2016年03月31日

至高体験と呼ばれるもの

今日は匿名でさんからの質問


>いまだに疑問なことがあります。

>覚醒体験をした人の多くが「とてつもなく眩しい光に包まれ」とか、「至福状態」とか「恍惚状態」になるとか表現します。

>このような体験は普通の日常では体験できないものであり、未体験者にとってはとっても素晴らしいく気持ちの良い状態なのではないか?とその状態を目指したいと煽られます。

>阿部さんも上記のように表現されていましたが、どうしてこれを「普通のありふれたこと」というのでしょうか?



至高体験は何の前触れもなく突然訪れます。

言葉では表現できない至福感に圧倒され、時間と空間のない光の中で、すべてが一つであったことが顕になります。

人生で大切にしてきた宝物が、ゴミにみえるくらいの圧倒的な体験です。


このような体験は生涯一度きりです。

なぜならこの瞬間に起きたことは、それまで凝縮していた意識が、瞬時にして宇宙大に広がったときの感覚だからです。

それまでの凝縮が強ければ強いほど、その瞬間の開放感は激しい快感となります。

このような瞬間をひとたび味わうと、また同じ体験を求めて旅が始まりやすいのですが、同じ体験は二度と起きません。

なぜなら、すでに一度拡散したエネルギーはもとには戻らないからです。


その宇宙的感覚は、本来の存在の地平であり、誰をも生かしている「普通のありふれたこと」です。

覚醒体験者が報告する至高体験は、普通のありふれたことに帰る瞬間の体験であり、その後はずっと普通のありふれたことの中にいます。

至高体験を求めて修行する人がいますが、そのような体験がなくても、少しずつ凝縮が溶かれていくケースもあり、真理に至るために必ずしも必要なことではありません。


至高体験を悟りの証明にすることもできません。

反対にこのような体験は、記憶として所有され、自分を飾る新しい勲章になってしまいがちです。

これを精神の物質主義と呼びます。


このような体験を求めれば真実から遠ざかります。

本来は誰もが同じ地平にいますし、それ以外であったことはないし、変えなくてはいけないことも、達成すべきこともないのです。

すべての探求が終わったとき、あなたが「普通のありふれたこと」と呼ぶ、あるがままの「これ」があります。


まさにいま生活で、目の前のすべてが「これ」なのです。

「これ」しか存在していません。

その中には、あなたの思考や感情や感覚も含まれています。

そして見えるもの、聞こえる音、そのすべてが「これ」です。


「これ」を完全に受け入れ、「これ」と一つになれば、それが探し求めていた全てです。


その後も人生は続いていきます。


無条件の愛を表現し、おだやかな微笑みを浮かべ、静かに生きるなどとは思わないでください。

エゴを克服し、超能力を発揮し、高次元のパワーを手に入れるなんて思わないでください。


何も変わりません。

いままでどおり、あるがままにあるだけです。


ひとつだけ違いを語るとすれば、深刻さが消えていること。

気楽さの中にいるということでしょうか。


なにかに成ろうとせず、いまある「これ」に寛ぐ。

ドラマチック性に欠けて面白くないように見えますが、ここにしか真実はありません。


おかえり♪
  


Posted by Toshiro Abe at 09:37Comments(67)

2016年03月30日

これって、どれ?

引き続きゴールデン次郎さんから昨日寄せられたコメント。

>毎日毎日,瞑想して,「これ」とか「それ」ってもっと壮大なものと勝手に決めてました。


まったくもってその通り。

伝統が仰々しく伝えて来た真理は、笑っちゃうくらい当たり前のことであり、修行の有無とも関係なく、ましてや霊格だとか、前世だとか、男だとか女だとか、生まれも生い立ちも、職業も身分も、そんなことには全く関係ないことだったのです。

大げさな権威が真理から我々を遠ざけてきたことが少しでも伝わればと思って、出すぎた真似もしてきました。

そんな時代が長すぎて、多くの人が自分にはまだ準備ができていないと誤解しています。

本当はみんながブッダなのに。


EMIさん

>腑に落ちた事、理解出来ない事、どちらもどうでもよくて 

>ただ、もう既に これで 最初の最初から これなので探しようがない。

>これは宝物や宝探しでは無くて 普通の事すぎるから難しい。

>でも普通でいいんです。普通だけど それが奇跡でミラクル。

>探そうとすると隠れてしまう。 これしかない。という確信があるだけ。


最初の最初からこれなので探しようがない。

その通りです。

しかも一度も失われたことがないから、あることに気がつかない。

いまもあるのに、人は「これってどれだろう」って探し始める。

そしてまた永遠に取り逃がしていく。


どうやって言葉で示したらいいものか。



話は全く変わりますが、昨日の夕方コンビニから電話がありました。

僕が財布を忘れていると言うのです。

財布の中に電話番号が記されたものがあって、それでかけてくれました。

免許証からクレジットカードから保険証から、大切な物が全部入っていたので助かりました。


でも海外ではこんな風にはいかないでしょうね。

日本の良さって当たり前になっていて、気づかないことが多いと思います。


もし世界中の財力が日本に集まったとしたら、日本人はどうするでしょう。

独り占めするでしょうか。

他国に分けるとしても、まずは日本がふんだんに頂いて、残りを分配するでしょうか。

どう思いますか?


僕は、日本人はそうはしないと思います。

もちろん自分たちのことも考えますが、たぶん必要以上に欲張ることはせず、最も援助が必要な国から始めて、なるべく公平に分配しようとするのではないでしょうか。

これが普通の日本人感覚です。

そういう感覚を持つ国って少ないと思います。


これからの世界に、日本の果たす役割は極めて大きいという点で一致した人がいました。

遺伝子工学の村上和雄博士(筑波大学名誉教授)です。

村上さんとは、まことに奇妙な縁で結ばれていたことが後に判明するのですが、歴史観やこれからの世界観にも共通するところが多々ありました。

とても楽しく話ができたのを覚えています。


村上さんとのコラボ講演会の第一回目の模様を、スピタメ!にアップしました。

この時は「笑い」が人体に及ぼす影響を中心に話が展開しました。

一昨年、虎の門ニッショーホールで収録した動画です。

笑い満載で、腹がよじれること間違いなし。


スピタメ!
  


Posted by Toshiro Abe at 10:50Comments(30)

2016年03月29日

これしかない

今日の話はとても重要なので、ざっと流し読みをするのではなく、時間がある時にじっくり読んでみてください。


ノンデュアリティ(非二元)について、様々な角度から解説してきましたが、最初に伝えておきたいことは、このメッセージを解ったと思っている人は、根本的なところの的を外しているということです。

と同時に、徐々に解ってくるのも事実であり、それはとても大切なことです。


ここまでの文章で、すでに矛盾が出ていますね。

それくらい一筋縄ではいかない世界の話です。

では難解なのかといえばそうではなく、逆に、あまりにも当たり前すぎて見逃してしまう何かです。


このメッセージは、他の深遠なる真理のすべてを含み、全てを超え、唯一無比の絶対的真理であり、このことに比べたら、あらゆる経文も、あらゆる聖典も、なにもかもが人間のイマジネーションに過ぎなくなります。

こういう表現をしてしまうと、また余計な反応を引き起こしてしまいますが、人生のすべてをかけて断言しておきます。


僕がこのメッセージに最初に出会ったのは30年前になります。

アドバイタというヒンズーの伝統でした。

その中の逸話に、とある修行者の話があって、彼は生涯にわたり「二ではない(アドバイタ・ノンディアリティ・非二元)」という言葉しか発しなかったそうです。

そして怪しい奴として捕らえられ、あらゆる尋問に対して「二ではない」と答え続け、殺されてしまったというのです。


「二ではない」という言葉の意味は、「一」のことなのですが、「一」と言ってしまうと次の「二、三、四・・・」が連想されてしまうので、絶対的に一しかないという表現として「二ではない」となるのです。


違う言い方をすれば

「これしかない」

となります。

僕は「これしかない」という言葉のほうが実感できます。

そしてこの一言に秘められた、途方もなく深い真実を感じます。


実はこのブログでは最初からその世界を伝えようとしています。

なるべく多くの人に解ってもらうために、そして拒否反応が起きないように、小出しにして伝えてきました。


とは言うものの、僕自身は、完全にその気配に包まれる時間帯もありますが、現象に埋没する時間帯もあり、肉体を持っている以上は、これが限界なのだろうと思ってきました。

それが一年前、自分のそれまでの想像を超えた人物との出会いがあり、認識が変わり始めたのです。

国内外に多くのメッセンジャーが存在しますが、ここまで徹底した人を他に知りませんでした。

しかし、そのルックスや、現れや、個性が、真理体現者(実際にはそのような者の不在)のイメージとは程遠く、僕が独断と偏見で一人の人物に傾倒したと思った人達もいて、さりげなく他のメッセンジャーを僕に紹介したり、推薦したりしてくれました。

多くのメッセンジャーがいて、そこに響く人達もいて、それでいいのだと思います。

ただ、阿部はこのように感じているというだけの話です。


いい歳をして、若い女にとち狂ったと思った人もいました。

そのように見せてしまったのは僕の不徳のたまもので、せっかくの機会をこのようなことで遠ざけてしまったとしたら残念なことでした。


ここでハッキリと言っておきます。


僕は・・・



熟女ファンです。


どうでもいい話になってしまいましたm(_ _)m


さて、ゴールデン次郎さんからのコメントです。


>世界中で悲惨な出来事が起きているというのに、ノンデュアリティでは、それは2元の世界でただ起きることが起きているだけという解説で本当にいいのでしょうか?


という趣旨の指摘があり、その延長で、

>ノンデュアリティーの活動指針、目的が、「趣味嗜好,自己満足」なのか、「解説」なのか、「世界人類の救済」なのか、一度明確に言葉でお聞きしたいです。

と続きます。


まず最初に伝えたいのは、この真実によってしか根本的救済はないという確信が活動の背景にあります。

人類は夢の中で生きていて、しかも誰ひとり自分が夢の中にいることを知らず、そのような状態の中でこのメッセージが正確に伝わるのは極めて稀です。

なぜ稀かと言えば、人々は自分の夢を強化してくれるメッセージに惹かれますし、このメッセージさえも夢の中に取り入れてしまうからです。


マスター達の役割は一つしかありません。

それは夢から覚めることのサポートです。


世界人類の救済という考えも夢の一部です。

しかし結果的に、目覚めだけが世界人類を救済することが出来ます。

そして関心は、救済しかありません。



今回のサットサンを通して、新しい現象が生じていました。

やっと正確にメッセージが届きだしたという現象です。

一年近い時間がかかりましたが、ここから一気に加速していくと思います。


いままでに参加して消化不良だった人は、そこも通過点として必要なことであり、これからはもっと強い気づきに繋がり、あなたの人生観を根底から変えてしまうことでしょう。

いまここの「これしかない」という言葉の意味を深く理解することになります。

そして祝福に包まれるのです。


>世界中で悲惨な出来事が起きているというのに、ノンデュアリティでは、それは2元の世界でただ起きることが起きているだけという解説で本当にいいのか?


ノンデュアリティのメッセージを掻い摘んで所有すれば、あなたのような疑問が湧いてきて当然です。

起きることが起きているだけというのは真実ですが、悲惨な出来事に対して当てはめようとすること自体が、夢の中にいることを示しています。

「当てはめようとすること自体が夢の中にいる」

この言葉が解れば、あなたはとても真実に近づいています。


人は夢の中にいながら、自分が夢の中にいることを知りません。

夢がすっかり現実になってしまっているからです。


だからと言って、悲惨な出来事自体が幻想だと言っているのではないのです。

悲惨というのは解釈だとか、そんな話ではありません。


真実は、いまモニター画面を見ているという事が起きていて、頭の中にあれこれと考えが巡っている、それだけです。

真実は、いつも「いまここ」にあるのです。

そしてその真実こそが、あなたが物心ついてからずっと求めてきた唯一のものです。


それはいつの日にか達成されるものではなく、まさにいまある「これ」です。



「これしかない」

  


Posted by Toshiro Abe at 11:38Comments(64)

2016年03月28日

天職

いま僕は好きなことをやっています。

気づきを人と分かち合うことが大好きなのです。

自分が経験して、これはと思ったものがあれば、とことん勉強して、それを仕事にしてきました。


好きこそものの上手なれは、本当だと思います。

他の言い方をすれば「天職」と言うこともできます。


天職かどうかの見極めは、

まずは、そのことが好きであるということ。

そして自分は人よりも、そのことを上手くできるという密かな自信があること。

世の中で一番ということではなく、一般的な人よりも得意という意味です。


そのようなものは努力が苦になりません。

だから努力(本人はそう思っていない)を惜しまずに、結果として人よりも上達するのです。

さらには、やっている途上で、もっとこうしたらいいのではないかという新しいアイデアが出てくるようならば、それはほぼ天職と言ってもいいでしょう。

同じようなことに関心を持つ人に、そのアイデアを提供できたとしたら、それはすでに独自の仕事になっています。

それによって、喜んでくれる人がいてくれたら、そんなに嬉しいことはありませんね。



いいなァ阿部さんは好きなことで生活できて、と思う人がいるかもしれませんが、実は何事にも嫌なことは付いてまわります。


たとえば僕の場合なら、一方的な誹謗中傷を受けたり、揶揄されたりしてきました。

いくら苦しむことが減ったとしても、やっぱり人間だから嫌なものは嫌です。

そうされたら心の痛みを覚えると分かった上で、あえてそれをするのですから、人間には残酷な面があると思います。

僕自身にもそのような面があるので、やった者たちを責める気はありませんが、まさに人は自分の鏡だと思いました。


誰かが悪感情を抱いて、意図的に事実を歪めて発表すると、それに追随する者が現れます。

その数が増えてくると、いつのまにか曲げられた事実が真実となり、コイツは攻撃してもいいんだというような風潮が生まれ、バッシングに激しさが増してきます。

言われていることが事実かどうかには関心がなく、善悪二元論の立場から悪者を懲らしめるのです。


おそらく社会では、このようなことが日常茶飯事に起きているのでしょう。

当事者になれたことで、少し視野が広がったように思います。

報道される有名人の不祥事も、文字通りには受け取らないようにしています。


にも関わらず、こんな悪い人が、こんな悪いことをしたという記事を目にすると、世の中にはひどい人間もいるものだと、つい鵜呑みにしている自分もいたりします。

たとえそれが匿名で責任を取らない人の発言であっても、どこかで信じてしまう人間がいる以上、やはり言葉は暴力になりうるし、他人の社会生活を阻害する道具にもなると思います。


このような一連の出来事は、自分や他人の心の闇を見ることに繋がりました。

この二元の世界では闇があるからこその光なのですが、闇を闇として放っておかないで、生きやすくしていくのも人間の知恵です。

それが「愛と瞑想」の知恵だと思っています。


来月の講演会は、愛と瞑想についての話と共に、人間が持つ心の闇のカラクリと対処法についても話していきたいと思います。

自分自身や家族のことなどで、手に負えないと思っている人もいらしてください。


こうやって嫌な出来事も、ちゃっかり自分の仕事につなげていくのだから、やっぱりこれが僕の天職なのでしょう(笑)


・・・・・・・・・・・


4月の講演会


大阪  4月17日(日)


東京  4月24日(日)


詳細は上記都市名をクリックしてください。



それから4月3日の引き寄せとノンデュアリティのイベント。

キャンセルが出たそうなので、ご紹介します。

詳細・お申込みはコチラから。

  


Posted by Toshiro Abe at 10:50Comments(53)

2016年03月27日

一番大切なもの

僕たちは、何かにつけて色々な考えを持ちます。

しかしその考えは、優しい気持ちの時と、意地悪な気持ちの時では、まったく違っています。

考えというものは、とても不確かなものなのです。


いつもチェックすべきは、まさにいま、優しい気持ちでいるかどうか。

どんな立派な考えより、優しい気持ちが大切だと思います。

それは特定の対象に向かうものではなく、ありとあらゆるものに向かいます。

優しい気持ちって何?って、頭を使いだすとしたら、いまはそこにいないということです。



みんなが優しい気持ちを持てば、世の中の大半の問題は消えてなくなることでしょう。

何故ならそれは、個々の心の中の問題がなくなるからです。



優しくできない時もあります。

出来事に巻き込まれてしまったり、心の中に怒りが溜まった時などです。

そんなときは、相手が不幸になることを望むことさえします。


でも優しい気持ちの時は、すべての人が幸せであることを望みます。


やっぱり、どんなに正しい意見より、優しい気持ちが大切だと思います。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:15Comments(44)

2016年03月25日

愛と瞑想

先日のWeb瞑想会。

始まる前からカメラを付けっぱなしにしていて、風呂上りに裸で部屋を動き回り、しっかり配信していました。


安心してください、履いてましたよ。(下だけ)

でも見た人達は、まことにお気の毒でした。


数日前、家に瞑想を受けに来てくれた人の中に、この現場を見た人がいて、どうしようかとハラハラしたそうです。

だったら切ればいいのに、そういうのって目が離せなくなるんですよね。

怖いもの見たさ(笑)


いつもは500人くらいの人でやっているWeb瞑想会。

これが本当に半端なくパワフル。

そのうち一般公開して大人数でやってみましょう。

我々の意識が、各々の体の中に閉じ込められているわけではないことを、体験的に実感できます。


皮膚の内側が自分で、皮膚の外側が世界だという観念が消えた時、人は何を思うのか。

そういえば量子力学の保江教授が、皮膚を剥いで抱き合えば、自分が宇宙だったことが分かるって言っていたけど、そこまではしたくない(笑)。保江さんとのコラボも面白かったな。


愛のあるセックスも、そういう感覚をもたらしてくれますよね。

どこまでが自分で、どこからが相手か分からなくなる。

愛のないセックスはただのレスリングだけど、愛は人を存在の高みに引き上げてくれる力があります。


で、何が言いたいのかというと、瞑想と愛は全く違う入り口から同じ次元に入っていくということ。


愛が深まれば瞑想的になるし、瞑想が深まれば愛を見出します

大ざっぱに言えば、東洋は瞑想の道を、西洋は愛の道を奨励してきました。

いまそれが統合されようとしていると感じます。

このブログもさらに瞑想的に、さらに愛にあふれる場になれたらと願っています。


来月、「愛と瞑想」というテーマで講演してみようと思います。

また我が家でやろうと思いましたが、悲しいかな20名しか入れない。

久しぶりに会場を借りて東京と大阪でソロ講演会をしてみます。


もうすぐ春ですね。


・・・・・・・・・・・・・・


大阪

4月17日(日)


東京

4月24日(日)


詳細は上記都市名をクリックしてください。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:31Comments(76)

2016年03月24日

3月24日の記事

>脳死状態になると、わたしがいのちという意識(あのなんだか変わらないような、永遠そうなやつ)はどうなるのですか?

>(あのなんだか変わらないような、永遠そうなやつ)



ここが僕的にはヒットでした(笑)

言いたい事はよくわかります。

内なる永遠の存在は、認識する自分が無くなっても存在しているのか。

だとしたら、どうやってその存在を知るのか。

という意味ですよね。


もちろん我々を生かしている存在が消える事はありません。

と言うよりはその存在自体が我々そのものであり、我々こそが永遠の存在です。


それは内側だけでなく、外側のあらゆる現象も作り出しています。

いまあなたの目の前に広がる全ても、その存在の表れです。


さてあなたはそんな外側の現象を、自分がいるから認識できていると思っているかもしれません。

しかしそれは間違いです。

自分が消えても認識は残るからです。


認識という言葉が最適かどうかは別として、現象を認識しているのは自分ではなく、現象自体が認識しているという感じです。

それをほんの少し後に、脳が情報として処理し解釈しているにすぎません。


これは自分という感覚、菜穂さん流に言えば自己というエネルギーの凝縮が消えた時にはっきり分かります。

すべては、ただ在るということが。


それでも、「いったい何がそれを認識しているのか」という疑問は消えません。

なぜなら、我々は見るものがいて見られるものが認識できているという考えから離れられないからです。


分離した何かが対象を認識しているのではないことが分かると、本当の自分はあらゆる現象そのものであり、永遠の存在だということが分かります。

これが救済の瞬間となります。


知的にはいくらでも捏ね回して難しくする事ができますが、実はこの唯一の真実は極めてシンプルで明らかな事です。


・・・・・・・


大和田菜穂さんのブログには毎日素晴らしい詩が綴られています。

彼女から表れ出ている存在は、これからの時代、多くの人の道標になっていく事でしょう。

https://alreadyis.wordpress.com
  


Posted by Toshiro Abe at 09:18Comments(47)

2016年03月23日

魔法の言葉(逆転の発想)

30年前、自分を取り巻く状況が悪化の一途をたどり始めたころ。

プロジェクトが暗礁に乗り上げて、全責任がのしかかってきたころ。


自分を救ってくれた言葉がある。


ひどいひどいと嘆くより、せめて今日だけは幸せな気持ちで過ごそう。

だって、明日はもっとひどいことになっているかもしれないから。



あはは、これが結構効果的だった。

そしていつの間にか、状況は収まるところに収まっていた。


振り返ってみれば、この30年間は毎日が今日だったな。

今日が今日のように。


どう?、もし問題を抱えて塞ぎがちな人がいたとしたら、今日だけはこのスローガンを一緒に生きてみない?


せめて今日だけは幸せな気持ちで過ごそう。

だって、明日はもっとひどいことになっているかもしれないから。



そして次の朝が訪れたら、また同じことを言うんだ。

実際に一日中この言葉を思い出して、できるかぎり幸せな気持ちで生きようとしてみる。

せめて今日一日はね(^^)

  


Posted by Toshiro Abe at 10:08Comments(45)

2016年03月22日

人間関係

Mさんのコメント

>この個人は本当に人を怖がっているようです。

>人からどう見られるかということを極端に恐れています。



この感覚よくわかります。

人から何か言われた時、それを攻撃的に感じたことがあるのかもしれません。


簡単なアドバイスしかできませんが、いくつか書いてみます。


まず、人はそれぞれに気性のようなものがあり、どう自分を表したらいいかのセンスがまるで違います。

なかには、ズケズケとものを言うことをためらわないタイプの人もいます。

このような人は、むしろ率直に伝えるほうが相手にとってもいいと考えます。

しかも、その率直さ(ある意味ズケズケさ)が、親密感の現れだったりするのです。


しかし反対に、人を傷つけないように細心の心配りで話をする人もいます。

もしそのような人に、ズケズケタイプの人が話しかけたら、まるで自分を攻撃しているように感じることでしょう。

人は皆、自分がするように人もするはずだと考えるからです。


あるいは、人のテリトリーに踏み込むことを避ける人がいます。

そういう人は、自分自身のテリトリーを大切にしていて、だから相手にも気を使うのです。

反対に、そんなことはお構いなしに、これまた親密感の現れとばかり、相手に踏み込んでいく人もいます。

自分や他人のテリトリーを大切に扱う人から見れば、なんて無礼な人間だとなります。


ひとつ言えるのは、たいていの場合、誰も悪気がないということです。


なぜあの人はあんな言い方をしたのかと考えても、その人の気性を自分の気性で考えるだけ無駄です。

そういうタイプの人もいる。以上!!

が正解です。


そして次に、あなた自身がそうであるように、人はみんな自我を持って生きています。

自我には、すごく敏感な面があります。

誰かがあなたを好意的な目で見たら、あなたはそれを決して見逃さないでしょう。

反対に誰かがあなたの悪口を言えば、それも絶対に無視できません。

特に悪口の場合は、立ち直れないくらいのダメージを持つことがあります。

何故なら、自我とは開いた傷口のように敏感だからです。

これはズケズケタイプも含めて、みんな共通しています。


>また誰かに攻撃されるのでは?

>また自分だけ仲間外れにされるのでは?

>バカだと思われたくない。


意外かもしれませんが、多くの人があなたと同じような怖れを持って生きています。

みんな自分を守るのが精いっぱいで、あえて人を傷つけようという余力はありません。

もちろん人は、自分を守るために、自分を優位にするために、人を批判することもあります。

でもそれは相手に向かっているのではなく、自分を守るやり方なのです。


人はあなたと同じように、自分のことが一番大切で、自分対他人の関心度の比率は99対1くらいのものです。

その100分の1の中の、さらに数十分の一があなたに向けられているだけなので、大したことはありません。

でも自分にしてみれば、一番関心がある自分に向かってくる気がするので重大事ですよね。


なんとなく伝わりましたか。


時間がないので、勢いに任せて書いてしまいました。

的外れだったらごめんなさい。


人生は、そんなに悪いことばかりは起きませんよ。

意外なデータですが、人が心配していることの90%以上は決して起きないのだそうです。

心配はリアルだからそうは思えないかもしれませんが、ここまで何とか生きてきたじゃないですか。

これからも何とかなりますよ(^^)
  


Posted by Toshiro Abe at 13:37Comments(35)

2016年03月21日

無題

この世にあなた以上の存在はなく、あなた以下の存在もありません。

このメッセージを心の奥深くに、何度も何度も繰り返し伝えてください。


たとえあなたから見たその対象が、神とあがめられた存在であれ、家も仕事も失くした浮浪者であれ、あなたとまったく同じ一つのエネルギーの現れです。

存在自体には貴賤もなければ優劣もありません。


この世に特別な人など存在しません。

あらゆる人が同じであるがゆえに、本来は全て平凡な存在なのです。


と同時に、その平凡さの一つ一つを生かしているエネルギーは、人智を超えたとてつもなく偉大なものです。

どれくらい神聖で偉大なものかは、想像をはるかに超えています。

そのような意味から言えば、我々一人一人はとてつもなく非凡な存在です。


悟ろうと悟るまいと、最初から我々は偉大なるエネルギーそのものです。

そしてあなたはそのことを心のどこかで知っています。

その遠い記憶があるからこそ、こうして道を求めだしたのです。


このことを伝えたくて活動を始めましたが、優劣にどっぷりとハマった社会に伝えるのはとても難しかった。

自分が信仰する対象を、一介の市民が冒涜していると受け取られたこともあります。

真理を学ぶ人でさえ、より偉大な「なるべき自分」を求め、すでに達成したと思われる人を崇めるのです。

全部マインドのゲームに過ぎません。


まさにいま、まさにあるがままのあなたにおいて、それ以上に偉大なものは無いのです。

そしてあらゆるものが偉大であるがゆえに、あらゆるものは平凡な存在です。


偉大は少し疲れそうだから、平凡でいきましょう。


みんな平凡でそれでいい。


週刊平凡が懐かしい。
   ↑
スルーしてね
  


Posted by Toshiro Abe at 11:29Comments(54)

2016年03月20日

春分の日

数日前、読者からのメールで、今年の春分の日はリセットしてリスタートする分岐点なんだと言う。

なんでも28年周期がなんたらかんたら。

要は閏年が7回で一巡して・・・あはは、忘れた(笑)


こういう話は苦手だけど、人の気持ちが元気になるなら大歓迎だ。

そろそろこのあたりで流れを変えたい人は、今日からすべてが変わるって念じるのもいいのかもしれない。


実際は瞬間瞬間新しく生まれ変わっていて、何一つ継続していないのだけれど、僕らのマインドは、状況を固定して持ち運んでしまう。

だからこういう機会に一新してみよう。


今日からすべてが生まれ変わる!!




だって春分の日だから!!!!!




あんまり説得力なくてスマン。



元気で健やかな一日をお過ごしください。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:30Comments(56)

2016年03月19日

信頼の道

苦悩を消滅させるもう一つのアプローチは、いまという中にどれほど存在できるかということです。

実際は「存在=いま」なのですが、我々は存在(リアリティ)から離れて、頭の中のストーリーに暮らしているので、いまにいることが極端に苦手になっています。

過去と未来からなるストーリーこそが苦悩の源であり、いまを生きれば苦悩は消滅するのですが、人はなかなかその世界から離れられなくなってしまいました。


それではいまに戻ってくるにはどうしたらいいんでしょう。

僕はそのキーワードは「信頼」だと思っています。

何に対する信頼かといえば、あなたを生かしている人生の流れそのものへの信頼です。


「私は誰それを信頼しています」というような信頼ではありません。

もしその相手が裏切り行為を働けば、一瞬にして信頼は壊れてしまうことでしょう。

そのような信頼はとても脆いものです。


信頼とは対象に向けるものではなく、流れ自体を信頼することです。

何が起きようと、それは本当の故郷に向かう流れの過程であり、その景色を通らない限り故郷には帰れないから、いまそこを通過中なのだという信頼です。

どのような川の流れも、必ず最後は海に帰り着くという信頼です。


流れを信頼すれば、流れの展開はお任せできます。

それが帰依とか南無とか呼ばれている精神です。

お任せできれば、いたずらに将来を心配する必要がなくなり、その時初めて、いまを生きることができるのです。


苦悩の大きさは、いまを離れてストーリーに飲み込まれている強さと比例します。

だから目覚めた者たちは異口同音に「いまを生きる」ことの大切さを説いてきたのです。


いまを生きるというと、いまという瞬間を逃さないようにしなければと頑張ってしまうかもしれませんが、いまを生きるというのはそれとは反対に、もっとリラックスした純粋な目覚めと共にある状態です。

感覚は研ぎ澄まされ、目の前はとてもクリアです。


この感覚は、人生を取り巻く条件とは一切何の関係もありません。

誰もが無条件に、そのような安心の中で暮らすことが可能です。


これまでいろいろな言い方で、いろいろな方法で、いろいろなアプローチで説明し続けてきたことは、すべてひとつのことに繋がっています。

瞑想も、禅も、非二元(ノンデュアリティ)への解説もしかりです。


それらのアプローチに馴染めない人は、人生の流れを信頼するということに徹底してごらんなさい。

そうすれば、いまを生きられるようになります。

その分だけ苦悩は消えていることでしょう。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(55)

2016年03月18日

概念と、苦悩と、苦悩の終焉

さて今日書こうと思ったことのポイントは、昨日のかみゆさんのコメントに書かれている。


あははははははは

今日、これまでに「起きた」と思っていたことのすべてが、実は本当には存在するものじゃなかった、って気付いた♪

感覚を、あらゆる言葉に変換して、そこに存在感と意味を持たせているだけで、存在感と意味を持たせているからこそ、そこにまた新たな感覚とストーリーを自ら生んでしまっただけなんだ

それが人の数だけ、認識の数だけ、イメージの数だけどんどん分離している

言葉でイメージ化することによって、そのように起こったように感じてしまっていただけで

実際に起きたことは、、、、、?

あははははははは

本当にただただシンプルだった♪



まさにそういうこと。

これは直接体験であり概念や意見じゃない。


このような直接体験を悟りと呼ぶけれど、悟りに関する誤解が後を絶たないので再度伝えておくとしよう。


よく、あの人は悟っているのかとか、その悟りは本物かとか言う人がいるけれど、何度も伝えてきたように、個人の悟りなど存在していない。

そもそも「こんな人」というような固定された自己も存在していない。

ただ、いま、このようにして在るだけの話。

固定して継続しているものなどないのだ。


でも人は他者に対しても自分に対しても、固定された人格を期待している。

◎◎はこういう人だ、というわけであり、まさに概念の世界だ。


概念は人に対してだけでなく、あらゆることに向かっている。

概念の特徴は、決めつけたあげく、それを比較することが好きだということ。

どちらが上とか、どちらが正しいとか・・・そんなものは頭の中にしか存在しないのに。


人間の世界は概念の世界だ。

そこに比較、対立、争い、葛藤、苦悩、恐れが生まれてくる。


そんなことを書いていたら、Mさんからコメントが入っていた。


>一瞥がない私は安心できません。

>毎日、もがいている自分がいます。

>本当に苦しい。

>自分を脱ぎたい。

>もう自分に付き合い切れない。


何にもがいているのだろう。

それは「自分に起きていると思っていること」にではないだろうか。

起きていると思っていることが、起きてほしいと思っていることと反していると、そこから苦悩が始まっていく。

苦悩は、思いこみの自分がさも実在するように思わせるための燃料だ。

だから、その苦しみをなんとかしようとしないで、横になりながら醒めた意識を持って、ただ苦しみや痛みを眺め、苦しみを苦しむことを止めてみる・・・すると少し落ち着いてくる。

その落ち着きは、それまで住んでいた閉塞状態の部屋を、ほんの少し広くしてくれるだろう。

すると凝縮していた感情が溶けだして、そこに安らぎを見出すことになる。


Mさん

いま起きていることは、自分という対象も含めて、何一つあなたのせいじゃないんです。

ただあなたの人生の流れの中で見せられている景色に過ぎません。

解決するために一瞥を待つのではなく、いま伝えたことを少し試してみてください。


今日の言葉で説明すれば、あなたが自分に起きていると思っていることは全て概念の産物です。

どんなにリアルに感じていたとしても、それは本当のリアルではないのです。

たしかにありのままの事実は存在しますが、それと「あなたが自分に起きていると思っていること」とは違います。

思考が作り出したその世界から離れることが、あなたへのアドバイスです。

実際に会って話を聞いてあげたいけど、こんな言葉が、少しでもあなたの役に立ちますように。

  


Posted by Toshiro Abe at 11:33Comments(60)

2016年03月17日

不意に思ったこと

そうか、そうだったんだ。

自分が苦しかったのは出来事のせいじゃなかった。


どうしようもない問題に巻き込まれ、経済的にもまったく先が見えず、自分だけが何故こんな目に合うのかとのたうち回った日々。

せめて起きたことから何かを学ぼうと、そして本で読んだように少しでもプラスの感情を持とうと、試みるたびにそんな努力も虚しさの中に消えていった。


ある時は自分を貶めた相手への怒りの声を上げ、ある時は床を叩き、ある時は頭を抱えて塞ぎ込んだ。


どこまでが実際の感情で、どこからが感情におぼれた感情なのかも見境がつかないくらい、ただじっと頭を抱えて塞ぎ込んでいった。


そこに起きた突然の気づき。


そうかそうだったんだ。

自分が苦しかったのは出来事のせいじゃなかった。


それが最初の一瞥だった。


その気づきは個人的なものではなく、すべての人が共有する次元の話で、生い立ちも、学歴も、人生で何があったかも、そしていまどんな自分なのかも一切関係がない。

誰にでも可能なこと。

むしろ苦しんでいる時のほうが、もっと可能性がある。

なぜなら人は苦しんで初めて真剣に道を求め出すからだ。


この気づきを、さらに明らかにすること。

もう一度、そんな観点に戻って記事を書いてみたいと思った。
  


Posted by Toshiro Abe at 08:47Comments(101)

2016年03月16日

ほんのちょっとアベノミックス

思考は現実化するという話を聞いたことがあるでしょ。

今日はこの言葉が真実だという角度から書いてみたいと思います。


思考というより想念と言ったほうがニュアンスとして近いかもしれません。

たとえば、あなたという人は、いままであなたが自分に対して持ってきた想念の結果です。

自分はこういう人間だと想ったままが、いまのあなたです。


ということは自分に対する想念を変えれば、あなたは違う人になるということです。

それはなんとなくわかるでしょ?

ほらね、思考(想念)は現実化するのです。


このようにして見ていくと、自分を取り巻くすべての現実は自分の想念の結果だということが分かってきます。

どうせ私なんかという思いが、そういう人生を創り出していくからです。


そしてここで重要なのは、そもそも自分という感覚は実体ではないということ。

だからどんな自分も自由に創りだせるのです。


アベノミックスの基本は、いかに自分というイメージを肯定的に持つかということです。

多くの場合、

自分が生き残るためには、イヤなことも我慢してやり続けなければならない

運や才能に恵まれた人だけが、思い通りの人生を生きられる。

自分には望む生き方をするだけの能力がない


という想念を心の底に持っていたりします。

どんなに精神世界を学んでも、この部分は手付かずという人を見受けます。

そして不平等であることを抗議したり嘆いたりするのです。


自分の中にある無力感。

そして、罪悪感、劣等感。


これらはすべて誤解です。

徹底的に誤解です。


世の中が変わるために、人が真理に目覚めていくことも必要ですが、そこまでいかなくても、各自が自分に対する否定的な観念を溶かし、イキイキと自分らしさを生きだしたとしたら、それだけで素晴らしい文明が開化していきます。

その世界には権力も権威も無くなっています。

なぜなら、それらは無力感を持った人たちによって寄与されたものだからです。


・・・・・・・・・


さとうみつろう君と先日開催したコラボトークショー。

第一部と第二部のセット、スピタメで販売開始されました。


スピタメ!
  


Posted by Toshiro Abe at 09:55Comments(44)

2016年03月15日

真実に戻るには・・・

人は絶えず夢を見ています。

夜眠っている間だけではなく、昼間起きている間もいつも夢と共にあります。


昼間の夢を夢として認識しにくいのは、ちょうど昼間の空には星が見えなくなるのと同じです。

昼間は星が消えたわけじゃなく、明るさによって見えないだけ。

深い井戸の底からは、周囲の光が遮断されて、昼間でも星を見ることができるでしょ。

同じように昼間でも目を閉じれば、そこに絶え間ない夢が流れているのが分かります。

いまもね。


夢とは自分だけの世界のこと。

真実は一つですが、夢はそれぞれのオリジナルであり、人の数だけあります。

そして我々は、ありとあらゆるものに自分の夢を投影して見ています。


昨日も書いたように、このブログを読んでいるいまも夢と共にあります。

書かれていることを自分なりに解釈しながら読んでいるのです。

これは何を意味しているかというと、読んでいるこの時、あなたの意識はここに書かれていることではなく、自分自身の意見に向かっているということです。

何も考えずにただ読むということさえ、とても難しいことになってしまいました。


見ることに成りきる。

聴くことに成りきる。

感じることに成りきる。

なんの注釈も判断も加えず、ただあるがままと共にある時が、目覚めです。

そこには投影された夢がありません。


人は真実に至る道を探し求めますが、まさにそれさえも夢を通して起きています。

世界のどこかにいるであろう偉大な師

自分に気づきを与えてくれる深遠な言葉

高次元に誘ってくれる神秘の技法

そして、いつか起きるかもしれない大いなる瞬間


真実に至る道は、遠くも近くもなく、難しくも優しくもありません。

すでに到達しているのだから。

それどころか、一度も真実から離れたことなどありません。

ただその真実の上に、絶え間ない夢を漂わせて、見えなくなっているだけです。


このように言うと、また人は考えます。

「すでに真理と共にあるという話は、前にも本で読んだことがある。たぶん本当なのだろう。しかしいったいどうやって見つけ出すというのだ」

そうやってまた夢の世界に埋没し、すでにある真実を見失うのです。


真実に触れる秘訣は、どこかを探すのではなく、いつかを待つのではなく、まさにいま、目の前の現象をなんの注釈も加えずにただ見ること。ただ聞くこと。ただ感じることです。


そのような状態に徹底した時、自己は消えています。

そしてあなたの周囲では、ただ起きることが起きています。

あなたがいなくても、ことはいままで通り、淡々と、粛々と、ただ起こるがままに起きていきます。


そこに意識のシフトが起きます。

自分が全体の中に生きていたと思っていたのに、その自分こそが全体だったということへのシフトです。


そして人生の重荷から解放され、人は初めて寛ぐことが出来ます。


だって何一つ自分のせいじゃなかったし、何も起きていなかったことを知るからです。

すべてはリーラ。

無目的の永遠の戯れです。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:14Comments(66)

2016年03月14日

本当は最初からブッダ

昨日もそうだったけど、セッションの前には、たいていの場合瞑想から始めるでしょ。

それは、とりとめもなく動いていた思考を静めて、いまこの会場にいるというただ一つの現実に戻ってくるため。

人は自分の頭の中の世界にいながらにして、講演に参加することもできるから。


多くの場合、いまやっていること自体には無意識で、何か他のことを考えていたりする。

車の運転もしかり、道を歩く時もしかり、朝顔を洗う時も、食事中も、たいていは何か考え事をしている。

それでも行為はちゃんと成り立っているから人間は器用だ。



講演会でも、他のことを考えながら、あるいは聞こえてくる内容を判断しながら、半身で参加していたりする。

聞くという行為になり切っていることは極めて少ない。

いまだって同じこと。

読むということになりきれる人は少ないだろう。

同時になにかぼんやりと考えていたり、自分の意見を持ちながら判断していたり。


もしなり切っていれば、もし完全にいまと同調していれば、それが学ぶことの全て。

それさえできれば、話の内容などどうでもいい。

たとえ深遠そうな真実が語られていても、その真実の内容は間接的な説明に過ぎないのだから。

言葉は真実そのものではあり得ない。

真実はその瞬間の在り方で決まるのだから。


成りきる

これを禅では『三昧』(ざんまい)と呼び、人間が到達する最高の境地としている。


早い話が、そこに分離した己が無くなっているということだ。

自分がいないということを知的に理解しようとしてもできないが、現象への参加の仕方を通して、結果的にそんな状態になっていることはある。


元々、個という感覚自体が錯覚なのだから誰でも簡単にできるはずだ。

幼児はそれを当たり前にやって見せてくれる。

彼らはいつも成りきっている。

笑うときはただ笑い、泣きたいときは全身で泣いている。

これが本来の命の有り様だ。


以前住んでいた那覇市の家の隣は保育園だった。

毎朝、彼らが一斉に発する「おはようございます」という声で目が覚めたものだ。

彼らはいつだって全身全霊。

まったく迷いがない。


あれから何年もたち、彼らにも「ものごころ」という名の自分が形成されていき、いまごろは周囲の様子を伺いながら生きているかもしれない。

僕たちも同じ道を歩んできた。

そろそろ引き返す時だ。


そうやって円が完結する。

ゴールはスタート地点だった。


人は見たいように見て、言いたいように言う。

そんなことを気にして生きるのは、あまりにも勿体ない。

人工的に作られた枠を外せば、不思議なくらい人生はスムーズに展開していく。

引き寄せとか願望実現とか呼ばれる世界の本質も、ここにあるのだと思う。


今日もいろいろ書いたけれど、読んだ内容の理解ではなく、実際にそれを生きることでダイレクトに真実へと近づいていける。


ちょっとブログの画面から目を離して、目の前の現場を何の判断も挟まずにただ見て、聞こえる音にも判断を加えずにただ聞いてみよう。

見ることと、聞くことに成りきる。


たった30秒間でいい。

身動きせずに、判断を挟まずに、ただあるがままと共にいてみよう。


そうすれば、ただあるがままの現場だけが残る。

その現場全体が「あなた」であり、その30秒間、あなたは自分の夢から目覚めし者、ブッダだ。


本当は最初から、みんながブッダなんだけどね。

  


Posted by Toshiro Abe at 10:32Comments(58)

2016年03月13日

無題

何かがうまくいかないときは、自分を責めたり周囲の人を責めたりするけど、それは自分も含めたすべての人が、自分の意思で行動していると思っているから。

自分の意思というのは、自分という分離した個があると信じているからこその発想。


自分というのは人間だけが持つ分離感覚で、それはナチュラルなものではないんだけど、社会全体が、そして生活全般をその感覚で生きているので、そこだけが現実になってしまった。


分離意識が悪いわけじゃないけれど、もう一つの可能性をたまには思い出せたらいいね。

そのとき、すっと力が抜けて、深刻さが消える。


みんなが気楽になれたらいいと思う。

あとは、いまやることをやるだけ。

やりたくなければ、やらなくてもいい。


本当は何もする必要はなく、やることさえもただ起きてくる。


この話もわかりにくいかもしれないけど、またの機会に書いてみます。



さっきの記事もこの記事も、名古屋会場の一番後ろで、こっそり書いた。

むかし学校の授業でノートに絵を描いて遊んでいた頃を思い出した 笑


  


Posted by Toshiro Abe at 11:37Comments(57)

2016年03月13日

お知らせ

いま記事を書いたのに、全部消えてしまった。


あーそういうことか。


・・・・・・・


3月20日に、東京の阿部さんちで阿部さんのお話会があります。



お申し込はコチラから。

お申し込みは終了しました。  


Posted by Toshiro Abe at 11:11Comments(13)

2016年03月12日

誰もいない






















.  


Posted by Toshiro Abe at 18:00Comments(104)