同じような気持ちだ。
僕の場合は最高の道楽、というより趣味みたいなもの。
道楽、趣味、遊び、楽しみ・・・これらに共通していることは何だろう。
そこには、その行為によって何かを達成しようとする意図が無い。
その行為自体が目的で、何かに至る手段じゃない。
だから楽しいんだ。
僕らは何でも有意義で実利的なものにしようとしてしまう癖がある。
自分を成長させるために、悟るために、毎日瞑想を頑張るんだ!みたいにね。
だけど坐禅をして悟ろうなんて無理な話。
だってもともと悟っているのに、悟ろうとしたら自分は悟っていないって自分に言い聞かせることになる。
僕らはきっとマジメすぎるんだね。
そもそも人生自体が冗談みたいなものなのに、眉間にシワを寄せて一生懸命に奮闘してしまう。
その背後には多くの「~べきだ」「~ねばならない」が憑依霊みたいにしがみついている。
瞑想というのは、この人生全体を遊びだとみなすこと、宇宙が僕らに果したこの一連の創作ドラマを見て笑うこと、茶番劇を見抜くこと、ひとり相撲をやめること・・・
そのとき初めて「いまここ」が見えてくる。
自分で自分を苦しめているんだ。
脚本家も、演出家も、出演者も、観客も、全部自分自身だったという、この壮大なトリックに気がつくこと、それが瞑想の本質だよ。
肩の荷物を下ろしていいんだ。
それで何も失くさないから。
これが言葉の限界。
これ以上はうまく言えないし、ここまでの内容だって、一生懸命に生きている自分を茶化されたと思ってしまう人もいるだろう。
それくらい人は深刻になって生きているから。
だけど伝え続けていこう。
人生は天から押し付けられた義務なんかじゃない。
人生は天が与えてくれた楽しむべき機会だってこと。
すでに僕らは全員、祝福されている。
ね、だからさ、一緒に遊ぼうよ。
Posted by Toshiro Abe at
08:51
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2007年12月15日
瞑想
このブログでは、僕が人生で気づいたことや、魂の成長にとって有意義だと思うことを書いてきたけど、今日はその中でも一番肝心なことに触れてみよう。
それは「瞑想」
瞑想は実際に目の前で指導させてもらって、同じ空間で一緒にやる事ができたら、それが一番効果的なんだけど、せめてブログの中でも、その方法や理論について触れてみます。
まずは多くの人が誤解していることから話そうね。
瞑想というのは、「すること」じゃなくて「起こること」なんだ。
あらゆる「する」を落とした時、もっと分かり易く言えば、あらゆる行為をやめたとき、そこに訪れるのが瞑想だ。
この世には古今東西の多くの瞑想法があって、それは少しずつこのブログでも紹介していくけど、それらはすべて瞑想状態に至るための方法であって、瞑想そのものじゃない。
瞑想とは完全な無為のなかで、自然発生的に起こる「彼方なる体験」なんだ。
それは眠るという状態によく似ている。
眠りも行為によっては達成できないよね。
自分の意思で眠りを作り出すことはできない。
僕らに出来るのは、眠るための環境を整えて、じっと眠りが訪れるのを待つことくらいだ。
眠れない人のために眠る方法を伝授したとしても、その方法自体が眠りを作るんじゃなくて、眠りに誘うテクニックを教えたにすぎない。
眠りは彼方からやってくる。
眠りも瞑想も、無為によって達成されるんだ。
でも眠りと瞑想は似ているけど正反対なんだよ。
眠りは無意識の世界に落ちていくけど、瞑想は意識の世界に入っていく。
それも普段の漏れたような散漫な意識じゃなくて、超意識の状態だ。
そこに祝福があり、至福がある。
僕らが瞑想状態に入れたとき、その時こそ、生命の本来の意味や価値に触れることができる。
それまで外側の世界で掴んできたものは全部、その代用品みたいなもので、一過性の幻だってことがよくわかるよ。
本物と出会えば、偽物は霧のように消えてしまう。
そのためには無為の達人になること。
無為と一言で言うけれど、それは難しい。
心はいつも、未来への期待や欲望によって支配されているから、そんな状態から抜けることは、想像以上に困難なことだよ。
だから、様々なテクニックが必要になるんだ。
ここまで書いてみて思ったけど、やっぱり瞑想を分かち合うことは、この世で最も大切なことかもしれない。
白隠禅師も「坐禅和讃」の中で、諸々の善行(布施や自戒など)のすべては、瞑想という行為に吸収されてしまうくらい、瞑想はすべてを含んでいるって言っている。
僕らが存在の根本から変容を遂げて、至福に満ちた人生を送るためにも、瞑想を理解し、生活の中に取り入れていけたらいいね。
どう?少し興味を持ってくれた?
このブログの中でも、瞑想について分かち合っていきたいと思います。
今夜8時から国際通りのD-SETで、僕のソロライブがあります。
お問い合わせは866-5880(母家)まで。
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07:52
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2007年12月14日
幻想と実在
目が覚めた時、一瞬、自分が幾つなのかわからない時がある。
きっと本当の自分には年齢なんてないんだと思う。
身体は歳をとるけれど、その中にいる自分の本質はいつも同じだ。
これは幼児の時から変わっていないし、これからも変わることはないだろう。
実在には変化も動きもない。
僕らの本質は不動なるものだ。
無邪気な子供だったころも、希望にあふれた青年時代も、夢破れて挫折した日々も、年老いてからも、内側を見ればそこは何も変わらない。
実在は歳をとらないからだ。
ところが僕らは実在を知らずに、表面的な変化だけを現実だと思ってしまう。
それは体のことだけじゃなくて、人生全体に言えることだ。
見せかけの世界は、常に変化し続けている。
だから見せかけの世界に生きてしまうと、いつも不安定な心で生きることになる。
富も名声も異性も、みんな変化し続ける見せかけの世界だ。
そこに焦点を合わせると、そういう世界に暮らすことになる。
あまりにも富に取り憑かれた人は、出会う人をみんな富によって判断することになる。
あまりにも異性に取り憑かれた人は、出会う人がみな、その対象に見えてきて、そこから人を判断することになる。
あまりにも権力に取り憑かれた人は、誰と出会っても、その人の立場や権力しか見えてこない。
相手が社長だからとへつらっていても、その人が社長でなくなれば、どうでもいい人になってしまう。
人は自分が望むものを、外側の世界に投影して生きている。
それは幻想の世界だ。
だからその世界でいくら成功しても、心の中は満たされずに貧しいままでいることになる。
権力者がその権力の絶頂で死を迎えたとしても、その人は実際の自分は無力だと思い知らされて死んでいくだろう。
幻想で自分を満たすことはできないからだ。
仏教ではこのように教える。
諸行無常
森羅万象は変化し続けていくが、それらは空(くう)の世界が織りなす幻想だ。
その世界に暮らすと苦しみは絶えない。
変わらずにあるものを求めなさい。
それは自己の最奥にある、本質、実在だ。
老いを現実だと思うのは、実在を見失っているからだろう。
実在を知れば、誰一人若くもなく、誰一人年老いてもいない。
もし誰かが新調した服を着ていたら、その人は若いだろうか。
もし同じ人が古着を着ていたら、その人は年寄りだろうか。
身体は衣服のようなもの。
それを着ている人が実在だ。
実在は変わらずにいつも「いまここ」にある。
それを勝ち得ることだけが、人生の唯一の目的だと思う。
同時に掲載している<随(かんながら)神>では、ここ数日アセンションについての考えを書いています。
興味のある人は覗いてみてください。
http://orionza.ti-da.net/
Posted by Toshiro Abe at
08:29
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2007年12月13日
インスピレーションの朝
こんなに遅くまで寝てしまったのは久しぶり。
猫の鳴き声で起きる直前まで、素晴らしい世界にいた。
光の中と言えばいいのか、うまく言えないけれどとても美しい世界だった。
その中で感じていたことや考えたことがたくさんあった。
まだ記憶の中にうっすらと残っているうちに、ひとつだけでも書いておこう。
僕は人生でたくさんの過ちを犯してきた。
人を傷つけ、人を裏切り、自分を貶めて自暴自棄になったこともあった。
誰も信じられず、人生は一連の演技によってしか生きられないと思っていた。
でも今思う。
それらの過ちはすべて、かけがえのない人生の一部だと。
その暗闇があればこそ、光の輝きが際立つのだと。
間違いのおかげで、多くの正しさを学んだ。
その正しさは、最初からそれを身につけた人の正しさより、ずっと豊かで本物だ。
実に人間は、間違いや失敗の中からしか学べないのではないだろうか。
それが人生の深みを作っていくのではないだろうか。
今までに出会ってくれたすべての人たち、そして今まで起きたすべての出来事に、心から感謝します。
それはすべて、神(?・・・何て呼んだらいいのかわからない)が使わしてくれたものだと確信しています。
今日は瞑想してみます。
なんだかとても素晴らしい日です。
Posted by Toshiro Abe at
10:33
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2007年12月12日
12月12日の独り言
2004年の11月から始めた「いまここ塾」も130回目を迎えた。
毎週火曜日の夜8時は僕にとって、かけがえのない時間だ。
昨夜も充実したひと時を過ごすことができた。
「いまここ」について喋っていると、「いまここ」を感覚的に思い出す。
日常ではすっかり忘れてしまう生命の実相を、話すことによって蘇らすことができる。
これは僕自身にとっても、大切な修行だと思う。
会場に着いて、みんなの前に立つ前の1分間は大切な時間。
その時点では何を喋るか決まっていないから、今日もちゃんと喋れるかどうか心配な時もある。
あらかじめ話すことを決めていたとしても、それが出てくることは少ない。
やっぱり、「いまここ」なんだね。
ブログも同じで、その瞬間に言いたいことがこうして言葉となって出てくる。
講演会とブログに共通しているのは、そのメッセージを聞こうとして集まってくれる人がいるということだ。
そのことがなければ、僕もやる気にならないし、続かなかったと思う。
だからあなたという存在は、僕を活かしてくれているわけだ。
今、自分の生活や環境をあらためて振り返ってみると、すべての願いが叶えられていることに驚く。
これからも僕は僕らしく生きていこうと思う。
さて、今日は息子の16回目の誕生日。
今日の沖縄はポカポカと春のような陽気だ。
彼が生まれたのは、身を切るような寒い朝だった。
ベッドでスヤスヤと寝息をたてている我が子の顔を、飽きもせずじっと見つめていたあの日が懐かしい。
今夜はゆっくり、彼と人生について語らってみよう。
Posted by Toshiro Abe at
10:36
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