2016年12月31日

リーラ

世界という思考が湧けば、世界が現れる。


あの人という思考が湧けば、あの人が現れる。


特定の出来事が思いの中に現れた時、その出来事が活気づく。



しかし、世界を想起しなければ、世界は存在しない。


特定の人や出来事を思い出さなければ、それらも存在しない。


思いとして湧きだした時だけ、それらはある。



耳を澄まして、ただいまの中に佇んでみる。



窓の外の木々の揺らめき


鳥たちの声


流れる空気


畑のモーター音


目の前のパソコン画面


コーヒーの香り



ほんの少しの憂鬱


背中の張り


鼻づまり


椅子のシートの柔らかさ



これがいま起きていること。

ただこれが、こうしてあるだけ。



そしてこれからも、ことは瞬間ごとに起きつづけていくことだろう。


誰かがそれをやっているのではない。


ことはただ、起きているのだから。








昭和63年の年末に作った、「リーラ」という歌の詞を、今年最後のメッセージとします。




春が来て、また冬が来て


去りゆく命、生まれ来る命


泣く人がいて


笑う人がいて


この世はすべて、事もなし









よいお年を。



LOVE







今年も一年お世話になりました。

   

  


Posted by Toshiro Abe at 09:43Comments(66)

2016年12月30日

言葉の意味が変わる時

今日の沖縄は汗ばむくらいの陽気です。

例年だと年末年始はお天気が崩れることが多いのですが、このぶんだと今年は初日の出が拝めるかもしれません。


さて、何度も聞いた言葉なのに、あるとき突然その言葉が持つ意味が心に深く浸透することってありますよね。

ここでお伝えしてきた、「いまここ」という言葉もその一つだと思います。


この言葉に出会ったのは何十年も前で、最初はOSHOの書籍から、そしてしばらくして当時のニューエイジのバイブルだった「BE HERE NOW」がそれに続きました。


地球が自転していて、太陽の周りをまわっていて、しかも時計の秒針も動いているから、まるで時間という確かなものがあるような気がしますが、実際にはいつも「いま」があるだけです。

もし地上から人類が消えて、動物だけが生き残ったとき、その世界に暮らす動物たち、たとえばウサギに


「いま、何時?」


と聞いたとしたら


「えっ?何時かって?そりゃあなた、いまでしょ」


って答えることでしょう。

もちろんウサギが喋ればですが。


彼らには時間がありません。

過去や未来を想起するマインドがないからです。

いつだっていまがあるだけ。


人間が消えれば時間も消える。

これは動かしようのない真実です。


「ここ」というのも、自分の存在している場のことで、自分がどこに動こうといつもここにいます。

ちょうどTVゲームの主人公が冒険の旅にでたとしても、動いているのは周囲であって、主人公の私はいつも画面の中央にいるのと同じ。

我々の存在はいつだって「いまここ」にあるのです。


ここまでのことは最初の一瞥で理解していました。



ところがその数年後、もっと決定的な洞察が訪れると、「いまここ」という言葉の意味がさらに変わりました。

これは言葉で表せないのですが、宇宙の本質が姿を現した様な感じです。


それまでも、「いまここ」という言葉を理解していたつもりだったけれど、これは言葉なんかじゃなく、宗教の真髄とも言うべきシンボルだったと思いました。

もし図形で表すとしたらキリスト教の十字架が一番近いけれど、それでもまだ十分じゃない。

蓮華国、涅槃寂静、どんな言葉でも言い表せない異次元の臨在。


じつはそれまでは、アドバイタ(非二元論)のメッセンジャーたちが言う、「いまここを標榜している教師は、まだその先を知らない」という言葉を聞いていたので、いったいそれは何だろうと思っていたのですが、この経験から、そのようなことを言う彼らは、「いまここ」という言葉を以前の僕のレベルでしか理解していなかったのだと思いました。

なぜなら、まだ彼らは比較していたから。


それ以降、言葉とはその人の理解に応じて意味が変わってくるということを知ったので、人と議論することがなくなりました。







さて、話は急に日常的になりますが、日常の中でも、あるとき急にその言葉の意味が心を貫くことがあります。


東京でタクシーに乗ったときのこと。

その運転手さんはよく喋る人で、僕にあれこれ人生を説き始めました。

いくつか話し終わった後


「お客さんねェ、こうやってお客さんを目的地まで運んでいくのは私の仕事で、こうやって働いているですよ。

それによってお客さんは楽に品川まで行けるし、頂いたお金で家族は楽になる。

働くってことは、傍(はた)を楽にするってことなんですよね。


働くとは、傍を楽にすること。

すでに何度も聞いたことがある言葉だったけれど、僕は礼儀上、

「ああ、そうだったんですね」

と応えました。



そこから新幹線に乗って、車内で寛いでいるとき


「この車両も、この技術も、いろんな人が働いて作ってくれたのか。

それで僕はこんなに楽になっている。

傍を楽にする・・・か・・・・」



そしたら、


「この世の全ては、お互いがお互いを楽にしあいながら成り立っているんだなァ

お蔭さまなんだなァ

生きられるってことは、なんて有難いことなんだ」


って、心の底から感謝が湧きだしてきて


「傍を楽にする。

そうか僕はこれから、傍を楽にするために大阪に向かっているんだ

僕は『楽』の配達人だ」


って、それまではなんとなく仕事で向かっていたのが、急に何もかもが変わってしまいました。


うまく書けませんが、いまさらながらに、当たり前と思っていたことに感謝出来た瞬間でした。



言葉というのは、何かのタイミングで急にその意味が深まることがあります。

何事も分かったつもりにならずに、謙虚な気持ちで生きていきたいものですね。


人間は死ぬまで学習だと思う、今日この頃です。






あたりまえの記事ですが、何かを感じてくれたらクリックしてください。

  


Posted by Toshiro Abe at 10:32Comments(39)

2016年12月29日

ノコノコ

人生はTVゲームのようなものだって話を聞いたことがあるでしょ。

これは的を射た例えです。


ゲームの中でどんなことがあっても、プレイヤーは一切影響されることはありません。

そしてプレイヤーこそが本当の自分であり、その存在は絶対に安全です。


この例え話は真実をうまく表していますが、どれだけ実感しているかはまた別の話。

気がついてみると、画面上のキャラにすっかり自己同化しているからです。


自分がキャラそのものだと思ってしまうと冒険もできません。

反対に、ゲーム(人生)の外側にいるプレイヤーだとわかっていれば、なんだって試すことが出来ます。






実際のテレビゲームでは自分がプレイヤーであることは必ずどこかで分かっていますが、人生ゲームはそのことをすっかり忘れた状態でスタートすることになっています。

そして人生ゲームのゴールは、自分がプレイヤーだったことを思い出すこと。


プレイヤーとしての自分を発見することを、ゲームの中では悟りと呼びます。

したがってゲーム上のキャラは、悟りという最終アイテムを求めて旅に出るのです。



悟りを得れば永遠の楽園に入れるという、ゲームの中の預言書を信じて、勇者は旅に出ます。

たくさんの経験値を積み、自分をレベルアップさせ、次々と難題を克服していきます。


でもどこまで行っても約束された悟りは訪れません。


そりゃそうだ!


人生ゲームの登場キャラである自分が悟るわけじゃないんだから。



今日も我々はゲームのキャラに成りきって、どこかにあるという永遠の楽園に向かって生きています。

ゲームの中では、困難を解決する喜びや、仲間を失う悲しみや、さまざまな経験が来ては去っていきます。


でも待てよ、そもそもそんな経験をしたくてゲームをしているんじゃないだろうか。

だとしたら、何が起きても上手くいっているということだ。


なんだそうか、うまくいっているんだニコニコ



だから、この経験をうんざりするまでやって、もうたくさんだとなったら、その時は思い出すとしよう。



ただし問題は、思い出すのはキャラじゃなくてプレイヤーだってこと。

キャラはそのことに対してまったくの無力なのです。


だからプレイヤーに任せるしかない。


もしプレイヤーを神と呼ぶとしたら、真実を思い出すのはキャラであるあなたではなく、神だということ。



何を言っているか分かる?


早い話が、キャラの私はお手上げだ。



それでいいじゃない、どのみち救われているんだから(^^)




さて今日も、目の前のノコノコを相手に頑張るとするか。







これをクリックして僕と一緒に遊んでください。



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1月は東京と沖縄でハートマントラ瞑想の伝授と指導があります。


東京の12時の部は満席。

沖縄は残りわずかです。


詳細はコチラから。

  


Posted by Toshiro Abe at 12:30Comments(21)

2016年12月28日

超不思議な話

昨日は不思議な話を寄せてくれてありがとう。

とても興味深く読ませてもらいました。


どうにも説明不能な出来事があることは認めざるを得ません。

それが何であるかは分からないけれど、分からなくていいですよね。


そもそも人体の60兆個もの細胞が、秩序をもってそれぞれの役目を果たしながらいまも生命を維持していること自体、不思議を通り越しています。

惑星も寸分の狂いなく運行し、この無限の宇宙空間に浮かんでいる。


人体の小宇宙から、天体の大宇宙まで、何が何だか分からないけれど、こうして奇跡的な秩序の中に存在している。

この不思議さに比べたら、何があってもおかしくありません。



一番不思議なのは、この不思議な一瞬一瞬を、僕らがさほど不思議がらないこと。

ものすごく不思議なのに、そのことを忘れて生きていられること。

生まれた時からそうだったし、みんなが当たり前な顔しているから、この基本的な不思議に麻痺しているのかもしれません。








いままでの人生で見た最も美しい光景は、内なるビジョンでした。

それは超巨大なタペストリーが波打ちながら生きている様。


キラキラ輝いていて、あらゆる色彩が全部光でできていて、何ひとつ余分なものも足りないものもなく、ゆっくり波うって形を変えながら、「ぐはー、ぐはー」って呼吸しているようでした。



その瞬間、この世には偶然も無駄もなく、ただ全体としての一つが生きているだけだと感じました。


そのタペストリーたるや、美しいとかのレベルではないのですが、もしあれが全体だとしたら、それを見ていたのは誰だったのでしょう。


自分と宇宙が一つになったとき、「それ」を認識したものは一体何なのか。




ぬはははは


わっかんねー♡




あなたも僕も、超不思議なこの宇宙の一部で、全体を構成する上で不可欠な存在であることだけは経験的に確かだと報告しておきます。



えっ?自分が死んでもこの宇宙は存在しているって?



何を言っているのですか。


あなたは死にませんよ(笑)



あなたの年齢は宇宙と同じだって知ってた?


と言うより、あなたも宇宙も、始まりも終わりもなく、「永遠のいま」そのものなのです。




何が何だかわっかんね~!!





よし、決めた。

今日も大掃除の続きをしよう。









とりあえずクリックお願いします(^^)




  


Posted by Toshiro Abe at 11:17Comments(29)

2016年12月27日

ちょっと不思議な話

年末ですね。

今日は家の大掃除をするぞって、一応気合いだけは入れています。

よし、やるぞ!!!

その前に、日課のブログを書くとします(^^)


あなたも読む前に、これお願いします。

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あなたにはこういう経験はないですか。

あなたが頭の中で何かのメロディーを奏でていると、近くにいた人が声に出して歌い出すということ。

なんでその歌を歌ったのかと聞くと、

「何となく」

と答える。

これってある種のテレパシーでしょうか。



完全に心の中を読まれることもあります。

僕なんか、考えたことのほとんどが妻に筒抜けです(笑)


あと、同時に同じことを話しだすとかね。

同じタイミングで、同じ言葉を発する。

これなんかは、偶然では片づけられない何かの共時性が働いているのでしょう。



昨日は、思考は物質のようなものだという話をしました。

思考は外側に浮遊していて、それがいろんな人の中を出たり入ったりしているのではないか。

いまあなたが考えたことは、一瞬前に僕が考えたことかもしれません。


その人の波動の状態によって、引き寄せる思考のレベルがあって、人の波動は一定ではないから、ある時は恐ろしい考え、ある時は優しい考えということが起きるのではないか。

いずれにせよ、考えているのが自分ではないとなれば、少し気楽になりますね。

だって恐ろしい考えは、人に報告できないくらいに恐ろしいから。



さて、昨日話した思考を読む外国青年。

大槻教授に言わせると、あれはヤラセだということですが真相は分かりません。

もしヤラセだとしたら残念ですが、それでも最近の脳科学者が報告するように、思考は脳が勝手に作り出す個人的なものではなく、脳は単に思考をキャッチしているだけだということであれば、ありうることだと思います。


ユリゲラーもインチキだという人達がいますが、止まっていた時計が、「動け!」という気合と共に動き出すのは、我が家でも確認済みです。






つい先日もNHKBS放送でユリゲラーが、壊れた時計を手に持って、私と同時に「動け!」と言ってくださいと言いました。


智子さんが、

「壊れたのがある!」

と言って慌てて隣室に取りに行って、

ユリゲラーの「3・2・1」の掛け声の「2」あたりで戻ってきて、

彼と一緒に

「動け!」

と叫んだら本当に動き出しました。


それはビンテージ物の古い腕時計で、買ってすぐに壊れてしまい、

「こういうのってどこで直してくれるんだろう」

と言ったまま、何カ月も放置していた時計です。

ネジ巻式のもので、どうやっても動かなかったんです。


それが、「動け!」の一言で動き出した。

もちろんいまも動いています。


ちなみに彼女の「動け!」という言い方には、何のためらいも疑いもなく、まるで幼児みたいな叫び声だったので笑ってしまいましたが、実際に動き出したのには驚きました。



そう言えば彼女、何十年も前のユリゲラー旋風の時、やっぱりテレビのユリゲラーの掛け声と共に、スプーンをグニャっと曲げてしまったそうです。

それも銀製の厚さ数ミリもある頑丈なスプーンで、大男でも曲がらない代物だったとか。



ええっ??びっくり!

もしかしたら、思考を読むことや、壊れた時計やスプーン現象って・・・彼女自身が超能力者???



ここまで書いてきて怖くなってきた。

僕はそんな人と、30年近くも一緒にいたのか!!!



ということは、今日の大掃除も、口だけで実際は手抜きで終わらせることもお見通し??


よし、今日こそ徹底的に大掃除をして、僕だってやる時はやるっていうところを見せるとしよう。



それじゃ、やり始めます!!!(キリッ)ムカッ




ちょっと不思議なことってあなたの周囲にもないですか。

時間があったら教えてくださいね。







これをクリックすると、幸運が訪れる。

一応、僕の念力を入れておきます。

パワーーーーーーー!!!!!




  


Posted by Toshiro Abe at 11:14Comments(55)

2016年12月26日

時代の変化

今日は若干長くなるので、読む前にお願いします。

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今年に入って変わった生活習慣は、テレビを見るようになったこと。

スポーツ中継以外、大抵は録画で見ています。

興味のないシーンやCMを飛ばすことができるので録画は便利です。


で、昨日の番組で面白いシーンが二つあったので、今日はその話をします。

どちらもたけしさんの番組で、番組自体は面白くなかったけれど、登場した2人の人が良かった。


一人は相手の思考を読み取るという外国青年。

あれは本当だと思いました。

思考とは物質に近いものだとお伝えしてきましたが、そのことを証明してくれるようなコーナーでした。


僕のような者でさえ、ある程度人の思考を読むことができますし、あなたも知らず知らずに人の思考をキャッチしているのですが、その能力が突出した場合はここまでできるのかという新鮮な感動がありました。


番組内での具体的な例は省きますが、間違いなく彼は思考をキャッチしていました。

このことが科学的に解明されると、前世や霊魂の正体も明らかになると考えています。

これは僕の仮説に過ぎませんが、どちらも浮遊する思考をキャッチしているのだと思います。



この世には大気圏と同じように思考圏というものがあって、宇宙空間に出た飛行士たちは、思考圏の影響から自由になり、そこで存在の実相(ノンデュアリティ)に触れるのではないでしょうか。

宇宙から帰還した人の多くが宗教的体験を報告するのは、そういうことだと考えています。


アポロで月に降り立ったある宇宙飛行士が、テレビの討論番組で


「私は月で神を体験した」


と言ったとき、そこにいた精神科学者が、


「あなたが体験したのはこういうことではないですか」


とメモに記して、宇宙飛行士に渡しました。

それを読んだ彼は


「先生、そのとおりです」


と言ったそうです。



そこに書かれていた内容は


「あなたがこの地上で感じているのは、『あなた』と『あなた以外の全て』です。

しかしあなたが月で体験したのは、『あなたを含んだ全て』だった」



この真実にベールをかけているのが思考圏であり、宇宙においてはその影響が激減するのだと思います。

もし将来、外国旅行と同じくらいに宇宙旅行ができる時代になれば、多くの人がさとり体験をするのではないでしょうか。

そこで科学と宗教が出会うのではと考えています。





さて、もう一人の登場人物は11歳の子供で、自己啓発の本を書いたそうです。


小学校には通わないのですが、だからと言って何か困ることはない、それどころか大人以上に真実を見抜いていることが窺えました。


「小中学校は義務教育なのに?」と思う人がいますが、それは義務の意味を取り違えています。

義務教育とは、子供側に学校に行く義務があるのではなく、国と保護者に対して、子供に教育を受けさせる義務があるという意味です。


ですから親が小学校に通う手続きをして、子供が学校に通うことを妨げなければ、義務は果たしたことになりますし、子供が行かなくても罪には問われません。

子供は学校に行く権利はありますが、義務はないのです。


いまの教育システムは前時代的なもので、いまの子供たちは未来の社会を生きる人達です。

前にも書きましたが、日進月歩のテクノロジーの進歩によって、社会システムは大転換するので、世代間ギャップがいまほど大きくなった時代はありません。

この傾向はこの先ますます強まっていきます。


いままでの学校教育の基本姿勢は、将来よい学校に進んで、よい会社に入るというもので、よい勤め人になることを目指していました。

勤め人とは企業や役所の歯車なので、学校では協調性という名のもとで従順さも訓練します。


このこと一つとっても完全に時代遅れです。

大量消費、大量生産の時代には、みんなが歯車になることで生産性が上がりましたが、これからは個々の発想力が重要になってくる時代です。

話は変わりますが、そのような意味からもGoogleのピョートルさんの話は興味深く、来年はもっと活動を共にしようと考えています。



さて、その11歳の子が話した内容は、

「僕はいまを生きている。いましか生きられないから」

というものです。


これは彼の考え方を言っているのではなく、真実としての体感の報告です。

子供も大人も関係なく、我々はいまの中でしか生きられないし、いましか存在していません。


ところが聞いた側は、この子の哲学だと思ってしまいます。

大人たちはマインドを生きることしか知らないからです。



そして同時にこの子が

「チャンスはいくらでもある」


と言うと


「チャンスは将来のことに対するものだから矛盾している」


と指摘します。

これがマインドというものです。



矛盾とは、論理は一貫するべきだという態度から生じ、それは「右は右」「左は左」という考えから来ています。

しかしこの世にあるのは「左右」という一つのものであり、どこから語るかによって違って聞こえてきます。


僕に言わせれば、あの子は完全に解っています。

それはことさら凄いことではなく、大人に洗脳されることなく、シンプルに物を見ているということです。

親がこの子の自尊心を守ってあげた結果でしょう。


このような子供が増えているので、親達も新しい視点で子供を見守ってあげられたらと思います。



まだまだ書きたいことがありますが、このくらいにしておきます。


あの二人に比べると、他のコーナーがくだらなすぎて、あの二人だけの番組を一日中見てみたいと思いました。

な~んて、テレビに向かって文句を言っている、どこにでもいそうな頑固おやじが僕です(笑)



年の瀬ですね。


お体を大切にご活躍ください。






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1月は沖縄と東京でハートマントラ伝授と瞑想指導があります。

新しい年を、ちょっとシフトした自分で生きてみませんか。

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Posted by Toshiro Abe at 09:57Comments(42)

2016年12月25日

基本

先日、元Google社の人材開発責任者、ピョートルさんとの対談講演で、印象に残った一言がありました。


それは

「人間は、人の役に立てた時、喜びを感じるようにできている」

というもの。


もうとっくに知っていた言葉だったけれど、あらためてビジネスの最前線にいる人の口から聞いて、まったくその通りと思いました。


どこまでいってもこの基本は変わらないのですね。



仕事をする目的には段階があると言われています。


もっとも低い段階は

「サバイバル」


なんとか食つなぐために、今日も仕事に出かけていくというもの。



次は

「現状維持」


いまの生活を維持するために仕事をするというもの。



次は

「自己満足」


より多くを求めて、さらなる上を目指すというもの。



そして最後が

「貢献」


役に立ちたいという献身的な思いに成りきっている段階で、違う言葉で言えば「与えたいという気持ち」、もっと端的に言えば「愛」の段階です。



最初の三つは自分に意識が向いているから、様々なストレスや悩みを引き寄せます。

僕たちが仕事で悩むときは、たいていは自分の都合が優先しているとき。


与えたいという意識は、外側(相手)に向かっています。

その場合は、不要な心のブレーキがないのでパワフルになっていきます。



結局は仕事でもなんでも、与えるという心根をいかに生きるかに尽きると思います。

ところが自我君は、この基本さえも手段にしてしまう。

与える姿勢がより多くの結果を作るということを仕事に利用しようというわけです。


ある程度は上手くいくのでしょうが、しょせん意識が自分にむいているので、真の幸福には届きません。

それでも実践しないよりはマシですが。






もしかしたら人生は、自分の都合から貢献のレベルにシフトする学びの場で、結果もそれに従って付いてくるようになっているのかもしれませんね。


何事もタライに張った水みたいなもので、与えようとして水を押せば縁(へり)に沿って自分に返ってくるけれど、水を自分に引き寄せようとすると縁に沿って逃げていく。


身近な人間関係から仕事まで、何かに悩んだときはいつもこの基本をチェックするようにしています。


それにしても自我君は、執拗なまでに自分の生き残りを心配して、周囲をコントロールしようとする。

自力で生きているって信じているから奮闘するわけです。




いつも分かったようなこと書いている僕も、まだ道半ば。

ひょいと顔を見せる自我君を手なずけながら、こうして今日も生きています。



当たり前のことをくどくどと書いてしまったけれど、最後まで読んでくれてありがとう。





たくさんの人に届きますように




  


Posted by Toshiro Abe at 10:05Comments(50)

2016年12月24日

今はまだ人生を語らず

誰の人生にも、影響を受けた人っているよね。

僕にもいる。

昨夜その人がテレビに出ていたから、今日は思い出話をしたくなった。


一番多感だった16歳のころ、この世の何もかもが嫌になっていた。

学生寮の仲間は全員秀才たちで、みんな真面目なんだけど、どうもそりが合わない。

教官たちも職業で勉強を教えるだけで人間的な交流が持てない。

入学一年目にしてすでに半グレ状態で、ルールを破ることでしか自己主張ができなかった。


なんとか3年間通ったけれど、どうやってここから脱出するかばかりを考えていた。


そんなある日、ラジオから流れてきた歌。



これこそはと信じられるものが、この世にあるだろうか・・・



吉田拓郎の「イメージの詩」だった。


その瞬間、生き方が決まった。

ギターをかき鳴らして、自分の主義主張をぶつける。

これだと思った。



すぐに退学届けを出し、ギター片手に上京した。

拓郎と同じレコード会社でデビューするために。


ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。

だって、肝心の才能がないんだから。


そのことは自分が一番分かっていたけれど、もう後には引き返せない。



バイトにつぐバイト。

夜のバイトでは、見なくていい世界までも垣間見た。

社会の底辺を這いずるようにして、空いた時間に見よう見まねで歌を作り、と言うよりほとんどパクリで歌を作って、アマチュアコンテストに出まくった。

そのうち、少しずつオリジナリティが出てきて、歌を作ることが好きになっていった。


たぶん天が味方したのだろう。

やっと進んだ全国大会で、「レコード出さないか?」と声をかけてくれたのが、吉田拓郎のレコード会社のディレクターだった。

もちろん断る手はない。


ところがすぐにレコードデビューする約束だったのに、個性がないとか言われて、デビューはお預け。

しかも拓郎は他のレコード会社に移籍した後で、会うこともできなかった。


石にかじりつくようにして粘っていたら、グループでならということになって、そのディレクターが企画したグループの一員としてデビューした。


拓郎はあいかわらず雲の上の人。

「結婚しようよ」の大ヒットで、雲の上どころか宇宙の彼方に飛んでいってしまった。



そんなある日、拓郎の深夜放送で、僕の歌をかけてくれることになった。

番組が始まる前からその情報が耳に入っていたから、その日はラジオにかじりついて聞いていた。

そしたら拓郎が


「ものすごく斬新なメロディだ」


と言ってくれて、なんと2週連続でかけてくれた。

これが僕の青春の勲章だ。

その後、多少のスポットライトも浴びることになるのだが、このエピソードがいまでも最高の思い出になっているのだから、よほど拓郎に憧れていたのだろう。

ちなみにこの曲が、なぜか沖縄でだけ大ヒットして、それがいまの暮らしに繋がっている。




さて、

拓郎の代表曲で、本人が一番好きだと言う

「今はまだ人生を語らず」

という曲があるが、昨日アナウンサーが、「いまでもまだ人生を語れないか」と聞くと


「いまは語れる」

と言っていた。

歌詞の意味は、まだ越えていくものがあるから、まだ人生を語れないというものだが、もしかしたらいまは、越えても越えてもどこにも行き着かない事が分かったという事かもしれない。


そして「歳を取るのは嫌なことばかりだ」とも言っていた。

彼の人生にもいろいろ紆余曲折があったけれど、それでも華やかな人生だったことに違いはなく、身体が老いていくことが無念なんだろうと感じた。


僕などは大した人生じゃなかったから、身体の老いは感じるものの、いまが一番楽ちんだ。

もう一度若いころに戻りたいなんて思えない。

そして、死という最大の冒険が待っていることに、どこかワクワクした感もある。


もしかしたら人生はみんな、どっこいどっこいじゃないかと思う。

良いことが多ければそれを失うのが残念だし、苦労が続けば、何気ない贈り物が人一倍嬉しかったりする。

刑務所の中では、クリスマスのショートケーキが飛び切り美味いという話を聞いたことがあるが、そういうことだと思う。



今日はストーリーを語ってみたけれど、このストーリーはマインドの中だけにあって、本当は誰もが「いま」の中にしかいないことも知っている。

だから余計に楽ちんなのだろう。


「今はまだ人生を語らず」

僕はすでに語っている。

人生は思い込みを連ねた独りよがりの物語だと。


でもそんな物語に浸って、ノスタルジーを味わうのもまんざら悪くない。




今日は書いていて楽しかった。

半分隠居の昔話に付き合ってくれてありがとう。





ついでと言っては何ですが、今日もポチっとしてくれたら有難いです。


   

  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(39)

2016年12月23日

天皇誕生日

天皇ってとても不思議な存在ですね。

思想に関わらず、日本人で天皇を嫌いな人は極めて少ないのではないでしょうか。

そのお姿を見ているだけで癒され、感動さえします。


あのお方には、自分を外から見て、飾っている面が見受けられません。

普通は、自分が他者からどう見られているかを気にするものですが、天皇からはそれを感じない。


ただあるがままであり、そこから慈愛が流れている。

本当に美しい人だと思います。



天皇は他国の王様のように、国民の上に君臨するのではなく、むしろ最も下から国民を支えているように見えます。


それは祈りによってなされています。

祈りとは、天にお願いすることではなく、愛がさらに昇華した高いレベルのエネルギーのこと。

自らを空っぽにして、そのエネルギーを通す媒体になっているのが、本当の祈りです。


祈りとは行為ではなく訪れるもの。

愛も祝福も、およそ人間にとって価値あるものは、人間が作るものではなく彼方から訪れるものです。


人間にできることは、自らを空っぽにすること。

昨日お話しした「空っぽの器」

天皇とはまさに、その最たる存在だと思います。


そして同時に、昨日お話ししたような理想の世界が生まれる際の、象徴となられる存在なのではと思っています。



明後日のキリストの誕生日は世界中たくさんの人がお祝いするけれど、今日は天皇の誕生日を心の中で静かにお祝いしましょう。


ご高齢にもかかわらず、命がけで国のために激務をこなしてくださっていること、心からありがとうございます。


どうぞいつまでもご健康であられますように。





今日も読んでくれてありがとう。

多くの人に見てもらえるようブログランキングに参加しているので、ご協力お願いします。






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【お知らせ】


1月は沖縄と東京でハートマントラ伝授と瞑想指導があります。

各チャクラに対応した瞑想を奨励していますが、ハートマントラは愛のマントラであり、最初に実践するのに最適です。


1月15日 沖縄

1月28日 東京


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Posted by Toshiro Abe at 12:36Comments(34)

2016年12月22日

甘っちょろくても本当の気持ち

つまるところ、みんなで仲良くできたらいい。

それぞれの考え方や生き方を認め合って、争うんじゃなくてそれぞれの良さを与えあえたらね。


本当は誰でも心の底で、みんなと仲良くしたいと思っている。

なのに、表層の自分がそれをさせないんだ。


自分正しさのアピールのほうが大切になってしまう。

自分の正しさが一番正しいと思っているから。


口喧嘩から戦争に至るまで、あらゆる争いは正しさと正しさの闘い。

そして力が勝った方が正しかったということになる。


この世から正しさが消えたらいいと思う。

その代わりに愛があればすべてうまくいく。


愛は自分を主張しない。

愛は相手を受け入れる。


愛は空っぽの器にしか入れない。

自分の意見でいっぱいのマインドに、愛が満たされることはない。


いかに空っぽになるか。

いかに力を抜いてリラックスするか。

そうすればみんなで優しくなって、この世がグンと生きやすいところになるだろう。






この地上には70億人を養って余りある富と資源がすでにあるのに、それを使っていく能力をまだ人類は持っていない。

その気になればこの瞬間、世界中みんなで幸せになれるのに、そんなことより相手を淘汰することのほうが大切だと思っている。

恐れと恨みが消えてなくなれば、一気に人類の文明は高度なものになるのにね。



今日はPCに向かったらこんな言葉が出てきた。

青い理想主義みたいだけど、願いはこれしかない。




同じ想いの人はクリックしてください。







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【お知らせ】


1月は東京と沖縄で、瞑想伝授と指導をします。

明日には詳細をお知らせしますね。



昨日はお忙しい中、我が家の小規模ライブにいらしてくださり、ありがとうございました。

できたばかりのあのスペースも、すごく喜んでいました。

来年からはここで、ライブだけでなく、中城村でやっていたお話会も開催していきます。

どうぞいらしてください。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:59Comments(72)

2016年12月21日

Let it be

「人生はただ起きることが起きているのであって、自分がコントロールしているわけではない。」


そのように聞くと、自分には何もできないと考えて、途方に暮れてしまうかもしれないけれど、そんなことはありません。

いままでどおり、一番いいと思ったことをやっていけばいいのです。


ただし、そのように生きたからといって思い通りの結果になる保証がないのは、これまでの半生でとっくに経験済みでしょう。

これからもそう。

だから、やるだけやって後は全体にお任せ。



ここで面白いのは


「よし、やるぞ!」


という決意や


「やる気がしない」


という思いも、


どちらも全体の表現であり、ただ起きていることだっていうこと。



にもかかわらず人は、自分でその意志を選択できる気がする。

実際にはその意志さえも、そうなるようになっていたという話だけどね。


右に曲がるつもりが、運命を変えようとして左に曲がったとしたら、そうなるようになっていたということ。


だったら左に曲がるふりして、寸前に右に曲がれば、それもそうなるようになっていた。

後出しジャンケンみたいな結論だけど、そういうことです(笑)



自由意思さえも、発揮してみればそうなっていたというわけだけど、だからと言って自由意思が制限されるわけじゃない。

だからこれからも、思ったままを生きようね。



頑張る人、上等。


頑張らない人、上等。


最終的には天にお任せだ。

何があっても大いなるものの掌の上だってことを忘れないで気楽に行こう。



大往生、上等。


野垂れ死に、上等。


どっちみち、おなじこと。

夢から覚めればベッドの中だから。







さて、今日は冬至。


昨日沖縄に帰ってきたら、さとうみつろう君が、


「明日の冬至、何かしませんか」

って。


急に言う?(笑)


実は毎週日曜日にやっているWeb瞑想会が東京でできなくなって、21日に沖縄から配信することに決めていたんだけど、その日が冬至だとは知らなかった。

これも何かのご縁とばかり、スーパームーンの夜みたいに我家から、トークと、音楽ライブと、瞑想を配信することにしました。


19時半くらいが冬至の分岐点ということで、19時から配信します。


冬至って大昔の中国では元旦だったんですよね。

ここから一年が始まる。

一足早く一緒に新年を迎えましょう(^^)



今夜の配信は一般公開するので、19時になったら

http://www.ustream.tv/channel/rh5rrpCfAuq

にアクセスしてください。


ガヤトリーマントラでの瞑想は21時過ぎくらいからを予定しています。


生でライブを体験したい人はコチラからお申し込みできます。



それでは今夜お会いします。






いつもクリック応援ありがとう。



  


Posted by Toshiro Abe at 10:52Comments(75)

2016年12月20日

南無

しまった!

昨日の大切な飲み会で、


あんなこと言っちゃった


あんな態度しちゃった


きっと先方さんはお見通しだ。

私に対してガッカリしたに違いない。


どうしよう。

もう取り返しがつかない。


そうだ。

次回会った時は挽回しよう。

もっとナイスに振舞うんだ。



昨日の記事で、そんなエピソードを繰り返し思い出して心を痛めるより、「考えないこと」だって伝えたでしょ。

それなのに、またつい考えてしまう。


なかなか頭を離れないことって、自分が望んだ結果にならないかもしれないという、結果への執着と恐れが渦巻いているからなんですよね。

重要な事であればあるほど、こういう傾向が強くなってきます。



このようなストレスから解放されるには、考えないことと同時に、問題の根っこを断ち切ることです。

根っことは何かと言えば、

「出来事を自分がコントロールしている」と思いこんでいる誤解のこと。



ここはなかなか分かりにくいところなのですが、自分の態度や発言も含めて、やっているのはあなたじゃありません。


何度も伝えてきたように、

事は全体の力で起きているのであって、部分であるあなたが作り出しているのではないのです。


ましてや相手がどう思うかとか、どんな結論を持つかとかをコントロールすることなどできません。

それさえも相手が作っているのではなく、起きていることだから。



事は起きているのです。

いままでのすべてもそうでした。

まるで自分の意志と力で生き抜いてきたように感じているけれど、実際には、ただ起きることが起きるという劇の中で、特定の役をやってきただけです。


このことを見抜くと、抱えていた重荷をすべて卸すことが出来ます。

自我君は「私が、私が」と叫ぶけれど、その私さえ全体の一部なのですから。







これからも全体は全体のありたいようにあることでしょう。

部分が全体に挑んでも敗北は見えています。

人生が一連の奮闘になってしまうと、最後は落胆の中で終わっていくことになります。

多くの人生が、そのような夢の中で終わっていきます。



何が起きるかではなく、それを起こしている全体を信頼すること。


それが南無の精神。

南無とは絶対的な信頼のことです。


その全体を動かす源を阿弥陀仏と呼びます。

したがって

「南無阿弥陀仏」



いまの時代に必要なのは、絶対他力の精神かもしれません。

だって、あなたが命を生きているのではなく、命があなたを生きているのだから。



今日も気楽にいこうね。




いつもありがとう。

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本当は気が向かなくてもポチっとしてほしい。



  


Posted by Toshiro Abe at 09:12Comments(59)

2016年12月19日

マインドフルネス

頭の中の問題は、考えなければ姿を消します。

ですから問題解決の一番の早道は、問題を考えないこと。


そのうえで、いまできることを一つ一つやっていく。

人間ができることはいつだって目の前の一つなので、どんなに些細なことでもいいから何かやってみる。

するといつの間にか、ことは収まるところに収まっています。


特に、憎いあの人のことや、心を痛めた出来事、あるいは経済不安などには効果てきめんです。



とにかく考えないこと。


考えれば事態が改善されるような気がしているだけで、それらの考えは、お馴染みの嫌な感情を引き起こしている以外何もしていません。


そんなわけで、今日からは考えない練習をしてみましょう。



やり方は簡単。

いま目の前のことに心を込める。


食事をする時は、何を食べているのかしっかり向かい合いながら食べる。

種から苗になって、田んぼに植えられて、地の恵みや天の恵みを受けながら成長して、刈り取られて、脱穀されて、運ばれて、店頭に並び、洗米して、炊いたものが目の前のご飯。

そこまでイメージを深く持って食べたら、すでにその食事には天地全体が宿っています。


その食事は、いやなエピソードやトラブルを考えながらお腹にかきこんでいるのとは全く性質が違います。






食事一つとってもそうなのだから、生活全般にこのような態度を持ち込んだとしたら、経験に深みが出てきます。

これが生きる極意ではないでしょうか。

何をするかではなく、どんな意識でするかだと思います。


その上で、もし経済的な不安があるのなら、いまできることをやるだけです。

いまできることを精一杯やる以外にできることはありません。


そのうち風向きも変わってきます。

右往左往することなく、地に足を付けて、今日一日だけを生きていきましょう。


またすぐに思考の世界に取り込まれてしまうけれど、そしたらまたこの記事を思い出して、いま目の前に心を込めてみます。


その繰り返しです。



このことのポイントは、気づくこと。

また思考にはまっているって気づくことです。


気づければ選択ができます。

気づかなければ埋没したままです。


じゃ、どうやったら気づけるか。

これも訓練次第で上達してきますが、最初は何か気にいったものを身につけておくといいです。



ネックレスでもブローチでも、なんでも構いません。

そして自分に暗示をかけます。

このシンボルを見たときは、「いま」に帰ってくるぞって。


健闘を祈っています。




今日も応援よろしくお願いします。



  


Posted by Toshiro Abe at 09:41Comments(40)

2016年12月18日

普通の人

昨日話した「優しい気持ち」

それが自分の中にもあると気づいたとき、それまでの自分とは違う現れをしていることに気づきました。


肩の荷が下りているというのが分かりやすい言い方ですが、同時に「普通の人」になっていました。


普通の人とは、凡庸でつまらない人ということではなく、自然な人という意味です。

それまでは、特別な人を生きようとしていたので、その不自然さが日常になっていました。


自分が他者より優れていることを証明するのが仕事でした。

それによって、みんなの愛が得られると思っていたのです。


結局のところ、愛されたい、認められたいという心の衝動を満たすために、自分ではない自分を生きていたわけです。

「優しい気持ち」というのは、そのまま「愛」のことであり、自らの中に愛を認めた瞬間、他者からの愛が不要になり、自己演出が消えました。



人から好かれるために、いかに多くのことをしていたことか。

自分が普通以上の特別な存在だということを、執拗に印象付けようとしていたことが滑稽でした。





自分が心底普通だと思えた時、あらゆる人も本当は同じなのだとわかります。


そのとき分離が消えていました。

「特別さ」と「分離」は表裏一体で、どちらかが落ちれば両方が落ちます。


すべてが普通(自然)であるということは、分離した「私」はいないということ。

このことが、いまのメッセージの原点になっています。



上も下もないということがわかると、人生はとても楽になります。

僕もあなたも普通の人。

それでいいでしょ?


今日も自然な自分で、清々しく生きましょう。





いつも応援ありがとう。

協力してくれる人はクリックしてください。



  


Posted by Toshiro Abe at 09:22Comments(37)

2016年12月17日

ある初老男の告白

人生に対する考え方は、年齢とともに変化してきました。

可能性を追いかけていた若いころは、いつかどこかにすべての問題が解決された幸せの楽園があると思っていました。

人生はその楽園に向かう果てしない旅だと信じていました。


楽しいことも沢山あったけれど、本当に心から楽しんだことはどれくらいあっただろう。

笑い声の裏には、いつも冷めた自分が辺り全体を見張っていました。


何かを手に入れてもすぐに別のものが欲しくなる。

心の中はいつだって欲求不満です。

それなのに周りはこんな僕を羨んでいる。

彼らの期待を裏切らないように幸せな人を演じることも忘れませんでした。



心の中を支配していた基本的な考えは

「いまはまだ十分じゃない」

そんな人生が30歳まで続きました。



ある日、人生を歩む足がいきなりストップします。

初めて本当の意味で立ち止まったのです。


疲れたから立ち止まったのではありません。

実際には疲れ果てていましたが、それでも明日への希望という推進力が勝っていたので、疲れを自覚することなく前に前にと歩んでいました。


何故立ち止まったのか。

それは、ふいにある考えが体中を流れたからです。


その考えとは


「人生はどこにも向かっていない。

私は同じ場所で、ハツカネズミの輪っかを走り続けていたんだ」


そう思った瞬間、すでに輪から降りていました。

降りようと思ったわけではなく、どこにも向かっていないという気づきが、その輪自体を消滅させていたのです。


そこに訪れた解放感。

これこそが、輪を回し続けることで求めていた楽園でした。


そのとき初めて、自らの中に優しさを感じました。

自分にも本当の優しさがあることを知りました。

何かを獲得しようとする緊張が、本来の温かさをマヒさせていたのです。


それは深夜のことでした。

僕は階下に眠る両親の枕元にこっそり忍び込み、小声で伝えました。


「もう大丈夫だからね。

僕はいま生まれ変わった。

僕が守ってあげるから、もう大丈夫だよ」







あれからまた30年が過ぎました。

いまは両親とも消えてしまったけれど、心の中に灯った炎はいまも燃え続けています。


後半の30年は何を目指すでもなく生きてきました。

にも関わらず人生という劇場は勝手に展開しています。


うまくいくこともあれば、うまくいかないこともあり、それは前半の30年と何も変わっていません。

違いがあるとすれば、自分に対する過剰な期待がなくなったこと。

そして正しさで人を裁くことがなくなったこと。



今日も窓辺でお茶を飲み、テレビを見て、仕事をして、気が向いたら瞑想しています。

何も特別なことがない当たり前の人生。



さてと、部屋の中でも片づけるとするか。






いつも付き合ってくれてありがとう。

気が向いたら応援してください。


  
  


Posted by Toshiro Abe at 09:28Comments(43)

2016年12月16日

愛してるよん

昨日Webトークを生配信して思ったのは、一週間分の記事を書くよりも、一回のWebトークのほうがたくさんの情報が伝わるってこと。

文字情報の場合は、読み方次第でどうにでも解釈できてしまうけれど、トークの場合は立体的に表現できるので、文字情報で伝わらなかった意味が、正確に伝わる可能性が出てきます。

しかもリアルタイムでの応答は、つながりを感じるので共感できる場面も増えます。

いろんな意味で有意義な時間でした。


質問がチャットで次々と寄せられるので、そこに対応していくと考える暇がなく、そのおかげで質の違った答えが自分から引き出されることがあります。

意外性のある答えが出てくることもあり、スリリングで面白い時間です。






今日は東京で瞑想伝授があります。

これから準備をするので、今日の記事はお休みです・・・ってこうやって書いているし(笑)


そうそう、昨日はブログでも質問を募集したにもかかわらず、チャットの質問に終始してしまったことをお詫びします。

これに懲りず、またの機会にご参加くださいね。




いつも応援ありがとう。

これからもよろしくお願いします。


ついでと言っちゃなんですけど、これもよろしくお願いします。


   

  


Posted by Toshiro Abe at 11:13Comments(32)

2016年12月15日

完全な人生 2

いまが十分ではないという何らかの欠乏感は、これからも訪れ続けることでしょう。

これは「個」として生きる者全員に共通する感覚です。


傍から見ると、すべてを叶えたような人も同じ世界にいます。


ノーベル賞を受賞し、国からは勲章をもらい、特許を取得し巨万の富も得た。

家族も友人も私を宝物のように大切にしてくれるが、いったい私の本当の人生はいつ始まるのだろう。

てな具合です(笑)



人生には準備期間などありません。

いつだって、いまがぶっつけ本番。

大切な時間帯も、そうでない時間帯もなく、同じいまが目の前にあります。


我々にできることは、状況の変化を夢見ることではなく、いま目の前を生きること。

変化した状況も、目の前の状況も、同じいまだということを理解すること。


身の回りを整え、身近な人に温かく接し、誠実に心を込めて生きていく。

このような生き方を、日本文化は禅の精神として大切にしてきました。







どこまでいっても同じこと。

いやそれどころか、何を得ても満足しないこの性質は、さらなる満足を求めて貪欲になる傾向にあります。

求めればさらに足りなくなるというのが、人生を通して学んだことです。

華やかな時期もありましたが、そこに何もなかったことを若いうちに経験できたのは幸運だったかもしれません。



とはいうものの、欲しいものは手に入れたらいいし、そこに向かって努力するのも賛成です。

このあたりの使い分けが、智慧と呼ばれるものなのでしょう。


どんなメッセージも、一方に偏りがちになってしまいますが、その真ん中、中道を生きることが大切だと思います。

「欲して求めず」といったところでしょうか。



今日も思いつくまま書いてみました。

誰かのヒントになってくれたら幸いです。





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禅サンガでは隔週で僕と向禅師がWeb講義を配信しています。

今夜は僕の出番ですが、今年最後のソロ講義ということで一般公開します。


21時になりましたら

http://www.ustream.tv/channel/the-zen-academy

にアクセスしてください。


いつもはパスワードがかかっていますが、今日に限り、時間になったらそのままご覧いただけます。

何か聞きたいテーマがありましたら、ブログのコメント欄に書いておいてください。



今日は、午前中から東京の家で一日瞑想会です。

30分の瞑想を何回か続けるのですが、最近では、3回目、4回目くらいになると、みなさん一瞬で深い境地に入り始めます。

こういう時間帯を、月に一度くらい過ごしてみるのも一興かと。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:16Comments(68)

2016年12月14日

完全な人生

いましかないのに、いまを生きられないのには理由があります。

ズバリ言えば、いまあるがままの状態では不十分だと感じているから。


いまの自分では何かが足りないし、いまの状況もこのままではいけないと思っています。


いつかどこかに理想の毎日が待っているはずだ。

私という個人は、そこに一歩でも二歩でも近づくために今日を生きている。


多くの人はそんな信念を持って生きています。


心の中に、いまの不十分な状態が改善されて、完全な日々を生きている自分を描いているのです。



いつの日か、やりたい職業に就けば・・・


いつの日か、あの人と結ばれれば・・・


いつの日か、老後の心配がなくなれば・・・


いつの日か、借金が完済されたあかつきには・・・


いつの日か、不登校の子供が学校に行き始めれば・・・


いつの日か、減量に成功すれば・・・


いつの日か、悟ったあかつきには・・・


いつの日か、○○○○○○○・・・

(○○○の中にあなたの言葉を入れてみてください)



そうなれば問題が消えて、安心することが出来て、ずっと待ち焦がれていた完全な人生を生きることができる。



だから結婚したい。


だから離婚したい。


だから就職したい。


だから退職したい。


あの人みたいになれたらなァ。



これらをストーリーと呼びます。








必要なことは、ストーリー上にある理想の状態を目指すことではありません。

ストーリーという催眠術から目覚めること、○○○になればという信念を手放すことです。



このことは、よくよくじっくりと確認してみてください。


と言うのは、○○○になってもいまと感覚(欠乏感)は変わらないから。



えっ、そんなことはないはずだって?


その気持ちは分かるけれど、実際にはいつだって、いまと同じあるがままのあなたがいるだけです。


その時また、新しい○○○が湧いていることでしょう。



どこまで届くか分からないけど、このことは極めて重要なポイントだと思いながら、今日も発信してみました。






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・・・・・・・・・・・


【お知らせ】


今年最後の講演会「阿雲スペシャル」は、阿部敏郎と雲黒斎の、それぞれの講演のあとに、2人が対談するスタイルです。

12月18日

「阿雲スペシャル part2」

詳細とお申し込みはコチラから



  


Posted by Toshiro Abe at 09:46Comments(40)

2016年12月13日

不立文字

いつもありがとう。

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さてみなさん、今日は日ごろのご愛顧にお応えして、究極の真実にお連れしましょう。


いやあ、それにしてもあなたはツイてる。

幸運なことに今日は、あなたの目の前にあるのだから。

いつか出会いたいと願っていた究極にして唯一の真実が、いま目の前にある。

まさにいま目の前にある「これ」のことです。


言葉遊びを聞いているみたい?

そんなんじゃないし、ましてや比喩でもないですよ。

文字通り目の前のこれのことです。


「これ」は常に変わり続けています。


あるときは部屋の中


ある時は電車の中


ある時はオフィスの中


ある時は海だったり、山だったり、野原だったり、街の雑踏だったり。

共通しているのはいつも目の前にあるってこと。



そうやって外側に展開するものと同時に、内側にも「これ」が展開しています。

思考、感情、空気感、触れた物の感触。

これらも常に変わり続けているけれど、共通しているのは、いまこれが起きているってこと。

内側にも、外側にも、「これ」は同時に起きています。







この話が当たり前に聞こえて、何の有難味もないとしたら、あなたは話を取り逃がしました。

「これ」こそが唯一の真実で、人生には「これ」以外のものはなく、「これ」以上のものもなく、こともあろうに「これ」を探して、あなたは覚醒の旅を続けてきたのです。


それも今日で終わり。

だってこうして目の前に見つけたのだから。



いつの日か、心を囲った一線を飛び超えて、晴れて一人前の覚者となったとき、すべての問題が消え、至福に満ちた永遠の中に生まれ変わるなんて、そんなこと考えてませんでした?

それこそが、幻想が生んだ幻想。

そういう幻想から解き放たれることが覚醒なのです。



それにしてもあなたはツイてる。

幸運なことに今日は、「これ」があなたの目の前にあるのだから。

とは言え、いつも今日だけどね(^^)



「これ」って、すごく平凡に見えてしまうんですよね。

もし「これ」が、孫悟空の西遊記みたいに、多くの冒険の果てにたどり着くガンダーラの聖地にあるとしたら、人はもっと有難がるのでしょう。



「これ」を言葉にした瞬間、「これ」が対象化されてしまい、もはや「これ」ではなく、「これ」についての考えになってしまう。

ここが落とし穴なので、不立文字と呼ばれてきたのです。


あなたはすでに、「これ」(究極の真実)の中に在ります。



衆生近きを知らずして 遠く求むる儚さよ

白隠禅師








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気が向かなくてもポチしてくれると、あたしゃあ嬉しい(^^)


   



・・・・・・・



【お知らせ】


最近は忘年会や飲み会などで忙しいんじゃないですか。


身体を大切にしてくださいね。


今年の最後に、あなたに動画で直接メッセージを送りたいと思います。

12月15日21時から。

当日のブログでご案内します。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:37Comments(52)

2016年12月12日

霊魂とUFO

僕の知人や友人は、霊魂の話とか、UFOの話とかを僕にすることはありません。

それは僕がその種の話に否定的で、聞く耳を持たないことを知っているからです。

ブログや講演はもちろんのこと、私的な雑談の場でさえも、その手の話が僕から出てくることはありません。



ところが・・・



実は・・・




あはは、言えない。



でも踏ん張って言ってみよう。



実は・・・僕は・・・



霊魂とUFOの、決定的ともいえる証拠を持っています。



それは家族が撮った写真です。

それも、テレビなどで紹介されるような曖昧なものではなく、とんでもなくリアルな代物です。

しかも細工されたものでないことを知っているので、認めざるを得ません。


それなのに、まだ信じていません(笑)

これはもはや頑固ジジイのレベルです。



さてまずは霊魂ですが・・・

究極の真実から言えば「すべてはひとつ」であり、分離は幻想で個としての魂などありません。

これは内なる経験から断言できます。


ところが個別の魂としか思えないものが、とてもリアルに写っている。

これはどういうことなのでしょうか。


もしかしたら、肉体を超えた身体であるエーテル体、アストラル体、メンタル体が何かのきっかけで現象化したのかもしれません。


人間の身体は7つの層からできていると言われていて、メンタル体までが個別意識、スピリチュアル体からは全体意識に入っていきます。

7つの身体については、昔の記事に詳しく書いたので参照してください。


7層の体
http://abetoshiro.ti-da.net/e2018072.html


先ほども書いたように、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体までが、分離した個としての性質を持っています。


そしてスピリチュアル体以降のコズミック体とニルバーナ体が、ワンネス、全体意識と言われるものです。



今日の記事を書くために読み直してみましたが、あれから8年経って、いまのほうが理解してくれる人が増えているように思うので全部紹介しておきます。

なにかのインスピレーションがあるかもしれません。


メンタル体



スピリチュアル体



スピリチュアル体2



宇宙意識(コズミック体)



宇宙意識(コズミック体)2




さて話を戻します。

7つの身体という考え方から見れば、肉体の死後、エーテル体からメンタル体までが見えない世界に存在し、それが何かの形で現象化するのかもしれません。

これが我が家にある複数の不思議な写真への、精一杯の説明です。



その上で、頑固オヤジの僕は言い切ります。

「霊などいるものか!」


あはは、無茶苦茶。






実はUFOについても、どうしようもないくらいの写真が我が家にあります。

偽造されたものではないことがハッキリしているだけに、かなりインパクトがあります。


UFOに関しても同じように考えることが出来ます。

もしかしたらUFOは、どこか特定の惑星から飛来したのではなく、エーテル体以上の身体として存在可能になった生物ではないでしょうか。

これも推論ですが、その可能性はあります。



ここまで否定できない事実を目の当たりにしてきたにもかかわらず、頑固オヤジは言い切ってきました。

「UFOなどあるものか!」



近年、あまりに多くの人が霊魂やUFOをまことしやかに語るので、バランスを取るためにも、いましばらくは否定派でいようと思います。

そして、いよいよ否定できなくなったら、みんなに気づかれないように少しずつ転身して、いつの間にか肯定派になっていようというのが、僕の人生設計です(笑)



なんとなくそんな日が近づいているような気配を感じます。





今日も最後まで読んでくれてありがとう。

よければポチっとしてください。


  



・・・・・・・・・・・・・


【お知らせ】


今年最後の講演会「阿雲スペシャル」は、阿部敏郎と雲黒斎の、それぞれの講演のあとに、2人が対談するスタイルです。

12月18日

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Posted by Toshiro Abe at 11:28Comments(42)