2016年03月31日

至高体験と呼ばれるもの

今日は匿名でさんからの質問


>いまだに疑問なことがあります。

>覚醒体験をした人の多くが「とてつもなく眩しい光に包まれ」とか、「至福状態」とか「恍惚状態」になるとか表現します。

>このような体験は普通の日常では体験できないものであり、未体験者にとってはとっても素晴らしいく気持ちの良い状態なのではないか?とその状態を目指したいと煽られます。

>阿部さんも上記のように表現されていましたが、どうしてこれを「普通のありふれたこと」というのでしょうか?



至高体験は何の前触れもなく突然訪れます。

言葉では表現できない至福感に圧倒され、時間と空間のない光の中で、すべてが一つであったことが顕になります。

人生で大切にしてきた宝物が、ゴミにみえるくらいの圧倒的な体験です。


このような体験は生涯一度きりです。

なぜならこの瞬間に起きたことは、それまで凝縮していた意識が、瞬時にして宇宙大に広がったときの感覚だからです。

それまでの凝縮が強ければ強いほど、その瞬間の開放感は激しい快感となります。

このような瞬間をひとたび味わうと、また同じ体験を求めて旅が始まりやすいのですが、同じ体験は二度と起きません。

なぜなら、すでに一度拡散したエネルギーはもとには戻らないからです。


その宇宙的感覚は、本来の存在の地平であり、誰をも生かしている「普通のありふれたこと」です。

覚醒体験者が報告する至高体験は、普通のありふれたことに帰る瞬間の体験であり、その後はずっと普通のありふれたことの中にいます。

至高体験を求めて修行する人がいますが、そのような体験がなくても、少しずつ凝縮が溶かれていくケースもあり、真理に至るために必ずしも必要なことではありません。


至高体験を悟りの証明にすることもできません。

反対にこのような体験は、記憶として所有され、自分を飾る新しい勲章になってしまいがちです。

これを精神の物質主義と呼びます。


このような体験を求めれば真実から遠ざかります。

本来は誰もが同じ地平にいますし、それ以外であったことはないし、変えなくてはいけないことも、達成すべきこともないのです。

すべての探求が終わったとき、あなたが「普通のありふれたこと」と呼ぶ、あるがままの「これ」があります。


まさにいま生活で、目の前のすべてが「これ」なのです。

「これ」しか存在していません。

その中には、あなたの思考や感情や感覚も含まれています。

そして見えるもの、聞こえる音、そのすべてが「これ」です。


「これ」を完全に受け入れ、「これ」と一つになれば、それが探し求めていた全てです。


その後も人生は続いていきます。


無条件の愛を表現し、おだやかな微笑みを浮かべ、静かに生きるなどとは思わないでください。

エゴを克服し、超能力を発揮し、高次元のパワーを手に入れるなんて思わないでください。


何も変わりません。

いままでどおり、あるがままにあるだけです。


ひとつだけ違いを語るとすれば、深刻さが消えていること。

気楽さの中にいるということでしょうか。


なにかに成ろうとせず、いまある「これ」に寛ぐ。

ドラマチック性に欠けて面白くないように見えますが、ここにしか真実はありません。


おかえり♪



Posted by Toshiro Abe at 09:37│Comments(67)
この記事へのコメント
あ、そういうことか〜笑
今回の記事はなんか凄く分かりやすかったです笑
Posted by 名前思いつかない at 2016年03月31日 09:48
ただ い ま~
Posted by AYAKO at 2016年03月31日 09:51
ただいま〜!!

思い込みの自分、いっぱい仮面と鎧で身につけてきたけど

少しずつ、さようならしている今日この頃です!

出てこいシャジャーン
アパラパー アイアイサー!
Posted by ルシファー at 2016年03月31日 09:53
眩しい光に包まれたという体験を語る人はたくさんいますが、

瞳孔が急に開いて眩しい光に包まれるような体験をしたと語る人は聞いたことがありません。

ただの出来事を価値のある出来事として持ち歩きたいのが自我や思考の一側面なんでしょうか。
Posted by 朝からビール at 2016年03月31日 09:58
私は「『真理の一瞥』が自分にあるかもしれないし、ないかもしれない
あればあったでいいし、ないならそのままでいい」
と思い、コメント欄にもそんな意味のことを記した記憶があります。

「まだ」ナントカな自分、「もう」ナントカな自分、どっちも「ない」し「同じ」なんだと思うからです。
自分がびろーんと宇宙大に、いや「自分」じゃなく「宇宙」になる瞬間、あればいいけど、なくても同じだからイイや。

こんなん私でいいのかダメなのか、って思うこともなくなり、目の前瞬間瞬間になりきって今日も生きていますよ~♪
Posted by 南部鉄瓶 at 2016年03月31日 10:05
今日の気づき

何かを記憶するなら

あるいは

そもそも

記憶する
 私を記憶するなら

努力が必要になる

アイデンティティーを維持するには努力は必要なのだ

しかし

今のために努力はいらない

今がじぶんだとしたら

なんの努力もいらない
Posted by なう at 2016年03月31日 10:26
ハートに一気にエネルギーが集中し

ハートが一気に大きく広がると

劇的な解放体験になります。


ハートに徐々にエネルギーが集中し

ハートが徐々に大きく広がると

穏やかな解放体験になります。


ハートが大きく広がると

ハートが明るく輝き

小さな子供の頃のような至福の感覚がよみがえってきます。

(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年03月31日 10:30
ただいま♪
今日の記事で納得です。これまでも阿部さんのおっしゃることは本当のことだという気配に満ちておりましたが、今日の記事も含めておっしゃることがずうっと一貫してるので、やっぱりそうなのかぁ..とふにおちました。特にきれいなことも、耳障りのよいことも、大袈裟なことも言わず、ありのままを伝えてくださって、ホントに感謝です(^-^)
Posted by Ally at 2016年03月31日 10:35
気がつくと、
これはいいけど、
あれはイヤ、
散らかったこの部屋はダメ、
この美味しいお菓子はOK、
ルンルン気分はいいけど、
落ち込んでる気分は受け取りたくない、
どうしてこんな事になっちゃったんだろう?
こうなればよかったのに、
・・・・・
全く瞬時に、
あーだこーだと
区別しているわ‼︎私(; ̄ェ ̄)

という事はわかりました。
Posted by yukarin at 2016年03月31日 10:48
まさに今の生活で、
目の前のすべてがこれ

はい。

今日の表現は、
とてもしっくりきました。
ありがとうございます。
Posted by yukarin at 2016年03月31日 11:02
なんかウケるーー ^o^ いま 風 ^o^
Posted by mm at 2016年03月31日 11:03
〉言葉では表現できない至福感

〉「これ」しか存在していません。

〉その中には、あなたの思考や感情や感覚も含まれています。

そうでしたね❤

ただいま~(*^^*)
Posted by 優しい太陽 at 2016年03月31日 11:08
「光の中に包まれる」や「恍惚」と表現される「至高体験」は何度でも体験できます。例えばタントラならば同じ至高体験が何度でも可能です。
私はマントラ瞑想の経験がないので それについてはわかりません。
「二度と起きない体験」の条件は「憧れる余地が無いモノ(事実)」です。
私の言葉で表現すると「無という唯一」の体験は二度と起きない。
その体験は「認識するモノが存在しなかった」から。
その体験は「その事後」認識者である「私の再誕」において認識されます。
「最中」では無く「事後」なので「体験そのもの」に対して憧れる事が、どうやっても出来ません。
この「憧れようにも憧れられない(不立文字)」は「同じ体験」が起きれない。
起きる余地の無さにおいて「起きない」。
憧れる余地の無い事が事実(真実)だから。
憧れられる時点で、私達は夢の世界でそれを認識する事は可能です。
「もう一度体験したいと憧れる体験」は何度でも起きる可能性を否定できません。
その「体験の認識」はどうあれ「事実(真実)ではないから」。
すみません。反論でなく表現の違いと思っていただければ幸いです。
Posted by ○○ at 2016年03月31日 11:17
わしゃ何と言われようともう1回あの体験がしたいざんすヽ(´o`;笑
Posted by 匿名で at 2016年03月31日 11:20
私の知識の範囲内ですが、見性体験は大別すると3パターンあります。
例えると、

1.風船が突然パーンッ!と一気に弾けるパターン
2.風船から空気が抜けて徐々に萎んでいくパターン
3.風船の口が開いて空気がかなり抜けるけど、空気はまだ残っててそこからは徐々に抜けていくパターン

書物や伝説などで注目を浴びやすいのは1のパターンで一気に悟りに至る。
釈迦やキリストはこのパターンなのかもしれませんが、滅多に起こることではないという気がします。

2のパターンは、少しづつ自我が消えていくのでしょうから、自我に意識改革が起こったとの理解に至るのかもしれません。

3のパターンは結構多い気がします。私も敢えてこれに相当する体験の記憶はあります。
光に包まれるとか美しい体験ではなく、夜寝ていたら突然虚無に放り込まれ(?)ました。
何も見えないし聞こえない、体の感覚も無い。虚無への恐怖心みたいな感情も起こらない。思考も起こらない。
何も無いけれどもハッキリと意識だけが存在する。
その時、『私』とは本質的に無ではあるけれども意識としても在り、全てが意識(気付き)の中で起こっていることを突然理解します。

この体験の後が大変でした。悟後の修行という例のやつです。
突然至った私の本質的な理解と矛盾して存在し続ける『私意識』
すなわち自我(概念/常識/思い込み/感情/体感覚)が多く残っていることで苦しみます。
少しづつ気付きが増え、『諸行無常』、『一切皆苦』、『色即是空 空即是色』などの格言が腹堕ちすることで気楽にはなりました。

でも空気はまだ残っています。
風船内の空気が抜けた状態なら物資的に証明できますが、悟後の修行はどんな状態になれば終焉なのかは説明と証明は不可能です。
そして、悟後の修行すらも目標や目的とすることは無意味であることに気付きます。

見性体験が無いから私は悟れない ということではないんですね。
見性体験を素晴らしい体験と想像しそれを掲げ、いつか自分にも訪れることを願って待ち続ける(追い続ける)から逃げるのです。

追ったら必ず逃げる蜃気楼みたいなものですから、追わずに立ち止まれば良いということですよ?
蜃気楼を追えば迷子になりますのでそれとも同じです。
追わないとは、ただ静かにいまここに在り続けること。
見えること、聞こえること、感じること、思い浮かぶことをただ気付いている状態に止まる時間を増やすことも一つの方法かと思います。
それが禅や瞑想です。

私は歩行禅が好きで今現在もやっています。
座禅や瞑想は起こることが少な過ぎて飽きるんですよね(苦笑)
何も考えずひたすら歩くだけ。
足裏の感覚、頬に当たる風、鳥の鳴き声、太陽の光、川の流れる音が現れては消えることにただ気付いているだけで目的地もなくただ歩く。
関東も桜が満開。週末歩くのが楽しみです。

えっ? ボーッと歩いていると交通事故に会うから危険じゃないかって?
大丈夫です。
起こることは起こるし、起こらないことは起こりませんから(笑)
Posted by 模察 at 2016年03月31日 11:25
阿部さんの表現する「少しずつ凝縮が溶かれていくケース」、または模察さんの表現する「2.風船から空気が抜けて徐々に萎んでいくパターン」を、実際に体験した人のエピソードが聞いてみたいです。

私はこのパターンかもと思ってるけど、イマイチよく分からない。。。
Posted by ららら~ at 2016年03月31日 11:36
求めて求めて求めて求めて
そして徹底的にあきらめた時
そこに平安があった

深刻さもなく

ただいま
Posted by ふわ at 2016年03月31日 11:51
ただいま!
Posted by 酸素 at 2016年03月31日 12:13
ただいま!
Posted by 酸素 at 2016年03月31日 12:13
とっても深刻な怒り…悲しみ…であれば
それを払いのけようとはせずに

その深刻な怒り…悲しみ…と共に
この瞬間に存在することが大切だと思います

そうして

その怒り…悲しみ…が味わわれ充分に経験されたなら
自然に消えて行くことでしょう

しかし

軽い怒り…悲しみ…なら
想念の中にどっぷりとはまり込んでいたなと気づいたら
すぐに今目の前に在るものと共にこの瞬間に存在する
ようにすることが大切ですよね



自分が存在していることは幻…なのですが

想念の中にどっぷりとはまり込んでいると
幻であっても考えている自分が存在することになり
自分と世界に分離してしまう

なので

今目の前に在るものと共にこの瞬間に存在することって
大切ですよね

完全にこの瞬間に存在している時には
自分が存在しているという思いも消えていて
自分と世界という分離も消えている


全体が在るだけ…


ブッダ☆ブッダ☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年03月31日 12:13
これらの言葉を信じないことですね



誰かの言葉じゃないし

ただ、わいてきているだけのものです

言葉はすべて観念
Posted by めだ at 2016年03月31日 12:14
”至高体験は一度しか起きない…”何でそう言い切れれるんですか?
こういうものは人の数だけ、受け取り方、理解は違うと思いますが…
”一度拡散したエネルギーは二度と戻らない”なんのことだか私にはサッパリ分からん…エネルギーは絶えず変転するものだと思ってました…
Posted by シタテルヒコ at 2016年03月31日 12:31
”至高体験は一度しか起きない…”何でそう言い切れれるんですか?
こういうものは人の数だけ、受け取り方、理解は違うと思いますが…
”一度拡散したエネルギーは二度と戻らない”なんのことだか私にはサッパリ分からん…エネルギーは絶えず変転するものだと思ってました…
Posted by シタテルヒコ at 2016年03月31日 12:31
”至高体験は一度しか起きない…”何でそう言い切れれるんですか?
こういうものは人の数だけ、受け取り方、理解は違うと思いますが…
”一度拡散したエネルギーは二度と戻らない”なんのことだか私にはサッパリ分からん…エネルギーは絶えず変転するものだと思ってました…
Posted by シタテルヒコ at 2016年03月31日 12:31
よくわかります。
きっとおっしゃりたい事はそれ以上至高体験を求めるなという事なのでしょう。
私自身ももう一度同じ体験を求めて修行を続けた経験がございます。
精神の物質主義、心に深く刻ませていただきます。
Posted by 求道者 at 2016年03月31日 12:43
阿部さん

大変丁寧な解説を本当にありがとうございます!

昨日は眠い中、簡潔に書き込んだので言葉足らずで失礼しました(汗)
心ない茶化しコメントに若干傷つきましたが、それも阿部さんの日頃のメッセージで切り抜けられました。

阿部さんに共感してるんだけど、でも素晴らしい体験談を聞くと、劣等感を感じていました。これは私が持ってるものでしたね^_^

ありがとう!!
Posted by 昨日は匿名より at 2016年03月31日 13:26
『「>無条件の愛を表現し、おだやかな微笑みを浮かべ、静かに生きるなどとは思わないでください。

>エゴを克服し、超能力を発揮し、高次元のパワーを手に入れるなんて思わないでください。

こういうのって、起こる時は起こるし、起こらないなら起こりませんもんね。
目標にするのもいいですけど、そうなれずに苦しむくらいなら、拘らない方が幸せですよね。」

・・・と「」内に書いた事も、こう書いてる自分がただ起こってきただけであって、
目標にしたいならすればいいし、したくないならしなくていいんですよね。』

・・・と『』内に書いた事も(以下無限に続く?)

ほんと、言葉って、罠ですよねぇ・・・・・
言葉に拘らず、言葉を読んだその時に起こった、その起こったたった今の感覚に従うのがいいと思いますね。

常に、その起こったたった今の感覚でOKと思える事。
こう書いてる自分の場合、それだけで満足です。
Posted by ただの「自分」 at 2016年03月31日 13:30
模察さん
甲賀忍者さん
参考になります。
ありがとうございます。
Posted by 尚 at 2016年03月31日 13:46
模察さんへ

こういう場を「やりとり」に使うのって向いてないんですが
(「やりとり」する行為やする人を否定するつもりは毛頭ないです。)

「これは模察さんかも」と思って最後まで読んだら模察さんでした。
うれしかった♪
Posted by 南部鉄瓶 at 2016年03月31日 14:37
☆、わたしの場合、一回切りの体験と言えば、、

二十代の頃に、亡き恩人の安否を確かめる為に、人の死後の意識の在るや否やを、探究していましたとき、、

実の家族の接し方より、職場の店長の家族ぐるみの優しさが、身に染みて、食わず嫌いは、いかんと、ある宗教団体に入ったのですが、

入って、最初の会合の時に、見させられた、再現映画に影響されたのか、

月・日もそう経たないうちに、一人暮らしの部屋で、

教わった“お経”をいつものように、自分という意識の回帰や、帰命のつもりで、唱えていますと、

何だか、妙に周りが暖かく、今まで味わったこともないような安心感が漂って来て、

何だこれは?と、なり、その時に、入って来た情報は、、

“視覚的には、色々なものがまだ識別出来る”んですが、、

◇あらゆるもの、すべてが一緒で、敵対していなくて、隔たり感が無くて、わたしも、それに溶けていて(同化していて)、

全部が、、全部の顕れが、この唱えているお経と同じ・妙法蓮華経なんだ!「経なんだ!」という、、

認識というより、「印象?」を感じさせられた時間?を、過ごしました。(^^;)


☆、それは、一度切りで、それ以降は、あれほど安心で、暖かい、実感(印象)を、味わったことは、、

今を持ってしても、ありませんね。

◎問答無用の「安心感&満たされ感」みたいな、表現で、表せばいいのかなぁ。。
Posted by y-be at 2016年03月31日 15:50
阿部さん!
じゅ、熟女と聞いて飛んできました!
(ひと足遅かった? ふた足ぐらい?)

では…
「熟女とかけまして

 甲子園球児→横綱→夏目漱石ととく

 そのこころは…」

み~んな年下ではないかい!(享年含む)

世間でいう熟女って、
年下の可愛い子ちゃんみたいなものですよね、阿部さん?

ね?

うふ。
Posted by おでん具 at 2016年03月31日 17:02
尚さん


毎瞬毎瞬…

新しい存在と共に
この瞬間に存在していることを分かち合う喜び!


無限ですよね


ワンネス☆ワンネス☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年03月31日 17:46
光に包まれた〜とか、そういう体験はありませんでした。

自分というエネルギーが解体し始めた時も、気づきの延長線といった感覚で気づきが起こったという感じでした。

人によってそれぞれのユニークな道がある、ということかと思います。


出てきたものはいつも100%
Posted by 薄茶色 at 2016年03月31日 18:24
悟り、至高体験、正直憧れますが、そういう気持ちが起こっているんですね。
今日の阿部さんのブログを読んで、私の『特別な体験がなければいけない』という、固定観念のカギがひとつ、外れた気がします。

最近は、起きていることへの抵抗が減ってきました。
例えば、花粉の時期で、目がかゆくなったり、涙や鼻水が出ますが、自然にそういうことが起こっていて、花粉症になったら嫌だとかなくて、その状態をそのままに受け取る感覚があります。
今だけに注目しているとき、私のものなんて何もなくて、普段私のものと思ってる物なにひとつ所有できていないと感じます。
私が何かの役割のようであるとき、全体とその役割の繋がりが感じられます。

特別な体験もないままに、そのものである感覚を信じて、今感じられることの全てとして過ごすことに、チャレンジしてみたいと思いました。
阿部さん、いつも気付きをありがとうございます。ただいま!
Posted by とらねこ at 2016年03月31日 18:38
分離はなくて 全部ひとつって エネルギー的に気づいたら、
そりゃあ気楽になるよね、って 今 おもいました。

でもって、全部ひとつの一部分である、私が、”私でいていい” こと、
これがもう たまらないです 最近。
Posted by 薄茶色 at 2016年03月31日 18:41
 
 
 
「 お題目 」


   日蓮 Hz

 
   南無妙法蓮華経
 
 
 
 
 
 
 
 
一瞥の報告ありがとうございます♪
(^^)
Posted by 愛ラ-Happyホテル- at 2016年03月31日 18:48
少しずつ、少しずつウロコボウロという感じでしょうか、、、

まだまだ道の途中なんでしょうね。

時々深刻になるし、後悔したり、先の心配をしたり。
Posted by すかぴおさ at 2016年03月31日 19:00
模察さん

ありがとうございます
Posted by 昨日は匿名より at 2016年03月31日 19:04
シタテルヒコさん。

でわ、他者催眠はいかがでしょうか。

キテマス キテマス ホレホレ ヘ(▼▼;)ナハ  <ミスターマリック>
Posted by 茶呆♪ at 2016年03月31日 19:06
>・・・と『』内に書いた事も(以下無限に続く?)

ただの「自分」さん、いい仕事されてますねぇー (^m^)ゞピッ
運命というもの自体が思考の産物であり、そのような延々とする考え方が単にいま起こってるだけかもですね。
非二元という無時空間(カラッポ)には運命(ストーリー)はなく、二元という時空間にだけ運命(原因→縁→果)が有るんかもです。
まぁ僕の駄弁りもまたストーリー(例え話)ですけどね・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヒロシです(u_u;)
Posted by 茶呆♪ at 2016年03月31日 19:13
20年以上前に体験した一瞥体験を思い出しますが、確かに二度と起こりませんでしたね~(笑)
一度一気に山頂をヘリコプターで体験した後に、再び麓から歩いて登頂するような感じの人生ですね~~。

まさに、四苦八苦です!^^
Posted by 近藤 at 2016年03月31日 19:41
でも結局は目覚めや解放は自分ではどうにもならないことだから、
願おうが望もうが無駄なことなんですよね?

いくらがんばって修行しようが瞑想しようが無意味なんですよね?

「私」ががんばってできることじゃないというのなら
<運の善し悪し>ということですよね?
「そういうもの」に遭遇するのは
Posted by 名無し at 2016年03月31日 20:23
何年か前に一瞥体験はしましたね。模察さんのあげて下さった例で言えば、②か③にあたるのかな。悟後が大変だったから。
若くて、二十代の中頃で、阿部さんのブログにも出会ったばかり。真理のこととか全然分かってなくて。でも苦しみは病気のせいか一丁前で。あの時は悟りの一瞥とは思わずに、神様が病気の苦しみから一時解き放ってくれたんだって、すごく感謝したなあ。あれから内面の変化はめまぐるしかった。未だにちょっとした気づきはちょこちょこあるから、宇宙の片隅はまだ凝縮しているのかも。
こうしたことを書き込める場をありがとうございます。阿部さん。
Posted by 高橋 at 2016年03月31日 21:00
同じ体験は二度と起こらないんですね!

同じ体験を求める旅に出かけようとしていました。
いや、もう旅の途中だったかもです。

今日の記事で、引き返す事にしました。
ただいま。

ところで、一瞥を体験した後のいわゆる悟後の修行とはどういったものなんでしょう?
この質問自体、「これ」を見失ってる証拠?(笑)

またどこかに行こうとしちゃってます?

とりあえず、
起きてること全てを(思考も行動も)信頼して、全体に委ねることにします。
Posted by マジか… at 2016年03月31日 21:14
わかっているのに、ついまたどこかへ行こうとして・・ああ、ない・・と何回目?(笑)
で、わかったのは、人間でいる以上、その繰り返し~~もうこれでいいんじゃ~~って、人間止めるまで気楽に繰り返していきます(笑)
Posted by ちこ at 2016年03月31日 21:32
名無しさん、よく聞いてくれました(^m^)プッ
運命だと諦めるのはエゴ(思考)であり、諦めた時点で運命と化す分けでしょう。

例えばですね、我々が試験を受けるとします。
このとき我々はどうせ結果は分ってるんだからって、白紙で出しますか?
未だ結果が分らないのに、その前に既に諦めるでしょうか?
そこで諦めれば、確かに落第となる運命が待ち受けています(笑)

けど実際はその様な考えなどどうでもよくて、無我夢中で問題に取り組むことでしょう。
これが正にこの世の仕組みであり、我々人間のあるがままの姿なんだと思います。
だから運命がどうとかと叫ぶのは、単なる思考(妄想)の成す業であれば、運命などと諦めないのが正解でしょう。

「できる」と思えば出来るかも知れない分けです。
何故なら、「因縁果」で一つの運命場(グループ、シンクロニシティ)だからです。
二元のこの世では、このどれか一つ掛けても運命とはならない分けです。
「できる」と思えているなら、それは「できる」という運命にあるからでしょう。
そうでなければ、「できる」なんて考えない筈です。
まぁでも、根拠なくも、どれだけ深く確信があるかの問題もありますが。
Posted by 茶呆♪ at 2016年03月31日 21:46
無我夢中
Posted by 愛ラ-Happyホテル- at 2016年03月31日 21:50
そして、完全な確信というのは、我々がこうして動けるのは動けると確信してるからであり、これが完全なる確信だと思う分けですハイ。
Posted by 茶呆♪ at 2016年03月31日 21:51
茶呆さん、どうもです。

そういうのも含めて全てが、自ずから分かれた自分自身だとも思いますけどね。
この体の中しか知りませんが。

起こり続ける自分たちを認識し続けていると認識している・・・どんだけ?・・・
・・・と認識する元の「これ」だか「それ」だか「奴」だかあるとして、
それこそが至高体験であり、だから、「私なんて居ない」として。

とりあえず思うのは、それ以前に、気のせいかもとすら思う、ちょっとした気分の良さとか、
そういうの皆さん、軽んじていませんかと。馬鹿にしてませんかと。

ほんのちょっとの自己満足の気分の良さとかなら、どんな状況でも、
「たった今」感じられますし、それでいいと思います。
Posted by ただの「自分」 at 2016年03月31日 21:56
茶呆さん、どうもです。

そういうのも含めて全てが、自ずから分かれた自分自身だとも思いますけどね。
この体の中しか知りませんが。

起こり続ける自分たちを認識し続けていると認識している・・・どんだけ?・・・
・・・と認識する元の「これ」だか「それ」だか「奴」だかあるとして、
それこそが至高体験であり、だから、「私なんて居ない」として。

とりあえず思うのは、それ以前に、気のせいかもとすら思う、ちょっとした気分の良さとか、
そういうの皆さん、軽んじていませんかと。馬鹿にしてませんかと。

ほんのちょっとの自己満足の気分の良さとかなら、どんな状況でも、
「たった今」感じられますし、それでいいと思います。
Posted by ただの「自分」 at 2016年03月31日 21:57
手抜きしてスマホから投稿したら、一回しか「書込」をクリックしてないのに、
2分以上かかった挙句、2回書き込まれてしまいました。
タイムアウトで複数回書き込まれてしまう事ってあるのでしょうか?

時々5回とか書き込まれてしまっている人が不思議でしたが、
べつに何度も「書込」をクリックしている訳でもないかもしれませんね。
Posted by ただの「自分」 at 2016年03月31日 22:02
毎回そういう話をされる方達が、どこか恍惚として同じ話を繰り返しするのを聞くたび、自分も精進しなきゃいけないの?(でも精進するものではないような…)とモヤモヤしてました。
とてもシンプルな解答、有難うごさいます。
Posted by ぼん at 2016年03月31日 22:14
あっ、やっぱり、分かりますよね?「愛ラ-+α?」さん、(^.^)

人生で、本格的な、探求の始まりでしたね。

彼らは基本的に(すべての人ではないですが)、死後の世界なんて、興味を持ちませんでしたし、

死んだら、この(「我」と表現していました。)が溶けて無くなると、教えられていた?せいもあるのか?

主に、物質社会での繁栄や成功を求めていたり、社会での、同志を増やすことを念頭においておりましたので、、

☆わたしの心配事に答えられる人が居なくて、、

よく場違いな事を質問したり、掟破りの、対立していた他宗門へ単身乗り込んで、真意を確かめたり、と、

困らせてしまいましたが、その体をはっての真剣さが、功を奏したのか、最終的には、理解して頂き、気持ち良く、宗教上の“任”を解いて下さりました。

中には、精神的な方面での、幸せに満足しておられる方たちも、いました。


あと、辞めるキッカケとなった出来事があったのですが、

入信して、10年以上たっても、亡き恩人の安否が分からず、苦しんでいましたので、

一ヶ月間、好きなものを絶ったり、習慣になっていたテレビを、絶対に点けないで、

日に3000回~10000回くらいまで、題目をあげていたのですが、、

ちょうど、1ヶ月目くらいのときに、

「もし、彼女がどこかで、寂しい思いや、辛い思いをしているのなら、わたしは、永遠に無くなっても構いませんから、どうか、わたしの命と引き換えに、彼女を幸せにしてあげて下さい!」と、

毎日、念じていたのですが、、

感極まって、いつもより、強く念じながら、唱えていますと、後ろに気配を感じ、振り返りますと、

◎何とぉー・・・

☆★彼女が、わたしの後ろに座って、手を合わせて、わたしと一緒に題目を唱えていたではないですか、(?_?)

その姿か?幻?が、確認出来たあと、溜め込んでいた叶わぬ願いの
苦しみが、一挙に吐露して、泣き叫んでしまいましたが、、

不思議な?体験でした。。


何?誰も、聞いてない?(^^;)


脱○線して、申し訳ありませんです。

でも、“わたし”の立場に取りましては、これ以上の『至高★体験』は、ありません。_(_ _)_
Posted by y-be at 2016年03月31日 22:16
>ほんのちょっとの自己満足の気分の良さとかなら、どんな状況でも、
>「たった今」感じられますし、それでいいと思います。

ただの「自分」自分さん、ますますいい仕事に成ってきてますね(^m^)
それでいいという思いが無意識下(潜在意識)に定着すれば、完全なる確信へと変わって自明灯が明々と輝きだすかもですね。
先程の僕のコメントの補足にも成るんですが、完全なる確信とは意識的な確信ではなくて(まだ思考としての葛藤がある)、無意識的な確信と言えるでしょうか(思考なる葛藤が無い、つまり運命となる)。
そうなった時、初めてそれは現実となるんだと思います。

それじゃまた、グッナイトです♪
Posted by 茶呆♪ at 2016年03月31日 23:04
本当にシンプル〜〜^ ^
これ以外は全てストーリー。。。
いつも どんな時も 平凡なこれがあるだけ。。。

ストーリーと同化しなかったら
恐れや深刻さは無くなりますね。

自分にくつろげます。

瞑想 最高〜〜*\(^o^)/*
有難うございます。
Posted by Atsumi at 2016年03月31日 23:13
むむむ

質問です。

ジェームズ アレン さんの原因と結果の法則を読んだりして、低レベルな自我やその激しい感情、恐れをしかっり受け入れる。そして、解放していく、気づきの日々で、新鮮な気持ちですごしております。

で、
つまり、起ってくるエゴを知り、受け入れ、弱さを、越えようと試みているのですが、
これも、私という分離感が探求し楽しんでいること。。。ですかね。
エゴの克服が要らないこと。。。?
なのでしょうか?

あ、
私という分離が無い状態では、個の恐れ自体が無くなるから、湧いてくる感情を判断することもないからあるがままが起きるままで、ひきづらないし、そのまま全て OK 大丈夫ってことですかね〜*

個、の収縮した私というものは、真の自由な解放へとありたくて、私の中に湧いてくる闇を一つづつ許して受け入れて、とかしたいんですけど、そんな存在が居ないんですよね〜。あらま。。。
Posted by punpkin at 2016年03月31日 23:39
 
y-beさん

愛ラ(-住民票-)です。




あなたの恩人である彼女は、

y-beさんのそばにいつもいます。
(実体じゃないけど想念体)

命以上に愛する気持ち彼女に届いてますよ♪





心から安心して、至福の中でおやすみなさい
Posted by 愛ラ-Happyホテル- at 2016年03月31日 23:48
こんんばんは。
・・・「求めよ、さらば与えられん」・・・ 「アーサーホーランド!」こんなかっこいい親父が日本にいたとは今まで知らなかった。 ・・・最近、退屈で自分の背中に龍の刺青が彫りたくてうずうずしていたら、「00さん、拘置所で白い龍を見ましたよ・・・生首もありましたが・・手彫りじゃないと深みがでませんよ」との情報が飛び込んできたり、俺が女性の彫師に龍を彫ってもらいたいな~と言えば、紹介しましょうか?と親切な人が現れるし・・・、そして妻が「ロト6当たったら彫っていいよ」と笑顔で言ってくれたし、・・・「よし、俺は白龍に決めた!目は何色にしようかな^^」・・ すみません今日僕は理想の兄貴にあえたし、藤原紀香さんも最高の幸せと言う事なので、興奮してしまいました。
Posted by てんぷす at 2016年04月01日 00:02
ただいまにある。
だから
ただいま〜!


ただいまにあることが
かえることなんですね。
Posted by crea at 2016年04月01日 00:27
creaさん

>ただいまにある。
>だから
>ただいま〜!

・・・・・ぶっっ!!!!!

阿部さんの

>おかえり♪

って、そういう意味かあああぁぁぁっっっっっ!!!!!

自分で

>ほんのちょっとの自己満足の気分の良さとかなら、どんな状況でも、
>「たった今」感じられますし、それでいいと思います。

とか書いときながら、気付いてませんでした(大爆笑)

・・・て訳で茶呆さん、この自分「たち」、思っていた以上に放蕩息子のようです(笑)
こうして勝手に好き放題、自ずから分かれて起こり続ける自分たちを、
確かに照らし続けてくれているものがあるんだなぁ、と
今更ながらに有り難く感じています。
阿部さん、そうと知っときながら、「奴」とか言っちゃだめですよ、怒られますよ(笑)

人のこた全く言えませんけどね~。
今日も明日も明後日も、元気に行ってきますっ!!(笑)
疲れたら、「ただ今」に帰ります。
Posted by ただの「自分」 at 2016年04月01日 02:05
結局、個人がいる限り、
どんなに自分を説得しても、
無駄なような感じがします。

散々学んだスピの知識も役に立ちません。

今日は個人が暴れています。
緊張が半端ないです。

気を失いそうなぐらいに。
Posted by M at 2016年04月01日 07:57
★、おはようございます。

◎愛ラーさん、ご覧になられているかどうか、判りませんが、、

昨夜は、遅くまで、付き合わせてしまい、すいませんでした。

そして、ありがとうございました。_(_ _)_

☆、おかげさまで、“至福の感覚”の中で、眠れ…ていたようです。

しかし、あのように、言われるとは、、


わたしも、直に感じられたり、見えたりすれば、良いのですが、、

◎いくら真理に対しての、知識や得心を経て、月日が経とうとも、

ごく、たまには、実感出来るときも、あるのですが、

本当に、心の底から、感じられたらいいだろうと思うときもあります。

こうなると、真理の幾ばくかを知っても、敢えて、ストーリーに埋没したくなりますが、、

ストーリーの中とはいえ、彼女には、何事にも、縛りられることなく、もっと自由に、幸せになってもらいたいので、、

なるべく、心配したり、思い出さないようにしていますし、

やはり、ノンデュアリティ感覚が、浸透して行って、、

わたしの、固我が、この迷惑な凝縮が、薄れて、無くなればいいと、心から、思っています。。


◎ありがとうごさいました。<(_ _)>
Posted by y-be at 2016年04月01日 09:01
おはよございますう。
・・・「求めよ、さらば与えられん」・・・ 昨日、不良牧師「アーサー・ホーランド」の生き様とルックスに一発目で惚れ込んでしまった・・・ 私も15年後の目標ができて、昨晩は30年続けている腕立て伏せの回数を6回増やして36回に決めた、体重は現在80キロ、ウエスト79センチ、腕周り約37センチであるが、この背中に「白龍」を彫るのだ。・・・周囲にはくたびれた親父達の背中(社会)が圧倒的に多い中で日本人の教育環境も悪いと思う。
・・・「アーサーホーランド師」の存在に出会えて 「我、終生の友を得たり。」で、私のハートから益々頑張る気力が無限に湧いてくるようだ、それにお金を無理に取らない兄貴は完全に爽やかだ、兄貴の「・・・集めるよりも与える者であれ」の言葉も気に入った・・・ 早っ、「非二元思想」が過去の遺物に感じ始めてきました、「リーラ」から最も遠い「武士道」がじわりじわり日本人の目を覚ましつつある気がしますが、こればかりは「生き様」だから阿部さんでも骨が折れるだろうな、60代先輩がんばれ~・・・「リ~ラ~」
Posted by てんぷす at 2016年04月01日 10:31
 
今日も “いい気分” の選択で♪ <(__)>
 
 
Posted by 愛ラ -Happyホテル- at 2016年04月01日 20:47
あべさま

いつもお世話になっております。

以下の内容を調べれている時にこのブログに行きつきました。
一つ質問させてください。
先月、仕事帰りに家のドアノブに手をかけようとしたとき、いきなり白い光に包まれ、桜の花のような、また白い粉雪のような光が降り注ぎ、それとともに体中が満たされる感覚がありました。
これを至高体験というのでしょうか?
Posted by まな at 2019年08月27日 08:57
まなさん

至高体験の表れ方は人それぞれですが、共通しているのは言いようのない満足感です。

それはふいに訪れる、宇宙からのプレゼントのようなもの。

その体験の後に大切なのは、同じ体験を求めない事。

それを求めようとする心が永遠に続いてしまいます。

ただその時に感じた満足感が、いつも自分のベースにあるということだけを持ち運んでください。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2019年08月27日 09:35
早速のお返事ありがとうございます。

ちょうど仕事が行き詰っており、辞職をお願いした翌日の出来事でした。

大きな変化がありました。パワーがみなぎり、全ての物を乗り越えられる感覚になりました。なんでも楽しもう、いわゆる「大丈夫」な感覚になりました。これが満足感でしょうか?

また大いなる力、宇宙、神仏の世界を信じられるようになりました。
同じ体験をもとめるわけではないのですが、いつか「いまここ」にいられるように、また至高体験をいただいた感謝の気持ちから、地元や、旅先の神社仏閣を詣でるようにしています。

まだつねに「いまここ」の感覚とは言えませんが、いつかそうなれればと思っています。

不躾ですが、なにかアドバイスがあればよろしくお願いします。
Posted by まな at 2019年08月27日 10:41
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