2008年03月11日

7層の体

7層の体

インドでは古来から、人間の体は7つの層にわたって存在しているという考えを持ってきました。

これは以前にも少し説明しましたが、肉体はその中でも一番下にある層で、僕たちは普段は肉体と自分を同一視して生きています。


大ざっぱにいえば、次のエーテル体、アストラル体、メンタル体までは「個」としての感覚を持っていますが、5番目(スピリチュアル体)以上の体からは「全体意識」に所属しています。


これからの時代は、一般の我々が、5番目(スピリチュアル体)以上の自分を知ることを求められていると思います。

一人ひとりが全体意識を認識することが、自我を超えた世界の建設に必要だからです。



そのためには最低でも4番目の体(メンタル体)を経験しなければなりません。

ひとつ下位の体にならなければ、次の体を認識できないからです。



そのための方法としては、瞑想によって自分の中に深く入っていくしかありません。




自分を覗き込んでいくと、まず最初に目にするのは感情の層です。

「好き・嫌い」「愛・憎」などはその代表です。

これはエーテル体の特質です。



ここで大切なのは、その体の状態を評価したり判断したりせずに、ありのままに受け入れることです。


というのも、僕たちは愛をひきつけ、憎しみを遠ざけようとするので、このエーテル体の中には、混沌とした怒りや憎しみが抑圧されたまま渦巻いているのです。


それがストレスを生み、さらに悪化すれば鬱状態に発展します。

鬱病とはエーテル体の病だと思います。



下位の4つの体は、両極性で成り立っているので、エーテル体では、愛は憎しみに、好きは嫌いに変化する宿命にあります。


愛している人(家族や友人)を憎みだすと、自分を責めたり、その感情から目をそらしたりしますが、そのような感情の変化は自然な状態なのです。


その憎しみも抵抗しなければ、やがて再び愛情に変わっていきます。



あるがままの感情を受け入れてあげれば、身体の健康にもいいですし、簡単に次の層に行き着くことができます。




次はアストラル体です。


ここでは様々な願望や欲望が渦巻いています。

僕たちはいつも、「今ではない何かになりたい」という欲求を持っています。



あれが欲しい、これが欲しい、もっとこうなりたい、今のままではダメだ。



人間はとても複雑なので、欲望を持ちながら同時にそれを否定しています。


その欲望を100%純粋に受け入れて行動していれば、たいていのことは実現しているでしょう。


しかし僕たちは社会的な生き物で、他者の目を気にして生きています。

欲求と心のブレーキという葛藤が、この身体を不自然に歪めているのです。



瞑想によって、そんな自分の内面をあるがままに見つめ、判断したり評価したりせずに、欲望や欲求をそのまま受け入れてあげることが大切です。


そうやってアストラル体の緊張をといてあげると、心の底から自分がリフレッシュした気持ちになることでしょう。




その時、メンタル体(4番目の体)がありのままに見えてきます。





今日はここまでにしておきますね。

何か思い当たることはありましたか。




瞑想の習慣は何より大切なもので、段階を踏んで自分の奥深く入って行った時、昨日お話ししたような宇宙意識さえも感知できるようになります。






今日もここに来てくれてありがとうございました。







多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。

7層の体   7層の体



Posted by Toshiro Abe at 09:51│Comments(6)
この記事へのコメント
阿部さんこんばんは☆

とても勉強になります☆

お忙しい中いつも更新して頂き本当にありがとうございます☆
Posted by ヴィーナス at 2008年03月11日 19:27
すごい! いつも勉強させて頂いてます。
阿部さん、いつもためになるメッセージありがとうございますm(_ _)m
自分なりに瞑想を日々の習慣にしていきたいと思います。
Posted by taka at 2008年03月11日 19:38
阿部さん、いつもありがとうございます。

メンタル→スピリチュアル→お次は何だべか?

とても明日が楽しみです~♪

しっかし、朝青龍はメンタル体!?強いっすね~~~(@@;
Posted by ルン♪ at 2008年03月11日 23:32
 すみません、阿部さん。
 時期外れのコメントよろしいですか(>_<)?

 「なんのために生きているのか?」の先日の問いかけに
 私は、「空っぽになるため」とコメントしました。
 あの答えにはわたしなりの続きがあって、
 やっと文字にできそうなので、コメントさせてください。

 与えて、与えて、惜しみなく与えて空っぽになる。
 そして、そこに残るもの、あるいはそこに最初からあって、
 その時はじめて気付くものが「愛」なのではないかと。

 家族(または愛するもの)を守りたい、不幸事が起こってほしくない、
 死んでほしくない(死んだら悲しい)、というような感情は自我から発生し、
 悟りや見性とは対極にあるものなのか、と悩みました(ちょっとですけど)。
 しかし、「愛する対象」と思っていた、家族(愛するもの)は実は
 「愛そのもの」なのではないかと、思ったわけです。

 だから、守りたくもなる、というか、失うのが怖くもなる、というか。
 でも、だからこそ、失うことはないなと、感じました。
 守る必要もない。
 ただ「受け入れる」だけ。

 やっと、阿部さんのファンっぽくなってきましたね。ふぅ(._.)
 御静読ありがとうございました。

 P.S.最近出会った、良いだろうとおもわれる言葉を紹介します。

「自分の持つ思想に価値があるのであって、自分に価値があるわけではない」
 謙虚さにかける私に、戒めの言葉です。

 
  
 
Posted by うずまき at 2008年03月12日 01:44
思いあたるふし、おもいっきりありましたf(^_^;

でもそれは
「自分自身を知り、天からの無条件の愛をわかちあい、調和する」ことを知るための、第一歩だったのですね(^-^)v

阿部さん、出会ってくれて本当に本当にありがとうm(__)m

この素晴らしいゲームを信頼して楽しんでいけそうで〜す(~o~)ワクワク〜♪
Posted by ターコイズブルー at 2008年03月15日 00:39
こちらは、深い心境に入る
お手伝いをして頂ける、貴重なブログと思います助かります。
Posted by abc at 2008年03月19日 05:19
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