2022年11月04日

認識の前にあるもの

いまから書くことは言葉にするのが難しく、したがって解りにくいかもしれませんが、流し読みするのではなく時間があるときにゆっくり読んでみて下さい。


この現象世界というものは、純粋意識が映し出した幻想だと気づいたとき、その現象世界に主人公として登場する「自分」という存在も幻想だったと気づきます。

対象が消えれば主体も消える。

この気づきが、見せかけの人生で起きる最大の恩恵となります。

あらゆる苦悩も、罪悪感も、劣等感も、不安も、怖れも、すべてがたちどころに消え去るからです。


もしこのことを知らなかったとしたら、この阿部という現象もいまだに自己を高めるために奮闘していたことでしょう。

自分自身の至らない点や、思うように展開しない現実に対して、罪悪感や無力感を感じていたかもしれません。

それもこれも「私という個人が存在する」という誤解が作り出したものです。



朝起きた直後すぐに活動に入る前に、まずは「ただ在る」という感覚を持とうとすると、ここで言っていることの意味を理解できるはずです。

注意深く観察すると、目が覚めて起きた直後はまだ思考が完全には機能していません。

そのときがチャンスです。


あらゆることは、認識という作用によって顕現化しています。

認識しなければ、何一つ存在していません。

この宇宙でさえ、あなたの認識によって存在しているのです。

宇宙があるおかげであなたが存在しますが、真理の視点から言えば、あなたがいるおかげで宇宙が存在します。

あなたが万物の創造者なのです。


この場合の「あなた」とは、個人としてのあなたではなく、純粋意識としてのあなたです。

それが万物を作り出す源であり、実際にはそれしか存在していません。

その純粋意識としてのあなたが、全体とか神とか呼ばれるものです。


認識の前にあるもの


朝、目が覚めた瞬間、この話を思い出してください。

自分が誰であるか、ここがどこであるかを認識する前のわずかな時間です。

そのとき「ただ在る」という感覚を持つことができます。

その「ただ在る」存在が、本当のあなたです。


そこから万物が、認識という形で生じ外側に投影されます。

投影された現実は幻であり、「ただ在る」純粋意識が実体です。

そしてこの両者は同時に起きています。

それを空即是色と言います。


このことさえ知っていれば、投影された現実に巻き込まれることが減っていきます。

たとえ巻き込まれても一時的なものになります。



事実を端的に伝えようとすると理屈っぽくなってしまいますが、ここに書いたことを理解できたら、あなたの夢の人生は煙のように消えていきます。

その後に残るのが、最初からあなたに与えられていた喜びであり祝福です。


それはいまもそうなのですが、投影された世界の中を生きると、その不完全な状態に巻き込まれてしまい、それを解決するのが人生の目的になってしまいます。

よりよい明日のために生きだし、結局はどこにも行き着かずに、やがて肉体の活動が終焉するのです。

これが夢の人生の宿命です。


人生とは、より良くしていくためにあるものではなく、人生そのものが幻想だと見抜くためにあります。


いつも同じ話になってしまいますが、今日も伝えたいのはこれだけです。









Posted by Toshiro Abe at 08:18│Comments(12)
この記事へのコメント
頭の中の五感と想念に向かうほど↑
頭の中の五感と想念が存在感を増していきます↑
激しく波立つ感覚が増していきます~~~

頭の中で上映されている「わたしの人生」という映画に
激しく巻き込まれる感覚になります↑

胸の中の光に向かうほど↓
胸の中の光が存在感を増していきます↓
静かに止まっている感覚が増していきます―――

頭の中で上映されている「わたしの人生」という映画を
静かに観ている感覚になります↓

「わたしは永遠の観照者」という感覚になります―――

わたしたちはみんな永遠に存在している純粋な光です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2022年11月04日 08:51
自分は相変わらず、
『あーだこーだあっちゃこっちゃと思考や感情を右往左往している自分』
でしかないですが、
それでも、このお話が確かだと思えるのは、
このお話にあることも、
子供の頃、喘息とかで苦しくてしょうがない時ですら、ふと感じたことも、
トイレでホッとした瞬間も、
ぼーっと『何も考えていない』時も、
歩いている時に、『自然と歩けている』・・・
『自然と起こっている歩く力』に気付けた時も、
たった今こうして起こっている『自然な呼吸』に気付けた時も、
『全く同じこと』だと思えるからです。

↑とか書いてるのは、結局『この自分』で感じ、思ったことでしかないですが、
本当は『』←なんて『壁』とか『境界』とか、全く関係なく、かつ、すべてを含んで、


               同じこと


なんだろうと、勝手に思っています。
まぁ『なんだろうと思っているだけの自分』でしかないですが(笑)
『そう思える』だけでも、『この自分』が


                ここ


に還りやすくなれて、その分気楽で居られているのは確かです・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2022年11月04日 10:18
朝、目が覚めると、夕べ見た夢の断片が切れ切れにぼんやり浮かんできて、「ああ、何か夢を見たな、なんだったかな」とたぐり寄せ始めます。すると断片同士が徐々に結ばれていって、「ああ、こんな夢だった、変な夢だ、楽しい夢だ」と理解するのですが、幻想である現実世界も同じようなものかもしれません。ただ起きた(思った)事が次々沸き上がってあるだけのものを、思考が納得できるようにどうにか線でつなぎ合わせて、ストーリーを作っているだけ。
瞑想は夜だけでしたが、明日からは目覚めて夢を反芻する時間を、存在に寛ぐ時間にあてたいと思います。
Posted by ウリッセ at 2022年11月04日 10:29
いつも阿部さんのお話を体感したいと耳を澄ませています
では 痛みはどう捉えたらいいでしょうか
Posted by ヨー at 2022年11月04日 11:42
これほど分かりやすく真理について語られている文章に出会えたことに心から幸せを感じます。ありがとうございます。
Posted by moto at 2022年11月04日 12:45
あー、すごい。

今日想っていたことと、おそらく重なる内容なんだと想うんです(^^)

ただ、書き表すのが難しい。。(笑)

なんちゃって、私もよく解っていないというか、探究中?と捉えています(^^)でもストーリーよ☆


「わだかまり、心のモヤモヤ等が、気分を悪く感じさせ、ネガティブな夢に繋がってしまうとか(^_^;)」


↑書き出した内容の一部、最後の部分なのですが、なぜこれを書いたかって、瞑想を始めて浮かんだので?浮かんでいることに気付いたので?、

整理するような気持ちから書き出しました。

ネガティブエネルギー、いわゆる邪気と呼ばれるようなものを、いかに取り去るかということが課題というか、私としては知りたい、知る必要があると想いました。

まあ以前から想うだけは想っているけれど、さらに、バージョンアップというか、進化させたいなあって。(^^)

つまるところ、この世でやりたいことはこれだけというか。。やりたくはないんだけど(笑)、やったほうがいいことって、これにばかり行き当たる(笑)


で、何が言いたかったっけ。。


今日、これって邪気なんじゃないかって、想ったことがあって、実はいまも気分が良くないのですが、それがあったので(ストーリーだけど)

ネガティブエネルギーがネガティブな夢に繋がってしまうのではないか。

という持論を展開した次第です(^^)


・・・・・・・・・・・・

ブログ記事の最初の方だけ読んで書きました。


一旦送らせてください(^^)
Posted by スズメ at 2022年11月04日 12:50
>浮かんでいることに気付いたので?・・・ここ阿部さんの教えです。

>整理するような気持ち・・・ここから自我はじまりましたね。

気づいた・・・で。終わり続けるだけで、わかるようになると想います。
Posted by AQU@ at 2022年11月04日 18:44
阿部さん、本当にありがとう!!!

すばらしい話だと思います。このような話をしていただき感謝いたします。
Posted by 紫陽花 at 2022年11月04日 19:13
今日の記事を読んで直ぐに、頭に閃いたことをコメントにして投稿しようとしたのですが、ちょっとしたパソコンの操作ミスで、消えてしまいました(泣)。

コメント内容は覚えていますが、再度タイプする気が失せてしまいましたので、今日の阿部さんのメッセージと同じことを言っているラマナ・マハルシの御言葉をご紹介させて頂きます。
阿部さんも、言葉による説明にご苦労されているようですが、ラマナ・マハルシも、聞き手が理解しやすいようにと、わかりやすい表現で説明して下さっていますが、読んで直ぐにピンと来る人は少ないかもしれませんね。

真実の探究に、大いに役立つヒントが語られています。
ご参考まで。

ラマナ・マハルシ
「誰もが「私は在る」(I AM)ということを知っている。
誰もが自分の存在を否定することはできない。
深い眠りのなかにいる人は気づいていないが、目が覚めている間は気づいているように見える。
だが、それは同じ人なのだ。
眠っていた人と現在目を覚ましている人の間に変化はない。
深い眠りのなかでは、彼は身体に気づいていなかった。
そのため、そこには身体意識がなかった。
目覚めの状態では、彼は身体に気づいている。
それゆえ、そこには身体意識がある。
つまり、違いは身体意識の出現にあるだけで、実際の意識のなかには何の変化もない。
身体と身体意識はともに立ち現れ、ともに消え去る。
つまり深い眠りのなかには身体意識がないため限界がなく、目覚めの状態にはあると言えるだろう。
この限界が束縛だ。
「この身体が『私』だ」という感覚が誤りなのである。
この「私」という偽りの感覚が去らなければならない。
真実の「私」はつねに存在する。
それは、今、ここに在る。
それはけっして新たに現れるわけではなく、再び消え去ることもない。
存在するものは永遠に在るだろう。
新たに現れるものはやがて失われるだろう。
深い眠りと目覚めの状態を比較してみなさい。
目覚めの状態のなかでは身体が現れ、眠りの状態のなかでは身体は存在しない。
それゆえ、ひとたび現れた身体は消え去るだろう。
意識は身体以前から存在していた。
そしてそれは身体が去ったあとも残るだろう。
「私は在る」と言わない人はいない。
「私は身体だ」という誤った知識がすべての災いの原因だ。
この誤った知識が去らなければならない。
それが真我の実現である。
真我の実現とは何か新しいものの獲得ではなく、新たな能力でもない。
それは純粋無垢な状態のなかにあること以外の何ものでもない。
それが語られるべきすべてである。

「私」という想念がおこったあとに、身体、感覚、心といった鞘との偽りの同一化が起こる。
「私」がそれらと誤ったつながりを結んだため、真の「私」は見失われてしまった。
不純な「私」から純粋な「私」へと移行するために、聖典はこの放棄について言及している。
しかし、正確には非真我を放棄することではなく、真我を探しだすことを意味しているのである。
真我とは無限の「私」である。
この「私」は完全である。
それは永遠である。
それは原因も結果ももたない。
もうひとつの「私」は生まれて、死んでいく。
それは、はかないつかの間のものである。
絶えず変化しつづける想念が誰に現れるか見てみなさい。
それらは「私」という想念が立ち現れたあとに起こることがわかるだろう。
「私」という想念を捕まえなさい。
そうすれば静かになる。
「私」という想念の源をたどりなさい。
そうすれば、ただ真我だけが残るだろう。

「私」という想念の源を探究しなさい。
するべきことはそれだけである。
宇宙は「私」という想念が原因で存在している。
「私」という想念が終焉すれば、不幸もまた終焉する。
偽りの「私」という想念は、その源を探ることによってのみ終焉するのである。

あなたはいつも真我である。
真我以外の何ものでもない。
それゆえ、本当はけっして真我について無知ではありえない。
あなたの無知は単に想像上の無知でしかない。
嘆きをもたらしたのは、この無知なのである。
真実の知識が、あなたに新たな存在をつくり出すわけではない。
それはただあなたの気づかなかった無知をぬぐい去るだけだ。
あななの本性に至福が加えられるのではない。
永遠不滅である、あなたの自然な状態としてそれが顕わになるだけなのだ。
苦痛から解放される唯一の道は、真我を知ること、そして真我として在ることである。

実在のなかに在りながら、われわれは実在を獲得しようと探求している。
これ以上の不思議はないだろう。
われわれは実在を隠している何かがそこに在り、実在が獲得される前にそれが破壊されなければならないと思っている。
それはばかげている。
あなた自身があなたの過去の努力を笑う日がやってくるだろう。
あなたが笑うだろうその日もまた、今、この瞬間なのである。」
Posted by 真我探究と真我実現 from M-online at 2022年11月05日 00:03
ヨー さんへ

痛みは辛いですよね
私も痛みを持っています

コクサイさんのYouTubeで
痛みの回があり、それを見てから
痛みが緩和されています
Posted by 花の子まるこ at 2022年11月05日 18:08
もとめればもとめるほどとおざかる

もとめるこころとは

足りない足りない

こうなったら大変だから

という不足とおそれが出発点で

その出発点、原点のほうがかなえられる、うつしだされるのですね、

創造主であるから。

善も悪もなく、。

ジャッジなく、

創造主がいま強烈におもっていることが、

ちゃんと幻想世界にあわられるのですね

とじてしまったひとりひとりのなかにある天岩戸

ひらかせてくれて

ひとりひとりのなかにもともとあるアマテラスさんのひかり

おもいださせてくれるポータル

いつもありがとうございます。

ゆうべの禅サンガでの阿部さんのお姿から

これが祈りなのですね、

と、感銘をうけました。

いつもありがとうございます。
Posted by ふく at 2022年11月05日 22:46
例えば、朝目覚めて「いま何時?」と時計を見るまでの数秒間は「在る」です。
例えば、目覚まし音が鳴っているのを まどろみの中で「なんの音かわからないけど、何か音が聴こえる」という時も「在る」です。
この二つの共通点は 凄い安堵感です。
そして、時計を見た瞬間から、目覚まし音と気づいた瞬間から 緊張感が始まります。

「認識前」という時の特徴は「わからない」という状態であるという事です。
すなわち「在る」は何も知らないという事です。

「認識(認知)」は「なんらかわかっている」という状態です。
認識は言葉に依存しているので「なんらか」は言葉にする事ができます。

起きた時「いま何時?」という言葉が入った瞬間に「認識後」が始まり、ソレが「目覚まし音」と言葉にした(わかった)瞬間から「認識後」が始まります。

よく使われる「気づき」という言葉は「何の音かわからないソレ」に気づくという事ですが、本当の所「ソレに気づいた」と認識した時点で「ソレ=目覚まし音」になっていますから、現実的には「ソレに気づく」という行為自体発生しません。

では気づきを語る賢者達は「何に気づけ」と言ってるのでしょうか?
「何の音かわからないけれど、何かが聴こえる時=認識前」が在った事に「気づけ」です。
そしてその時(何もわからない時)が凄い安堵感に包まれているという事です。

私達は通常「認識前」を無視して生活しています。
今日が始まるのは「起きた時間から」始まっていると思っているのです。
その音が何の音かわかる前にある「まどろみ」が至福を伴う「在る」という状態です。

私が例えた二例を、経験した事無い人なんているのかな?って思うので、結局、そのまどろみの時を「無視している(気づいてない)」という事なんだろうと思っています。

で、何故この気づきが大切なのか?と言えば、私達は「わからない事が怖い」と思っているからです。
他人に「知らないとバレる事も怖い」ので「知ったかぶったり」「嘘をついたり」「賢そうに見せたり」しながら馬鹿にされない様に生きている訳です。

ソクラテスの「無知の知」は この認識前に在る安堵感に包まれた至福の時を「知っている」という事です。

追伸。今夜の瞑想会でれるかな?でれるといいな(笑)
Posted by まるまる at 2022年11月06日 18:20
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