2019年01月29日

究極の旅

来てくれてありがとう。







今日はOSHOの本を紹介します。

膨大な講話録の中でも、禅の十牛図を解説した「究極の旅」と、老子を解説した「TAOシリーズ」は突出した迫力があります。


初めて高次のリアリティに触れた時、いったいこの身に何が起きたのか、これらの本によって整理がつきました。


当時は何十冊も買い占めて、大切な人たちに配ったものですが、いまなら本当に読みたい人に届けることができそうです。


・・・・・・・・・・・


OSHO 「究極の旅」


われわれは,類いまれな巡礼に出る

禅の十牛図は 人間意識の歴史の中でも,あるユニークなものだ

〈真実〉はいままでさまざまな方法で表現され しかも,それはつねに どうしても表現されないままであることがわかってきた


どう表現してみても,それはするりと身をかわす

つかみどころがない

それはただただ描写から逃げてしまう

そのために使った言葉も,それを包含できない


そして,表現した瞬間─ たちまちあなたは欲求不満を感じてしまう

まるで,本質的なものは取り残されて、非本質的なものだけが表現されたかのように─


禅の十牛図は,その表現不可なるものを表現しようとしたひとつの試みだ

そこで,最初にこの十牛図の歴史について少し─



もともとは,図は十でなく八つだった

そして,それは仏教のものではなく,道家のものだった

その起源は失われている

誰もそれがどう始まったのか


だが,12 世紀になって

中国の禅のマスター廓庵が,それを描き直した


そればかりじゃない 彼はもうふたつ図をつけ加え

八牛が十牛になった


究極の旅



道家の図は第八図で終わっている

第八図は〈空〉,〈無〉だ だが,廓庵はもうふたつ新しい図をつけ加えた


それこそまさに,宗教意識への禅の偉大な貢献だ


内なる旅に出て行くとき 人は世間を後にする

道を妨げる一切のものを棄て 非本質的な一切のものを棄てて

本質的なるものが探索され,追求され得るようにする


人は身軽になって,旅が楽になるようにしようとする

なぜならばこの旅は

高みへ,世にある最も大いなる高みへ向かうものだからだ


欲望の世界,所有の世界は ただの外なる部分にすぎない

内なる部分は〈心〉だ

欲望する心,みだらな心 嫉妬,競争心,

思考でいっぱいの心─ それが種子だ


人は外なるものを棄て,内なるものを棄て

ほとんど空っぽになる それが瞑想のすべてだ


人はまったく空っぽになる が,これが終点だろうか ?


道家の絵は〈無〉で終わる

廓庵は,これが終点ではない 人は世間に戻って来る 人は市場に戻って来る,と言う


そうしてはじめて,円は完結する

もちろん,人はまったく新しくなって来る

けっして古いままで帰っては来ない 古きは去った

永遠に去った



人は完全に新しくなって,復活して,再誕して来る

この人はけっして出かけて行きはしなかった

この人はまったく新鮮に,〈処女〉でやって来る

だが,とにかく人は世間に帰って来る

もう一度,人は世間に住み しかもそれを超えて生きる


もう一度,人はあたり前になる


木を伐り,井戸から水を運び,歩き,坐り,眠り─

人は完全にあたり前になる 奥深く〈空〉はくずされないままだ

人は世間の中で生きる が,世間はあなたの心の中にはない 世間はあなたの中にはない

人は触れられずに生きる ハスの花のように─


これらふたつの絵は探求者を世間に連れ戻す

そして,廓庵は途方もなくビューティフルなことをやったものだ

人は市場にやって来る それだけじゃない 人は酒瓶をたずさえて,酔っぱらって来るのだ!

〈聖なるもの〉に酔って─ ほかの人たちも酔っぱらえるように手を貸そうと─


というのも,世の中には渇いている人が大勢いるから

求めている人が大勢いるから

道の上でよろめいている人が大勢いるから

深い闇の中にいる人が大勢いるからだ


人は慈みのゆえに世間に戻って来る


人はほかの旅人がたどり着くのを助ける

自分はたどり着いた

今度は,人はほかの人たちがたどり着くのを助ける

自分は悟った 今度は,人はほかの人たちが同じゴールに向かうのを助ける

そして,誰もかれもその同じゴールを探し求めているのだ



後略


・・・・・・・・・・・・・・


次はあなたの番です。

自らの真理を明らかにして、後に続く人たちへの灯となりましょう。

そのようにして覚醒の連鎖が広がっていくのです。



クリック応援よろしくお願いします。





・・・・・・・・・・・・



残り少なくなってしまったOSHOの「究極の旅」(新品)を、このたび特別価格で販売させていただきます。

数に限りがありますのでよろしくお願いします。


詳細はコチラから お申込みは終了しました









Posted by Toshiro Abe at 10:51│Comments(24)
この記事へのコメント
なにかをコメントしたくて書いても後づけですでに古い
この何かを伝えたくて
・・・
とても嬉しい!あたりまえ愛おしい!すべて愛してる!
ビューティフルな表現とは遠いな〜〜あはは
Posted by AYAKO at 2019年01月29日 11:28
いまさら読みたくなっていたけど、どう買えばいいんだろう?となんとなく思っていました。再販(?)してもらえてとても嬉しいです✨
ちなみに阿部さんのところで販売してくれた(?)TAOは買いそびれてしまいました。タイミングに乗れていなくて残念でした(>_<)
老子のタオは大好きだけど、運命よ(笑) …

ともあれ、十牛図の販売に出会えてラッキー、ハッピーです♪
しかも新品
ありがとうございます❣️
Posted by 薄茶色 at 2019年01月29日 12:04
いつもありがとうございます。
おーしょうか、しょうか。
と、思いました。
善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2019年01月29日 12:04
「究極の旅」何年か前に買って読み始めたけど、途中で読まなくなったけどまた読んでみようかな。
いつも見えるところに置いてたんだけど。
Posted by ひろし at 2019年01月29日 12:26
「酔っ払って来る」という表現がおもしろいですね
実際にお酒を飲んで酔っているってこととは違うけど、
この表現はすばらしくて笑えるものがあります。笑
Posted by 薄茶色 at 2019年01月29日 12:36
>人は世間の中で生きる が,世間はあなたの心の中にはない 世間はあなたの中にはない

この行について読み替えてみました。

『人は世間(常識や社会通念)の中で生きる が,世間(常識や社会通念)はあなたの心の中にはない 世間(常識や社会通念はあなたの中にはない』

昨日の記事"学校に行きたくなかった"を例にこの文を書き表しますと、
"義務教育"という概念が世間(常識や社会通念)にあたります。

"義務教育"という概念が、どのような考え方をもたらすか?
「義務教育だから、学校に行って学ばなければならない」という考え方が、常識や社会通念となって子供たちを縛りつけます。
この考え方に縛られることを見直しても良いのではないか?という提議が昨日の阿部さん記事の主旨だと受け止めました。

人は学びたいから学ぶのです。
まず初めに、「学びたい」という沸き上がる意欲を大切にする。
学ぶことに制限やルールはありません。
独学でも良いし、勿論学校に通って学んでもいいし、技術を学んでも良いし、海外に行って見聞を深めてもよい。

「学ぶこと=学校にいくこと」というふうに図式に書いてみると、多くの人がこの図式を奇怪しいとは感じますが、実際はこの図式が常識として心の奥深くに染みついてて手放せていません。

この図式が心の奥深くに隠れていることを自覚し、疑い、
『学ぶこと(学びたいという意欲)』という心の底から沸き上がってくる意欲にあるがままに従うことこそが大切で、学校に行くとか行かないなどという情景は、わりとどうでも良いことなのだと改めて思います。
Posted by 模察模察 at 2019年01月29日 12:55
先ほどまで、OSHOの「JOY」を読んでいました。「究極の旅」も「TAO」のシリーズも大好きです。何度読み返しても、新しい発見があります。
そして、今ここの意識と、思考の煙幕の間を行ったり来たりしています^^
Posted by yokoneko at 2019年01月29日 13:24
究極すぎて、コメントできない。(^^;)
Posted by ダンボール at 2019年01月29日 13:38
普通の旅はどこか遠くにある目的地にいつかたどり着くものです。
外の目的地に向かうものです。

究極の旅は自分の中心点にある永遠の愛の光に気づくものです。
中の自分に向かうものです。

中の自分に向かう道が仏陀が指し示した
中道です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2019年01月29日 14:24
「究極の旅」第1章のさわりだけですが読み返して感じたこと、数年前はなにを言ってるのかいまいち分からなかった所が、今は分かる。
更に数年後違う解釈になるのかもしれない。
いずれにしても、私はまだ渇いた人々を潤すこともできない。

瞑想も起こったのではなく起らせてたのだ。というところにはなるほど、コントロールしていると実感。

更に読み進めてみようと思います。
阿部さんありがとうございます!
Posted by ひろし at 2019年01月29日 16:52
今日のこの記事をリブログさせていただきました。
https://ameblo.jp/sssumiya33/entry-12436345606.html?frm_id=v.jpameblo&device_id=fb769cfa8d6541c19c1b976aa8529f77

「究極の旅」も購入させていただきました。

いつも ありがとうございます m(_ _)m
Posted by 住谷俊治 at 2019年01月29日 19:34
なるほど
円が、完結してねえってか!
痛いとこつくのうまいなあ。
だから、究極の旅なんだ。


本屋さんで、『究極の旅』購入しました。
1800円支払って購入しました。
本屋さんで購入したのに何故かすでに傷がついていて、新品じゃない。
阿部さんちから直接購入したほうが新品だったみたい。
本をひらいて一番驚いたのは
本の後ろのほうに、発行者阿部敏郎ってあって驚いた。

本の内容は、まだ、ちゃんと読んでません。
何故って?
読めば読むほど、落ち込むんです。
究極の旅を避けてる、自分が見えてきてやばいなあって気持ちになるんです。
究極の旅だから、簡単にはいかない。

簡単にいけたら、いったで、それもまた、なんか変じゃない?
これがエゴか?
Posted by ダンボール at 2019年01月29日 20:09
牛の絵、黒斎さんのブログも含めて数回は目にしましたが、今回はとてもしっくりきました。
とても暖かい記事でした。
阿部さん、ありがとう。
Posted by ハンネ忘れ at 2019年01月29日 20:23
読んでも全然言葉が入ってかなかったのは、和尚と相性が悪いせい?
Posted by 月影 at 2019年01月29日 20:32
阿部さん、いつもありがとうございます。

今日の内容からはずれてしまい、ごめんなさい❗

模索さんの、義務教育のこと、学びたいと思うことの学び、
じわっと心に染みました。

育てるって、やっぱり、
教えることじゃない。

言葉にできないけど、
親として、って大義名分は
義務感?になっちゃってるな。
私の場合ですが。

今、我が子に何ができるのか。

何も出来ることはない。
すみません、表現できなくて。

見守りたいと思いました。

無責任な発言になってしまいましたが、とても心がふんわりしたのでコメントしたくなって。

ありがとうございます。
Posted by サウナ at 2019年01月29日 22:21
>〈聖なるもの〉に酔って─ ほかの人たちも酔っぱらえるように手を貸そうと─

うひぁひぁひぁ・・・そうきましたか。

「なんだこの酔っぱらいめ」
「そうだよ、ただの酔っぱらいだよ・・・わしも、あんたもな。
 それでいいじゃないか」

〈聖なるもの〉に・・・『酔って』いるだけ。
『自分が』『聖なるもの』では、ないわけですよね。
『自分は』『それそのもの』ではない。
でも、『誰も』が『それ』に辿り着けるし・・・というより、
『誰も』が『それ』に居るし、
『誰も』が『そのこと』を『思い出せる』。

そんな感じでしょうか。

『到着』を、楽しみにお待ちしています・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2019年01月30日 01:02
限定とかの言葉に弱い人は、きっと、絶版とかの言葉にも弱いのでしょうね。

電子書籍で出てれば、絶版とか気にしなくて良さそうですけどね。


月影さん

>和尚と相性が悪いせい?

セレブじゃないから

じゃないですか。

OSHOの紹介文に

>セレブに支持され続ける世界的スピリチュアル・ティーチャー

とありましたから。

引用元 Amazon Kindle版「Intuition 直観」の紹介文


冗談はさておき、訳者との相性もあるかもしれません。
私も過去、OSHOの本を読んだけど合いませんでした。(セレブじゃないから?)
まあ、私は、真理への道は、ひとそれぞれで、必読の書なんて有り得ない、
と理屈を付けて安心してます。
OSHOの本を読むか読まないかは、すでに決まってることなんでしょう。
読むことが決まっているなら、どうあっても必ず読むことになる、って。
Posted by rakuni... at 2019年01月30日 01:56
ダンボールさん、おはようございます。

先日は、コメントして頂き、ありがとうごさいました。

ダンボールさんにしてみれば、話したい、聴いてもらいたいだけの?

コミュニケーションの一端だとは思いますが・・

先日の件を思い出して下さい。

阿部さんや、阿部さんのブログに依存し、毎日の記事内容に振り回され、

それを視るマインドや、純粋な自分の側を(あまり?)見ていないことに気が付いてみて下さい。

難しくしたり、色付けしているのは、あくまでもその勝手に動いているマインドや、

それに注目している自分の側の反応だということを思い出してみて下さい。

上の解釈が難しければ、「あくまでも難しくしたり、色付けしているのは、自分がやっていること。」でもいいです。

しかし、自分流に、難しくして、それを感じるのも、自分(マインドが)が様々に色付けしたもの、味わうのも・・

人というものの生涯を体験する中での、一興でもありましょうが。。
Posted by y-be at 2019年01月30日 06:32
オレはここにいるぞ~

オレという自我を当たり前に持ち、オレと世界に分離している

探求のはじまり~はじまり~



第八図…これは熟睡中のことであり、

オレという自我が完全に消えた!世界も完全に消えた!

第九図…朝起きたばかりのことであり、

オレという自我がまだぼんやりしていて、オレと世界の分離は曖昧…

世界だけが存る…全体だけがある…

第十図…布団をたたんだ時のことであり、

オレという自我が完全に目覚めた!世界も完全に存る!

しかし、オレがいようがそれは幻であり、

オレがいようがいまいが同じこと

オレがいようがいまいが、世界だけがただ存る!

こんな感じでしょうかね?

祝福☆祝福☆

おめでとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2019年01月30日 07:00
全くその通りですね。
Posted by 全田ワタル at 2019年01月31日 15:58
「究極の旅」八.人牛倶忘まで読みました。
理解力の悪い私なので何度も読み返して時間がかかります。
更に読み返さないといけないと思っています。
今の私はやっと牛を見つたのかまだ見つけてないのかどっちなのか、、、よくわかりません。
一瞥もない私はまだ牛を見つけてもいないのでしょうか?
また、瞑想中思考が暴れて手なづけられていないなぁと感じます。
でも、毎日瞑想は続けていきます。
そして、更に読み進めてみます。
Posted by ひろし at 2019年01月31日 22:13
全てが与えられていた と気づいた人は

生かされている命の

本当の役目を知って生きる様になり

その生き様は

さなぎから羽化して

飛び廻る蝶

生きる事に酔える人

つまり、神を生きる人に

なれるのだと思います。
Posted by 神生粋流 at 2019年02月01日 12:47
模索さんの考えは

実験によって

証明された?

グリーンスクールってのが

バリ島にあるそうです

行ってみたい。
Posted by 神生粋流 at 2019年02月01日 12:50
今、読み終わりました。
阿部さんが普段から話してくださっていることと同じでした。
その人が悟ったか悟ってないかの違いは、他者が本来悟ってると知っているかいないかの違い…
しばらく時間をおいてまた読み返したいです。
というかもうパラパラあちこちめくって読み返してます。
Posted by ひろし at 2019年02月01日 16:35
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