2022年07月31日
思考にエネルギーを与えない方法
いつのオンライン講演だったか(たぶん日曜瞑想会)、湧いてくる思考を外側の景色と同じように扱うことを奨励しました。
日常の中では思考と自己が同一化していて、考えが即自分という感じで生きています。
批判的な思考が湧けば自分は批判者であり、罪悪感が湧けば自分は許されない存在です。
そんな自己同一化を断ち切るためには、思考と自分が離れていることを思い出すことです。
瞑想中の思考は普段以上に気になると思います。
なぜなら、瞑想中は自己同一化が半分壊れるから。
すぐにまた巻き込まれてしまいますが、思考が止まないことを知った分だけ思考から離れています。
大抵の場合はまたすぐに思考の内容に巻き込まれて、いつもの幻想の世界に入り込んでしまいますが、このような時も同じように思考を観照し、自分との距離を保とうとする態度が大切です。
先日伝えたのは思考にエネルギーを与えないということ。
もともと活発に思考が湧き続けるのは、自分がそこにエネルギーを投入するからです。
エネルギーは注目によって投入されます。
ですから思考を徹底的に無視すれば、それはいずれ消えていきます。

さて、ここまで書いて思いましたが、自分が習慣化していることは当たり前のことになっているので、あえて言葉にするのを忘れていることがあります。
たとえばこうして思考を無視する時間についてもそれは言えます。
僕の場合は目を閉じた時、無意識に両目の真ん中に意識が集中しています。
いわゆる第三の目です。
智子さんのサードアイマントラを使わない時も、自然と意識が第三の目に向かいます。
するとどうなるか。
思考を観照しやすくなるのです。
第三の目は、注目することでエネルギーを得る点は思考と同じです。
しかも第三の目自体に引力があるので、それほど強い集中力を用いなくても、少し慣れればすぐに注目することができるようになります。
すると思考を外側の出来事として観照できるようになり、やがては思考との同一化が終わり、その結果、全体との分離感が薄まるのです。
そうこうしているうちに日常においても全体性が身体の中を浸透していることでしょう。
それは多くの人が想像しているような劇的なものではなく、まさにあるがままの地平に寛いでいる状態です。
この寛ぎ状態は生まれたり死んだりするようなものではないので、この命が永遠であることを静かに実感することになります。
真実は実に当たり前の状態ですが、我々が不自然さの中に埋没して生きているので、いきなりこのシンプルな次元が現れると、ものすごくドラマチックな出来事のように感じてしまうのです。
すでにすべての人は真理の海の中に生きていて、それは変わりようがないので安心してください。
今夜は日曜瞑想会。
またマニアックな会でお会いしましょう。
コチラからお入りください。
日常の中では思考と自己が同一化していて、考えが即自分という感じで生きています。
批判的な思考が湧けば自分は批判者であり、罪悪感が湧けば自分は許されない存在です。
そんな自己同一化を断ち切るためには、思考と自分が離れていることを思い出すことです。
瞑想中の思考は普段以上に気になると思います。
なぜなら、瞑想中は自己同一化が半分壊れるから。
すぐにまた巻き込まれてしまいますが、思考が止まないことを知った分だけ思考から離れています。
大抵の場合はまたすぐに思考の内容に巻き込まれて、いつもの幻想の世界に入り込んでしまいますが、このような時も同じように思考を観照し、自分との距離を保とうとする態度が大切です。
先日伝えたのは思考にエネルギーを与えないということ。
もともと活発に思考が湧き続けるのは、自分がそこにエネルギーを投入するからです。
エネルギーは注目によって投入されます。
ですから思考を徹底的に無視すれば、それはいずれ消えていきます。

さて、ここまで書いて思いましたが、自分が習慣化していることは当たり前のことになっているので、あえて言葉にするのを忘れていることがあります。
たとえばこうして思考を無視する時間についてもそれは言えます。
僕の場合は目を閉じた時、無意識に両目の真ん中に意識が集中しています。
いわゆる第三の目です。
智子さんのサードアイマントラを使わない時も、自然と意識が第三の目に向かいます。
するとどうなるか。
思考を観照しやすくなるのです。
第三の目は、注目することでエネルギーを得る点は思考と同じです。
しかも第三の目自体に引力があるので、それほど強い集中力を用いなくても、少し慣れればすぐに注目することができるようになります。
すると思考を外側の出来事として観照できるようになり、やがては思考との同一化が終わり、その結果、全体との分離感が薄まるのです。
そうこうしているうちに日常においても全体性が身体の中を浸透していることでしょう。
それは多くの人が想像しているような劇的なものではなく、まさにあるがままの地平に寛いでいる状態です。
この寛ぎ状態は生まれたり死んだりするようなものではないので、この命が永遠であることを静かに実感することになります。
真実は実に当たり前の状態ですが、我々が不自然さの中に埋没して生きているので、いきなりこのシンプルな次元が現れると、ものすごくドラマチックな出来事のように感じてしまうのです。
すでにすべての人は真理の海の中に生きていて、それは変わりようがないので安心してください。
今夜は日曜瞑想会。
またマニアックな会でお会いしましょう。
コチラからお入りください。
Posted by Toshiro Abe at 09:18│Comments(12)
この記事へのコメント
誰でも
深い眠りにあるときは ↓
深く安らいでいます←(*´▽`*)→
誰でも
深い集中にあるときは ↓
深く安らいでいます←(*´▽`*)→
誰でも
深い瞑想にあるときは ↓
深く安らいでいます←(*´▽`*)→
いま自分に深く安らぐことが ↓
いま一番大切な実践です←(*´▽`*)→
自分の外が不安定なときほど
自分の中に深く安らぐことが大切です◎
海の表面がいくら波立っていても↓↑
海の奥底はとても静かです←→
深い眠りにあるときは ↓
深く安らいでいます←(*´▽`*)→
誰でも
深い集中にあるときは ↓
深く安らいでいます←(*´▽`*)→
誰でも
深い瞑想にあるときは ↓
深く安らいでいます←(*´▽`*)→
いま自分に深く安らぐことが ↓
いま一番大切な実践です←(*´▽`*)→
自分の外が不安定なときほど
自分の中に深く安らぐことが大切です◎
海の表面がいくら波立っていても↓↑
海の奥底はとても静かです←→
Posted by 大空(おおぞら)
at 2022年07月31日 09:33

そういえば、前回の日曜瞑想会の時に、阿部さんの周りに、バイオレットのオーラが見えました。これが見える時は、マインドを離れ、すなわち自分という自我意識を離れた時です。つまり、ストーリーから離れた時に、普遍的な生命が感知できるのです。そして、生きとし生けるものが、同じ生命であることにくつろげるのでしょう。
Posted by momo at 2022年07月31日 10:11
自分の場合、
>ですから思考を徹底的に無視すれば、それはいずれ消えていきます。
↑『としようとする』と、
『無視しようとしている思考』に『ハマっている自分』に気付いてしまいます(笑)
でも、それも悪いことではなくて、というのも、
『何かにハマっている、他でもない、この自分自身』に気付くだけで、
『この自分自身』ごと、『ハマっていると思い込んでた何か』が
解放され、スッキリできるからです。
↑なのも確かなんですけど、どうせなら最初からスッキリしたい
↑『という思考』『にハマっている、他でもない、この自分自身』にも
やっぱり気付くので、きっともうそれでいいんだろうと、勝手に思ってます(笑)
>僕の場合は目を閉じた時、無意識に両目の真ん中に意識が集中しています。
>いわゆる第三の目です。
自分も、歩いている時に、自然と半眼になって瞑想ぽくなると、
そう言えば、そんな感じになっていると思います。
今度からもう少し意識してみようと思います。
ありがとうございます。
今晩は絶賛宿直仕事中ですが、
せいぜいそれすらも「ただいま~♪」て感じに『眺めて』いようと思います。
>ですから思考を徹底的に無視すれば、それはいずれ消えていきます。
↑『としようとする』と、
『無視しようとしている思考』に『ハマっている自分』に気付いてしまいます(笑)
でも、それも悪いことではなくて、というのも、
『何かにハマっている、他でもない、この自分自身』に気付くだけで、
『この自分自身』ごと、『ハマっていると思い込んでた何か』が
解放され、スッキリできるからです。
↑なのも確かなんですけど、どうせなら最初からスッキリしたい
↑『という思考』『にハマっている、他でもない、この自分自身』にも
やっぱり気付くので、きっともうそれでいいんだろうと、勝手に思ってます(笑)
>僕の場合は目を閉じた時、無意識に両目の真ん中に意識が集中しています。
>いわゆる第三の目です。
自分も、歩いている時に、自然と半眼になって瞑想ぽくなると、
そう言えば、そんな感じになっていると思います。
今度からもう少し意識してみようと思います。
ありがとうございます。
今晩は絶賛宿直仕事中ですが、
せいぜいそれすらも「ただいま~♪」て感じに『眺めて』いようと思います。
Posted by ただの「自分」 at 2022年07月31日 11:43
>すでにすべての人は真理の海の中に生きていて、それは変わりようがないので安心してください。
先ほど、また実家のお嫁さんの思考ドラマに巻き込まれて動揺していました。。
せっかくの日曜日、文月も今日でおしまいのおめでたい日に。
本当になるべくなら、日々思考ちゃんから離れて心穏やかに安らかに過ごしていたいです。思考ちゃんよ静まれ―されーー。
幻想から目覚めたいです。夜の瞑想会に参加します。
先ほど、また実家のお嫁さんの思考ドラマに巻き込まれて動揺していました。。
せっかくの日曜日、文月も今日でおしまいのおめでたい日に。
本当になるべくなら、日々思考ちゃんから離れて心穏やかに安らかに過ごしていたいです。思考ちゃんよ静まれ―されーー。
幻想から目覚めたいです。夜の瞑想会に参加します。
Posted by さつき姫 at 2022年07月31日 12:21
すみません、質問させて下さい。
思考と自己が離れていると感じる時はあるのですが(同一化している時もある)
阿部さんは『感情』はどうされていますか?
思考は俯瞰で見れても、日常生活の中であるがままの自分に湧いてくる『感情』に左右されてしまうのですが、阿部さんが仰る自己とは、感情のことも指すのでしょうか?
胸がグッとくるとか、キュッと苦しくなるとか、身体的に感じることも自己に含みますか?
思考と自己が離れていると感じる時はあるのですが(同一化している時もある)
阿部さんは『感情』はどうされていますか?
思考は俯瞰で見れても、日常生活の中であるがままの自分に湧いてくる『感情』に左右されてしまうのですが、阿部さんが仰る自己とは、感情のことも指すのでしょうか?
胸がグッとくるとか、キュッと苦しくなるとか、身体的に感じることも自己に含みますか?
Posted by よしみ at 2022年07月31日 13:01
思考にエネルギーを与えない、思考を無視する。
確かに、湧いてくる思考に巻き込まれないための賢い対処法だと感じます。
湧いてくる思考の中でも、取り留めのない消えてしまえば思い出すこともできないほどの他愛のないものなら、心に影響を与えませんが、特に感情を伴った思考(過去の記憶)が、ふと、瞑想中に、何の脈絡もなく蘇って来ることがあります。
すると、過去に味わった嫌な感情や辛かった諸々のエピソードが、ストーリーとなって、心の中に走馬灯のように蘇ったりします。
このような現象は、真空に近くなった心の中に、過去に記憶の倉庫である潜在意識(チッタ)に無意識に蓄積された情報が、エネルギーを得て、浮上して来ることによって起こります。
これが起こると、客観的視点で、湧いてくる思考を眺めていることが難しくなります。
過去に感じた感情が、鮮明に蘇り、今では既にリアル感を失っている出来事に対して、思い出すことで、その時のリアル感を再現してしまうからです。
過去は、思い出さなければ、無いと言えるかもしれませんが、人間の心理的な構造から鑑みると、潜在意識の中に、蓄積されています。
その中でも、ふとした弾みに浮上してくる過去は、負の感情エネルギーを伴うことが多いので、再現されることで、潜在意識下の心が受けたキズが、更に深くなり、シコリのように固まっていくという仕組みになっています。(トラウマなど)
これが、無意識で起こる個人の思考工程や行動工程に、多くの影響を与えていることに、人はほとんど気づいていません。
また、洗脳やプロパガンダなどは、繰り返すことで生じるこのような潜在意識下の心理作用を利用していると見ることができます。
しかし、また、瞑想中に湧き出てくる思考(情報)に、負のエネルギーが伴うなうのは、何故なのか?どうしてなのか?を探り、静かに追うことで、自分の中にありながら、自分では気づいていない心の深層領域に潜り込むことが、可能となります。
自分は、どうして、あの時、嫌だったのか?辛かったのか?悲しかったのか?泣いたのか?怒りが湧いたのか?その理由を探ることで、自分を客観的に眺め、知ることができるようになります。
これは、自問自答という形で、自己心理療法をしているようなものですが、無意識に自分を誘導するその負の感情が起こる理由が明らかになるにつれ、自分をより良く知り、自分を客観視できるようになるため、人生で再び同じような場面に遭遇しても、過去と同じようなパターンを繰り返し、負のエネルギーに苛まれることは少なくなることでしょう。
こうして、心の浄化は進んでいき、心に占める負のエネルギーが少なくなると同時に、心は、表層部分でも、深層部分でも、安定した穏やかなエネルギーに満たされていくことになります。
空に浮かぶ他愛もない雲には、注意を払う必要はありませんが、突然の雷雨や災害をもたらすような暗雲には、注意が必要です。
そのことで、大きなトラブルが起こらないように、避けることが可能になるからです。
特に瞑想中は、意識が脳の制御コントロールから外れ、自由になるため、人間の潜在意識下に潜っていくことができます。
浮上してきた過去は、自分が今生でクリアーすることが求められているある種の課題(カルマ)と見ることができます。
自己探求とは、自分を識ることから、始まります。
自己探求なくしては、究極の自己(永遠の真我)に邂逅することはありません。
私は誰か?
その答えだけが、個人に、自己からの解放をもたらします。
負の固定したエネルギーは、個人を永遠に個人に縛り付け、この世にある間は、個人に開放の自由や至福をもたらすことはないでしょう。
二度と起こさない、永遠に消滅させるということは、不可能ではないのです。
確かに、湧いてくる思考に巻き込まれないための賢い対処法だと感じます。
湧いてくる思考の中でも、取り留めのない消えてしまえば思い出すこともできないほどの他愛のないものなら、心に影響を与えませんが、特に感情を伴った思考(過去の記憶)が、ふと、瞑想中に、何の脈絡もなく蘇って来ることがあります。
すると、過去に味わった嫌な感情や辛かった諸々のエピソードが、ストーリーとなって、心の中に走馬灯のように蘇ったりします。
このような現象は、真空に近くなった心の中に、過去に記憶の倉庫である潜在意識(チッタ)に無意識に蓄積された情報が、エネルギーを得て、浮上して来ることによって起こります。
これが起こると、客観的視点で、湧いてくる思考を眺めていることが難しくなります。
過去に感じた感情が、鮮明に蘇り、今では既にリアル感を失っている出来事に対して、思い出すことで、その時のリアル感を再現してしまうからです。
過去は、思い出さなければ、無いと言えるかもしれませんが、人間の心理的な構造から鑑みると、潜在意識の中に、蓄積されています。
その中でも、ふとした弾みに浮上してくる過去は、負の感情エネルギーを伴うことが多いので、再現されることで、潜在意識下の心が受けたキズが、更に深くなり、シコリのように固まっていくという仕組みになっています。(トラウマなど)
これが、無意識で起こる個人の思考工程や行動工程に、多くの影響を与えていることに、人はほとんど気づいていません。
また、洗脳やプロパガンダなどは、繰り返すことで生じるこのような潜在意識下の心理作用を利用していると見ることができます。
しかし、また、瞑想中に湧き出てくる思考(情報)に、負のエネルギーが伴うなうのは、何故なのか?どうしてなのか?を探り、静かに追うことで、自分の中にありながら、自分では気づいていない心の深層領域に潜り込むことが、可能となります。
自分は、どうして、あの時、嫌だったのか?辛かったのか?悲しかったのか?泣いたのか?怒りが湧いたのか?その理由を探ることで、自分を客観的に眺め、知ることができるようになります。
これは、自問自答という形で、自己心理療法をしているようなものですが、無意識に自分を誘導するその負の感情が起こる理由が明らかになるにつれ、自分をより良く知り、自分を客観視できるようになるため、人生で再び同じような場面に遭遇しても、過去と同じようなパターンを繰り返し、負のエネルギーに苛まれることは少なくなることでしょう。
こうして、心の浄化は進んでいき、心に占める負のエネルギーが少なくなると同時に、心は、表層部分でも、深層部分でも、安定した穏やかなエネルギーに満たされていくことになります。
空に浮かぶ他愛もない雲には、注意を払う必要はありませんが、突然の雷雨や災害をもたらすような暗雲には、注意が必要です。
そのことで、大きなトラブルが起こらないように、避けることが可能になるからです。
特に瞑想中は、意識が脳の制御コントロールから外れ、自由になるため、人間の潜在意識下に潜っていくことができます。
浮上してきた過去は、自分が今生でクリアーすることが求められているある種の課題(カルマ)と見ることができます。
自己探求とは、自分を識ることから、始まります。
自己探求なくしては、究極の自己(永遠の真我)に邂逅することはありません。
私は誰か?
その答えだけが、個人に、自己からの解放をもたらします。
負の固定したエネルギーは、個人を永遠に個人に縛り付け、この世にある間は、個人に開放の自由や至福をもたらすことはないでしょう。
二度と起こさない、永遠に消滅させるということは、不可能ではないのです。
Posted by 永遠の真我 from M-online at 2022年07月31日 13:19
私みたいに瞑想初心者だと思考がわんわん湧いてくるとダメな瞑想になってると思いがちでしたが、思考が止まないことを知ってる状態が大切なんですね。
先日ZOOMの祈りの会で阿部さんや向さんが禅サンガの皆さんと瞑想してる姿を拝見しましたがひとつの完成されてる美しさみたいなものを感じました☆
先日ZOOMの祈りの会で阿部さんや向さんが禅サンガの皆さんと瞑想してる姿を拝見しましたがひとつの完成されてる美しさみたいなものを感じました☆
Posted by とっと at 2022年07月31日 16:45
思考から離れるには、いまここの五感の様子に在ることもお勧めします。
「私が見ている」や「私が聞いている」と思考は言い張りますが、これは全く作り事です。
五感は、「私」が何もしなくても、常にいまここで働いています。
五感と環境が相互に作用し、自ずといまここで起こっています。
五感の働きに「私」は全く介在しません。
五感の働きは宇宙全体の活動です。
思考を手放し、五感の働きが他力であることを根気強く見直し、確かめてみてください。
いつか必ず「私」の不在に気付くと思います。
そして、思考の働きも五感の働きもまったく同じ様に、いまここで他力で働いているだけだと気付けます。
「私が見ている」や「私が聞いている」と思考は言い張りますが、これは全く作り事です。
五感は、「私」が何もしなくても、常にいまここで働いています。
五感と環境が相互に作用し、自ずといまここで起こっています。
五感の働きに「私」は全く介在しません。
五感の働きは宇宙全体の活動です。
思考を手放し、五感の働きが他力であることを根気強く見直し、確かめてみてください。
いつか必ず「私」の不在に気付くと思います。
そして、思考の働きも五感の働きもまったく同じ様に、いまここで他力で働いているだけだと気付けます。
Posted by 模察
at 2022年07月31日 18:42

いつもありがとうございます。
本日の瞑想会もありがとうございました。
14期から禅サンガに再入会し、毎日動画を拝見しています。
以前は阿部さんや黒斎さんの講演会やお話し会に参加させていただいていましたが、今は自宅に居ながらにしてお二人やそのほかのナビゲーターの方々の講演会を聴くことができるということにすごいことだなーと本日改めて思いました。
禅サンガではいろいろな宗教や教えが指し示していることは同じことと伝えてくださるので、今まで自分の中にあった宗教などに対する偏見のようなものが薄れてきました。
真理について探究する私たちに全くぶれないメッセージを伝え続けてくださる皆さまにとても感謝しています。
自分の中に起こる気づきと共に日常を送っていきます。
いつもありがとうございます。
本日の瞑想会もありがとうございました。
14期から禅サンガに再入会し、毎日動画を拝見しています。
以前は阿部さんや黒斎さんの講演会やお話し会に参加させていただいていましたが、今は自宅に居ながらにしてお二人やそのほかのナビゲーターの方々の講演会を聴くことができるということにすごいことだなーと本日改めて思いました。
禅サンガではいろいろな宗教や教えが指し示していることは同じことと伝えてくださるので、今まで自分の中にあった宗教などに対する偏見のようなものが薄れてきました。
真理について探究する私たちに全くぶれないメッセージを伝え続けてくださる皆さまにとても感謝しています。
自分の中に起こる気づきと共に日常を送っていきます。
いつもありがとうございます。
Posted by いつもありがとうございます:) at 2022年07月31日 22:25
私が経験してる気づきは特にドラマチックじゃないから多分一瞥ではないはず、と思ってましたが、今回のブログの具体的で詳しい解説を読んで、阿部さんの言う一瞥は、やっぱり私が経験してるコレのことだったのかと拍子抜けに近い感覚でした。
もっとドラマチックな一瞥とやらがくるかもしれない。阿部さんが経験した『歓喜の一瞥』みたいなのを私も経験できるかしら、と期待してたところがあったんですが(笑)
思考から離れて客観的に眺めるデフォルト状態に、一日に数十回くらい戻ってます。思考が隙あらば忘れさせようとするので、同じくらい隙きあらば思い出さないと戻ってこられない。
一人でいるときは概ねいい感じで、作業しながらでも瞑想の状態を味わっていられることが多いです。
ただ人と会うと、相手の世界観に話を合わせようとしてそのまま足を掬われたように相手のマトリックスワールドに嵌まってしまいブレたまま戻れずに一日終わってしまうこともあるので、極力必要でない人とは会わないようになってしまいました。
ブレてるときは本当に心地よくないのです。そして心地よくない感じまでいってしまうと戻るのに時間がかかることが多いので…。
阿部さんはどんな人と会っても気づきの視点から全くブレないように見受けられるので、すごいなぁと思っていつも見ています。
コツはありますか?素質ですか?
もうちょい訓練を続けたら、クセの強い人と会っても気づきが全くブレないようになるのかなぁ。
まぁでも、寛ぎのなかで、深刻になっていないか確認だけしていれば、なんだっていいか、レリビーレリビー♪ですね。
長文失礼致しました。
もっとドラマチックな一瞥とやらがくるかもしれない。阿部さんが経験した『歓喜の一瞥』みたいなのを私も経験できるかしら、と期待してたところがあったんですが(笑)
思考から離れて客観的に眺めるデフォルト状態に、一日に数十回くらい戻ってます。思考が隙あらば忘れさせようとするので、同じくらい隙きあらば思い出さないと戻ってこられない。
一人でいるときは概ねいい感じで、作業しながらでも瞑想の状態を味わっていられることが多いです。
ただ人と会うと、相手の世界観に話を合わせようとしてそのまま足を掬われたように相手のマトリックスワールドに嵌まってしまいブレたまま戻れずに一日終わってしまうこともあるので、極力必要でない人とは会わないようになってしまいました。
ブレてるときは本当に心地よくないのです。そして心地よくない感じまでいってしまうと戻るのに時間がかかることが多いので…。
阿部さんはどんな人と会っても気づきの視点から全くブレないように見受けられるので、すごいなぁと思っていつも見ています。
コツはありますか?素質ですか?
もうちょい訓練を続けたら、クセの強い人と会っても気づきが全くブレないようになるのかなぁ。
まぁでも、寛ぎのなかで、深刻になっていないか確認だけしていれば、なんだっていいか、レリビーレリビー♪ですね。
長文失礼致しました。
Posted by hama at 2022年08月01日 01:11
「サードアイに意識」
ぜひやってみます!
ありがとうございます。
ぜひやってみます!
ありがとうございます。
Posted by 川村弥生
at 2022年08月01日 10:54

ヨーガでは、第六チャクラのアジナー・チャクラを、別名、サード・アイ(第三の眼)と呼び、その役割は、概ね、阿部さんが、記事の中で書いて下さっていますが、観察・観照の座(センター)として機能しています。
チャクラの上部に手を当てると、エネルギーに敏感な人には、そのセンターから微細なエネルギーが小さな渦を巻いて放出されているのが、わかるでしょう。
ここは、人間を人間足らしめているブッディ(知性)の座でもあります。
このセンターは、主に、情報収集、判断、予測など、人間における高度な知的活動を担っており、脳というコンピュータにおける情報集積回路の司令塔の役割を果たしている中枢センターと言えます。
しかし、この司令塔のトップは、あくまで、「自分」であり、自分が判断し、自分が判断を下している、と思っている「私」です。
果たしている役割や機能からすると、サード・アイは、あくまで、個人の座と言えます。
寝ている時は、この個人の座は機能していません。
睡眠中は、身体感覚も「私」という意識も消えています。
それでも、「私」は生きており、目が覚めれば、忽ちのうちに、サード・アイが機能し始め、認識作用が機能して、この世と「私」の経験が始まります。
ブッディ(知性)は、「私」の司令塔ですが、それだけでは、「私」は存在しません。
脳は、「私」という全存在の一部にしか過ぎません。
「私」がこの世に存在するには、身体と心(精神)、そして、“もう一つ”が必要なのは、明らかです。
この“もう一つ”について、私たち人間は、客観的には、ほとんど知りませんが、実際には、よくよく知っています。
私たちが、その“もう一つ”をほとんど知らないのは、それがあまりに微細で、人間の感覚知覚器官では捉えられないため、ブッディが認識することができないからです。(ブッディは、身体にある五つの感覚知覚器官から入力された情報しか認識できません。)
私たちは、常に、その“もう一つ”と同化し、一体となっているために、客観視することができないのです。
この“もう一つ”を捉えるには、心身に流れるエネルギーを極力抑え、微細化することです。
そうすることで、心身に流れる超微細エネルギー(プラーナ)を掴むことができるようになります。
このためには、瞑想が、最も有効な方法であることは、多くの体験者により、実証されています。
また、マントラを使って、生体エネルギー(プラーナ)の振動を高め、マントラの波動(振動)である微細エネルギーに共鳴したエネルギー体となることで、“もう一つ”を直接体験することも可能です。
この方法も、体験者によって、その有効性が報告されています。
“もう一つ”は、とてもリアルな存在です。
ただ、今の人間の進歩段階では、“もう一つ”を捉えることができるセンサーが脆弱なため、ヨーガでは、このセンサーの感知能力を高めるメソッドを提示しています。
身体、心と共に、人間を構成する“もう一つ”の要素は、古くけら、「霊」と呼ばれていますが、ある種のエネルギーです。
ソレは、人間だけでなく、万物に宿っており、万処に浸潤しています。
ソレは、固体、流体、気体の形態に変化し、一つの状態に留まることはなく、その変化に終わりはありません。
そういう意味では、人間の身体、心、霊は、それぞれ異なる振動域、波動領域に属していますが、エネルギー的な視点から見れば、領域の違いだけで、エネルギーであることに変わりはありません。
エネルギーには、人間が扱えるエネルギーもありますが、扱い不可能なエネルギーもあります。
ブッディ(知性)の座である脳が、己の力で存在しているわけではありません。
「私」が存在しているのは、「私」自らの力でないことは、私たち人間はよく知っています。
この身体と心に浸潤して、「私」を「存在」としている目には見えない力(エネルギー)が存在し、そして、ソレを掴むことは、充分可能です。
しかし、たとえ、感覚的に掴めなくても、何も問題はありません。
すでに、私たちは、ソレであり、ソレから離れたことは、一度たりとも、一瞬たりともないからです。
すべては、ソレであり、ソレ以外は、存在していません。
ソレが、この宇宙の実相です。
宇宙とは、分離のない“一つ”の大いなるエネルギー体なのです。
チャクラの上部に手を当てると、エネルギーに敏感な人には、そのセンターから微細なエネルギーが小さな渦を巻いて放出されているのが、わかるでしょう。
ここは、人間を人間足らしめているブッディ(知性)の座でもあります。
このセンターは、主に、情報収集、判断、予測など、人間における高度な知的活動を担っており、脳というコンピュータにおける情報集積回路の司令塔の役割を果たしている中枢センターと言えます。
しかし、この司令塔のトップは、あくまで、「自分」であり、自分が判断し、自分が判断を下している、と思っている「私」です。
果たしている役割や機能からすると、サード・アイは、あくまで、個人の座と言えます。
寝ている時は、この個人の座は機能していません。
睡眠中は、身体感覚も「私」という意識も消えています。
それでも、「私」は生きており、目が覚めれば、忽ちのうちに、サード・アイが機能し始め、認識作用が機能して、この世と「私」の経験が始まります。
ブッディ(知性)は、「私」の司令塔ですが、それだけでは、「私」は存在しません。
脳は、「私」という全存在の一部にしか過ぎません。
「私」がこの世に存在するには、身体と心(精神)、そして、“もう一つ”が必要なのは、明らかです。
この“もう一つ”について、私たち人間は、客観的には、ほとんど知りませんが、実際には、よくよく知っています。
私たちが、その“もう一つ”をほとんど知らないのは、それがあまりに微細で、人間の感覚知覚器官では捉えられないため、ブッディが認識することができないからです。(ブッディは、身体にある五つの感覚知覚器官から入力された情報しか認識できません。)
私たちは、常に、その“もう一つ”と同化し、一体となっているために、客観視することができないのです。
この“もう一つ”を捉えるには、心身に流れるエネルギーを極力抑え、微細化することです。
そうすることで、心身に流れる超微細エネルギー(プラーナ)を掴むことができるようになります。
このためには、瞑想が、最も有効な方法であることは、多くの体験者により、実証されています。
また、マントラを使って、生体エネルギー(プラーナ)の振動を高め、マントラの波動(振動)である微細エネルギーに共鳴したエネルギー体となることで、“もう一つ”を直接体験することも可能です。
この方法も、体験者によって、その有効性が報告されています。
“もう一つ”は、とてもリアルな存在です。
ただ、今の人間の進歩段階では、“もう一つ”を捉えることができるセンサーが脆弱なため、ヨーガでは、このセンサーの感知能力を高めるメソッドを提示しています。
身体、心と共に、人間を構成する“もう一つ”の要素は、古くけら、「霊」と呼ばれていますが、ある種のエネルギーです。
ソレは、人間だけでなく、万物に宿っており、万処に浸潤しています。
ソレは、固体、流体、気体の形態に変化し、一つの状態に留まることはなく、その変化に終わりはありません。
そういう意味では、人間の身体、心、霊は、それぞれ異なる振動域、波動領域に属していますが、エネルギー的な視点から見れば、領域の違いだけで、エネルギーであることに変わりはありません。
エネルギーには、人間が扱えるエネルギーもありますが、扱い不可能なエネルギーもあります。
ブッディ(知性)の座である脳が、己の力で存在しているわけではありません。
「私」が存在しているのは、「私」自らの力でないことは、私たち人間はよく知っています。
この身体と心に浸潤して、「私」を「存在」としている目には見えない力(エネルギー)が存在し、そして、ソレを掴むことは、充分可能です。
しかし、たとえ、感覚的に掴めなくても、何も問題はありません。
すでに、私たちは、ソレであり、ソレから離れたことは、一度たりとも、一瞬たりともないからです。
すべては、ソレであり、ソレ以外は、存在していません。
ソレが、この宇宙の実相です。
宇宙とは、分離のない“一つ”の大いなるエネルギー体なのです。
Posted by 大いなる一つ from M-online at 2022年08月01日 12:28
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