2020年04月03日

瞑想と坐禅の違い

瞑想と坐禅の違い


昨日、向令孝禅師からメールをいただきました。

瞑想と坐禅の違いをサンガ会員から尋ねられたので文章にされたそうです。

加筆修正を頼まれましたが、このままで完璧なのでご紹介します。


ちなみに文中に出てくる瞑想は、昨日いくつか紹介した中の無指向瞑想のことです。

向さんもハートマントラ伝授を受けてくれています。


昨日の記事にコメントしてくれた人の文中に、比叡山の大僧正が出てきますが、師も伝授を受けてくれました。

本物のエキスパートは自分が所属する伝統にこだわらずに何でも試してくれるので、むしろ凄みを感じます。


以下は向禅師が送ってくれた文章です。


・・・・・・・・・・・・


坐禅の要点は、

①身を調え(調身)

②息を調え(調息)

③心が調う(調心)

です。


①(調身)は、正式には脚を交差させ結跏趺坐(両脚)か半跏趺坐(片脚)に組み、顔を真正面に向けて視線だけ1~2メートルのところに落とします。

しかし、禅は「行くもまた禅、座るもまた禅、語黙動静体安全(ごもくどうじょうたいあんぜん)」で坐にかかわら ず、イスに座ってやっても、電車のなか等で立っていても、修練すればどんな時でも坐禅と同じ身心の状態になることが出来ます。

要は「マカエンの禅定」(坐禅和讃)の状態を保持することです。

その基本練習が坐禅ということになります。

「禅定」を保持するのに大切な調身は、上半身はリラックスして脱力し、腰骨を真っ直ぐに立て、下っ腹、脚腰 が充実している武道で言う自然体になることです。


次に②(調息)ですが、呼吸は腹式呼吸です。

多くの人は腹式呼吸になれていないので、最初の数分間は出入の息を意識して呼吸をします。

「ひとー」で吐き「つー」で吸いながら「とー、つー」と十まで数えて、また一 つからくり返す「数息観」に集中します。

この時「臍で息をする」感じで、下っ腹をグーとへこませ横隔膜を押し上げ息を吐きつくし、吸う息は下っ腹に送り込む感じでします。

この意識的な腹式呼吸は無理に長くすることなく、息が調ってきたら「随息観」に移行して出入の息に身も心もまかせます。


つまり、自力で意識して身心を調え、他力に移行して身も心も任せきります。


このように身体を調え息を調えて「無の器・受用体」となることで、天地と一体のワンネスのあるがままの命に帰ろうとするわけです。

したがってこの段階に至ると、心も自ずと調い無心のほっこりと落ちついた不動の境地にいたっています。③


外界の事が明らかに見え聞こえていながら、息も静かに調っており、心もほっこりと落ちついた境地にあるのが「禅定」です。

さらに、坐禅中あれこれの想念がわくことは当たり前にあることで、気にすることはありません。

数息観に意識をむけることで自ずと想念から離れられます。

想念も妄念・雑念のたぐいではなく、ひらめきの良いアイデアーであったりしますから、私はメモ用紙を坐禅布団の横に置いています。



道元禅師の次の言葉は、坐禅のみならず生き方の指標としてお勧めです。

この場合の「仏」は、ワンネスの大いなる命、実在、あるがままの命です。

また身心脱落は、あらゆる自我意識(マインドのはたらき)が無くなることです。


「ただわが身をも心をも、放ち忘れて仏の家に投げ入れて、仏の方(かた)より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。」

「身心脱落」



次に瞑想ですが、

瞑想は、意識的努力はせずに、最初からあるがままの命に身を委ねるということだろうと感じています。

目は閉じていますし、呼吸についてもあれこれ言わないのではないかと思います。

ただ接心で一週間もぶっ通しで坐っていると、いつの間にか目を閉じていて瞑想に近い状態になっていることがあるように思います。

坐禅が疲れてくると目を閉じまどろむわけで、こちらの方が身心は安らぎ癒やされるのかも知れません。


坐禅は、上杉謙信や勝海舟など多くの武将が修行したように、まわりの状況が明らかに見え聞こえていなが ら、常に不動の境地で落ち着いていられる胆力を養い、必要とあれば即座に適切に決断し対応できる実践的な人間修養の道でもあると思います。


瞑想によって身心を癒やし、その癒やされた身心で坐禅をすることで胆力を鍛え、不動の境地・平常心を養う。瞑想と坐禅を、両方自由にやるのがお勧めです。




・・・・・・・・・・・・


瞑想の場合は、瞑想終了後に身体の代謝を上げる時間を要しますが、坐禅の場合は、目の前に不意の敵が現れた時でも、瞬時に対応できるところが決定的に違います。

武士道が禅をベースに生まれたのも頷けます。



向さんは30年もの間、毎年ヨーロッパに招かれ、現地のリーダー層に参禅指導をされてきましたが、今年はコロナの影響で行くことができないそうです。

見えないことも含めて、人間の営みの多くがストップしているのが分かります。


この現象の全ては、いままでのシステムが一掃され、新しい文明に移行するための産みの苦しみだと捉えています。

流れを信頼して心静かに過ごしていきましょう。



かんながら たまちはえませ


・・・・・・


明日は「奇跡のコース」の香咲弥須子さんとのWeb対談講演です。

詳細はコチラから








Posted by Toshiro Abe at 09:04│Comments(21)
この記事へのコメント
瞑想を姿勢を正して座ってやることを
座禅と言うんだと思っていました(笑)

どちらも「いまここ」の気づきに
つながりますね
Posted by チョウカツマンチョウカツマン at 2020年04月03日 09:11
体の姿勢が前に偏らず後ろに偏らず、左に偏らず右に偏らず
中心にあるほど
体が整って安定します。

呼吸が浅くてせわしい胸式呼吸にならず
深くてゆったりした腹式呼吸になるほど
呼吸が整って安定します。

酸素を十分に含んだ血液が全身をよく循環します。

心が頭の中の想念に巻き込まれず
体の中の深くてゆったりした腹式呼吸に向かうほど
心が整って安定します。

体と心が中心から外れるほど
体と心が偏って、乱れて不安定になり、苦しみが生じます→(>_<)←

体と心が中心にあるほど
体と心が偏らず、整って安定して、苦しみが滅します←(*´▽`*)→

体と心を中心に向け続けて
体と心を整え続けて安定させ続けることが中道です◎

体と心を中心に向け続ける中道は苦しみの滅尽に至る道です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2020年04月03日 10:06
模察と申します。

最初は瞑想から入って坐禅するのは、いきなり坐禅から入るよりも理に適っているような気がします。

瞑想は、あるがままの命に身を委ね安らぎますので幸福です。
坐禅は、自己の身心の真相に触れることで、自己を明らめ、生死という人生の大問題を見抜き、自覚し、安心します。

瞑想で自己を究明したいという心が自然に起こり坐禅するという流れが理想なのかもしれません。
Posted by 模察模察 at 2020年04月03日 10:18
瞑想と座禅違いがよくわかりました。

私は絶対他力のゆる〜い瞑想が好きですが、いつか座禅もやってみたいと思いました。

今朝は外で太陽の元、瞑想しました。

ただただあるがままの今が幸せでした^_^
Posted by まぁるいこころまぁるいこころ at 2020年04月03日 10:54
こうでなければいけない。

座禅をする。瞑想をする。何かをする。

それこそが、エゴ。

起こることが起きていて、みんなは目的地に向かい、流れている。

気楽に流されていればいい。

全ては、寸分の狂いもなく、完璧。

いまここにいるのも、いまここの連続があり、いまここにしか、居ようがない。

未来も、いまここの連続。

こうでなければいけない。

それこそが、エゴ。

これまでの社会システムも、こうでなければいけないとのシステム。

もう、自分をさらけ出して解放するとき

宇宙、地球、私達

みんな、隙間なく繋がっている。

大きな流れに全ては流されている。

不可抗力。

この時代を選んで、この星に来た。

目的がある。

経験するために、この星に来た。

覚醒したいという思いが、エゴ。

エゴは無くならない。

何かになりたい

誰かになりたい

仮面ライダーになりたい

ウルトラマンになりたい

エゴは、そんなもの。


自分の真実がある。

自分だけの真実。

こうでなければいけない。

自分の解放

流れているのに、必死になる

こうでなければいけない。

自動運転
Posted by 近藤博文 at 2020年04月03日 10:55
坐禅も三密(身口意)とつながっているんですね(^^)
Posted by けせらせら♪ at 2020年04月03日 11:04
こうでなければいけない。

座禅をする。瞑想をする。何かをする。

それこそが、エゴ。

起こることが起きていて、みんなは目的地に向かい、流れている。

気楽に流されていればいい。

全ては、寸分の狂いもなく、完璧。

いまここにいるのも、いまここの連続があり、いまここにしか、居ようがない。

未来も、いまここの連続。

こうでなければいけない。

それこそが、エゴ。

これまでの社会システムも、こうでなければいけないとのシステム。

もう、自分をさらけ出して解放するとき

宇宙、地球、私達

みんな、隙間なく繋がっている。

大きな流れに全ては流されている。

不可抗力。

この時代を選んで、この星に来た。

目的がある。

経験するために、この星に来た。

覚醒したいという思いが、エゴ。

エゴは無くならない。

何かになりたい

誰かになりたい

仮面ライダーになりたい

ウルトラマンになりたい

エゴは、そんなもの。


自分の真実がある。

自分だけの真実。

こうでなければいけない。

自分の解放

流れているのに、必死になる

こうでなければいけない。

自動運転
Posted by 近藤博文 at 2020年04月03日 11:17
模察と申します。

坐禅と瞑想に共通する要点は只一つ、「何もしない」です。

頭で考え、理解し、思い込もうとしても決して幸福、安心、平和に至ることは有り得ません。
Posted by 模察模察 at 2020年04月03日 11:57
絶対他力
自動運転
流されている
大丈夫


VS




こうでなければいけない
Posted by 近藤博文 at 2020年04月03日 13:31
連日 感謝!感謝!
み~んな幸せでいたいのだもの!

今は少しでも心穏やかでいたいので
仲間がいて繋がっているという思いは
とっても安心感があって嬉しいです

ありがとうございます
Posted by サンガ・yaboi at 2020年04月03日 13:49
坐禅といえば、小学2年から通ってた剣道の道場で、月1回坐禅の日があったんですよ。
それが嫌で嫌で(笑)
足は痛いし眠いし寝てると叩かれるし冬は寒いし。
座ってたのは30分ぐらいでしたが、そのあと道場を壁沿いにぐるぐる歩いたり、白隠禅師坐禅和讃を唱えたりしたのを覚えてます。
数息観、目は1メートルぐらい先の床を見れば自然と半眼になること、あと手は丸く組んで親指と親指の間は紙1枚分の隙間を空けると教わりました。
中学生ぐらいまでは月1でやってたのかな?
途中で先生が代わって坐禅の日がなくなったんですが、そのときはうれしかったです(笑)
なのに大人になって自ら瞑想を習うとは。
でも思えば、高校生のころは『仙人になる法』みたいな本を見つけて「仙人になりたい!」と思って1人で座って呼吸法みたいなのをやってたんですよね。
何にもなりませんでしたが(笑)
三十代で太極拳を始めて、站椿功ってのを毎日やるようにって言われて毎日30分ぐらいじっと立ってました←過去形(笑)
瞑想も正直よくわからないんですが、そんな失敗体験ばかりしてきたので「まあ何もならなくてもいいか」ぐらいの気持ちでやってます。たまに^^;
坐禅中の思いつきをメモするというのは目から鱗でした。
そういうことに気をとらわれちゃいけないものかと。
僕は枕元にメモ帳(今はスマホですが)を置いて夢を覚えてたらメモしてるんですが、一緒ですね。
初めて坐禅に親近感が湧きました(笑)
Posted by コンドウノリカズ at 2020年04月03日 14:46
瞑想と座禅・・・・・『あるがままの命』を『迎え入れる』か『成りきっている』かの、
『方向性』の違い、とも言えるでしょうか?
そう言えば、何をしようともしていないのが気持ちいい時と、
薄目を開けて、呼吸に集中し、下を意識し続けるのが気持ちいい時とありますね。
起きる時、自然と座禅のような感じで意識して、気が通ったと感じてから動くようにしてますし、
仕事とかであわあわしたら、トイレとかで何をしようともせず、ただ目を閉じて座ってます・・・用は足しますが(笑)

『瞑想だけ』でもなく、『禅だけ』でもない『ひとつ』なのかなぁ、て思います。
Posted by ただの「自分」 at 2020年04月03日 16:13
こっさんは坐禅を「スーパー宇宙温泉に浸かっている」と例えていますね。

私は瞑想も坐禅も同じように、温泉に浸かるような心地良さ、安楽を味わっています。

リラックスして、ただ「いまここ」に寛ぐありがたいひと時。

そして共通して言えますのは、身体的にも精神的にも、とっても健康に良いことですね。
Posted by サンガあきもん at 2020年04月03日 17:03
今日の記事で、なんだか、
いまここ方面に興味が向かい始めた15年前を思い出しました。
どう行けば良いのか分からず、心細くて泣いちゃう日もあったっけ。って感じです。
今は、向さん、阿部さんの「禅サンガ」があるし、
「かんながらブログ」もあるから、
ひとりぼっちで手探りで歩くことはないですね。(ぼっちもけっこー好きですがッ。)

向さん、阿部さん、いつもありがとうございます❗(^_^)
Posted by 上地 at 2020年04月03日 18:55
ここ最近の公開でのweb瞑想会をありがとうございます。

ところで、既にご存知かもしれませんが、NYのライトワーカーさんたちが中心になって、日本時間【4月5日(日)11:45〜 20分程度】の瞑想を呼びかけています。

世界同時におこなって、144,000人、できれば100万人規模で行いたいそうです。

ぜひ、阿部さんはじめ、ここに集まる瞑想仲間も参加できると素晴らしいなあと思いコメントさせていただきました。


各種SNSでいろいろな方が呼びかけているようですが、大元の情報は、http://www.globalpeacemeditation.com(英語)にあります。
Posted by りんご。 at 2020年04月03日 19:07
瞑想と坐禅の違いのご説明ありがとうございます。
Posted by ロータス at 2020年04月03日 20:33
白(鶴)まる〜<( ̄▽ ̄)>←オイ?
*()伏せ字になってますか?
Posted by Ciel at 2020年04月03日 22:46
阿部さん
公開瞑想会ありがとうございます。

ネットにはつないでませんが、
21:00から、
一緒に瞑想させていただいています。

"りんご。"さん情報ありがとうございます。
自分も参加します。

禅の達人の人ではない自分は、
瞑想は心のお掃除だと考えています。
好ましい思いも、嫌な思いも、
「只、捨てろ、放せ。」(誰だったか?)

あとマーフィーは、「人間は、意識しないと否定的な想いの海に潜ったまま」
と書いてあったような気がします。
Posted by タコロール at 2020年04月04日 00:23
阿部さん智子さん昨日はWeb瞑想会ありがとうございました。2夜連続で参加出来てラッキーでした。皆が同じ思いで一つになって繋がっているパワーを感じました。オープニングからふるさとの曲そしてバックで流れる映像が、本当に美しくてただ、涙がでます。こんなに美しくて素晴らしい星に私達はいるんだって。はじめから終わりまでWeb瞑想会大好きです。

今日のお天気は気持ちが良く外の爽やかな風に当たって太陽を浴びているとまるで何事もなかったような、今起きてていることを忘れてしまうようなそんなお天気でした。
起きてることに何も影響されず、夕焼け空が淡いピンク色に染まっていたり夜空にはいつもそこにあった星が光り輝いていて、ただただ見あげていた自分でした。
今日は向かいさんのためになるお話をありがとうございました。
Posted by saeri at 2020年04月04日 00:47
色々とありがとうございます。
他はお任せして記事だけ読み己のことのみ、実践します。
Posted by マイペース at 2020年04月04日 01:09
向さんの坐禅と瞑想のご説明、とてもわかいやすいですね!

>流れを信頼して心静かに過ごしていきましょう。

各自治体から「外出自粛」が要請されているこの時期に、瞑想や坐禅に興味を感じて、始める人も増えるかもしれませんので、タイムリーな記事で、とても有り難いです^^

本格的な坐禅はしたことがないので、瞑想との違いは体感したことがありませんが、先日のweb瞑想会で、NIKE瞑想は、(脳波は)θ波がメインなようなことを仰っていたように記憶しているのですが、坐禅は、集中するので、β波とγ波になっているかもしれませんね。(チベット仏教僧の瞑想中の脳波を調べたところ、強いγ波が見られたそうです)
集中とリラクゼーション、緊張と弛緩、脳波もβ波andγ波、α波orθ波、精神修養にも、いろいろあって面白いですね。

わたし自身は、FF瞑想のマントラに乗って、自動で誘われるのが、一番楽なので、気に入っています。
今では、マントラは使わなくても、目を閉じると、直ぐに誘われるようになりましたので、特にマントラは唱えていませんが、マントラのバイブレーションの力は、これまでの体験を通して実感しております。
また、web瞑想会での智子さんのお話に共感することが多く、(多分)同じように感じている同胞がいて下さることが、とても嬉しいです。
その中でも、時々、智子さんが、「エネルギーを感じることは、ラッキーなこと」と仰っることがあり、それを聞くたびに、自分ではそのように感じたことがなく、今は目覚めていなくても、誰でも同じエネルギー体であることに変わりはないので、きっと何かのきっかけで、誰もが、やがては自分のエネルギーを感じられるようになるのではないか?などと思っているのですが、これも、どんな分野でも、得意不得意があるように、生まれ持った資質なのかもしれないと、最近思うようになりました。(感じない人は、感じないようなので。。。)
運動が得意な人、音楽が得意な人、数学や科学が得意な人、詩や文学が得意な人、料理が得意な人、絵が得意な人、人を笑わせるのが得意な人、演じることが得意な人。。。。人間の特性は後天的なものではなく、生得のものなのかもしれません。

しかし、エネルギーに敏感でも、それが仕事につながる訳でもなく、特にメリットがある訳でもないので、「ラッキー」と言って下さる方に出会えたことの方が、むしろ「ラッキー」だと感じております^^
ただ、瞑想においては、上がって来たエネルギー(微細なバイブレーション)にユラユラ揺られて、直ぐに気持ち良くなってしまうので、その点では、ラッキーなのかもしれませんね^^;
このエネルギー(微細なバイブレーション)は、誰の身体の中にも在るので、(誰でもそうなので)、そういう意味では、何も考えずに、エネルギーを感じている(エネルギー体である)ことは、「本質」に還っている状態と言えるかもしれません。

何はともあれ、瞑想中は、とても気持ち良い感覚があり、心身共にリラックスしますし、しかもエネルギーチャージにもなるので、元気になりますね。

宇宙に満ち満ちているエネルギー(プラーナ)を、身体に取り込む(チャージ)には、瞑想が一番だと感じています。
やがて、エネルギー(プラーナ)を通して、次第に宇宙(全体)とのつながりも太くなって行き、目には見えませんが、エネルギーを通して、この宇宙の根源とつながり、この宇宙の真理、究極の真実が目覚めて行く可能性はあるように感じています。
短期間で、つながりを太くすることは難しいかもしれませんが、瞑想が習慣となっていく中で、自然と変化も起きることでしょうから、先のことは何とも言えません。

エネルギーチャージは、目に見える形で顕れるので、向さんや阿部さん、智子さんのお顔のツヤは、エネルギーチャージがキチンと行われている証かと思っています^^
(エネルギーチャージが行われている証に、顔だけでなく、頭、身体に、このツヤが現れて、全体に光り輝いているように見えるようです)
この輝きは、仏像美術では、光背(後光)として、キリスト教美術では、光輪として描かれていますね。
誰でも、エネルギー体であり、仏陀であり、神の子なのですから、目には見えませんが、私たち一人一人に、この光は内在しているので、如何に、その光をこの目に見える世界で放って行くのか?というのが、ともすると、私たちは自分のためだけに生きることに専念してしまっていますが、この世に生を受けた私たちの人生のもう一つの可能性と言えるかもしれませんね。

何はともあれ、瞑想が日々の習慣になって行くことは、個人のパラダイムシフトにつながっていく可能性は大でしょう。
一人一人の意識変革が、次の新しい時代のより良い創造のためには、必要不可欠だと感じます。
この世では、与えるモノが、受け取るモノ。
世の中に、自分の中の最良のモノを与えて行けると、世界はその分、愛ある生き易い世界となるので、最終的に世界からは、大きな歓びを受け取ることになるでしょう。
Posted by 瞑想と意識のパラダイムシフト from M-online at 2020年04月04日 01:11
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