2022年08月23日

人生という劇場

芝居の中で人にバカにされる役だとしても、バカにされた役者本人の心は傷ついていません。

だってバカにされたのは自分ではなく、自分はバカにされる役を演じただけだから。


もし会社や仲間内で同じような経験をして、いまだに嫌な感情を持ち続けている人がいたとしたら、この事を思い出してください。

本当のあなたは何一つ傷ついていないということを。


この世は劇場で演じられている芝居そのものです。

あなたも僕も自分で決めた配役を引き受けて、それを朝から晩まで演じています。


注意深く観察すれば、社会の中での自分の行為が芝居だということがわかりますし、あなたはそのことを心の深い部分で知っています。

ところが芝居の上演時間が長すぎて、事の全体が芝居だということを忘れ、役柄と本当の自分が同一化してしまったのです。

いまでは一人で部屋にいる時も、その役に成りきって生きているのではないですか。


人生という劇場



芝居を演じることが問題ではありません。

社会という舞台では演技が必要だから。


しかしその役を自分だと信じてしまったことは問題です。

とても大きな問題です。

この状態を「夢を見ている」と言います。

そして人生は単なる舞台であり、自分は役を演じていたにすぎないことを思い出すことを「目覚め」と言います。



瞑想は舞台を降りる時間です。

だから大切なのです。


自己流でいいから、せめて朝晩の二回、そんな時間を持ちましょう。


朝は誰でもない人として瞑想し、今日もこれから舞台で演じるぞと決めます。

そうやって一日中、いつもの「自分」を演じ切って、夜になったらその役を脱ぎ捨てるために瞑想します。


そんな時間が持てれば、ストレスなど溜まるはずがありません。


僕もいまだに習慣にしていますし、これからもそうだと思います。

仏像を見ると、どうやら彼らも常日頃から瞑想していたみたいですね。


正気を保つためにも大切な習慣です。



さて正気のはずの阿部が、裏ブログでは一変して過激になる傾向があるようです。

今日はコロナとワクチンについて書いてみました。

裏ブログ














Posted by Toshiro Abe at 08:30│Comments(13)
この記事へのコメント
あべさま

おはようございます。

>ところが芝居の上演時間が長すぎて、事の全体が芝居だということを忘れ、役柄と本当の自分が同一化してしまったのです。

そうそう・・
これこれ・・・

あべさんの裏ブログも ちょう~楽しい^^

御本も楽しみにしています^^


いつもありがとうございます。
Posted by じゅんちゃん at 2022年08月23日 09:02
頭の中の五感と想念に向かうほど↑
頭の中の五感と想念が存在感を増していきます↑
激しく波立つ感覚が増していきます~~~

頭の中で上映されている「わたしの人生」という映画に
激しく巻き込まれる感覚になります↑

胸の中の光に向かうほど↓
胸の中の光が存在感を増していきます↓
静かに止まっている感覚が増していきます―――

頭の中で上映されている「わたしの人生」という映画を
静かに観ている感覚になります↓

「わたしは永遠の静寂」という感覚になります―――
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2022年08月23日 09:14
阿部さんの裏ブログ

超超超楽しい〜╰(*´︶`*)╯♡

結婚制度のことも

今日のワクチンとコロナ騒動も

いつも素敵なブログを書いてくれる

阿部さんも大好きだけど

裏ブログを書いてくれる阿部さんも

大好きです♡

今日も何者かの役を演じてしまいそうですが

朝晩の大切な時間は役を降りて

今にくつろぎます

阿部さんいつも大切な事ありがとうございます♡
Posted by みっちゃん at 2022年08月23日 09:26
自分は、そもそも、幼稚園に行くくらいの子供の頃から
「どうしてぼくはここにいるんだろう」
と感じてました。
つまり、そもそも『役』がピンとこなかったんです。
以来、『この体』はあと2年ちょっとで五十路に入る今まで、
ず~っと、『役割』というものにピンとこないまま過ごしてます。
そのために混乱して苦しむことも多かったです・・・・・

・・・・・『↑という役割を演じて』生きてるのかも?
と、今では思ってます(笑)
Posted by ただの「自分」 at 2022年08月23日 10:11
阿部さんおはようございます。
まだ歯が浮いています。心配(おかゆ生活)
ようやく観念して明後日の夕方の歯医者さんを予約しました。
(あまり行きたくないのでじたばたいろんな自宅療法や薬も試行したあげくに)
これもすべて御心のまま?なのでしょうか・・。アーメン。

今日の北海道は雨です。
今日もまた、ついついストレスの元かもしれない某政調会長と
元アイドル議員の記事を、見てしまいました!中毒なのかも・・。。
コロナも早く収まってほしいです。
北海道も田舎も全然減らず、職場のスタッフの家族も
通所している学童の子供も家族もけっこうばたばた感染(割と軽症)し
私は絶対かかりたくないので予防に必死。

ワクチンは2回目で副反応がひどく3回目からは打ってませんです、家族も。
でも岸田さんは4回目打ってもしっかり感染してるみたいですし
なんだかもうしっちゃかめっちゃかで(本当に予防効果あるのかいな?)
全数カウント止めるとか言ってるし、よくわかりませんです。

副反応の検証とか、コロナ政策の検証とかしっかりとしてほしいですが・・
でも今の政府は統一教会閣僚で、すったもんだしているのであまり期待はできませんです。きっしーどうするんでしょうね?このママ、カルト統一野放しにするのか。(全宗教で一万円以上の献金は禁止にすればいいのに)

それよりもまずは瞑想しますね。脱線あいすみません。
エゴに巻き込まれないで静かに一日がどうか過ごせますように。
心身が健康でありますように。
平安が内外にありますように。
聖霊さまのお守りが今日もありますように。
Posted by さつき姫 at 2022年08月23日 11:22
『ところが芝居の上演時間が長すぎて、事の全体が芝居だということを忘れ、役柄と本当の自分が同一化してしまったのです。

いまでは一人で部屋にいる時も、その役に成りきって生きているのではないですか。』



おもしろい☆(^^)いつかの瞑想会での、「衣替え」という表現で話してくださったことが思い出されました。

存在に帰るって、裸になるみたいな。。(その時に持ったイメージ)

本質が肉体を纏って生きているのが私たちで、その私たちが役の衣を身に付けて営んでいるのが社会だったりあらゆる人間関係だったり。。

たしか阿部さんは現象界で生きていくためには、衣を身に付けることはどうしても必要になると仰っていたと思います。その話が面白くて、そんなこと言ってくれるのあべさんしかいませんからー(笑)勉強になるやら嬉しいやら面白かったの~☆(^^)

何を言おうとしていたっけ。。


そうそう、となると、本質に帰るとか存在に帰るとかって、衣を脱いで裸になるようなことかなあって。。それがおうち時間というか、、家で寛ぐというのは、誰でもない私に帰ることが必須だということ(^^)

そのことが分かっていなかったから、分かるようになったことが嬉しいの~(^^)

とはいえ、裸になれていないのではないですか?的な指摘ね、言い方が違うけど一応あべにゃんこの言わんとする『役になりきっているのではないですか。』と同じことね(笑)


・・・・・・・・

ここまでは前半部分を読んで書いたの~☆

後半に瞑想の必要性が書いてあって納得です(^^)
 
瞑想って、衣を脱いで寛ぐみたいな感じですかね(^^)

ちなみに昨日のコメントは衣を脱がないで(瞑想しないで)書いたの~(笑)

今日は、食事前に行いました(^^)


裏も楽しみです♪(^^)
Posted by スズメ at 2022年08月23日 13:15
阿部さん

いつもぴったり!
人生劇場まっしぐら
でも最近途中休憩ができるようになって来ました

コレも阿部さんはじめ禅サンガの皆様のおかげー
ありがとうございます

それにしてもイラストがはまりすぎ~
Posted by じゅーくんのまま at 2022年08月23日 14:18
『それって、いまのあなたの不幸は何代前かの先祖の霊障だと言う人と何ら変わらないんじゃなかろうか。』


ちょっと(笑)裏ブログを読んでまだ途中ですけど、ここが引っ掛かったものですから(笑)

コメントよろしいですか(^^)

私はこの考え分からなくもないんですよ~。だってすべては全体エネルギーの顕れでしょ?

全体エネルギーに癒されていない未浄化のものが存在していたら、未浄化のエネルギーは未浄化のままだと思うからです(^^)

それが、先祖の霊障という表現がされることもあれば、んー…霊障というほどはっきり示されていなくても、サイキックアタックとか、なにかしらの「ネガティブなエネルギー全般のこと」だと言えるのではないかと、、

邪気って言ってもいいでしょうしね。

瞑想で衣を脱ぐことも、邪気を脱ぐというか、衣についたホコリ(邪気)を祓うイメージというか。。実際にはイメージも持たないで、なにも持たないで瞑想に入りますが、瞑想で起きていることは衣のお掃除だったり、そのお掃除が衣を脱ぐことだったり、、言葉で表現出来ることではないかもしれないけど、実感としては、ネガティブなエネルギーがお掃除される印象です。もちろん、その時々でその時の瞑想がありますが(^^)
Posted by スズメ at 2022年08月23日 14:32
ようやっと裏ブログ最後まで読みました。。(^^)


『また続きを書く気でいるが、これが正しいとは言わない。

言うまでもなく、これも一人の意見に過ぎないから。


今日はここまで。』



分かりました(^^)ありがとうございます☆
 


 
Posted by スズメ at 2022年08月23日 16:02
OSHOが言ってました。
愛しか語らない自称ブッダは作為があり平面的だ。
本物は一貫性を持たずそれ故に真性だ。
まるで阿部さんのことですね。

メッセンジャーはみんな自己演出しているけれど、むしろ普通さを曝け出せる阿部さんに凄みを感じます。サンガ講演を見るたびに思ってましたがブログでもやってくれて嬉しいです。
Posted by ジュピター at 2022年08月23日 18:08
どうしたらうまく演じられるか役者として成功できるかみたいな情報が巷では溢れてますから、阿部さんや向禅師のように一旦舞台を降りて寛げと言ってくれる方の存在に感謝です。
この寛ぎの感覚を持ってまた舞台に戻れたらだいぶ生きるのが楽になりそうです。
Posted by とっと at 2022年08月23日 21:31
役を演じることが、人間の宿命のように感じてしまうほど、一つの役だけでなく、何役も同時に演じることもあり、私たちは、生まれてからこの方、いろいろな役を演じてきましたし、今も演じています。

人間は、社会的生物であるとも言われていますので、社会的な役割が多いように感じますが、出家して俗世から離れて生きる世捨て人(サニヤーシ)のような人であっても、そういう役をやっていると見るならば、どのような役も演じていない人は、この世にはいないと言えます。

>朝は誰でもない人として瞑想し、今日もこれから舞台で演じるぞと決めます。

>そうやって一日中、いつもの「自分」を演じ切って、夜になったらその役を脱ぎ捨てるために瞑想します。

う~ん、随分と大変そうですが、阿部さんは、そうされているので、生きる知恵として、私たちに、親切に教えて下さっているのでしょう。。。?

私たち人間は、社会的生物であることから、特に、相手により役どころが変わって来る面もあることでしょう。

家族に対する役割や、学校や仕事場などの公の場における複数人に対する役割、ひいては、国民としての役割、地球人としての役割。。。考えれば、キリがありませんが、ただ一つ言えることは、それらすべての役割は、表面的な自己が演じているだけで、最奥の真の自己には、演じることになっている役はありませんし、表面上の自己が、どのような役を演じようとも、最奥の真の自己は、表面上の自己からは、何の影響も受けない存在である、ということは、知っていて、損はないと感じます。

瞑想は、この真の自己に、一時的ですが、戻ることができる、唯一の時間と言えます。

瞑想における留意点は、私たちは、行為(サンスクリット語でカルマ)を通して、いろいろな役割を演じているという事実から、行為(カルマ)がなければ、役割を演じることができませんので、先ずは、身体の動きを止める、ということが求められます。
そして、行為(カルマ)を生じさせる元である脳の働き(思考=マインド)を一時的であるにせよ、停止することが、アカルマ(無行為)そのものである真の自己に近づく第一歩と言えます。

また、人間は、行為することが、生物としての宿命ですので、その行為そのものを止めることはできませんが、行為の質を変えることはできます。
それが、カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)と言われるヨーガで、無心、利他の心で行為することを指します。
つまり、演じる役どころを演じるにあたり、他が利する行為を心掛けたり、自分にとって利となる結果を求めず、ただ行為することが、真の自己に近づく道となり得る、というわけです。

瞑想の主体は、あくまで「わたし」であり、瞑想中は、その「わたし」が役どころを一時的に降りる時間と言えますが、それは、あくまで、行為の主体を「わたし」という表面上の自己としているという前提があって初めて成り立つ「行為の放棄」と言えます。
「行為の放棄」は、そんなに長い時間でなければ、可能でしょうが、主体が残っている限り、「行為の放棄」という行為には、終わりがありません。

しかし、この前提が覆れば、この前提から自由になることは、可能です。

表面上の自己はいないのです。

これが明らかになれば、表面上の自己に対する認識が変わり、何が起きても、気にならなくなるでしょう。

「わたしは誰か?」

真の自己だけが、実在であり、真の実在は、滅びゆく肉体には束縛されず、完全に自由な存在であり、不生不滅、不垢不浄です。

行為するのは、あくまで、表面上の自己であり、「本当のわたし」(真の自己)ではありません。

そこに到れば、自分や他人がどのような役割を演じようとも、単にそれは、表面的な世界の中での出来事として、気にならなくなることでしょう。

こうして、「行為」の主体が、”表面上の自己”(偽我)から、真の自己(真我)に入れ替われば、「個」である「わたし」は、形骸化し、役割を演じる主体も、演じる舞台であるこの世も、リーラという実体のない夢の中で展開する、ただの一時的な夢に変容し、最終的には、夜見る夢と同じく、夢から覚めれば、跡形もなく消えてしまうことでしょう。
Posted by 永遠なる夢幻宇宙 from M-online at 2022年08月24日 00:43
阿部さん!今日もありがとう!!
Posted by まみぃ at 2022年08月24日 08:20
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