2015年01月29日

1月29日の記事

禅僧でもない自分が、なにかに導かれるようにして、禅の普及に人生をかけてきました。

このブログもそうだし、それまで長年やっていたセミナーも同様です。


そこにはひとりのインド人(OSHO)の影響がありました。

天河神社にも縁があったその人は、亡くなる前の一年間は、日本の禅についてだけ話をしました。

昨日、友人の家で、彼のメッセージを見つけたので掲載しておきます。


中国では六百年間、仏教とはたんに頭の体操、いい運動でしかなかった。

しかしボーディダルマが中国に入って、禅についての見方をすっかり変えた。

人々は禅のことを哲学の一種のように考えていたが、それは違う。

それはマインドに対する反逆だ。


そして世の宗教や哲学は、みんなマインドの一部だ。

禅はマインドや自己に対する唯一の反逆であり、あなたを閉じ込めるあらゆる制限を取り払い、無の中へと量子的飛翔を遂げる唯一の反逆だ。

しかしその無は生命に満ちている。それは生であり「存在」だ。

それは仮説ではない。


あなたが飛翔するとき、その最初の体験は、自分が消えることだ。

そして最後の体験は、自分が全体になることだ。




余計なことだけど、一言つけ加えておくと、

最後の二行は、ほぼ同時に起きるということ。



いま天河神社でこの記事を書いています。

天河で暮らした月日は、バグワン(OSHO)の本との道連れでした。

いま四半世紀ぶりにここに帰ってきたような気持ちでいます。


31日はTHE禅アカデミー発足のご報告を兼ねて、ご神事と奉納演奏をさせてもらいます。

アカデミーの参加者は、きっかり1000名になりました。

26年前に一人でこの山を下りたけれど、こんどはTHE禅アカデミーを代表する100名の仲間と共に祈りを捧げます。



「ただいま戻りました」

そう伝えてきます。



Posted by Toshiro Abe at 09:22│Comments(90)
この記事へのコメント
おはようございます\(^o^)/
色々とおめでとうございます(^^)

ZENアカデミーには参加が叶いませんでしたが、タイミングが合えばきっとご縁があると思っています。

今日もいい日でありますように。
Posted by きすみれ at 2015年01月29日 09:30
阿部さん
いつも感謝しております。
御礼にみなさんの事を思って延命十句観音経を唱えたいと思います。
有難うございます。
Posted by ムトゥ at 2015年01月29日 09:32
ありがとうございます<m(__)m>
Posted by matsu at 2015年01月29日 09:36
阿部さん

いつもありがとうございます。

自己が消えることと全てがひとつになるこの始まりと終わりの体験は同じですね。自我が消え失せ、相手との境界線がなくなり、あ、そっか!と全てはひとつだったのかとわかる感覚ですね。
Posted by 金田一 at 2015年01月29日 09:45
26年間の想いが、ひとつの形となったのですね。
おめでとうございます。
自灯明の光を手に、
これからも多くの人の道を照らし続けて下さいね。
Posted by 天の川銀河 at 2015年01月29日 09:49
>あなたを閉じ込めるあらゆる制限を取り払い、無の中へと量子的飛翔を遂げる唯一の反逆だ。

TAOの中にあった似たような文を詠んで感動し、
制限「自分を閉じ込めているあらゆる制限を取り払って、無の中への量子的飛翔を遂げるぞ」と瞑想を頑張っていました(笑)

あははははは。笑うしかねえ。泣くしかねえ。
大いなる命に平伏すしかねえですわ。

人生失敗したと思っていたけど、制限が大いなる命をはみでて失敗なんてできっこねえや。

阿部さん、伝え続けていてくれてありがとう。
Posted by マイペース at 2015年01月29日 09:56
ありがとうございます。なぜか感無量です。よろしくお願いいたします。
Posted by ちゃんみー at 2015年01月29日 10:05
ある日oshoの本に引き寄せられ、何故か阿部さんに出逢い、どう言う訳か天河神社を訪れ、とうとう禅を学ぶことになってしまった時 何かが始まり終わるような感覚がありました。
そして いま  『一人で山を下りた。。。ただいま 戻りました』の件で熱く込み上げ
涙し 瞬間 過去性にシフトしすべてが 理解できました。

阿部さん お疲れ様
お帰りなさい
そして  ありがとう。
Posted by kayoko at 2015年01月29日 10:09
>そして世の宗教や哲学は、みんなマインドの一部だ。


... こういうこと書くから

このブログから離れられん。
Posted by かしゃく at 2015年01月29日 10:31
天河神社に行ってみたいです。
Posted by 南部鉄瓶 at 2015年01月29日 10:39
>ただいま戻りました。。。ぐっと きますね。

・・・一人が 百人、百人が千人、千人が・・・やがて でしょうね。

阿部さんの人生に 輪(和)を感じるのは 私だけではないはずです。

阿部さんの熱情に敬服します。

何人になろうとも 内側は 同じで 様々な個性と 個性を成り立たせるもの

しかないのだろうと、妄想に励んでいきます(爆)(まけおしみかな?笑)
Posted by アゲハ at 2015年01月29日 11:13
すべてが大いなる宇宙にもたらされた因縁であり、それはより深い愛へと全てを誘います(^-^)
この宇宙意識が全体意識をあげていく為に、天河神社への導きは大きな役割を担っていたのでしょう。宇宙の仕組みに感謝ですm(_ _☆)m
この完全完璧な流れが本当に嬉しくて
先々が楽しみで仕方ありません(^-^)
みんな~今日もホントにありがとう(^O^)
愛する宇宙にありがとう☆〃
Posted by 星の花 at 2015年01月29日 11:16
最初の体験は、自分が消えること

最後の体験は、自分が全体になること


阿部さんに いまここから

        ありがとう
Posted by kky at 2015年01月29日 11:18
アイデンティティがはがれて、
確かな「私」というものが存在しないとわかっても、
まだ二元性の感覚が残っている期間があると思います。
なにものでもない、かすかな主体が残った状態の期間。

そして、最後にはそのかすかな主体もなくなる…
Posted by 凡人 at 2015年01月29日 11:22
過去世でそことはどんな関わりがあったのでしょう?
Posted by ひよどり at 2015年01月29日 11:36
天河詣で、他のアカデミー生の分もよろしくお願いしまっす!ヽ(^o^)丿

それにしても、マインドに対する反逆!?

OSHOらしい、痛快な表現です!

常識や観念、あらゆる分離、枠組みをぶち壊す、禅の存在、、

今生においてその道に出会えたことを誇りに思います!


こちら東北も寒いですが、天河も寒そうですね!

熱い神事で吹き飛ばして下さい!
Posted by ハリー at 2015年01月29日 11:44
>禅はマインドや自己に対する唯一の反逆であり、

OSHOは、インド人なのに、日本の禅に惹かれた。
だが、禅のルーツを辿ると、シルクロードを伝ってインドに行き着く(笑)。
禅のルーツにも、マインドや自己に対する反逆は存在する。

現代では、日本人でも、禅ではなく、
インドのヴェーダの世界観に惹かれる人もいる。
その人の主観が、その人の世界を決めている。

マインド(自我意識)の数だけ、世界は存在する。

『無伺(ニルヴィチャーラ)三昧が最も純粋なものになると、
自己の内に(アディヤートマ)おいて篤信(ブラサーダ)が生ずる。
この自己の内なる篤信(アディヤートマ・プラサーダ)の中に、
真理を保持する真智(プラジュナー)が在る。
真智とは特殊な対象を客体にするゆえに、教示や推理による知識とは異なる。
この真智から生ずる残存印象(サンスカーラ)は、他の残存印象の発現を防げる。
この残存印象をも死滅させると、すべての心理作用が死滅するので、
無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)に達する。』
(ヨーガ・スートラ 第一章 三昧章)
Posted by 夢想三昧 at 2015年01月29日 11:58
「神」とは「全体」なり!

「真我」は「神」なり!^^
Posted by 近藤 at 2015年01月29日 12:00
すごい!何か感動しました!(^ー^)ノ
Posted by かずき at 2015年01月29日 12:05
雲のような想念である自分が消えると

大空のような全体である自分が現れてきます。


そして大空の中心には

太陽のように至福の光を放つハートがあります。


本当の自分は

サット・チット・アーナンダ

存在・意識・至福です。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2015年01月29日 12:27
ほんと、阿部さんの思いが伝わってくるよう・・
神妙な気持ちになります。
導き、なのですね・・・(^^)
Posted by ようこ at 2015年01月29日 12:39
昨日従姉が
亡くなりました。まだ40代、大いなる者に帰る旅をしているのでしょうか?、彼女は笑っているんでしょうか?私は悲しくて涙が止まりません。
人生とはなんなんだろう、全てはリーラ、大いなる幻影、頭で分かっていてもなお悲しいです。
生きている間にどうすれば魂が震える喜びを味わえるんでしょうか?
私を含め多くの魂が、目覚める事が出来ますように。
天河神社今回の神事には行けませんが、離れた地よりお祈りさせて頂きます、宜しくお願い致します。
Posted by うみそらかぜ at 2015年01月29日 12:56
THE禅アカデミーに参加出来たこと、面白い一年のスタートとなりました。
このチャンスが巡ってきたこと、チャンスに乗れたこと、ありがたいことです。

老師の指導のもと座禅をはじめて、2日。こんなに静かに座っていることが難しいとは、、、股関節の柔軟体操も必須なようです。
面白いな~。
この時間が持てること、贅沢だなぁと感じます。
Posted by ユキ at 2015年01月29日 12:58
去年の秋にOHOのタオシリーズを4冊買って、まだ一行も読んでいません。自分はいつ読むつもりなんだろうと思っていましたが、このスクールの6ヶ月間を使って読もうかなと思い初めていたところです。ワクワクして来ました*\(^o^)/*
Posted by 香織 at 2015年01月29日 12:59
去年の秋にOHOのタオシリーズを4冊買って、まだ一行も読んでいません。自分はいつ読むつもりなんだろうと思っていましたが、このスクールの6ヶ月間を使って読もうかなと思い初めていたところです。ワクワクして来ました*\(^o^)/*
Posted by 香織 at 2015年01月29日 12:59
去年の秋にOHOのタオシリーズを4冊買って、まだ一行も読んでいません。自分はいつ読むつもりなんだろうと思っていましたが、このスクールの6ヶ月間を使って読もうかなと思い初めていたところです。ワクワクして来ました*\(^o^)/*
Posted by 香織 at 2015年01月29日 12:59
昨日従姉が
亡くなりました。まだ40代、大いなる者に帰る旅をしているのでしょうか?、彼女は笑っているんでしょうか?私は悲しくて涙が止まりません。
人生とはなんなんだろう、全てはリーラ、大いなる幻影、頭で分かっていてもなお悲しいです。
生きている間にどうすれば魂が震える喜びを味わえるんでしょうか?
私を含め多くの魂が、目覚める事が出来ますように。
天河神社今回の神事には行けませんが、離れた地よりお祈りさせて頂きます、宜しくお願い致します。
Posted by うみそらかぜ at 2015年01月29日 13:00
^p^トゥフフ
Posted by たかたかし at 2015年01月29日 13:16
^p^トゥフフ
Posted by たかたかし at 2015年01月29日 13:17
いつもありがとうございます。

アカデミーも受けたいし、
天河神社にもいきたい。

けれど、
経済的事情でそれは難しいです。

いつかご一緒させていただくことを夢に描きます。

ありがとうございます・
Posted by ほったん at 2015年01月29日 13:28
1000人の受講生のこれからが楽しみですね。
みなさんに、どんな変化が訪れるのか?
いつか、アカデミーを卒業した方々に、体験談をお聞きしたいです。
禅は、自力本願の世界ですから、
みなさんお一人お一人のたゆまぬ精進が、
良い結果を招くということですね^^
Posted by 三日坊主 at 2015年01月29日 13:40
阿部さん

おめでとうございます。
ここまで本当にご苦労様でした。

ありがとうございます。
これからも、宜しくお願い申し上げます。
Posted by モルーパ at 2015年01月29日 14:43
クリシュナムルティはバグワンなど相手にはしていなかったが、『バグワン』という言葉を使うことにはとても反対していた。
神でもない人間がその尊称を使うべきではない、と彼は言った。
『私は世界中から、なぜこの男に反対する発言を公にしないのか、という問い合わせの手紙を何千通も受け取っています。それでも私にはそのつもりはありません。
それは私の流儀ではないからです。
この男は犯罪者です。
あなたはこのことをはっきりと理解しなくてはなりません。
彼が霊性の名のもとに人々に行っていることは犯罪なのです。
人はけっしてだれか他の人間~彼は普通の人間に過ぎません~に、
意識の究極の顕現である意志決定の権利を委ねてはなりません。
あなたは十二年間にわたって、彼にそのような力を与えるという大変な間違いを犯してきました。
しかし、この事を理解してください。
すなわち、自分の信奉者から与えられる力の他に彼には力などない、ということです。』

クリシュナムルティはバグワンを公然と非難、批判していましたが、それについてはどのように考えられますか?
Posted by ケロロ at 2015年01月29日 15:01
阿部さんを知るようになってまだ日が浅いのでOSHOの影響があったなんて知りませんでした。
私はオーラソーマを通してOSHOに触れ、ティーチャーがみんなOSHOの弟子だったこともあり、オーラソーマで語られることと阿部さんが語ることが同じだったのが不思議だったんです。私もOSHOの愛弟子からOSHOのエッセンスを少しばかり受けていたんですね。
なんだかとてもうれしいです。
「ただいま戻りました」のところで私も涙があふれました。
天河でお会いできるのが楽しみです。天河で集いましょう。
Posted by あ、なーんだ at 2015年01月29日 15:54
風邪ひかないようにね!
Posted by 通りすがり at 2015年01月29日 16:31
阿部さん、ありがとうございます~♡♡♡
OSHOさんの言葉楽し過ぎます~~♪♪♪
Posted by アサノレンゲ at 2015年01月29日 16:40
クリシュナムルティもしばしば矛盾する発言をしていた様ですね。

「なぜこの男に反対する発言を公にしないのか、という問い合わせの手紙を何千通も受け取っています。それでも私にはそのつもりはありません。それは私の流儀ではないからです。」

と言いながら
「公然と非難、批判して」いたわけですからね。

OSHOの本は読んだことないですが、自分に役立つかどうかは自分自身で見極めようと思います。
Posted by Yasu at 2015年01月29日 16:47
今日の記事と今、FB投稿の写真を見てなんだか胸がいっぱいになりました。
とっても感動してます。
微力ながら遠くから祈らせていただきますね(^ー^)
Posted by J at 2015年01月29日 19:59
いま、暇だったのでw、
YouTubeで、阿部さんの「夜空のムコウ」観てました(^^♪
素敵ですね!

奉納演奏もきっとすばらしいんだろうな~
Posted by ふわ at 2015年01月29日 20:24
K・ムルティは、「真理は、組織化できない!」
と言明し、当時、神智学協会という世界的宗教組織の指導者に世界教師として見出され、星の教団の指導者となっていたが、それを解散し、その後はたった一人で世界中を講演して回った人物です。

(真理に関する)あらゆる組織は、腐敗する。
これは確かな事実でしょうね。

教団という組織に依存したOSHOと、教団組織を解散したK・ムルティは、正反対の行き方でしたね~!^^
Posted by 近藤 at 2015年01月29日 20:25
うわ~…。


しみました。
Posted by ねこ at 2015年01月29日 20:50
あべさんのblogや本を読み 天河神社行ってみたいな~と憧れの地でした。それがボブさんのblogの影響で今年のお正月明けに 天河に訪れることが出来ました☆
事前に情報を探すと 『エネルギーが凄くてびっくりした』とか『龍を見た』とか明らかに他の場所とは違うという事が書かれていて そんな不思議な体験も少し期待しながら行ったのですが 刺激的な体験はありませんでした(o・・o)/~ が、着いて車から降りると ピーヒョロロロ~ トンビの声 『じぃちゃんばぁちゃんただいま!』懐かしい感じと違う世界に来たみたいという気持ちになりました(*´ー`*)
阿部さん 素敵な場所に導いてくださり ありがとうございます☆
Posted by まるみ at 2015年01月29日 20:59
OSHOの言葉は
マインドを超えているがゆえに完璧です。
クリシュナムルティは
神智学協会が人為的に作りだした世界教師ですが、
結果的に失敗に終わりました。
近藤さんの「教団という組織に依存したOSHOと、教団組織を解散したK・ムルティは、正反対の行き方でしたね~!^^」
という意見は
半分の事実しか知らない人のマインドの判断で、
無知の賜物です。
そんな私はクリシュナムルティもOSHOも愛しています。
Posted by 新白 at 2015年01月29日 21:46
自我がoshoをもとめ、それにあった体験を自我が創りだす。

余計なことだけど、一言つけ加えておくと、

最後の二行は、同時に起きないということ。

体験したものはだれですか?わからんだろな。
Posted by 未流 at 2015年01月29日 22:08
いつもありがとうございます。
禅アカデミーに申し込んでこれからの半年間をとても楽しみにしていましたが
主人の病気治療の為、他県に入院を余儀なくされています。
パソコンも見ることがままならず本当はこんな時こそ、自分はいない、すべては一つだと体感できたら揺れているじぶんが穏やかになれるのでしょうか?
ちなみに主人は日本でも珍しい心臓病と診断され、いつ何が起きてもおかしくないわれ、それに加え白血病も発症していると言われ、この1週間のうちにこの現実を突き付けられました。
安部さん、私に何か一言声をかけていただけませんか?
福岡での講演とワークショップの時にも質問させて頂いた者です。
是非、宜しくお願いします。パンジーさんに入力してもらいました。アカデミーではamaterasuです。
Posted by パンジー at 2015年01月29日 22:10
私はK・ムルティが大好きですが、昔はOSHO(ラジニーシ)も好きでしたね~。
初期のOSHOの著書はほとんど読破してました。(職場の持ち込んで読んでいた位です)
そして、最後に読んだのが「ラジニーシ・落ちたグル」・・・これでOSHOが犯罪者であると理解できました。(以来、OSHO本は全く読んでいません)
「犯罪者=悪」と単純に考えてはいませんが、K・ムルティが指摘した「彼は犯罪者です」というシンプルな表現は、見事に的を得たものだと感じます。^^
Posted by 近藤 at 2015年01月29日 22:10
OSHOとクリシュナは表現方法にコントラストがあると感じます。
OSHOから想起されるイメージは"破壊"
クリシュナは"創造"
あくまで私の印象ですが…
どちらが合うかは、人それぞれなのでしょう。
Posted by 模察 at 2015年01月29日 22:11
こんばんは


沈黙☆

沈黙☆

沈黙☆


ひとつ


OSHOもクリシュナムルティもラマナマハルシも

すでにこの世での生は終えて

今は沈黙のただ中にいるのでありましょう

私達も沈黙すれば

すでに沈黙している覚者たちとひとつになる!


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2015年01月29日 22:15
自己が消えた時そこに全体がある。
たしかに同時ですよね。
経験者なら当たり前の真実。
だって"いま"ですものね。
Posted by 風子 at 2015年01月29日 22:20
近藤さんが指摘するその本はネガティブな目的を持って書かれた本で、
事実を検証したジャーナリストの「アメリカへの道」が一番ニュートラルです。
公に発言されるなら、これを最後に読んでいないなどと仰らずに、もうすこしお勉強されたほうがいいのではと思いました。
Posted by スイトピー at 2015年01月29日 22:29
「アメリカへの道」は、書店でしっかり立ち読みさせていただきましたよ。^^
Posted by 近藤 at 2015年01月29日 22:31
”教団”というと、すぐに連想してしまう。
日本人の忘れがたき教団事件。
OSHOが亡くなったのが、1990年。
かの教団が、活動を始めた頃が、1984年頃、というから、
OSHO全盛時代、と重なる。
OSHOの羽振りのよさは、日本にも聞こえていただろうから、
カルトを志す者には、格好のモデルだった、とも考えられる。
もちろん、これは推論だが、
OSHOは、良い意味でも、悪い意味でも、
スピリチュアルな世界に大きな影響を与えた、と言えそうだ。
Posted by 20世紀の意識革命家 at 2015年01月29日 22:44
>あなたが飛翔するとき、その最初の体験は、自分が消えることだ。
>そして最後の体験は、自分が全体になることだ。
>ほぼ同時に起きるということ。

>体験したものはだれですか?
・・・この問いに 阿部さん応えてもらえませんか?

ほぼ同時は 同時ではない事を意図的に示唆されたはずです。
Posted by アゲハ at 2015年01月29日 23:32
31日のご報告楽しみにしています。
この場で誰彼問わず好き勝手に書かせてくれて、ありがとうございます。
Posted by しほ at 2015年01月29日 23:47
oshoも無といってますが、無といってるのは意識です。
Posted by 未流 at 2015年01月30日 00:15
三昧には、2種類ある。
有想三昧と無想三昧。
どちらであるかは、観照者は誰か?ということがポイントになる。

夢を見ている時、夢を見ている「わたし」(観照者)がいる。
しかし、同時に、夢の中の「わたし」と観ている「わたし」の意識は、つながっている。

夢を見ない場合でも、夢を見ていない、という観照者の意識があるので、
目覚めた後に、夢を見なかった、と自我意識が自覚できるのである。

眠っている間、自我意識が働いていない時のことを、自我意識が目覚めてから思い出すことができるのは、
”誰か”(観照者)が「わたし」を観ていて、その”誰か”の意識と自我意識が、潜在的につながっているから、ということになる。

その”誰か”は、無想三昧の時にも、「わたし」を観ている、と考えられる。
それゆえ、自我意識が無意識になり、働かなくなっても、その間のことは、観照者が観ているので、
意識が自我意識に戻った時に、自分がどうであったかを思い出すことが出来るのである。
Posted by 虚空三昧 at 2015年01月30日 01:37
結局は直接観れんでしょう。つまらん
Posted by 未流 at 2015年01月30日 03:55
無を怖がってる自我がいるから、それに参じます。またいつか。
Posted by 未流 at 2015年01月30日 05:56
虚空三昧さんのお話、深く沁み渡りました。
以前講演会で阿部さんが同じようなことを仰っていましたが、その意味がよくわかりました。
Posted by 竜二 at 2015年01月30日 06:10
天河詣で、ありがとうございます。
私は参加できませんが、
想いだけは参加しています。

いままで阿部さんが言うことに間違いはなかったので、
禅スクールも迷わず参加しました。
募集の時はここでいろんな意見がありましたが、
事実はやはり素晴らしい内容でした。
すでに生き方が変わり始めていて、
阿部さんが言っているのはこのことかと。

特に昨日の向さんの講義は
仏教者としての覚悟が読み取れて感動しました。
まだ始まったばかりですが、
これからもよろしくお願いします。

天河は寒いと聞いていますが、
お風邪など召されませぬように。
Posted by shinozaki at 2015年01月30日 06:38
The 禅アカデミーの参加者がぴったり千人って聞いて、鳥肌立ちました。私は最初、受講するのやっぱり辞めようと思ってたのですが、受付最終日にスマホいじってたら、なんだか自動的に、あれよあれよと決済画面まで行ってしまいました(^.^)自動的に決済画面まで行ってしまってるのを冷静に、何かが見ていました。その何かが、「それ」なのかもしれないな。ありがとうございました。
Posted by サティータ at 2015年01月30日 07:12
>虚空三昧さん

夢という身近な例にてのご説明 ありがとうございました。

一瞥体験で、即効で自我の感想が入り込んできた訳が理解されました。

観る・・・という言葉は、わりと不便なものですね。(笑)
Posted by アゲハ at 2015年01月30日 08:21
おはようございます


無を怖がるということは…

無について自分が想像するからなんでしょうね

無についての想像も含む全ての想念がなくなった時に訪れる沈黙が

本当の無


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2015年01月30日 08:45
私にとっての初OSHOは、OSHO禅タロットでした。
スピリチュアルな事に興味が無かった頃なので、最初はカードの意味もほとんど理解出来なかったのですが、何か惹かれるものがあり、その後もそこにある深い意味が知りたくて、何度もカードを引いては読み込み、気づきと理解を深めました。
禅タロット無くして今の私はありません^^
きっと禅アカデミーもそのような役割をするのだろうなぁと思いました。
天河詣で、おめでとうございます♪
Posted by 雪光 at 2015年01月30日 09:00
今朝、親友が天国に旅立ちました。
今日の記事を読み涙がとまりません。ありがとうございます。
延命十句観音経を唱えさせていただきます。
Posted by サラサ at 2015年01月30日 09:15
もともと自我とは実態がない(浮かんでは消える思考そのもの)
だから消そう無くそうと必死になるとは馬鹿げている。
もともとすでに全体であって
全体以外になれるわけがなかろうが。

みんなどうかしてる。
意識って
ほんとに馬鹿だな…
でも、そういうゲームだった。

だから1番の近道は

無とか全体化とか求めない
ってことでしょーが?

求めてるうちは
ずっと分離の幻想に捕まったまま。

わかる人はもうありのままに
くつろいでるよ。
Posted by 匿名 at 2015年01月30日 10:19
無想三昧においては、自我意識はその働きを止めており、
”無”であるとも言えるが、それに対する恐怖はない。
むしろ、大安心(アーナンダ)の中で達せられる、と言える。

それには、”浄心”(清らかな心)”強健力”(意志の強さ)”記憶”(記憶力)と、
”三昧に入る智慧”が必要である。

この4つを具えるために、ヨーガ(行)がある。

この4つが身についた者は、準備ができた者であるから、
”無”に対する無知と恐怖を克服し、己(自我意識)を捨て、”観照者”にすべてを委ねることが出来、
虚空三昧(スンニャ・サマディ)に入ることが出来るのである。
Posted by 虚空三昧 at 2015年01月30日 10:21
悟りとか一つになるー
とか「特別な体験」とか
期待し過ぎーーー

すでにみんな
「それ」以外の状態には
なれないのに!

って言ってもわかりたくない
って自我がダダこねてるだけだって!
変性意識状態なんて
なんの意味もないから。
そんなの体験したって日常は続くし
逆にその体験にしがみついて
せっかくの日常が味気なく感じるようになるだけだよ。
だから騙されないで!平凡こそ
非凡なことだからね!
覚者になるっていうのは
今あることの否定だからね
否定こそ、分離だよ!
Posted by いい忘れた at 2015年01月30日 10:26
ありのままにくつろぐヒントありがとうございます
Posted by 馬と鹿 at 2015年01月30日 10:31
他の欲を滅しても、それでもなお、
”知りたい”という強い気持ちを滅することができない者のみが、
己を捨ててでも、進んでいく道である、と言える。
だから、誰でもそこに行けるとは、言えない。
行きたい者のみが、行くだけである。
しかし、一度、三昧を味わった者は、虚空の智慧を授かるので、
何があっても、何を言われても、心が動じることはなくなる。
それは、人類にとって、秘宝中の秘宝であり、至高の歓びと言える。
Posted by 虚空三昧 at 2015年01月30日 11:07
面白いコメント欄になっていると思います(笑)

誰も 間違ってなどいなくて、誰も 正解でもない・・・みたいな。

リーラ。
Posted by アゲハ at 2015年01月30日 11:12
夢想三昧さんと虚空三昧は
同じひとですか。

無意識、瞑想状態の視覚的、
映像は?

どのようなものなんでしょう?
Posted by かしゃく at 2015年01月30日 13:52
失礼、虚空三昧さんです。
Posted by かしゃく at 2015年01月30日 13:55
 同じ(はずの)禅の教えでも相性はありますね。
 私もOSHOの本は以前手にしたことがありましたがなんだか感覚的に合わず、それ以上買うことも、読み込むこともしませんでした。
 一方、阿部先生の本(と雲黒斎先生の本)はある程度買って、買った本は読み込み、このブログにも出入りしてコメントさせてもらっています。
 その阿部先生は大いにOSHO師に啓発されている。
 …師弟間の相性ってあるんでしょうか。
 慧能禅を伝えた「石頭希遷」師と「馬祖道一」師にも教えの違いがあり、一方の門下で埋没していた人がもう一方の門下に移って頭角を現したこともありましたし。
 師弟間の関係は鍵と錠前のようなものなんでしょうか。
Posted by オーベルシュタイン軍務尚書 at 2015年01月30日 14:19
人に尋ねて、答えを得て、わかったつもりになっても、
結局、自我は満足、納得しないでしょう。

自分で確かめないと、本当には納得できない、という自我の特性があるので、
最終的な答えは、自分で体得するしかないのですが、
それでも、何かのヒントになるかもしれないので、書かせて頂きます。

瞑想状態の視覚的映像ですが、
何か映像(ヴィジョン)が視えるとしたら、
それは、有想三昧かと。

夢を見ている「わたし」と夢の中の「わたし」はまだ一体であり、
夢は、ヴィジョンに相当します。

『有想(サンプラジュナータ)三昧は、尋(ヴィタルカ)、伺(ヴィチャーラ)、
歓喜(アーナンダ)、我想(アスミタ)の意識を伴っている。』
(ヨーガ・スートラ)
Posted by 虚空三昧 at 2015年01月30日 14:33
申し訳ございませんが、

単に映像化があるならば、

どの様なものか、がお聞きしたかったことです。

無ければ無いでしようがありません。

..... うんちく三昧言われても

ありがとうございました。
Posted by かしゃく at 2015年01月30日 15:40
うんちくに聞こえ、求めている答えになっていなかった、ということですね(笑)

ご自身で体得されれば、わかることかと。

ありがとうございました。
Posted by 虚空三昧 at 2015年01月30日 15:47
ところで、そんなヴェーダの世界観に惹かれた
虚空三昧さんが

なぜここに?
Posted by かしゃく at 2015年01月30日 16:06
今日は寒いですね〜
目糞と鼻糞ってどちらも糞なんですね 笑
そんなくだらない事を考えながら耳糞掃除をしています 笑
糞、糞煩いですね 笑


ブログ勉強になります
Posted by IAM ??? at 2015年01月30日 17:39
ど、どうしたんですか・・・ここ・・・
Posted by すんません、匿名で at 2015年01月30日 18:01
>なぜここに?

そうですね(笑)
そういうご質問がある、ということは、
”ここ”に集うのには、何か特別な枠があって、
”禅”以外のことをご紹介するのは、おかしい、ということなのですかね(笑)
(禅を否定していませんよ。そう受け取られたのなら、書き方がまずかったですね)

禅のルーツもインドにあり、
(釈迦の教えを継いだとされるボーディダルマ(菩提達磨)(南インド出身)が、
中国に入り、禅の教えを伝えたとされています)
同じインドなら、ヴェーダの世界観と似ているのかな?と(笑)

ヴェーダが誕生したのは、前10世紀~5世紀とされ、
釈迦が生きていたのは、前6~7世紀と言われています。
(これには他説あるようです)

仏教が日本に入ってきたのは、飛鳥時代(6世紀)。
仏教から分派した禅が、日本に入ってきたのは、鎌倉時代(12~14世紀)。

釈迦の教えは、お経として、原典(サンスクリット語やバーリ語)の漢訳が入って来ました。

このように、成立過程を見ると、禅のルーツである仏教(釈迦の教え)は、
時代、文化圏(インド・ネパール地方)が近いということもあり、
ヴェーダの世界観とも相通ずるものがあると感じます。

お経は、漢字で書かれ、ヴェーダ聖典は、サンスクリット語です。
しかし、両者は、言語の違いだけで、そこには、多くの類似点を発見することが出来ます。
(ちなみに、仏教で使われる”三昧”は、サンスクリット語のサマーディの音写で、ヴェーダの世界では、よく使われる単語です。)

これも、ウンチクで、スピリチュアルではありませんが(笑)

個々の宗教の成立過程やその後の展開などを探ってみると、
いろいろなものが視えてきて、なかなか面白いです。
Posted by 虚空三昧 at 2015年01月30日 18:06
虚空三昧さんの きもの座った受け答えに、感じいっております。

私なら 逃げ出しているところです(笑) 書き込み ありがとうございます。
Posted by アゲハ at 2015年01月30日 18:40
いえ、特別枠でもなく自由だと思います。

ただ、真理に到達された方はコメント欄に
こだわらずに、
独自の場所で、ただ何一つも述べることもなく
ただただ、どかっと座ってるもんだと、
あ、こう言うこと阿部さんがナントカと言ってましたね。

まあ、どうでしょう。
Posted by かしゃく at 2015年01月30日 19:00
26年で

一人が

1000にん(仙人)?になった。

予定されていた

奇跡。

全てが軌跡

貴方が歩いた

そのあとに

綺麗な華が

咲くでしょう。

ソレ、ワンツーワンツー

休みながら歩け~
Posted by 神生粋流 at 2015年01月30日 19:51
みなさん、悩んで考えて、ともかく探ってくださいまし。
そこから道は始まってると思います。
ただ、その過程で結論つけないでください。いいかたは、難しいし、その都度、なんかしらの決定はしなくてはならないは、わかります。

ただ、怒りたけば、目一杯怒って、悲しければ枯れそうになるまで、泣いてください。


でも、ご自分から全部始まり巻く引きも、同じです。

そこに、逃げられない責任があります。


紆余曲折はあるとして、そのときそのときに、うけとれることしかわからないし、そう判断せざるをえないですね。

もし、心理と言われてると判断したことが書いてある紙でも、

経験や言い訳や学んだことからしか

読み取れないことが、事実だと、


だいたい、、文字になったとたん死んだものですからね、
それは、万人には当てはまらないし、口伝というものは、その個人に当てはまるようつたえたもので、それを残しても万人には当てはまらないが、妥当です。





あい

ということばに、絶望に近い感じです。
このよに、これほど平気でまかり通る、ことばはなんでもいいんですが、

そのなのもとに、流される血は、あってはならないと思います。




捨てることは、できません。
ただ、お預けすることです。
悲しみ苦しみを、お預けするんです。

そのとき、止まる瞬間に、

全体につつまれて、間違いなくそのひとつでいさせてもらってることを


実感できます。

それは

ひとつで、違う体験?ではありません。

セットですよ。一緒なんです。

とまったときという表現が正しいかはわかりませんが、ふと無くなったときに、おとずれます。


それを、知ってどうしたいの♪

もう、いちど、

どうしたい!?
Posted by あたし at 2015年01月30日 22:07
中華三昧も宜しく。
Posted by 明星 at 2015年01月30日 22:22
何てったって、温泉三昧~♪
Posted by い~い湯だな♪ at 2015年01月31日 01:06
めに、ふれないように、
こわいからです。

左右するちからはありませんが、


事実は公然とかくされるのが、現時点で真実と言えるとおもいます。


じぶんのなかで、
決め込むのは、もう、おわりにしてください。


あなたは、首輪つけられたままでいいんですか!?



あなたは、理路整然としないと、いきられないの!?




受け入れるだろうことばだけ選んで

それ以外は

単に積み込まれた、




え!?


積み込まれたです。



ことばなんか、どうでもいいのに、

その、体験の上に、たたかわなければ、ならないと感じます。



さとりがなにさ、
稀有の体験でも、
ぶち殺されておしまい…

それも、あたしにね。



そんななかで、とんだけ、じぶんを守れなかったか知ることになります。


もどります。
否定しないではないんです。

無視することでもない。


ことばは、大嫌い…
伝わるのが、たいへんだから。


祈りは大切でも、
たくさんの意思ならちからがあると、おもいあがるな。


すくない善意なんかいらないし、
すくなくとも、それは善意なんか、


それば、このせかいのしくみでは、


むりです。


ちからになって、がんばれるは、
この両足であり、たらなければ、まだ、両手があるだけなんです。


おもいはゲンジツニなるは、正しいとおもいます。

がんばれますから、そう結果残す場合もありますが、

それは、一面からだけ。



すこしでも、正しいとはいえませんが、


悟りとか、

そんなことばのなかに、

依存してる、あんたがいます。








きがついたら、
最高のよろこびであり、いままで、だましてきた後悔であり、

かえます、全体の、ひとつであったことを、
ただ、
圧倒されます。
そこには、ひかりしかありません。



いずれ、戻るところです。


で、
なにさ!?




痛みはなくならないよ。
痛みがそのとき会ったら訪れないから、

ことば、きらい。




はなしが、難しい?
内容が、あなたに、あったときに、すこし響くかもね。


場所はえらびません。
Posted by あたし at 2015年02月01日 00:56
もとめても、わかってます。

ここには、いません。

もともと、会えるなんかおもってません。ちゃんと、話できるなんか、ないんでしょうね。


ありがとね。
Posted by あたし at 2015年02月01日 02:13
ふふふ‥。「‥語る者は親しからず。」
Posted by あした at 2015年02月01日 08:58
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