2022年01月18日

真如実相

いくつか質問をいただいていたようです。


>自己の不在を見抜いた時、本当の自分が全体であることを悟る。 阿部さんの仰りたいことはこのことですか?


その通りです。

少し補足してみます。


自己の不在を見抜くのは誰でしょう

自己の不在を自己が見抜くのでしょうか。


もしそんなことができるなら、自分が自分の靴ひもを引っ張り上げて、身体を浮かすこともできることでしょう。

でもそれは不可能です。


したがって自己の不在を自分が見抜くことはできません。


それでは誰が見抜くのか。

せいいっぱい言葉にするとしたら、全体が自己という夢から覚めるということになります。

そのとき、全体こそが真の実在であり、徹頭徹尾これしか存在していなかったことに気づきます。


この気づきも全体に起きるわけで、したがって全体こそが本当の自分という言い方になるのです。


言葉での理解が難しい点は、「全体である自分」をいまの自分が想像することです。

結局は自分が理解しようとしてしまうことを知るのは重要です。

でもそれでは的を外します。

ポイントは「ただ在る」という状態に寛ぐことであり、何かを学ぶのではなく、ただ黙して坐るという瞑想の実践しかないと思っています。


考えても分かったつもりになるだけですが、それでもこのメッセージは、人生で過度の負担を抱えた自己にとっては救いになります。

何一つ自分の責任ではなく、何一つ過失も罪も負っていないことに繋がるからです。


マインド(自己)は、判断や批判を繰り返しながら合理的な答えを求めます。

このようなマインドのアプローチは何千年かけてもどこにも行き着きません。

やはり黙して坐ることです。


真如実相



>人はなぜ生きるのでしょうか


その答えは、野に咲く花がなぜ咲いているのかと同じです。

「何故」はありません。

このこともヒンズーの人たちは「リーラ」と呼んできました。

リーラとは無目的な戯れのこと。


このブログの旧タイトルも「リーラ」でした。

いまこうして記事を書いていることも質疑応答もリーラだからです。



>一人一人が愛の世界を思い出し、その世界を生きたとしても、やはり殺人という行為は生じるのでしょうか?


一つ言えることは、

あなた自身が愛の世界を思い出し、その世界を生きることが全てだと言う事。

「もしこうなったらどうなるか」というお馴染みのマインドにフォーカスするのか、あなた自身がそうなるのか、どちらかだと思います。



今日も穏やかな気持ちで過ごしましょう。

日々是好日











Posted by Toshiro Abe at 10:36│Comments(16)
この記事へのコメント
全体とゆう沈黙は

否定も肯定もせず

ただ愛としてある
Posted by 黙する迄もなく at 2022年01月18日 11:54
肉体はたくさんあります。

「わたしは肉体だ」と感じるほど
宇宙全体との分離感が強くなり、孤独感が強くなり苦しみます→(>_<)←

「わたしは小さな肉体に閉じ込められている→←」と感じるほど
束縛感が強くなり苦しみます→(>_<)←

宇宙全体はひとつあります。

「わたしは宇宙全体だ」と感じるほど
宇宙全体との一体感が強くなり、安心感が強くなり安らぎます←(*´▽`*)→

「わたしは大きな宇宙全体に広がっている←→」と感じるほど
解放感が強くなり安らぎます←(*´▽`*)→

大きな宇宙全体との一体感は大きな解放感です◎

大きな宇宙全体との一体感は大きな安心感です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2022年01月18日 12:11
自己の不在をどうとかは、正直よくわかりませんが、

>「もしこうなったらどうなるか」というお馴染みのマインドにフォーカスする
↑ことから離れるのが大事なのは、確かだと感じます。
『そう感じている』のが『誰か』とかは、しょーじきどーだっていーです(笑)
「あ、ハマってた」と『思えた』その瞬間、
『ハマってたそれ』から『離れている』ということだけは、確かなことなので。
Posted by ただの「自分」 at 2022年01月18日 12:28
今日はお休みの日。身の回りのものに「この子たち」と思って、過ごします。今日を純粋な感性で、過ごしてみます。
Posted by 尚太郎 at 2022年01月18日 13:02
この数日間ただただ阿部さんとお会いしたいと願っていたら全国行脚の文字が(*‘∀‘)
早期実現を願っています。
Posted by nakata at 2022年01月18日 14:02
本当の自分が全体である。。

ヨーガでは、“本当の自分”とは、“真我”とされていますので、この“全体”は“真我”と言い換えることができる、ということになりますが、前回のコメントにも書きましたが、不変の純粋意識である真我は、物質的な存在ではなく、霊的な存在です。

それ故、物質世界の体験のために使われる人間に備わっている五感が、本当の自分である霊的な存在である“真我”を感知することはないために、脳に、“真我”への認識が起きることはありません。

全体は、“すべて”と言い換えることも可能ですので、“本当の自分とはすべてである”と言い換えることができます。

つまり、本当の自分は、“すべて”という言葉が意味する包括的な“一つ”なのです。

“すべて”は、目に見えるモノも、目に見えないモノも、過去も現在も未来をも含みます。

本当に実在するのは、“一つ”なのです。

この“一つ”が、万物万象に变化し、多種多様な顕れとなっているだけで、それぞれの顕れは、永遠に存在することはできません。

“一つ”は、実在しますので、体験を通して、触れることは可能です。
触れた瞬間に、それまで体験したことのない歓びに包まれたような感覚が起こります。
実体のない自己は、至福の大海に溶けて、無くなり、ソレだけが在ることが、明らかになります。

永遠の実在、永遠の純粋意識、永遠の至福。

時空のトリックは、20世紀初頭に、アインシュタインが、その理論の中で、見事に解き明かしてしまいました。
時間と空間は、相対的なもので、この宇宙に、絶対はありません。

全宇宙は、常に動いていて、静止することはありませんが、しかし、“ただ一つ”は、“ただ一つ”であるだけであり、変化せず、その中で、森羅万象が、刻々と変化しているのです。

瞑想は、この変化しない“ただ一つ”に、意識同化すること、自己を不変の存在に同一視すること、と見ることができます。

刻々と変化する森羅万象から意識を引き離し、意識を動かさず、変化させずに固定することで、不変の純粋意識との同調が起きて来ることでしょう。

表面上に起きていることは、顕れ、リーラ(神の戯れ)でしかありません。

顕れである物事の背後に、常に在るのは、永遠に変化しない唯一の実在“ただ一つ”だけなのです。

顕れである人間として生きながら、この不変なる“ただ一つ”に同調して、一時的に本当の自分(真我)に還ることができるのは、黙して座る、瞑想だけと言えるでしょう。
Posted by 大いなる一つ from M-online at 2022年01月18日 14:46
 最近の質疑応答を見ていると、数年前よりもはるかに阿部さんの回答の質が高くなっていて、「ステージが上がった」というか、全体と阿部さんとのシンクロ度が高くなったのを感じます。

 欧州でテーラワーダ仏教を広めたワールボラ・ラーフラ師や、インド・ミャンマーーを拠点にヴィパッサナー瞑想を広めたゴエンカ師のような偉大なマスターの域に入りつつあるのではないでしょうか。
 自分はこの1年、このお二人の本に強く影響を受けてヴィパッサナー瞑想に励んでいるので特にそう思いました。
Posted by 功夫マニア at 2022年01月18日 17:22
こんにちわ。
初めてコメントします。
私は二十代の頃にラマナマハルシに心酔してサットグルと仰ぎ、真剣にラマナマハルシの説く真我探求を実践してきました。その真剣さのお陰か数度の段階的な自我を越えた覚めの体験をしてきました。またインターネットの匿名掲示板で悟っていると自称している人物の方法を行い、悟りを知りました。それらが最終的なものだったのかは分かりませんが普通では為し得ないことだとは思っています。
ところが数年後に重度の統合失調症を発症してしまいました。
幻覚が重なる中でラマナマハルシの教えは『秘められた道』であり、またラマナマハルシが目指すべき人物像としてもグルとしても適切ではないことを実感しました。そしてラマナマハルシに関わることを止めました。また説く匿名掲示板で悟っていると自称する人物とも距離を置きました。私は禅の教えも学んでいるため悟りを重要視していないし、悟っている人物を重要視してもいません。
そして私は元々、神経症、あがり症や視線恐怖症、社会不安症のようなものに高校生の頃から悩まされていて、そのような自分を治したくて求道を始めました。ですが私が勝手に期待していたものと、覚めの道はだいぶ違ったもののようです。また私のような精神疾患を抱えるものが進んで良い道ではなかったのかもしれません。
私は目覚めの過程で自我を含め多くのものを失いました。得たものもありましたが、重度の統合失調症を患い、その目覚めによって得たもの、心境の変化、観照者の視点、知叡、愛、エネルギー的なもの、霊的なものも失ってしまいました。何も維持できない状態が続いているのです。
私の今の状態は言葉では説明するのが困難な程、複雑で悲惨なものです。
原因も元に戻る方法もはっきりわからないまま数年が過ぎました。
現在は精神科の薬で幻覚、幻聴は抑えられていますが壊れてしまったものは直らないまま、ひどい頭痛、気分の中過ごしています。
場違いな話かもしれませんが、阿部さんの見解を伺いたいです。
Posted by 弥勒 at 2022年01月18日 17:47
阿部さん、こんにちは

いつもためになる話をありがとうございます。

>せいいっぱい言葉にするとしたら、全体が自己という夢から覚めるということになります。

そのとき、全体こそが真の実在であり、徹頭徹尾これしか存在していなかったことに気づきます。


とのことですが、これまで「自己という夢」から覚めた人(?)は、仮にそう呼んでおきますが、複数いらっしゃったわけですが、全体は何度も目覚めなければいけないのですか?

1度目覚めた後、また形を変えた人として、夢を見るのですか?
Posted by 紫陽花 at 2022年01月18日 19:22
本当に、言葉で説明するのは、難しいですよね。

>言葉での理解が難しい点は、「全体である自分」をいまの自分が想像することです。

>結局は自分が理解しようとしてしまうことを知るのは重要です。

>でもそれでは的を外します。

>ポイントは「ただ在る」という状態に寛ぐことであり、何かを学ぶのではなく、ただ黙して坐るという瞑想の実践しかないと思っています。

これに似たことを、ラマナ・マハリシも質問者に語っています。

『心とは真我と身体の同一化にすぎません。
それによって偽りの自我が生み出され、それがまた偽りの現象を生みだし、あたかもその中で活動するかのように見えるのです。
しかし、これらすべて偽りです。
真我だけが唯一の実在なのです。
偽りの同一化が消え去れば、常在の実在は明らかになるでしょう。
実在が今ここに存在しないということではないのです。
それは常に存在し、永遠に変わりません。
それはまた誰もが体験していることです。
なぜなら、誰もが「自分は存在している」ということを知っているからです。
「自分は誰か?」とは、主観的には「私は誰か?」です。
偽りの自我は対象と関わっています。
この自我自身もその対象なのです。
対象であるなら、それは偽りだということです。
主体だけが実在だからです。
対象、つまり身体とあなた自身(本当のあなた)を混同してはいけません。
これが偽りの自我を生み出し、その結果、世界とその中で活動するというあなたに不幸が現れ出すのです。
あなた自身をあれこれ、誰それなどと考えてはいけません。
ただ偽りを払い去りなさい。
そうすれば、実在はおのずと明らかになるでしょう。
聖典は「真我はニディア・シッダ、すなわち永遠の存在である」と述べながら、無知を取り除くことについて語っています。
もし真我が永遠の存在なら、どうしてそこに無知がありえるでしょう?
誰にとっての無知だというのでしょうか?
これは矛盾しています。
しかしそのような言葉は誠実な探究者を正しい道に導くためのものなのです。
「私が存在しなかったことは一度もない。あなたも、ここにいる王たちも。。。。」このような平易な言葉で述べたなら、探究者は唯一の真理を理解できないでしょう。
シュリー・クリシュナは真理を説きましたが、アルジュナは理解できませんでした。(バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナは、至上主バガヴァーンとして、アルジュナに真理を説く)
後にクリシュナは「人々は私を身体と同一視するが、真理においては、私は生まれもせず、死にもしない」とわかりやすく語っています。
それでもアルジュナにとって真理が明らかになるには『バガヴァッド・ギーター』のすべてを必要としたのです。
真我とはただ「在る」ことであり、あれやこれとして在ることではありません。
それはシンプルな存在なのです。
在りなさい-そうすれば無知は終焉するでしょう。』

無知の終焉!

それが、イコール「目覚め」(enlightenment)と言ってもいいかと思いますが、「目覚め」という単語を使うと、誰が何から目覚めるのか?となり、話がややこしくなることがあります。
「悟る」も同様で、誰が何を悟るのか?となり、そこでまた討論が起きたりします(笑)。
真我実現、梵我一如、これについては、疑問が起こる余地は無いでしょう。(真我はアートマン、梵=大我、ブラフマン、我=真我、アートマンと定義されていますので)

不変の純粋意識は、それ自体で実在していますので、何かに依存することはありませんし、叡智であるため、無知であったことはなく、常に目覚めた意識であるため、夢を見ることがありませんので、夢から目覚めることもありません。

その不変の純粋意識が、本当の自分である、ということは、言葉で理解するだけならば、そんなに難しいことではありませんが、頭の理解だけでは、真の意味で、「無知の終焉」には至らないでしょう。

無知が終焉するには、やはり、真我実現、真我の直接体験(梵我一如)が必要不可欠と言えるでしょう。

それ故、永遠に「ただ在る」真我を発見することは、人間にとっては、一生かけても果たし得ないほどの大仕事であり、人によっては、命を懸けた探求となる場合もあります。

しかし、それはまた、時空間のリーラの中では、「自己探求」ゲームのようなもので、探し求めていた対象は、探し求めていた主人公の中にあった、というゲームの終りが、すべてを示唆しているのです。

つまり、私たちは、すでに真我を内包している存在ですから、私たちの内側の最奥に「ただ在る」真我と共に、「ただ在る」だけで、真我は実現されている、ということになるのです。
(阿部さんは、「真如実現」と表現されていますが、同じことです)

しかし、この「ただ在る」ことが、予想以上に、動くことが特性である人間には、思いのほか、難しいと言えます。

黙して坐るだけでも、シンプルですが、最初は、難しい場合もあることでしょう。
しかし、何事も挑戦ですね♪

己に起こることを楽しみつつ、確実に、「ただ在る」をシンプルに体現いたしましょう♪
Posted by 真我実現 from M-online at 2022年01月19日 00:38
阿部さん、本当にありがとうございます。

感謝です。<m(__)m>
Posted by 洲鎌直喜洲鎌直喜 at 2022年01月19日 04:18
阿部さん、いつもブログを書いてくれて、ありがとうございます。

寒い日が続きますが、お体お大事にお過ごしください。
Posted by おにぎり太部留 at 2022年01月19日 22:44
弥勒さん。お困りですね。

>何も維持できない状態

・・・書かれた言葉以上のことはわかりませんが、この言葉をそのまま採用するとしますと・・・限りなく「ない」ところまで遡ってしまったのでは?

もともとが、空しかない磁場に・・・段階を経て個性体が創造されました。
個性は、何もないところに何かを持ち込んでの集合体です。いわゆる自我です。その以前には何も持たない個性の原型があったはずで、もしかするとそこまで意識が回帰されたのでは?そこからは、新たな個性を身につける地味な作業が必要かと思います。

参考までに聞きたいのですが、その自称覚者の人は、自我がない。と言ってませんでしたか?もしそうなら、そのトキの影響です。激流をなんとかって、言ってたのではないかな?私も関りを持った後に、1年ぐらい何もできなくなりました。同じ人物なら、それはこわいことです。被害がでているということです。

その自称する覚者は・・・私と同じ相手ですか?違ってますか?どっちですか?
Posted by AQU@ at 2022年01月25日 13:40
阿部様

どうかこの【Posted by 弥勒 at 2022年01月18日 17:47】弥勒様に答えてあげてください。
阿部様のような方でなくては、救ってあげられないと思います。
どうかお願いいたします。
Posted by 匿名希望 at 2022年01月28日 14:39
追記

私に肉体意識の感覚しかないのは統合失調症の薬を飲んでいる影響もあるかもしれません。エネルギー的なものも押さえ込まれてしまうのではないかと思います。

私の話していることは他の方にも当てはまることなのかわかりませんし、うまくいっている人たちもいることは知っています。
何が違いなのかはわかりませんが、私に生来の素質がなかったのかもしれません。あるいは徳と言っていいのかはわかりませんが、私にそのようなものが不足していたからかもしれません。
Posted by 弥勒 at 2022年01月29日 20:47
解った。
究極の答えは「絶対孤独の我(真我)」以外存在しないということだ。

その他は全て真我の世界が創作した壮大な幻想世界だということだ。
Posted by 単(ヒトツ) at 2022年02月05日 19:06
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