2016年06月29日

すでにそれ

生まれたばかりの子供に本来本当の自己意識というものは既に備わってるのでしょうか?

これら本来本当の自己意識というものは、母親が妊娠したときに同時に備わるものなのでしょうか?

これらを持たない子供はどのような存在でしょうか?



通りがかりさんからの質問です。


>生まれたばかりの子供に本来本当の自己意識というものは既に備わってるのでしょうか?


もちろんです。

生まれたての赤ちゃんだろうが、なんだろうが、本来の自己意識を携えています。

本来の自己意識は、個々に宿っているのではなく、全ての存在が共有しているものなのですが、人は「自分の意識」だと感じています。

そもそも意識を所有する「自分」などいないのに。



>これら本来本当の自己意識というものは、母親が妊娠したときに同時に備わるものなのでしょうか?



備わるものではなく、最初から「それ」なのです。



>これらを持たない子供はどのような存在でしょうか?


持ったり持たなかったりするものではなく、最初から「それ」なのです。

  


Posted by Toshiro Abe at 12:30Comments(40)

2016年06月28日

「人は死なない」ということについてのエッセンス

四方から聞こえてくるセミの声。

沖縄はすっかり夏模様です。


さていきなりですが、死について書いてみます。


あなたは死なない


以上です(笑)


心の源の静寂を知っている人は、その静寂の感覚を思い出してみてください。

その感覚は10年前も、そしていまも、何も変わらないことがわかるでしょう。

そして思い出してみれば、その感覚は物心ついてからずっとあなたとして在り続けていました。


活動に埋没しているときも、見失っているだけでその静寂はいつも底辺にあります。

いついかなる時も、あなたとして存在している存在感。

年齢を重ねても、自分が何も変わっていないような気がするのは、その存在が時間や出来事に影響されていないからです。


その存在は、実は我々が物心つく前からありました。

もっと言えば、身体が生まれる前からありましたし、身体が朽ちた後も、何も変わらずいまここに在り続けています。

そのことをもって、人は死なないと言うのです。


同じように「人は死なない」という人の中には、死んでも自分という個(自我)が残り続けて、あの世に行ったり生まれ変わったりすると言う人もいますが、そうではありません。

自我は精神と肉体から生じているので、肉体の消滅と共に消え失せます。

でもあなたは残ります。


そこに残ったあなたは、分離した個としての存在ではありません。

そのあなたこそが本当の自分であることを、あなたは心の深いところで知っているのですが、表面的な自己感覚をリアルなものとして馴染んできたので、ピンとこないだけです。


偽物の自分が消えて、本物の自分が残る。

消えるのが偽物なので、実際には何も失わないということです。


それでも日々の出来事は続いていきます。

一喜一憂する夢を見ながら、今日もこの現象界を生きています。



なにか書こうとすると、浮世離れした言葉がつらつらと出てきますが、結局のところ、あいかわらずいまがあるだけですね。


僕は違う夢を見ているあなたであり、あなたはあなたの夢を見ている僕です。


・・・・・・・・・・


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Posted by Toshiro Abe at 11:28Comments(45)

2016年06月26日

続・寛ぐということ

寛ぐという言葉を違う言葉で置き換えると、愛になります。

でも愛というのも書いてしまえば、ただの言葉。

愛について、どれほど議論しても、それは愛ではありません。


愛には多くの側面があるけれど、僕はその中から「優しい気持ち」を挙げています。

これならすぐに分かるからです。


勿論どんな状態に対しても、その背後に優しさがあると言い切ることも可能ですが、その前に、まさにいま優しい気持ちの中にいるかどうかです。

優しさは柔らかさ。

優しさは寛ぎです。


まずは、自分自身に寛ぐこと。


自分を愛するというと難しくなってしまうけれど、自分に寛ぐといえば少しできそうな気がしませんか。

自分に寛いでいる時、どうやって自分や周囲に批判的になれるでしょう。

攻撃性も消えています。


愛より正しさが先行する世の中で、せめて今日1日は寛いでいましょう。

それが幸せということであり、いつもいま起きていることです。







  


Posted by Toshiro Abe at 10:05Comments(27)

2016年06月25日

寛ぐということと、「私はいない」という言葉の意味

昨日から名古屋に来て瞑想指導をさせてもらっています。

この瞑想は 皆さんの実感が伴うので、分かりやすくて指導するのが楽です。


忙しい現代人には寛ぐ時間が必要ですが、寛ぐというのは「いま」のなかに寛ぐということです。

いつも「いま以上のいま」を求めて生きているので、瞑想中でさえ、さらに深い瞑想を求めて、意識が未来に行ってしまいがちです。

いま起きていることが全てなのに、より良いいまを求めて意識が前のめりになってしまうのです。

このような未来志向の強迫観念から離れることが瞑想です。

完全にいまにあるときは、自分という孤立した感覚から、純粋存在(全体意識)にシフトしています。

ということは寛ぐというのは、自己という囚われから自由になっているということです。

自己感覚は実際には錯覚なのですが、我々はあまりにも長い間、自己感覚に同化してきたので、おいそれとは離れてくれません。

その基本レッスンが瞑想と言ってもいいと思います。


自己感覚こそが緊張の正体です。

完全にくつろいでいる時、自分はいません。


そうそう、昨日のコメントに、「私はいない」と言いながら、なぜ自分の意見を言うのかという指摘がありました。

これはいろんな言い方で繰り返されてきたことです。

「私はいない」と言いながら、お前はいるじゃないかというわけです(笑)


この場合の「私」とは、言っている本人のことではなく、ありとあらゆる人に向けています。

自己感覚は錯覚だと言っているのです。


意見や考え感情は、自己感覚があろうとなかろうと出てきます。

それは元々、自分がやっていることではなく、起きていることだからです。


そこに自分がいると思うと、

自分が考えている

自分が感じている

自分が行為している

という認識になります。


でも繰り返しますが、やっているのは自分ではありません。

だってそんな孤立したものなど、この宇宙には存在していないからです。


仏陀も自分の意見を言いましたし、好みもありました。

でも彼は


「諸法無我」

単独に切り離された自己など存在しないということを、教えの中心に置きました。

それ以外に真実はないからです。


こうやって書けば、ただの理屈ですが、これは内側で感じることができることです。

実は誰もが、そんな瞬間を味わってきています。


すごく楽しい時

すごく幸せな時

時間を忘れている時


そこに自己感覚は無く、気持ちは寛いでいます。


逆に

落ち込んでいる時

悩んでいる時

恨んでいる時

怒っている時

そこには、自分が強烈に存在します。



僕は寛いだ時間が好きなので、いまも寛いでいます。

まだ時々、現象に振り回されますけどね(^ ^)

この中途半端さも好きです。


さてと次のクラスの方たちがやってきました。

今日も新しい出会いに感謝します。
  


Posted by Toshiro Abe at 14:27Comments(35)

2016年06月24日

政治の話 2

政治に関するコメント、ありがとうございました。

こういう話は好きです。


AIさんのコメントは、多くの人が感じていることを代弁してくれたと思いました。


「今、日本には、憲法を変えて、言論の自由を弾圧し、戦争への道をも開いてしまう不穏な動きがあります。

もし、自分が棄権して、結果的に、他の皆さんたちの投票の結果、そっちの方向の政治家が多数選ばれたら、どうでしょう?

棄権したということは、それにOKを出したのと同じこと。」



実は僕はAIさんとは意見が分かれるのですが、ここに来てくれるみなさんは、このことについてどう考えていますか。


人が何かの判断をする時は、自分に入ってきた情報を元にしています。

たったひとつの新しい情報によって意見が180度変わることもあります。

それが民意であり、民意によって決まっていく民主主義は、危い面を持った制度だと思っています。


これから夏にかけての政治の季節。

またこんな話題も展開していきましょうね。


・・・・・・・・・・・・

7月24日に博多で、トークイベントと、瞑想のレクチャーと実践をします。

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久しぶりの博多(^^)♪

お会いするのを楽しみにしています。
  


Posted by Toshiro Abe at 12:24Comments(72)

2016年06月23日

夢の中の夢

昨日のような話は、人によって様々な考え方がありますね。

誰が一番正しいかではなく、この世のどんな事象に対しても人それぞれに意見があります。

互いを尊重しながら、意見を調整し、共同体を運営していくのが人間社会なのでしょう。


一方で、心源にある静寂は、全員に共通している一つなるものです。

ここに意見は存在しません。


実は人類が求めている真の平和は、この次元にしか存在していないのです。

人が心源の静寂を認識した時、そしてそれこそが本当の自分だと理解した時、表面的な意見調整はさらに容易くなります。


この先の人類の可能性は、まさにこの一点にかかっていると言ってもいいでしょう。

我々が根っこで、ひとつの同じものであることの理解こそが、真の世界平和の礎になると確信しています。


それでも自我は残りますが、その質が変わってきます。

その奥に、ゆったりとした安心感が横たわっているからです。

安心感からは攻撃性も暴力性も出てくる余地はありません。


これもストーリーですが、そんな世界を夢見ています。

夢の中での夢ですけどね.


だって本当はすでに完璧で、なんら問題は存在しないからです。


今日も一日、いい夢見ましょう(^^)  


Posted by Toshiro Abe at 12:42Comments(27)

2016年06月22日

政治のこと

今日から参院選の告知が始まったそうですね。

実はいままでに選挙に行ったのは数えるほどです。

そんな人は意外に多いのではないでしょうか。


国民の義務を怠っているという批判もありますが、誰に入れていいか分からないのに、その時の社会のムードや見た目の印象で投票することのほうが乱暴に思えてしまうのです。

政策や公約で選ぶべきという意見もありますが、舛添さんだって立派な政策を掲げていたし、結局は事前にその人物のすべてを知ることは不可能です。

みなさんは、このようなジレンマをどう乗り越えていますか。


今回の舛添さん問題の幕引きも、与党が参院選を睨んでとのことですが、マスコミを中心に世論が作られ、世論の結果が選挙に反映するのだから、当然の流れだと思います。


僕は昔から選挙という選び方そのものに欠陥があると思ってきました。

本当は優良企業のように、適材適所に人材を配置するのが合理的です。

どんな分野にも得意な人や天才的な人がいるので、そういう人にやってもらうのがいいと思います。


ただそれができるためには、国民全体で信頼関係を持てるかどうか。

早い話が、自己に固執する段階を超えた意識を共有できるかどうかです。


その時は、政治という考え方自体がなくなっているかもしれません。

国家は、国民の安全と外交だけを担い、あとは一人一人の愛と知恵で社会が運営されていく。

たぶんそのような時代には、子供も若い夫婦が育てるのではなく、みんなの宝として地域が担っていく。

そうすれば、家庭環境から来る負の連鎖を止めることが出来ます。

貧困の問題もあれもこれも、すべては「やり方」ではなく、我々の意識レベルによって解決できることです。

絵空事の無責任発言に聞こえるかもしれませんが、そのように思っています。


当分は、誰がやっても同じだと思っているので、選ばれた人を応援していきます。

その人に頑張ってもらうしかないからです。



そうそう、実は数週間前に、桜井パパが総務次官を退任すると聞いたとき、与党にとって天の助けだと思いました。

これで、一気に舛添おろしが加速すると思ったら、その通りになりました。

それからはTVで桜井君を見るたびに「おっ、都知事の息子」ってつぶやいて、家族に笑われています。


パパご自身は、重責に躊躇しているようですが、結局は断り切れないと思います。

根拠のない勘でしかないのですが、大昔、天皇賞を夢で当てた実績から、一応報告しておきます(^^)


当たるも八卦、当たらぬも八卦。



僕のような国民でも生かしてもらえるのだから、日本はいい国だと思います。
  


Posted by Toshiro Abe at 14:00Comments(55)

2016年06月21日

stop!

結局は、まさにいま、優しい気持ちでいるのか、リラックスしているのか、それだけだと思います。

何をしているかではなく、どんな自分でいるのかが人生なのです。


そのためには、自分という存在に安心することなのですが、自分そのものが緊張という素材でできているので、言葉を変えれば、いかに自分という囚われを減らすことができるかがポイントになります。

自分とは緊張であるのと同時に、警戒であり、ジャッジであり、不信感であり、愛ではない全てです。


で、もう一度言いますが、まさにいまどうなのかだけです。


こんなことさえも、いつかそうなろうとします。

いましかないのに、もっと後のいまになったら、そんな時間を作ろうというわけです(^^)


そこで、まさにいま、ごく短い時間でできる簡単な瞑想を本にまとめてみました。

このブログで紹介してきたものも詳しく書いてみました。

僕的にはイラストを入れてくれたのが良かったと思います。




昨日発売となりましたので、ご注文すれば今日か明日には届くと思います。

ご注文はコチラから



自分が生きているのが、思考が作り出したストーリーの世界だということに、人は気づきません。

「いま」というメッセージもストーリーの一部として消化されます。

夢の世界からリアルな世界へ帰ることなのですが、自分が夢の世界にいると思っていないので、真理さえ夢の世界で処理されてしまうのです。


実践と習慣が大切だと思います。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:14Comments(27)

2016年06月20日

かんながら

昨日は黒斎君とのブログ10周年祭にお越しいただき、ありがとうございました。

黒斎くんは会の途中で感動して、身が硬直してしまったそうです。

一口に10年とは言え、そこには様々な経験があり、続けることの難しさは確かにあります。

でも彼はまぎれもないメッセンジャーであり、安定した会社を辞めて保証のない世界に踏み出した勇気には敬意を表したいと思います。

黒斎くんを通して、いったいどれくらいの人が、心に光を灯したことでしょう。



そして、夜9時からはWeb瞑想会でした。

リハーサルでは完全に上手くいっていたのに、直前になって急に配信機器が不調をきたし、どうしたものかと思っていたら、ちょうどその時間にNHKスペシャルで、ストレスを緩和する方法として瞑想が紹介されるというので、機材が回復するまでみんなでその番組を見ることにしました。


番組の内容はいつもここで伝えてきたようなことですが、公の電波で瞑想の効果が紹介されたことは画期的でした。

「瞑想は宗教とは無関係」という表現が繰り返され、やはり「瞑想=宗教=如何わしい」といった偏見がまだまだ一般社会にあることを踏まえての慎重さが見て取れました。


「マインドフルネス」という言葉も多用していましたが、この言葉は禅の定義そのものです。

昔から茶道や武道などの伝統の中に取り入れられてきた日本の心だということも言っていました。

まさにそのとおり。

そして「いま」を生きることの大切さ、思考が織りなす過去と未来に蓋をすることの有用性にまで踏み込んだことは、よくぞ言ってくれたという感じでした。



番組では瞑想法として、坐禅という言葉を使わずに、坐禅のテクニックを紹介していました。

目を閉じるという以外は、まさに坐禅そのものです。


少し残念だったのは、「瞑想中は考えないようにする」と言っていたことです。

その通りではあるのですが、このことがすぐにできる人は稀です。

考えないようにすることが瞑想だと思ってしまうと、1回2回試しただけで、自分には無理だと諦めてしまう人が出てくることでしょう。


思考があってもいいのです。

思考は意志で消すことはできません。


でも瞑想中は、少なくとも思考に同化する状態から離れることが出来ます。

そうやって離れているうちに思考は自然に止んでいきます。

止まない時もありますが、それでも瞑想効果は変わりません。


そして呼吸に集中することもその通りなのですが、多くの人は数分間しか続かないことでしょう。

手前みそになりますが、マントラの波動(量子の波動)を用いることで、速やかに瞑想状態に入れることは経験的な事実であり、マントラ瞑想は、忙しくて飽きやすい現代人に適しています。

科学は瞑想の効果を実証し始めましたが、マントラの科学的証明も、そう遠くない将来になされると思っています。

脳科学者であり量子力学者の保江邦夫博士に、マントラの効果を話した時、「それは当然のことです」とさらりと仰っていました。

保江さんとは初対面からご縁を感じていて、もっと詳しく聞きたいと思い、いつかまた対談をお願いしようと思っていましたが、なんと参院選に出られるのだそうでびっくり!、しばらくはお預け模様です。



さて、多くのマントラ瞑想は、瞑想中にマントラを唱え続けるという手法を採っていますが、それではある種の自己暗示のような性格を持ってしまいます。

マントラは言葉自体ではなく波動だということを考えると、ボブさんのように一回唱えるだけというやり方は、まさにコロンブスの卵です。


そんな瞑想からスピリチャルな雰囲気を一掃して、心身の健康に絞り込みたいという智子さんの発想は間違っていなかったと、昨日の番組を見て改めて思った次第です。


このブログも、初期のころは瞑想のことを書いただけで、様々な意見をもらいました。

悪魔に魂を乗っ取られるとか、霊が憑りつくとか・・・

さすがに最近はそのような声が減り、ここにも時代の変化を感じます。


いろんなことがあった10年間でした。

僕の行動には至らないことも多々ありますが、これからも流れのままに生きたいと思います。


か・ん・な・が・ら

  


Posted by Toshiro Abe at 09:10Comments(28)

2016年06月18日

本来の面目

Pinoさんのコメント

>いろんな人格を持ってるのはいけない事だと思ってました。


同じように感じてきた人も少なくないと思います。

一貫性がある人が、実直で、誠実だと思われているからです。

しかし実際には、自然は刻々と移り変わっていて、何事も同じ状態にとどまることはありません。

もし一貫しているとしたら、そこには作為があるということです。


社会は意見をコロコロ変える人を、信用ならない人として扱います。

そのことを知っているので、我々は一定の人格を保ち、一定の意見を持ちます。

それは社会を生きる上では必要なことなので、子供のころから少しずつ「自分」を作り上げてきました。

そこに不純さを感じてしまいます。

内側で感じていることと、外側に発揮している自分が違うからです。


これは人間が社会的な生き物である以上避けられないことです。

ですから社会に向けては完全に演じ切る・・・そのことに問題はありません。


これは対人関係にも言えることです。

昨日、我々は人によって顔(人格)を使い分けている話をしましたが、特定の人に対して、その人用の同じ顔でいることは、社会に対するのと同じです。

コロコロ変われば、その人からも信用されなくなると知っています。


一日中いろんな仮面をとっかえひっかえしていますが、ずっと仮面をつけている必要はありません。

そうでないと、人生そのものが偽物になってしまいます。


人によっては、仮面を外した本当の自分が分からなくなってしまったという人もいることでしょう。

分からなくて当然です。

本当の自分には、顔(人格)などないからです。

あえて言うとしたら、「誰でもない人」です。


瞑想中の静寂がそれであり、ただあるがままにある存在の本質です。

禅では「本来の面目」と呼びます。

その自分(あえて自分と呼びます)を根底に持っていられたら、どんな顔を演じていても、生きるのが容易くなります。

舞台上の役者が、この役はあくまでも舞台上のことだと知っているのと同じです。

もしそれを忘れてしまったら、物乞いの役は自分を卑下することになるでしょう。


顔(人格)を持つ前の本来の面目を知り、その上で社会が求めるあなたを演じて生きればいいのです。

その切り離しができていないと、人生が根っこのない空虚なものになってしまいます。



どうってことありません。

今日もシンプルに生きていきましょう(^^)


・・・・・・・・・・


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Posted by Toshiro Abe at 10:01Comments(31)

2016年06月17日

無数の人格

人格って人間関係の数だけあります。

家族の一人一人にさえ、よく見ると違う人格を発揮しているのが分かるはずです。


僕らの顔は、相手によって違っているのです。

そして相手も、あなた用の人格を持っています。


その2人で作っている人間関係は、他のどこにも見当たらないオリジナル。

世界で唯一のものです。


新しい恋人と出会った時に、新しい自分になったような気がするのは、そういう理由も含まれています。


ひとつひとつの人間関係が、その相手とだけのオリジナルだと思うと、なんだか貴重な気がしてきますね。


もちろん、社会一般や特定の集団に対する公の顔も持っていますが、我々がひっきりなしに様々な人格を発揮しているのは興味深いことです。
  


Posted by Toshiro Abe at 13:05Comments(23)

2016年06月16日

すっかり忘れているということ

人生は何から何まで思いこみの想像物だと思う。

自分が思いこみによって感情を味わったり、考え事をしたりしていることに気が付いていません。

その思いこみという自己催眠は、あまりにも心の深いところで起きているので、改めてその存在を知ることもなく、早い話が「すっかり忘れてしまった」のです。


すっかり忘れるというのは、忘れていることを忘れている状態です。

こうなると救いはありません。

忘れてしまったことを忘れてしまったのだから、どうしようもない。


これが通常の人の意識状態です。

一生懸命なのですが、いかんせん根本的な問題が解決されずに残り続けるので、救いというものがありません。

夢の世界では、いいことや悪いことが起き続け、上がったり下がったり、これで終わりということがないのです。

六道輪廻。



まずは、自分が何か大切なことを忘れていることを思い出すこと。

自分が自己催眠にかかっていることを思い出すことです。


その後で、どのように催眠をかけてきたのかに向き合うことが出来ます。


催眠が解ければ、何が正しいとか、誰が正しいとか、そんな判断が消えた、ただあるがままの事実だけがあります。

それはいつも起き続けていて、表面的にどう見えようが何の問題もありません。

それは、ただ起き続けています。


いまも



起きている「これ」と共に生きること・・・それしかないのです。

このことが解っていれば、安心して、愛と喜びの中にいることでしょう。

それが本来の存在の味です。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:28Comments(32)

2016年06月13日

瞑想と思考

瞑想は誰にでもできることです。

「できる」というと行為のように見えますが、行為であれば「できる人」と「できない人」が出てきます。

ところが瞑想とは行為ではなく、自己の本質にくつろいでいる状態です。

本質は全ての人が共有しているものなので、瞑想は誰にでも可能なのです。


あらゆる生物は本質を生きていますが、人間だけがそれを見失ってしまいました。

本質ではない自己感覚(分離感覚)が主人になったからです。

それがマインド(思考)を生みだしています。

あるいはマインドが分離感覚を作っているとも言えます。


マインドがない時、分離は終わっています。

したがって本質(ひとつなるもの・共有しているもの)に戻っている時は、ノーマインド、無心の状態だということになります。

この理屈は有名で、したがって人は瞑想の中で無心を求めるのです。


皮肉なことに、このことが瞑想を難しくしてしまいました。

多くの人が瞑想中に思考を消そうとし、それができないと、「自分は瞑想ができてない」となるのです。

そもそも自分の意志で思考を消すことなどできません。

思考自体が自分の意志ではないからです。


それではどのようにして無心になるのでしょうか。


無心とは思考(マインド・心)が無い状態ではなく、思考との自己同化が無くなっている状態です。


この一点を理解するだけで、瞑想についての認識が変わることでしょう。

いかに多くの人達が、思考を消すことに懸命になっていることか。


瞑想中、身体は消えません。

瞑想中、思考(マインド・心)も消えません。

ただ、これらとの自己同化が消えるのです。


釈迦でさえ、マインドを持っていました。

弟子たちの名前も区別もできましたし、分離した相手に向かって講義も可能でした。

これらはマインドがなければできません。

ただし、彼のような人は、完全にマインドから離れ、マインドを道具のように使っていたのです。


我々は通常、マインドと同化し、マインドに使われています。

苦悩が訪れるのはマインドが主人になって、マインドに振り回されているからです。


身体と心は表裏一体で、心身というひとつのものであり、この世を生きるための乗り物ですが、人間は身体とマインドこそが自分だと思いこんでしまいました。

これが「自分さえよければいい」という発想に繋がり、本質が持つ愛を見失ってしまったのです。



瞑想中、思考を消そうとしないこと。

絶え間なく訪れる思考を、ただそのままにし、流してしまうのがコツです。


普段の生活では思考と同化していて、考えているという自覚もありませんが、瞑想中は思考が湧いていることに気づいていましょう。

その気づきこそが自己同化を壊すのです。


そのとき、思考の内容を判断しないことです。

崇高な思考も下世話な思考も、単なる思考に過ぎません。

ただ流していきます。


するとそれまでマインドに供給していたエネルギーが弱まり、徐々に思考が薄れていきます。

その結果、無思考の状態が訪れることもあります。

でもそれは同化を止めたことの副産物であり、直接作りだせるものではありません。


瞑想とは、ただ在ること。

起きていることをそのまま認めて、いまの中に在ること。


これは人間稼業にとって最高の休息になります。

一日に僅かな時間でも、マインドが作りだす混乱した世界(カオス)から手を引いて、本来の宇宙的秩序(コスモス)に身を委ねましょう。

カオスからコスモスに還るのです。


新刊にも書きましたが、僕は最初のうち自己流で瞑想を始めました。

最近は瞑想ブームがやってきつつあるようで、書籍でも瞑想に関する本が増えてきました。

それらを参考にするのもいいですし、とにかく始めてみましょう。


思考を消さなくてもいいんだということを知っているだけでも、瞑想は容易くなりますよ。

  


Posted by Toshiro Abe at 09:51Comments(51)

2016年06月11日

all about Meditation

Nike瞑想の発足記念イベント、つつがなく終了しました。

来てくれた皆さん、webで参加してくれたみなさん、そして陰からエネルギーを送ってくれたみなさん、ありがとうございました。


今日は動と静の瞑想をしましたが、みなさん、どんな体験だったでしょうか。

どんな体験でも判断せずに、そのまま受け入れてあげてください。


「瞑想」と銘打ったイベントに、こんなに沢山の人たちが詰め掛けてくれて感無量です。

一昔前は会場を借りる時、瞑想という言葉を伝えただけで訝しがられたものです。


瞑想については、まだまだ不正確な情報が氾濫していますが、いまブームの到来を予感していて、これから的を射た情報が次々と世に出てくると思います。

歴史や伝統に偏らず、かといってその本質を見失わない、21世紀を生きる我々にとっての教えが必要だと思っています。


ボチボチ行きましょう。

流れを信頼しています。
  


Posted by Toshiro Abe at 18:56Comments(20)

2016年06月11日

ゴールはスタート地点

いまを生きるって難しいという人もいるけれど、難しいどころか、いまじゃない時を生きる方がずっと難しい。

というより、不可能です。


いまにしかいられない。


試しに、いまから逃れようとしてみてください。


できないでしょ(笑)


いまを生きるのは難しくない。

いましか生きられないから。


それなのに、マインドだけは、あっちこっちに旅をしている。

それを「夢」と呼びます。


いくらマインドが夢の旅を続けても、実際にはあなたはいまにいます。

いま以外にいたことはない。


いまの中に、あなたの実在が鎮座しています。

それは誰でもない人。


それをブッダ(Buddha)と呼びます。



至福は、マインドがどこにも向かっていないときの状態。

それは自分を取り巻いている環境や条件ではありません。


だから仏教では、何も求めないこと、無欲を説くのです。


それを聞くと人は無欲さえも求めます。

マインドは、求めるという性質でできているから求めずにはいられない。


そうやって、自分自身から、いまここから、離れていくのです。


いさぎよく足を止めること。

いまにエネルギーのすべてを向けること。

一瞬さえも先に進まないこと。


するとそこに探していた全てがある。


「な~んだ、最初から全部持っていたじゃないか」


これが、人生のどんでん返し。


ゴールはスタート地点だったのです。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:20Comments(18)

2016年06月09日

日日是大丈夫

この数日間、理由もないのに幸福感に満たされています。

そもそも幸福に理由などないのかもしれません。

不幸なときは理由がありますけど・・・


今日はメッセージが何も出てきません。

「大丈夫だよ」

くらいしか言うこともないし。


大丈夫というのは、現状が良くなっていくから大丈夫という意味ではなく、この現象界がどうであれ、本当の我々はビクともしていないという意味です。

あなたは最初から最後まで救われているよって。

本当は時間が存在しないから最初も最後もないのだけど、わかりやすくそう表現してみました。


そこで今日は、いつか載せようと思って書いておいた宣伝文を載せることにします。


まずは、今月20日に発売される新刊。




わずか数分で心が整う12の瞑想―あなたは心と頭、使いすぎていませんか?


これは日常の中で、短時間でストレスを解消する知恵をいくつかまとめたものです。

すでにブログ等で紹介してきた方法もたくさんありますが、こうして本としてまとめてみると、使いやすくなったと思います。

明後日のNIKE瞑想発足記念イベント(満席)では、発売日前ですがサイン即売会があります。


それと最近また盛り上がってきたというこの一冊・




招き猫カワヒラくんが教えてくれた幸運の流れに乗る生き方「空」にいざなうリラックス瞑想CD付


これは自己啓発を兼ねた一冊です。



さて、遅くなってしまいましたが、6月26日の名古屋講演会の申込受付を開始します。

3時間のイベントで、前半は僕のソロ講演、後半は智子さんとの瞑想ワークを提供します。

束の間ではあるけれど、日常を離れた静寂とくつろぎの世界にご案内しましょう。


お申し込みはコチラから。



それではみなさん、今日も心安らかにお過ごしください。
  


Posted by Toshiro Abe at 10:27Comments(31)

2016年06月07日

ノンデュアリティ(非二元)と瞑想

昨日までの5日間、沖縄瞑想リトリートで心身ともにスッキリです。

階段を上る足取りも軽く、生まれ変わったような爽快感があります。

それは参加者の皆さんも同じで、ストレス社会に暮らす身としては、そこから完全に離れて一定期間過ごすことは、とても有意義な体験だったことと思います。


その中に企業幹部で、年1200時間以上もの時間外労働を繰り返しているTさんという男性がいました。

禅サンガからの参加で、瞑想は初めてだったのですが、このTさん、禅サンガの中でやっていた坐禅も途中で止めてしまったのだそうです。

その理由は、大和田菜穂さんがサットサンで、

「ノンデュアリティは、瞑想、坐禅、ヨガなどのあらゆるプラクティスも修行も、一切関係がありません。

それらをすることで非二元に至ることはありません」

と明言しているからです。


彼女の他にも同じようなことを発言する海外の非二元論者は少なくありません。

そして彼らが言っていることは完全に真実です。



その一方で、空海や白隠など釈迦の流れをくむ覚者、あるいはクリシュナムルティやOSHOなどの非二元論者達は、坐禅や瞑想は唯一大切なものとして位置付けています。


このようなことに矛盾を指摘する声がありますが、どちらも真実です。


講演会では質問があるごとに答えてきましたが、今日は改めてこのことについて書いてみようと思います。



瞑想がいかに大切かについては、すでにこのブログでも繰り返し述べてきているので、今日は、なぜノンデュアリティ―の覚者(実際には自己の不在)が瞑想を否定するかのような発言をするのかについて説明します。


まず、いま僕は「瞑想を否定するかのような発言」と書きましたが、この表現は彼らのメッセージを聞いた多くの人が、そのように受け取るのであえて書きました。

しかし実際には瞑想を否定する発言などしたことがありません。

彼らは何一つ否定しません。

なぜなら、起きていることがすべてであり、それは人間の判断を超えていつも完璧だからです。

したがって彼らは言います

「瞑想だろうが、遊びだろうが、仕事だろうが、修行だろうが、そこになんの違いもない。

ただ起きることが起きているだけで、それ以外は起きようがない」


さらに

「瞑想や坐禅をすることでノンデュアリティに成ろうとしても、そうはならない」

と明言します。


何故でしょう。

そこには揺るぎない真実があります。


まずノンデュアリティは、何かをして成るようなものではないということです。

彼らから見れば、そもそも成る人がいないからです。


しかし人は、自己の存在を確かなものだと考えているので、ある程度まで霊的理解が進むと、その自己が消滅する日(悟り)を待ち望むのです。

最初から無いものが、どうやって消えることができるでしょう。

それらはすべて自己の妄想であり、いつまでたっても「消えたい自己」が残るだけです。


そして決定的なのは、非二元とは「いまここ」のことであるにも関わらず、成ろうとすることで、いまから離れて未来に向かってしまうことです。

したがってあらゆる探究は、「いまここ」の真実に行きつくことはないのです。


それが、大和田さんが、

「瞑想とノンデュアリティは関係ない。してもしなくても同じだ」

と言う言葉の意味です。


しかし彼女たちは同時に

「瞑想が起きていれば、それはそれで完璧だ」

と付け加えることも忘れません。


そんなメッセージを聞いた人の中には、Tさんのように坐禅をしなくなってしまう人もいます。


そのような人の中には、成長するために頑張ってしてきたけれど、してもしなくても同じなら、止めたほうが楽だと思う人もいます。

無理して頑張ってきた人は、やらなくていいお墨付きをもらったみたいな気がするのでしょう。


そもそも坐禅も瞑想も無理して頑張るようなものではなく、むしろ最高のリラクゼーションであり、向禅師に言わせると「スーパー宇宙温泉に浸かっているような気分」ということです。

僕もまったく同感です。

こんなに贅沢な時間はなく、しかも心身に良い影響が与えられるので、長寿を全うする禅僧も少なくありません。


非二元(悟り)と修業には、直接的因果関係はありません。

そもそも非二元は時間を超えた次元(いまここ)にあるので、因果が入り込む余地はないのです。

因果は時間の産物です。

自己の消滅は、彼方から突然やってくることであり、人為的努力の結果ではありません。


とは言うものの、瞑想を通して混乱した思考を静め、地に足を付けて生きることは、彼方からの恩恵を迎え入れる準備としては最高のものだと言えます。

僕はこのことを、よく睡眠に例えます。

睡眠も彼方からやって来るものであり、人為的に作りだすことはできません。

人ができるのは、せいぜい眠りに落ちる準備をすることくらいです。

部屋を暗くし、身を横たえて、静かに目を閉じる。

このことが眠りを誘発することを知っているので、誰もがそのようにします。


瞑想は、それ自体が悟りを作りだすわけではないのですが、起きやすくなるということも否定できません。

だからこそ、世界中の伝統で、長きにわたり瞑想を奨励してきたのです。


釈迦も説くように、究極的な真実(真理)は、非二元しかありません。

このこと以外は、どんなに神秘的で高尚な真実に見えようとも、すべて人間が作りだしたイマジネーションです。

あの世もこの世もありません。

真実から見れば、成長も堕落もありません。

神聖なパワースポットもゴミ捨て場も同じです。


でもこれらのことは、二元に生きる我々が直接理解できることではありません。

自己の存在を疑わない段階においては、これらを鵜呑みにすることは危険でもあります。

それゆえに、究極の真実はごく限られたエソテリシズム(秘教)グループによって踏襲されてきたか、あるいは人々に分かる形で妥協した真実に翻訳して伝えられてきました。


いまや時代が変わり、公に非二元のメッセージが広まろうとしていますが、いまだ徹底したノンデュアリティの存在は極めて少なく、知的に分かった段階の人がスピーカーをしているので、メッセージそのものの純粋性は、広まれば広まるほど劣化していきます。


傲慢な言い方になりますが、僕は僕なりに、これこそが真のメッセンジャーだという人を紹介してきましたし、それはこれからも変わりません。



これが僕の文章表現の限界ですが、できるだけ解りやすく書いてみました。

何かが伝わってくれたら幸いです。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:11Comments(66)

2016年06月05日

瞑想

三日前から沖縄本島の今帰仁村に、NIKE瞑想の合宿に来ています。

これも新しく始まった活動の一環ですが、北海道から沖縄まで集まってくれた大勢の人たちと、ゆったりとした贅沢な時を過ごしています。

何をしていても時間は過ぎ去っていきますが、無時間の世界から見ると、流れているのは時間ではなく、マインドの方だったことに気づきます。

ちょうど、自分が乗っている新幹線が動き出したのに、隣に停車中の電車が動いているように感じるのと同じことが起きているのです。

時間は動いていません。


瞑想とは「いまここ」のことです。


瞑想は行為ではありません。

瞑想は無為と同義語。

行為する者の不在、違う言い方をすれば自我の不在です。

自我とは行為者のこと。

何を言っているのか分かりますか?


行為者の不在において初めて、無時間の世界に入ることができます。

その世界は存在の基盤であり、あらゆるものはその上に生じています。

人が人生と呼ぶものの全ては、その基盤の上に生じては滅している束の間の幻影ですが、幻影のほうが人間にとってリアルなものになってしまったがゆえに、迷いや苦しみが生じています。


救いがあるとしたら、実際に存在するのは基盤だけであり、どんな幻影が現れようと、基盤は一切影響されていないことです。

何をしている時も、どんな時も、我々は基盤と共にあります。

誰一人そこから離れた事はありません。

もちろん、いまもね。


幻影はこれからも続いていきますが、本当の自己はこの基盤そのものだということを完全に知っていれば、何が起きてもうろたえる事はありません。

基盤(本当の自分)は、決して何かに影響されることはありません。


存在の基盤に帰ることを「悟り」とも言いますが、いつかそうなりたいと思ったら見逃します。

なろうとするのはいつも未来であり、基盤はいまここだからです。


我々は何かになる必要はないし、なることなんてできません。

だってすでに、なっているのだから。


もし必要なことがあるとしたら、未来に向かう足を止めて、いまに寛ぐこと。

すでにそうであるところの、基盤に寛ぐこと。

それが瞑想です。
  


Posted by Toshiro Abe at 11:11Comments(32)

2016年06月04日

問題が問題なわけじゃなくて

いま現在、問題を抱えている人はいますか?

それって苦しいですよね。

今日は、そんなあなたに、とっておきの解消方法を紹介しましょう。



ジャジャジャーン!!


早い話、抱えなければいいのです。

「ええっ??、それだけ??」

そうです。

問題が問題なのではなく、問題を抱えることが問題なのですから。


抱えるとはどういうことか。

それは、考え続けるということ。

考えれば問題が解決するような気がしているのでしょう。

だから考えます。

まさか考え続けること自体が、問題を作り出しているなどとは夢にも思わずに。


いま抱えているその問題を、昨日も考えていましたよね。

ちょっと考えるのをやめてみましょう。

すると問題はどこにありますか?

どこにもないことが分かるでしょう。


うまくいっていない事象があれば、適切な対処はするのですが、

「この先どうなってしまうのだろう」

「なんで自分ばかりが・・・」

「あの時こうしていれば」

「あの人さえいなければ・・・」

といった物語が展開しないのです。


怖がらずに、しばらくはそのことを考えるのを止めてみませんか。

考えようと考えまいと、全体はこれからも起きたいように起きていきます。

いままでもそうだったようにね。


しかも皮肉なことに、問題にしがみついている間、その問題は膠着状態にありますが、手放してみるといつの間にか流れて消えていたりします。

そんな経験もあるのではないですか?


すべては全体の戯れ。

大丈夫だよ、何とかなるから。


・・・・・


こんなことをブログに書き出して早10年。

雲 黒斎と阿部敏郎のブログ10周年感謝祭は、先着200名様です。

お申し込みはコチラから。 満席につきお申し込みを終了しました  


Posted by Toshiro Abe at 09:58Comments(29)

2016年06月02日

雲黒斎&阿部敏郎 ブログ十周年 ファン感謝祭

10年ひと昔と言うけれど、この10年は濃かったなァ(^^)

偶然同じ時期に、同じメッセージを伝え始めた2人。

しかも北海道と沖縄に在住する2人だった。


それまでは、この手のメッセーを発信しているブログがなかったので、最初に黒斎君を発見した時は驚きだった。


いた。

やっぱりいた。

自分と同じ志の人がここにいた。

それまでにも様々なシーンでメッセージを伝えてきたけれど、理解してくれたのは向禅師だけだったから、このときの喜びは忘れられない。

たった10年前なのに、いま時代は変わったというのが実感だ。


さて、いろんなことがあった10年だったけれど、僕たちからみなさんへの感謝の気持ちをお伝えするために、ささやかな感謝祭を催すことにしました。

初めてのファン感謝祭。

いつもの阿雲の呼吸に加え、OFFの2人の姿や、初公開のプロフェショナル動画、ゲームや賞品などもご用意しています。


しかも、参加者にはもれなく、この日しか手に入らない阿雲の呼吸からの秘本を差し上げます。

もれなくです!!!(^^)




クリックすると拡大


6月19日(日)

両国KFC2ndホール

14:00~17:00

入場料 2000円。


お申し込みは6月4日(土)午前10時からです。
  


Posted by Toshiro Abe at 09:59Comments(22)