2008年11月30日

11月30日の記事




波照間島は日本最南端の島として知られています。

その島にご縁あって訪れています。

昨日は講演会をさせてもらいましたが島民の三分の一にあたる200名もの皆さんが詰め掛けて下さいました。
文化風習は違えど、ほんの少し踏み込めば人は皆同じだなぁと、当たり前の事に改めて気付いた次第です。

みんなで仲良く生きられたらいいですね。

冬を迎えた日本列島に最南端の青い海をお届けします。
  


Posted by Toshiro Abe at 15:30Comments(6)

2008年11月28日

はぐれ者の独り言

久しぶりの更新です。

今日はスピ系から離れて、社会の中での独り言です。


最近麻生総理の暴言?珍言?妄言?が批判されていますが、僕は自分の感覚を疑うことがあります。


何故かというと、批判されている発言は、僕から見ると「もっともだ」と思うような内容が多いからです。


たとえば、「医師には社会的な常識がかなり欠落している人が多い」との発言。

僕もそう思います。


それは医師が初めから非常識な考えを持った人が多いわけじゃなくて、医師会という「とんでも団体」の中でしか活動できない現実や、大学病院の腐敗や権力争いや、あれやこれや社会から見たら特殊な環境に長く身を置くことで、自然におかしくなっていくんだと思います。

教師も似たような面がありますが、業界内で成功しても医師ほどには巨万の富を得られないから、まだ社会常識が少し残っているように見えます。


「医師には社会的な常識がかなり欠落している人が多い」と言うと、「まじめに頑張っている医師に失礼だ」って。

論点が違うんじゃないかと思いますけど・・・


そのことを指摘されたとき、医師会側に、自分たちの何が非常識なのか、いったん立ち止まって振り返るくらいの人間性があればとも思うわけです。



それから、「健康に気をつけない人の医療費をなんで俺が払わなきゃいかんのか」という発言。

これも本当にそうだと思いますよ。


僕はこの20年間に一度も医者にかかったことはなく、それなのに一千万円以上の国保金(掛け捨て)を払ってきています。


僕が健康なのは自分の健康に留意しているからで、「健康に気をつけない人の医療費をなんで俺が払わなきゃいかんのか」とよく言ってくれたと思いました。


こういう発言に対しても「好きで病気になっているわけじゃない」とかの論理がまかり通るのです。

たしかに不慮の事故や、逃れられない病気もありますが、現代人の病の多くは生活習慣の不摂生が引き起こしていることはみんな知っているはずです。


瞑想習慣を身につけて、暴飲暴食を抑えるだけで、いまの国民医療費は半減すると思います。


そこに気をつけている人が、まったく気をつけない人の分まで世話をする。

平等の仮面をつけた制度は、実はものすごく不平等だと思います。




それから田母神(前航空幕僚長)さんの論文。

あのような正論に対して、寄ってたかって吊るしあげにするこの国のマスコミは、もはや末期症状です。

しかも彼に賛同する側の発言はほとんど無視です。


桜井良子さんや渡部昇一さんらを、もっとテレビに出して喋らせたらいいと思うのですが、せいぜい月刊誌あたりに彼らの発言が載る程度で、一般の国民には届きません。


歴史を踏みこんで学べば誰でもわかることを、偏向したマスコミ報道を信じて思考停止しているこの社会は、やっぱりおかしいと思うのです。


多勢に無勢だと、こうやって「おかしい」と思う僕がおかしいのかと思ってしまう今日この頃です。




ありゃりゃ!




今日の記事は裏ブログの「かんながら」に載せたつもりが、間違えて「いまここ塾」に載せてしまいました。


流れ的にやや不自然ですが、もう載せてしまったからこのままにします。



また次回、プチブッダ・エンジェルメッセンジャー・ソウルヒーラーのメッセージを載せることにします(笑)

  


Posted by Toshiro Abe at 10:47Comments(56)

2008年11月25日

瞑想・・・大空へ

結局ですね・・・実践しかないと思うんですよ。


言葉には限界があって、それは真実を指し示すことはできますが、真実自体にはなり得ません。



だから実践しかないんです。

それが「瞑想」です。


だったらみんなで瞑想すればいいわけで、このブログもそのやり方を教えればいいことになります。


しかしここで問題なのは、瞑想とは行為ではなく、状態だということです。


行為なら指導できますが、状態は自分が工夫して作り出すしかありません。



その工夫として昔から伝わっているのが、たとえば坐禅の観息法などです。

静かに坐った状態で、淡々と自分の呼吸を見つめ続けるという方法です。

そこに徹底できれば瞑想が始まると言うわけです。



瞑想とは思考が消えた状態のことです。

それは純粋な目覚めた意識です。


透きとおった青空のようなもので、無限の自由がその本質です。

ところが僕たちの心には、絶え間ない雲(思考)が行き来していて、彼方なる大空が見えなくなってしまっています。

欲望や、羨望や、野望や、記憶や、そのほかゴチャゴチャしたガラクタが絶えず行き来し、大空を覆っているのです。



そんな心から離れること、無心の状態になることが瞑想です。

その静けさの中で、真実を体感することができます。


それ以外に真実を知る方法はありません。

心(思考)は真実を求めてあれこれと考えを巡らせますが、決して真実に行きつくことはありません。

心自体が真実の邪魔をしているのに、心は決して自分を失わないようにするからです。



そんな心を横に置くこと、絶え間ない思考から意識を離すことがポイントです。

それはちょっとしたコツのようなもので、一度掴んでしまえば、何度でもその境地に入ることができます。



心はいつも外側に向かっています。

いかにして成功するか、いかにして幸せになるか、いかにして欲しいものを手に入れるか・・・


人に好かれる方法、人間関係を改善する方法、あの人についての分析、自分の言動のチェック・・・


そんな方法が磨かれていったとしても、その基本姿勢は幼いままです。

70、80歳になっても、依然として権力争いに参加し、名誉や財産や、あれやこれやと貯め続けていたりします。


死がそれらすべてを奪い去っていくというのにです。



そんな生き方の無意味さを徹底的に理解した時、真実への探求が始まります。

外側に向いていた意識が、内側に向きだすのです。



心は外側志向であり、瞑想は内側志向です。

心は社会や世間を知っていますが、瞑想は神を知っています。



心によって得られたものはすべて死が奪い去っていきますが、瞑想は不死を理解するのです。


生まれもせず、死にもしないもの、常に「いまここ」に在り続ける大空、それが「本当のあなた」であり、その体感が瞑想です。





・・・・・・・・




さてこのブログですが、運営サイトのメンテナンスで25日午後6時から26日深夜12時までコメントの書き込みと記事の更新ができなくなります。

さらにその直後(27日0時)から、閲覧もできなくなり、27日20時までブログが完全停止するそうです。


またお会いしましょう。

  


Posted by Toshiro Abe at 10:46Comments(7)

2008年11月24日

幸せの形

幸せの形・・・それは人の数だけあるのではないでしょうか。


多くの人からの相談で感じるのは、「こうでなくてはならない」という形に固執しているのではということです。


家族の形態や、子供の教育や、仕事や、人間関係や、自分の性格にいたるまで、何が一番ベターなのかの答えを握り締めているように思います。



そんな理想と自分の現実とを比較して、いらない不安やストレスを引き起こしている人がいるのです。





もしこの世に自分ひとりしかいなかったら、何かと比較することなく、自分独自の生き方をしたことでしょう。


こうでなくてはならないという形もなければ、ここに辿り着かなくてはならないという終着点もありません。



生きるとは、いつも「いまここ」にあふれる命を生きるということです。


「いま」がすなわち結果であり、「いま」は将来のための準備ではありません。



さあ、また深呼吸して、目の前の「いま」を生きていきましょう。




悩んでいたあなたに、ちょこっとメッセージでした。



・・・・・




さて、明日の「いまここ塾」、那覇の「てぃるる」(866-9090)で、19:30からです。

お気軽にご参加下さい。



  


Posted by Toshiro Abe at 09:15Comments(11)

2008年11月23日

絶対他力

お久しぶりです。

前回の記事は札幌のホテルで、帰る日の朝に書いたものです。

なんだか全てを語ってしまったような気がして、次の筆が進みませんでした。


今日からまた、少しずつペースを取り戻してみます。







「大丈夫だよ」って、ただそれだけを伝えたいのだと再確認しました。

それは気休めではなく、本当に事実だから言っているのです。


ただしこれは内的体験から確信することなので、物的証拠を見せることができません。

でも僕と同じような体験をした人は、昔から異口同音に同じことを言ってきました。

それを信じることができるかどうかです。


たとえいま、どのような苦境にあえいでいようと、それがわかれば瞬時に救われます。

いやもっと正確に言うと、もともと救われていたことを思い出すのです。



今までに宇宙(神)から分離したことは一度もありませんでした。

そんなことは不可能です。


存在自体が神なのですから、そこを離れて存在することなどできないのです。


どんなに長く神を忘れようと、神は一瞬も僕をあなたを忘れたことがありません。

地球の片隅の、どんな辺鄙な田舎に暮らしていようと、一歩も外出できないような身体であろうと、神は一瞬たりともそんなあなたを忘れたことがありません。

一瞬たりともです。



そんなことが可能でしょうか。


可能です。

神は全知全能、僕たちの理解をはるかに超えたとてつもない存在だからです。


こんな言い方をすると、神というひとつのキャラが存在しているみたいに聞こえますが、そうではなく、「存在=神」なのです。

神とは「神を体験すること」です。



まるで牧師さんみたいですが、真実だから言います。

「あなたは神に無条件に愛されています」

例外はないのですよ。


そのような表現方法を持つキリスト教は、とても優れています。

単純明快、真理そのものです。



僕たちから見ると、この世には運のいい人や悪い人、幸せな人や不幸せな人がいるように見えますが、宇宙的視点から見ると、それらは全部同じことです。

僕たちは全体を見る目を持ち合わせていないので、起きている部分的な現象にとらわれがちですが、この世は完璧な仕組みによって瞬間瞬間出来上がっています。



だから任せてしまいましょう。

絶対他力の精神です。


その心境に至れば、もう怖いものはありません。

何が起きても神の思し召しだからです。



と言っても、何もしないわけではありません。

道に倒れている人がいたら、手を貸して起こしてあげるでしょう。

それも含めて、全部「思し召すままに」です。




今日は宮古島に行ってきます。

楽しみに待っていてくれる人たちに、歌を唄ってきます。




右に流れても 左に流れても どっちだっていいよ Let it Be

どんな流れも いつかは海に帰る 心配ないよ Let it Be

思し召すまま 流れのままに 任せてごらんよ Let it Be



楽しかったことも 悔しくて泣いたことも みんなありがとう Let it Be

恨んだあの人を 許してあげた時 奇跡が起こるのさ Let it Be

任せてごらん 天の力に 委ねてごらんよ Let it Be

思し召すまま 流れのままに 任せてごらんよ Let it Be
  


Posted by Toshiro Abe at 08:36Comments(15)

2008年11月17日

あなたへの遺言

こうして多くの人たちに出会っていって、結局何を伝えたいんだろう。






「いま」と「ここ」は同じもので、それは時間でも空間でもなくて、それは自分の存在の究極リアリティーで、僕たちは本当は宇宙全体で、あなたは僕で、僕はあなたで、すべては「ひとつ」で・・・



で、結局何が伝えたいんだろう。


それはね、「だから安心していいよ」って、表面的な現象から自分を否定してしまいがちだけど、そんな判断は単なる思い違いで、本当のあなたはとてつもなく掛け替えのない、本当に本当に素晴らしいものだから、だから自分に安心していいよって、それを伝えたい。


いま人生に何が起きていても、それは起きるように起きていて、それ以外は起きなかったのだし、しかもそのことはどのように見えようと、永遠の魂から見たら全部必要なことで、最後は必ず神のもとに帰れるから、それは絶対に確実だから、だから安心していいよって、それを伝えたい。


人生は試練なんかじゃないし、何ひとつ「・・・べき」も、「・・・ねばならない」もなくて、失敗しても、こっそり悪いことをしても、怒っても、恨んでも、自分が嫌いになっても、人を愛せなくても、神にツバをはいても、神はいつもあなたが幸せであることだけを望んでいるから、その神しか存在していないから、だから安心していますぐに幸せになっていいんだよって、それを伝えたい。


あなたは必ず僕が言っていることを細胞の一つ一つで理解できるときがくるから、僕が言っていることは真実だから、だから信頼してごらん、そうすれば心の荷物を降ろせるし、そして「いまここ」で幸せになれるからって、それを伝えたい。





こうして今日も生かされています。

命ある限り、そのことを伝え続けていきます。



出会ってくれて、ありがとうございました。



・・・・・・・・・



沖縄の人は、明日「いまここ塾」で会いましょう。

同じことを違う言い方で伝え続けていきます。



週末はうるま市で、その翌日は宮古島で、その翌週は石垣島でライブをします。

詳しくはこちらから。



七尾市講演会東京講演会は12月です。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:20Comments(60)

2008年11月16日

北の国から


あーあーあああああー・・・(あのメロディーで歌ってください)


いま、札幌です。

来る前からワクワク楽しみにしていたのですが、集まってくださった人たちは本当にナイスな人たちでした。


まさに一期一会、その場でハプニングのようにして起きる分かち合いですが、昨夜もとても有意義な時間を過ごすことができました。

人生で起きることや人との出会いは、すべて紙一重の巡り合わせが交差した結果であり、まことに不思議なありがたさを感じます。




東京や三重から来てくれた人もいました。


それどころかローマから、この講演会を聞きに来てくれたご夫婦もいましたびっくり!


今行かなければと思ったそうです。


日本語堪能なイタリア人の旦那様と、日本人の奥様と、大変素敵なカップルでした。

本当にありがとうございました。



あっそれからね、「あの世で聞いた、この世の仕組み」の雲黒斎さんとも会いましたよニコニコ

これがまた、なんというか、思ったとおりの人でした。

とてもハンサムな男性でしたよ。


ツーショットも撮ったので公開しましょうか?

あはは、きっとモザイクが入ると思います。



今日は二人で対談の予定です。

対談内容も何らかの形で公開したいと思っています。





最後になりましたが、このような機会を作ってくれた佐々木さんに心よりよりお礼申し上げます。




明日沖縄に帰ります。


みなさんも、いい休日をお過ごしください。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:06Comments(24)

2008年11月14日

目覚めの時 余談

そもそも、常日頃から自分が夢見状態で生きているということを実感している人は少ないと思います。


「あなたは夢の中に生きている」と言われても、何を言っているかわからないか、あるいはおかしなことを言って人を惑わそうとしているのではとか、そのように考えるのが普通です。

でもここに集まってくれる皆さんは、そこに何らかの真実を感じてくれたり、あるいは感じようとしてくれる人達だと思います。


そういう意味から言えば、ブログというツールは不特定多数に向けてのものではなく、特定少数に向けているのかもしれません。


だからこそ言える話があるし、だからこそ僕にはブログが大切なのです。




ヒンズー教徒の人たちは「現実はマーヤ」だと言ってきました。

マーヤとは幻想という意味です。


彼らも同じように、現実だと思っているものは全部幻想だと言います。


だからと言って、目の前の世界が存在していないのではありません。

誰かが覚醒して目覚めても、目の前の現実が消えるわけではありません。


<その人が目覚める前に認識していた世界>が消えるのです。


そして超客観的な、何ひとつ解釈や判断が入り込まない、ありのままの世界が顔を出します。


僕たちはそのありのままの世界に自分の夢を投影して、その映像の中に生きているのです。

ありのままの世界は、ただのスクリーンのようなもので、僕たちはその上に自分の夢を投影した映画を見ていると言ってもいいでしょう。


したがって人によって見ている映画は違います。

スクリーン(現実)は一つなのに、映画は人の数だけあるのです。


人はそれぞれに、自分の周りに独自の世界を映し出して、その中で生きています。

あなたとあなたの隣人は、同じ世界に住んでいるわけではないのです。

もしその人の世界をつぶさに見ることができれば、あなたは驚くことでしょう。


あまりにも違う世界だからです。

そこに登場するあなたは、あなたが思っているような自分ではなく、そこに登場するその人自身も、あなたが見ているその人ではありません。


それは全くの別物です。


だからぶつかるのです。

実は人間同士に生じる軋轢は、人と人ではなく、それぞれが持つ世界と世界との衝突なのです。


それを理解すれば、「なぜあの人はそんな言い方をするのか」「なぜあの人はあんなやり方をするのか」といった疑問も解けてきます。



自分の世界に固執しないことは、生きる上での大きな知恵です。

だって世界は人の数だけあるのですから。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:50Comments(30)

2008年11月13日

目覚めの時 2

僕たちの夢は夜眠っている時だけでなく、朝目覚めてからも心の中で続いています。

夜の夢との違いは、睡眠中の夢は一回限りで別の話に変わりますが、起きている時の夢は毎日連続して同じストーリーを見ている点です。


朝起きた瞬間に、自分が誰だか忘れている経験はありませんか。

実はその経験はリアルなものなのです。

「本当の自分」という存在は、誰でもない人だからです。


しかしすぐに思い出します。

自分の年齢や、名前や、社会的役割や、周りの環境などをです。

そうやって昨日までの夢がまた引き継がれていきます。



リアリティーから見れば、そのような連続した自己など存在していないのですが、それを継続させないと狂ったと思われてしまいます。

実際には幻想の中に生きている我々が狂っているのですが、眠りこけている我々から見れば、目覚めた人がおかしく見えてしまうのです。



・・・・・・・


昔、ひとりのスーフィーの修道者がいました。

彼は熱心に修行にはげみ、人からは聖者と崇められていました。


そんな彼の耳元で、神が囁きました。

「明日になったら世界中の水に、悪魔が毒を入れてしまう。その水を飲んだ者はたちまちにして狂ってしまうだろう。だから十分に用心しなさい」



それを聞いた男は驚いて、一日がかりで水を汲み上げ、たくさんの水を蓄えることにしました。



そして翌朝、本当にそのことが起きていたのです。

村中の人が毒入りの水を飲んだことで、みな狂ってしまいました。


しかし彼らは自分が狂ったことに気が付いていません。

みんなが同じように狂っていたからです。


しかし、一人だけおかしな男がいました。

あのスーフィーの修道者です。


村人たちは彼を警戒しました。

聖者だとばかり思っていた男が、どうやら気がふれてしまったようなのです。

村人から見ると、その男一人が狂って見えました。



しかしスーフィーだけは、いったい何が起きたのかその全貌を知っていました。

だから村人たちにもその真実を聞かせようと努力したのですが、誰も本気にしません。


「あいつは何を言っているのか。俺たちが夢を見ているって?俺たちが狂っているって?そういうあいつこそがおかしいくせに」


村人たちは、悪魔の水を飲む前のことをすっかり忘れてしまっていました。

彼らにはスーフィーの言うことがどうにも理解できませんでした。

彼は理解を超えていたのです。



そのうち村人たちは、彼を捉えて牢屋に幽閉しようと計画し始めました。

そして一行が彼の家を取り囲みました。


それを見たスーフィーは、もはやこれまでとばかりに村の水を飲むことにしました。


そして正常(?)に戻ったのです。


村人たちは、そんな彼を見て大喜びしました。

やっとスーフィーが正気に戻ったからです。

しかし実際には、彼も一緒に狂ってしまったのですが、とにもかくにも彼は社会の仲間入りを果たすことができました。


めでたし、めでたし。



・・・・・・・・


みんなが夢を見ている社会で生きていれば、自分が夢を見ていることに気づくことはありません。

それが、僕たちが置かれている状況なのです。



でも夢は深くなったり浅くなったりしています。

浅くなった時がチャンスです。

依然まだ夢見状態ではあるのですが、自分が暮らす世界が必ずしも真実ではないことに気づき始めているからです。




僕たちの目覚めは近い、そんな気がしています。

それが2012年なのかどうかは知りませんが、でも確実にその時が近づいている予感がするのです。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:12Comments(22)

2008年11月12日

スーフィー

イスラム教の中にスーフィーと呼ばれる一団があります。

イスラム神秘主義とも呼ばれています。


イスラム教というと僕たちはすぐに、原理主義者や過激派を思い浮かべますが、それは一部の人達です。


言うまでもなく、長い伝統を持ったその中身は、多くの人を納得させるだけの真理に満ちています。



ただイスラム教もキリスト教や仏教と同じように、政治や権力と結びつき、本来の純粋な宗教性が失われている面が否めません。


そんな中にあって、教義や経典に縛られることなく、個別意識から宇宙意識への飛翔を目的に、様々な修行法を用いた集団があります。


それがスーフィーです。

宇宙真理を直接体得するという意味において、日本の禅と極めて近い性質を持っています。



ちなみにスーフィーの中でも、宗派を離れて修行に打ち込む修道者をダルビッシュと呼びます。

どこかで聞いた名前でしょ。

彼の名前にはすごい意味があるんですね。

イラン人のお父さんが名付け親なのでしょうか。



さて話を戻しますが、スーフィーには多くのたとえ話や寓話が伝えられていて、どれもこれも真理を指し示した興味深いものばかりです。

真理は直接言葉で言い表すことができないので、どこの国でも詩や寓話で伝えられることがほとんどです。




昨日の記事で、僕たちはぐっすり眠りこけて夢の中に生きているという話をしましたが、スーフィーの話の中にも、そんな内容を示唆するようなものがあります。


まさに僕たちが置かれている現状を言い得た話です。




今日は時間がないので、また明日その話を紹介しますね。




沖縄もやっと涼しくなってきました。




週末に札幌で講演します。

ニュースでは今日の札幌は晴天だと言っていました。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:27Comments(9)

2008年11月11日

目覚めの時

自分の記憶や、自分がいま生きている環境や、起きている出来事の全ては、自分が勝手に思い描いている夢の世界だということを知っていますか。

このブログを読んでいるあなた自身も、そんなあなたの日常も、全部夢です。


それらの現実がまったく存在していないと言っているのではありません。

出来事は瞬間ごとにリアルに起きつづけています。


ただし、その出来事に対する解釈は無限の数だけあるのに、僕たちはその中からたったひとつを選び出してそれを「現実」と呼び、その現実をつなぎ合わせて自分本位のストーリーを組み立てています。

僕たちは思い込みの世界にどっぷりと浸かって生きていて、それは夜見る夢と同じだけ幻であり、夢そのものなのです。



ところが自分では夢を見ているとは思っていません。

ジレンマなのは、これらの言葉さえも夢の中で読んでいることです。



夜眠っている時の夢の中で、「これは夢だ」と気づけば夢から覚めますよね。

現実だと思っているこの世界も同じことです。

夢だと気づけば夢から覚めることができます。



その瞬間、時間が消え去ります。

時間はそもそも幻想の産物で実際には存在していないのですが、夢の中ではリアルなものに感じています。

それが過去を作り、未来を作り、僕たちの心を惑わしてきました。



もう一つ、時間の消滅と共に消え去るものがあります。

それは自分自身です。

いままで自分にたくさんの投資をして磨き上げてきましたが、そんな人は最初からいなかったのです。


自分が消えると言っても、その時に消えるのは、人格と、アイデンティティーと呼んでいた自己証明の全てです。

自分の存在は今まで以上にリアルに残ります。

偽の自分の下に隠されていた、本当の自分がありありと顔を出します。


それは「いまここ」を生きている純粋な目覚めた意識です。



あなたは純粋な目覚めた意識です。

それ以外は全部幻想です。



その自分に帰れば、あらゆる問題は一瞬にして消えてなくなります。

そして、いままでもずっと完璧だったし、これからも完璧でしかありえないということを理解します。



それが目覚めであり、神の体験です。


神とは、いついかなる時も自分が完全に守られて、愛されて、自由の中に存在していたことを知る体験です。


神とは、神という存在がいるのではなく、ある種の体験なのです。


そう・・・神とは体験です。

圧倒的で、疑問をさしはさむ余地のない、完全なる体験なのです。


それは祝福や喜びや、自分が感じたいと思っているありとあらゆる素晴らしい感覚を数万倍にしたような、そんな言葉を絶する体験なのです。


一度でもそれを味わえば、二度と同じ生き方を選ばないでしょう。

そんなことは不可能です。


そして、永遠なるものとの調和の中に存在したいと願うことでしょう。



僕たちは、肉体は別々に存在していますが、命は一つに結ばれています。

だから、このようなネットの出会いを通してでも、信頼関係を高めていけば、共に目覚めに向かうことができます。


それはこの世における、最も大切な関係性です。


それから比べれば、他の関係は単なる社会的役割にすぎません。


ネット上とはいえ、このような結び付きは一般に信じられている以上の可能性があると思います。


どこまで信頼しあえるか・・・この先に進むキーワードは「信頼」です。




僕は半世紀もの間生きてきましたが、僕のブログが生まれたのは、たかだか2年前です。

ブログというツールは、これからますます存在感を持ってお互いに影響し合えるほどに成長していくことでしょう。



そのために僕ができることは、心をこめてメッセージを発信すること。

そしてあなたにできることは、僕が何を伝えようとしているのか、より深い意味を理解しようとしてくれることです。




今日もここに来てくれてありがとうございました。



目覚めの時は目の前です。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:18Comments(24)

2008年11月10日

まかせてごらん、天の力に

ブログという媒体に出会えたことは、僕の人生の中での大きな事件です。

もしブログがなければ、心の内側で感じていることを、ここまで正確に言葉にできなかったと思います。


伝えたいことは立体的で、言葉は平面的です。

無数の平面を重ねても決して立体にならないように、無数の言葉をつづっても伝えたい本質には届きません。

だからこうしていつもPCの前に来てしまうのでしょう。

生きている間に、少しでも多くの言葉を残しておきたい、そんな思いを抱くようになりました。


もし僕の肉体が朽ちても、このブログが残ってくれるなら、ひとりの人間の中にこのような思いが芽生えていたことの証しになります。

ほんのささやかな人生でしたが、それでも確かに存在していた証しになります。


僕という人間の証しを残したいわけではありません。

僕の中に芽生えている、この思いを残したいのです。


一人の人間に起きたことは、いずれ誰かの内に起こることだと思います。

その時に、あ~自分一人ではなかった、この体験はすでに他の人の中に芽生えていたんだと思ってもらえたら本望です。








自分自身のことを話すのは難しいです。


わかったような顔に見られるのが嫌なのかもしれません。

だからわざと人に合わせたり、自虐ネタで笑いを取ったりしますが、今日は反応を恐れずにありのままを書いてみます。


こんな言い方は好みではありませんが、僕の中で生きている感覚は他の人たちと違う気がします。

少なくとも昔の自分とは大違いです。

昔と比べたら圧倒的に楽に生きています。


その理由は、何かを得たからではなく、反対に「所有」という観念がなくなったからです。

何かを持ちたいとか、何かになりたいという思いがありません。


必要なものは必要な時に現れるし、もし現れないのなら必要ではないということです。


すべては「ひとつ」であり、全体を動かしている大いなる力が僕を生かしているので、起きることはその時の自分に最高なことばかりだと信じています。



その存在を心の底から信頼すれば、自分が何かを所有する必要がなくなります。

もし信頼できなければ、自分のために自分の安全や将来の保障やその他諸々を、自分で守らなければと思うことでしょう。



所有とは、存在を信頼できないことの現れです。

自分を生かしている絶対的な力を信じ切れないから所有しようとするのです。



「事」は起きているのです。

自分がやっているのではありません。


いま成功している人も、そうでない人も、その結果を作ったのはあなたではありません。

そのようにして起きたのです。


その「事」を起こしている大いなる力があります。

その力を信頼して共に流れたら、流れは必ず海にたどり着きます。

頑張って泳がなくていいんです。


ただ流れと一つになること、それが生きる極意だと思います。



だからと言って何もしないわけではなく、目の前に必要が生じればそれを処理します。

ただそれだけのことです。




何かを得ようとしなくていいんですよ。

だって最初から全てを手にしているのですから。


得ようとしているというのは、それが自分のものではないと思っているからです。

得たものを守ろうとしているのも、それが自分のものではないと、心のどこかで知っているからです。


実は、そのような所有感を手放した時、手放した分だけ自分のものになるのです。

存在は実にパラドックス(逆説的)です。



自分が最初から全てを手にしているということの意味がわかった時、「所有」という観念が消えてなくなります。

それはとても身軽で心地いい感覚です。



昔の人は、宇宙をつかさどっている大いなる存在を「阿弥陀仏」と名付けました。

それを心の底から信頼しサレンダーすることを「南無」といいます。



「南無阿弥陀仏」

したがってこの言葉は、一切の苦しみから瞬時にして解放してくれる真言(マントラ)です。


今日の記事でその意味がわかったのではないでしょうか。



それではご一緒に

「南無阿弥陀仏」



クリスチャンの人は

「天の父の思し召すままに」


これは同じ意味です。



法華経信者のみなさんは

「南無妙法蓮華経」


これも同じ意味です。



みんなで仲良くいきましょう(^o^)/




肩の荷を降ろして大丈夫ですよ。

存在がちゃんと面倒見てくれますから。




・・・・・・・



明日の「いまここ塾」は通常どおりです。

どなた様も、お気軽にいらしてください。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:06Comments(29)

2008年11月07日

永遠の命

僕は以前、見えない世界に対してとても懐疑的でした。


たとえば、「永遠の命」などという言葉は、どうしても受け入れることができませんでした。

何を根拠にそんなことを言うのか。

どうやって証明しようと言うのか。

証明不能なことを、なぜ断定的に言いきるのか。


そのような疑問をいつも持っていました。

自分が尊敬する人がいたとして、その人の言葉のひとつひとつに頷きながら、もしそこに「永遠の命」とか「死後の世界」なる言葉が出てきたとしたら、それだけでその人の全てを否定したくなったものです。

こういうことが流行るのは、人間が「死」を恐れていて、自分が消滅してしまうことを受け入れがたいから、そのようなファンタジーにしがみつくんだと思っていました。



それが変わったのは、自分が経験的に「永遠の命」を垣間見たからです。


あー、このことだったのか…確かに肉体はいつか朽ちてしまうけれど、魂は永遠に「いまここ」にあり続ける。


「死」は存在していない。

「死」こそが最大の幻想だ。


僕は今までに一度も生まれたことがなかったし、死んだこともなかった。


いつも「いまここ」に在り続けていた。



こうやって書くと、読む人の中には昔の僕のような人がいて、なぜそんなに断定的に言いきれるんだ、いったい何を頓珍漢なことを言っているんだと思うかもしれません。



でも知ってしまったのだから、そう言うしかないのです。


僕たちは永遠の命によって生かされています。

自分が想像できうる限りの、すべての尊さとすべての素晴らしさを持った、とてつもなくありがたい存在によって生かされているのです。

と言うよりは、そのありがたい存在が、こともあろうに自分自身なのです。


こんなに醜い、こんなに卑怯な、こんなに取るに足らない自分が、実はとんでもないくらいに素晴らしい存在だったのです。


例外はありません。


この宇宙に例外はありません。


すべての命はその素晴らしさが本質です。


あまりにも素晴らしいので、優劣など入り込むすきはありません。


偉い人も、貧しい人も、強い人も、弱い人も、みんな根っこは同じです。


この世には「それ」しか存在していないのですから。


「それ」とは、まさにあなた自身なのです。



だからいつも言うんですよ。


大丈夫だよって。


本当ですよ、命を懸けて宣言します。

たとえいま、あなたがどのような人生を送っているにせよ、心の底から安心して大丈夫です。



最初からあらゆる人は祝福され守られているので、この束の間の現象界で何が起きても、そんなものはちゃんちゃらおかしい屁の河童です。

だから気持ちを大きく持って、さあ深呼吸して、またこのくだらない現象界に関わっていきましょう。



所詮は人生。

成るように成りますよ(笑)



なんだっていいじゃないですか、どうせ束の間の夢なのだから。



今日もここに来てくれてありがとうございました。


もし人生の出来事が手に負えなくなったら、このページに戻ってきて、また大きく深呼吸でもしてください。





・・・・・・・・・





年末にかけて、札幌東京七尾に出張して、講演させてもらいます。

詳細は上の都市名をクリックしてください。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:20Comments(47)

2008年11月05日

徒然なるままに

沖縄で「いまここ塾」という講演会を始めたのが2004年11月。

昨日で4周年を迎えました。

お花をありがとうございました。






回数も172回。


実は5回目くらいの時に、もう話したいことは全部話してしまったから、そろそろ終わろうかなんて考えたことがあります。

ところが続けてみれば話が尽きることはなく究極的には「ひとつ」のことを言っているのだけど、その表現は無数にあると感じています。

いまやすっかりライフワークです。


このブログも同じようなもので、人からは「よく毎日書くことがありますね」と言われるけれど、やっぱりその瞬間瞬間で微妙に違う自分がいるので、話が尽きないのだと思います。




さて突然ですが、作曲家の小室哲哉さんが世間を騒がせていますね。

衆人が見守る中での逮捕劇もショックだったと思いますが、それ以上にここ数年の金銭的な困窮は想像以上だったようです。


あまりにも華やかな時代があっただけに、なんとも言えぬ寂しさが漂う事件ですね。



実は僕は一度だけ彼に会ったことがあります。

もうずいぶん昔の話ですが、当時僕はTV主題歌を制作するプロデューサーをしていました。

歌がうまくて評判だった大型新人の渡辺美里さんも担当でした。


当時は洋楽のカバー曲を主題歌にするのが流行りで、彼女のデビュー曲も僕の大好きなケニーロギンスのカバーです。


「I’m Free」というタイトルだったと思いますが、それが「スーパーポリス」という刑事ドラマの主題歌になりました。

ところがこのドラマが不評で、ワンクールで打ち切りが決まり、彼女のデビュー曲も不発に終わってしまいました。


しかし彼女の歌の上手さは並じゃなかったので、再度主題歌に取り上げてくれるように働きかけをしました。

ある映画会社系のドラマ制作会社に行ったとき(スーパーポリスを制作した会社)、「こんな売れない歌手を何度も売り込むとは何事だ!」とばかり門前払いを受けた思い出があります。

もしそこで主題歌に決まっていたら、あのヒット曲は生まれなかったかもしれません。

さらにその後(確か4曲目くらい)に、新しい作曲家(小室さん)を抜擢することになり、そうしてできたのが「My Revolution」です。

途中で何度も転調するのですが、とても自然な流れで、小室さんの才能は凄いと感心しました。


ちなみにこの曲の編曲は大村雅朗さんで、僕の曲でも「5月の空~風が止まる」などの編曲をしてくれた知人です。

10年ほど前に惜しまれてお亡くなりになりました。



さて、その後の小室さんの活躍は説明するまでもありませんね。


僕は音楽業界をやめてから滅多に流行歌を聞くことはありませんでしたが、ある時街角から流れてきた「恋しさとせつなさと心強さと」を聞いた時は、また筒美京平さんがいい歌を書いたなと思ったのですが、それが小室さんの作品だと知った時は、この人は凄い作曲家だと思いました。

メロディーに一番大切なのは「歌心」なのですが、それを持っている作曲家はそう多くありません。

小室さんはそんな一人だと思います。



僕は思うのですが、人が経験できないような絶頂の暮らしと、今回のように地に落ちた経験をわずかな期間にするというのは、誰にでもできることではありません。

そのような嵐の中で、実際には自分の存在は何一つ影響されていないということを、彼が気づけたらいいと思います。


自分が上手くいっている時は、周囲もちやほやして近寄ってきますが、いったん悪くなれば手の平を返したように去っていきます。

人の自分に対する態度は、真の自分自身に向かっているのではなく、その人達の都合に過ぎないということを深く見抜くチャンスです。


すべては夢にすぎないということを知り、自分の心の奥にある何物にも影響されない純粋な存在に気づくチャンスだと思うのです。


もし「それ」に気づくことができたら、それは何兆円出しても買えない体験であり、人生で唯一価値のある体験なのですから、いままでの富に対する執着も消えてなくなることでしょう。


そんな気づきの恩恵が、小室さんの元に降り注ぐことを心から祈っています。


人生にはいろいろな出来事が起きますが、何が幸いかなどということは誰にもわかりません。


すべての出来事は、神が起こしています。

その神を信頼できれば、何が起きても動じることはありません。


僕の経験では、その時何が起きようと、それらは全て自分にとって一番いいことが起きているということです。


今生だけのことではなく、悠久の魂の流れから見れば、すべてはOKです。


神は完ぺきなのです。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:02Comments(37)

2008年11月03日

善悪を超えて

今日はみなさんから寄せられたコメントを題材に、お話ししたいと思います。

いつも爽やかな風を運んでくれる「大工見習い」さんのコメントです。

・・・・・・・・・・


自分をあるがままに見つめ自分自身を100%肯定する行為。

頭で考えると文章は理解できますが、あるがままの自分っていうのが正直まだ理解できていません。

金銭欲のある自分。

性欲のある自分。

地位や名誉を欲しがる自分。

そういうあるがままの自分を超えることの出来ない自分に最近苦しんでいます。


・・・・・・・・・・・・・


このように感じている人は少なくないと思います。

自分をあるがままに認めるのは大切なことですが、そこには微妙な問題が潜んでいます。



大工見習いさんが言っているのは、金銭欲、性欲、名誉欲を持つ自分を超えられないから、あるがままを認められないということです。



すでにここには、多くの先入観があります。

金銭欲、性欲、名誉欲を悪いと考えてしまう先入観。

あるいはそのような面を持っている自分を醜いと感じてしまう先入観。


それは大工見習いさんがそう思うだけであって、その考え方は依然として「善」と「悪」の二元論に結びついています。



そのような自分の観念や概念を超えて、単にあるがままを見つめることが大切です。


そのように感じている自分を隠すことも変えることも必要ありません。

ただ、そのような自分がいるということを認めるのです。

それは無理に肯定しようという態度とも違っています。

肯定とは否定の反動だからです。

その両方を捨てるのです。



そうやって自分に対して正直に自分を開いていくことが、道を歩む大切な要素になります。



多くの場合、自分の中に受け入れられない側面を感じた時は、それを見ないふりをしたり、あるいはそれを克服しようと自分に戦いを挑んだりしてしまいます。


そのような態度は、自我(エゴ)のもう一つの現れ方にすぎません。

偉大なる智慧は、そのような戦いをやめた時、自分をよりよくしようという終わりなきゲームに降参した時に起こります。


善なる思考の味方になって悪なる思考を敵に回したり、思考そのものを超越しようと奮闘したりしているうちは、いつまでたっても思考の罠にはまり続けるだけで、本当の瞑想は起こってきません。


くつろぐこと、リラックスすることは、最も重要なことです。



「よりよくなろう」という態度は未来に関わっています。

このような理想を追い求める態度こそが、「いまここ」の知性や精巧さを見失う原因になっているのです。


あらゆる超越は「いまここ」にあります。

それは「あるがまま」と出会っていくことから始まっていきます。

なぜなら、「あるがまま」こそが「いまここ」の姿だからです。


もしいまの自分の状態と、周囲の状況を完全に知ることができたら、全てを手に入れたと同じです。


そのような意識を育てるためにも瞑想修行は役に立ちます。

しかしそれは単なるテクニックであって、ひとたび行きつけばもう必要ありません。



そしてそこから、本物の瞑想が起き始めるのです。






みなさんとの出会いに感謝します。



今日もいい日でありますように。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:13Comments(38)

2008年11月02日

簡単で難解なハナシ

六道の世界の解説は、多くの人が実感を持って読めた内容だったと思います。

実感を持てなかった人は、僕の文章表現が自分のセンスと合わなくて深く入り込めなかったか、あるいは自己観察をやったことがないので、自分がどのような状態なのかを客観視できないかだと思います。

いずれにしても、六道の世界は誰もが経験している世界です。


しかし、いま解説しようとしている超越の世界は、実感を持って納得できる人はまだ少なく、想像力を使って描くしかないでしょう。


したがって、ここで伝えたいことが間違って伝わる可能性もあります。

たとえば「あるがまま」という言葉ひとつとっても、その「あるがまま」を「自分」が解釈している以上、それはすでに「あるがまま」ではありません。

自己の不在の世界を、自分が読んで理解することは極めて困難なのです。


そのようなジレンマを抱えつつも、できるだけの努力をしてみます。


菩薩界を学んだことがある人も、いったんその知識を脇に置いて読んでみてください。

知識とは過去のものだからです。


真実は「いまここ」で実感する何かなのです。


教義や経典を学ぶことの限界がそこにあります。

宗教学者が、たとえ博士号を取得していたとしても、経験的理解に達しているとは限らないのです。


まず僕たちは、謙虚にならなければいけません。



なぜなら、「自分」は何も知らないからです。

「自分」がいなくなったとき、すべての答えがあります。


さて前置きが長くなりましたが、また今日も続きを書いてみます。




自己と自己が作り出した世界が透明になり、そこを隔てていた壁も消え去った時、それが「あるがまま」という言葉の意味です。

そこには、判断や評価が入り込む余地はなく、ただ「あるがまま」なのです。

「あるがまま」を「あるがまま」だと知る者もいません。

それはただ在るのです。



ちょうど自分の身体が消えてしまって、地球全体が自分自身になったかのような感覚です。


風が吹けば自分は風であり、音が鳴ればそれは自分自身の震動であり、鳥が飛べば自分は鳥になっています。



そのような状態においては、意識は全てに行き渡り、同時にどこにも向いていません。

しかしすべてを理解しているので、何が起きているのかを全体性の中から把握しています。


そこにあるのは広大な空間です。

実はそれこそが本当の自分自身なのです。



通常の状態において僕たちは、「自分」を「全体」から対立したものとして受け止めているので、誰かが自分に向かってくると、身構えて自分を守ろうとしてしまいます。

それは開かれたコミュニケーションを最初から拒絶している姿です。


僕たちの日々の生活は、そのようなことの繰り返しなのです。

ただそれがあたりまえになっているので、ことさら気づくこともありません。



僕たちは普段から対象をあるがままに見ることはなく、その対象に自動的に付け加えた自分の解釈を見ているにすぎません。

その解釈をさらに判断し、受け入れるか拒絶するかを決めています。

そこには、存在との開かれたコミュニケーションが起きる可能性はありません。



すべてを受け入れること・・・いや、受け入れるという意思さえもなく現実と共にあること、それが菩薩の持つ六波羅蜜の一つ「寛容」さです。



しかし世の中には誤った仏教解釈が浸透しています。

たとえば、六波羅蜜を修行として実践することで菩薩の境地に達するという教えです。


それは決して達成されることのない不可能なゲームです。

自分の靴ひもを上に引っ張って自分の体を持ち上げることができないように、できないものはできないのです。



菩薩行とは修行法ではなく、菩薩の境地に達した時に自然に発揮される資質なのです。

ここは極めて重要なポイントです。



自我が菩薩の衣を身にまとい、菩薩らしくふるまう姿をたくさん見てきましたが、それによって誰を欺いているというのでしょう。

救いを求めて盲目的にすがりつく人たちは騙せても、天を欺くことはできません。


波が海全体を欺くことなどできないのです。

波である自分を手放して、海全体としての自分を生きた時「それ」があります。




今日は連休の中日。

僕にはあまり関係ないけど、仕事がない僕も連休です(笑)



みなさんにとって、いい日でありますように。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:48Comments(19)

2008年11月01日

般若波羅蜜

手に入れたその瞬間から

また別のものが欲しくなる

満たされぬ心、永久(とこしえ)に

さ迷うは人の定めか・・・



これは29歳の時、もっとも暗闇の中に住んでいた時に作った歌です。

その直後、幸運にも目覚めが起こり、もう一度最初から生きなおしてみようと、現役活動を引退しました。


その後、紆余曲折があっていまの沖縄生活に至っています。

まだまだ道半ばの人間ですが、あの歌を作ったころとは比較にならないほど幸せな心境で生きています。


自分にできたことは誰にでもできると確信しています。

なぜなら、救済の秘密はあまりにも単純で、すでに誰もの心の底に眠っている真理に気づくことだからです。



「目覚め」はあらゆる人間の宿命です。

遅かれ早かれ、人は必ず目を覚ますことになります。

が、僕たちはもうすでに、悠久の時を眠りの中で過ごしてきました。

同じ夢を繰り返し繰り返し見ながら、欲望と失望の絶え間ない循環の中を生きてきました。


もう、目覚めてもいい頃です。




ところが、僕たちはあいかわらず目覚めを先延ばししようとします。


「そうですか、いいでしょう、私も目覚めることにします。

しかしそれは然るべき時がきた未来にです。

それは今ではありません。

なぜならば、私にはまだその資格がないし、準備もできていないし、何よりもいまはまだやるべきことがあります。

この問題が解決して、いまの仕事がひと段落したら、目覚めについて真剣に考えてみるつもりです」


そうやって僕たちは、何千年も何万年も先送りしてきたのです。

このことは聖書にも、天の主と、その使いと、商人との例え話で記されています。


天の使いが、商人を主の晩餐(目覚め・悟り)に誘っても、商人はやりかけの仕事が忙しいからと断ってしまうのです。


その仕事は終わることのない夢の一部です。

今僕たちが追い求めている夢が何であれ、それは過去に何千回も追い求めたものと同じものです。


その絶え間ない繰り返しは、眠りの中で起きています。

その眠りの世界は六段階に分かれ、それを六道輪廻と呼ぶことはすでに説明しました。




そして僕たちは、やっと目覚めの世界を分かち合えるのです。


結論から言えば、目を覚ます方法はあります。



瞑想です。



ヴィパッサナー瞑想と呼んでもいいと思います。

以前このブログでも、ヴィパッサナー瞑想が少し話題になりましたが、いまこそその真の意味を分かち合う時がきたようです。


それによって目覚めの道を歩み出します。

勇気ある者が進む、開かれた道です。

それを菩薩道といいます。



ヴィパッサナーを行じることで、自らの意識が作り出した幻想の世界と、自分との間に広大なスペースが生まれてきます。

それによって幻想の世界に浸ることがなくなってきます。


さらにはそのスペースの中に、大いなる閃きが生じます。

それは「自分」さえも作られた幻想であり、そのような自我(エゴ)を養ったり守ったりする必要がないことを悟ります。

その閃き、その智慧をブラジュニャー(般若)と言います。


そこに至って初めて人はリラックスし、その落ち着きの中に「寛容」さが滲み出てきます。


そんな「般若」や「寛容」以外にも、全部で六つの超越的な行為が起きてきます。


それが波羅蜜です。


般若波羅蜜多心経(般若心経)は、その境地を説明した経文です。




なんだか、先を急ぎすぎましたね。

次回からまた、この超越した世界を学んでいきましょう。



今日もここに来てくれてありがとうございました。





PS

11月4日の「いまここ塾」は、19:30から那覇市西町の「てぃるる」(866-9090)で行われます。

どなたでも自由にお越しください。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:30Comments(9)