2021年12月05日

じゅげむじゅげむ 五劫のすりきれ

今日も分かりようのないことをここに書いて、分からなくても何かを感じてくれる少数の人たちにメッセージを送ります。


分からないのは難しいからではありません。

これまで信じてきたことが根底からひっくり返ってしまうから、実際には分かりたくないのです。

これまでの人生に費やしてきた汗や努力が無駄だったことを認めることになってしまうし、それではあんまりだからです。


いままでにもどこにも行き着かなかったから、この先もどこにも行き着かないことは心のどこかで知っているけれど、それでも歩き続けるしか、これまでの苦労に報いる道はありません。


じゅげむじゅげむ 五劫のすりきれ


さて、そもそもなぜ苦労してきたのでしょう。

それは自分自身で人生を切り開こうとしたからです。

自分を取り巻く世界を操ることで、より良い人生を歩もうと思ったのです。


自分を取り巻く全体に対しては油断できませんでした。

気を抜くと淘汰されてしまうかもしれないからです。


信じられるのは自分だけ。

頼れるのも自分だけ。



ここで伝えているのは、そんな個別の自分は存在していませんよということ。

用心していた全体は敵ではなく、敵どころか自分自身だったということです。


「自分対全体」という構図は間違いで、全体だけが存在していたのです。


それなのに卑小な自分と同一化し、その自分が少しでも多くを得ようとしてきました。

卑小な自分が得られるようなものはたかが知れています。

いますぐに宇宙全体が手に入るというのに、なぜ人はわずかな幸せをかき集めようとするのでしょう。


その姿はまるで

長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず

です。


人は帝王の子として生まれ、物乞いになって死んでいきます。

これがいままで地上に存在した人たちの姿でした。


でもいま私たちは、帝王としての本当の自分の姿に気づこうとしています。


それは

無上甚深微妙法(むじょうじんじん みみょうほう)

と呼ばれる真理そのものです。


これは

百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごう なんそうぐう)

無限の時間を生きたとしても出会うことが難しい教えです。


このように言うと、なんだかとてつもなく偉大な教えみたいに感じますが、実際には最初からそうだった真の自分の姿に気づくだけであり、誰もがすでに手にしていることです。

だから誰もが生まれながらの帝王なのです。


百千万劫という気の遠くなるような時を経て、やっと真実に巡り合ったのだから、今度こそ取り逃してはなりません。


まさにいまここに、目の前にあります。

実際にはすでにそうであることを宣言するだけです。



この身すなわち仏なり!



あなたのことですよ。



・・・・・・・・・・・



今夜の瞑想会のアドレスはこちらです。

https://youtu.be/8_dmwyAhI0c











Posted by Toshiro Abe at 08:30│Comments(17)
この記事へのコメント
--でもいま私たちは、帝王としての本当の自分の姿に気づこうとしています。


それは

無上甚深微妙法(むじょうじんじん みみょうほう)

と呼ばれる真理そのものです。--




阿部さんのことを知らなければ、このブログを読んでいなければ

恐らくこんな真理には、気づきもせずに一生後悔のまま納得いかずに人生を

終えていたかも知れません。




本当に有り難いことです。




何度でも何回でも伝えて欲しいです。

今日も有難うございました。
Posted by 洲鎌直喜洲鎌直喜 at 2021年12月05日 08:56
宇宙を認識している自分とは一体どのような存在でしょうか?

宇宙を認識している自分とは宇宙と一体の存在です◎

生まれ老い病み死ぬ小さな肉体との一体感が強くなるほど
自分が小さな肉体に閉じ込められていると感じて苦しみます→(>_<)←

永遠に果てしなく広がる宇宙全体との一体感を強く感じるほど
自分が大きな宇宙全体に開かれていると感じて安らぎます←(*´▽`*)→

大きな宇宙全体との一体感は大きな安心感です◎

わたしたちはみんなハートから宇宙全体に広がっている永遠の愛の光です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年12月05日 09:16
「仏」と言われても、ピンと来ませんが、阿部さんがそう仰って下さるので、そうなのでしょう。
伝えて下さり、ありがとうございます♪

と、阿部さんのメッセージを読み、ふと空を見上げたら、たった今、偶然に、瑞雲(彩雲)が出ていました!
瑞雲を見たのは久しぶりだったので、何だかとても嬉しかったです^^

仏教のことは、殆ど知らないのですが、瑞雲は、仏教では、瑞相とされ、吉兆の印だそうで、大仏開眼など、喜び事がある前に、顕れると言われていることを知りました。

日傘や瑞雲など、珍しい気象現象は、条件が揃った短い時間にしか現れないので、このような稀な現象に遭遇すると、何だか訳もなく嬉しくなりますね♪(何か善きことの前触れかもしれない、などと縁起担ぎをしたくなります、笑)

霊的な体験が起きた時、現象界の仕組みを知り、唖然としましたが、それでも、この世に起きることは、瑞雲のように、自分の意思や力とは関係のないダルマ(全体の秩序)によって展開していますので、未来に起こることは、誰にもわかりませんが、そうであっても、今は心の中に、不安や恐れはまったくありませんので、それだけでも有り難いことだと感じています。

残り時間は少ないですが、夢が完全に消滅する最後の瞬間まで、体験のために顕れている夢の世界を楽しみたいと思います♪(瑞雲、とても綺麗なので、また、見たいです^^)
Posted by 瑞雲 from M-online at 2021年12月05日 09:51
自分の場合は、淡々と過ごす日々に、それでいいのかと悩んでいましたので、阿部さんのメッセージに救われています。ありがとうございます。
Posted by hide at 2021年12月05日 11:44
いつもありがとうございます。
Posted by Dn at 2021年12月05日 12:04
>用心していた全体は敵ではなく、敵どころか自分自身だったということです。
↑に関係しているかわかりませんが、

何かを嫌と感じている時、
本当は『何か』ではなく、『嫌だという思考や感情』を『嫌がっている』。
何かに違和感がある時、
本当は『何か』ではなく、『違和感』に『違和感がある』。
なんか、そんな『仕組み』がありそうだと思っています。

こんな感じ↑で気付くと、
『嫌だという思考や感情』を『嫌がっている自分』、
『違和感』に『違和感がある自分』が、解放されるように感じます。
ただそれだけで楽になれますし、充実感が戻ってくるように感じます。

それなのに・・・『嫌だという思考や感情』を『嫌がっている』だけなのに、
『嫌だという思考や感情』を『起こさせる何か』を『見つけて』は、
「あいつのせいで嫌だ『という思考や感情「が嫌だ」』」
↑みたいに『嫌な原因を重ねて』しまってるのかなと・・・・
へたするといくつも・・・それこそ「寿限無」みたいに
「嫌なのは嫌だなのに嫌になってしまうのはあいつのせいだあいつが居る環境のせいだ会社のせいだ世の中のせいだ」
↑みたいに延々と『重ね続けてしまっている』・・・しかもめでたくもないことを(笑)
『敵を作る仕組み』については、そんな風に思ってます・・・・・てあそうか、
そういうことを書きたかったのか、書いてから気付きました(笑)
Posted by ただの「自分」 at 2021年12月05日 12:11
大変です。よく分かりません。
今日のお話のような感覚を持たなかったので、「そうなんだなあ」と思いながら読んでいます。
自力を手放すと愛に包まれる、というのは分かります。
同じことですね。。

何かをしている時、やっていることはそのままで頭と身体の力を抜くと、自分がやっているんだという感覚がなくなってきます。私はそのようにして愛に馴染んでいきました。

愛は特別なものではないです。
いつもありがとうございます。
Posted by ゆき at 2021年12月05日 12:21
阿部さん、いつもありがとうございます。

以前は、「芸能人だった人が悟るわけがない。専門の僧侶ですら何年も修行しても悟れないのに、急に悟るなんてそんなうまい話があるはずがない」と思い、何か阿部さんの話に心惹かれながらも、否定的に受け取っておりました。
しかしずっと阿部さんの話を聞き続けて、私が間違っていたと今はそう思います。
阿部さん、ごめんなさい。
Posted by 紫陽花 at 2021年12月05日 12:22
あべさんこんにちわー。
今日は愛子様の成人の儀式の日。
朝からおめでたいですが、あべさんの文章はやはり分かりません。。
王として生まれ、のところはイエス様の教えにも通じます。
正確には王の子として生まれ・・ですね。
愛子様に限らず、私たちは皆、王の子供?
私たちは本当は皆、神様の子どもなのでしょう。

私は今日は、風邪とおなかの痛みで礼拝もお休みして家で療養中です。
愛子様の持つ、不思議な癒しの力(これがロイヤリティーというものでしょうか?)に、神様の不思議を思います。
直系の天皇家だけが持つ、あの不思議な雰囲気は
直接、現実には聖書とはなんの関係もないのですが・・
でもどこかでは??通じている気もします。

ともあれ今日のおめでたい慶事の日に、瞑想会に参加できてうれしい。
よろしくお願いします☆
Posted by さつき姫 at 2021年12月05日 13:29
分かろうとしない事も大事なのかなって思います。
「分からないで良い」って、寛ぐ方が良さそうですね♪
Posted by はなこ at 2021年12月05日 14:15
こんにちは、いつもお世話になっております。最近宗教についてはネガティブなイメージが強くなっているように感じています。方便と解釈することも出来ますが、まるで憲法解釈のようで、あほらしさすら感じます。
Posted by makotoazuma at 2021年12月05日 16:04
思考に振り回され、恐怖や不安を背負いながら前に前にと歩んでいたと…

もう、かなりの間、無職で瞑想に勤しんできた。

愚かな私はいつも考えて歩いてきた。

私は全体としていまここにずっといる

言葉はいらない

ずっと、感じていたい
Posted by ブラフマン at 2021年12月05日 16:46
『ここで伝えているのは、そんな個別の自分は存在していませんよということ。

用心していた全体は敵ではなく、敵どころか自分自身だったということです。


「自分対全体」という構図は間違いで、全体だけが存在していたのです。』


要するに、寛ぎに誘いたいということでよいでしょうか。。


もしかしたら、瞑想に入りやすくなる条件のようなもの、あるのかなって。
(今回、お伝えしたいと想った話の中で浮かんだことでもあります)


瞑想に入っていくために、、入っていけば浄化も起きることがあるが、浄化が起きると入っていきやすい?

だから瞑想って浄化と瞑想、浄化と瞑想って、繰り返すことで深まっていくことなのかな。。


それがね、最後のあなたのことですよ。に繋がることではあると思う。


「この身すなわち仏なり!」



何が言いたいかと言うと、真理に導く為には道程のようなものがあるのではないかということ。または要るのではないか??(要らない場合もあると思うのだけど、ここでは要る場合の話ね)

その道程が浄化なのかな。。個人の浄化もだけど、全体の浄化もあるよねと思うから、書き表すのが難しい。

とにかく、苦しみにとっては、真理が遠すぎて、受け入れることに時間?道程が必要なんじゃないか?という感じなんです。


(荒削りコメントでごめんにゃん)
Posted by すずめ at 2021年12月05日 19:15
人の名前を出して申し訳ないですが、養老孟司さんが「人間の始まりは0.2mmの受精卵で、成人男性では60kgほどの体重になる。ではその60kgの質量はどこからきたのか。当然食べたものです。つまり田んぼはあなたなんですよ。自然と自分はつながっているんです」とおっしゃっていて、ようやく「すべてはひとつ」という意味が腑に落ちた気がしました。
Posted by 権兵衛 at 2021年12月05日 19:40
瞑想会参加しました~

今日の自分が今までで一番の賢者であり、
これからの自分の中で一番若い!

というお話でしたね。

元気出ました。

感謝☆感謝☆

おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2021年12月05日 22:34
自分を信頼する。

この自分が、全体のこと(いまここ)だと知っていれば、肩の力が抜けますね^_^
(自分=全体=いまここ)

全体にお任せという時、それは自我としての自分は降参して、より大きなものに委ねる感を感じます。

自我としての自分なら、確かに自分対全体になってしまいますね(^^;
(自我も全体から顕れ出るものではありますが。)
Posted by ロータス at 2021年12月05日 22:50
寿限無寿限無 五劫の擦り切れ

落語の演目だとばかり思っていましたが、ちょっと調べてみたら、"気の遠くなるほど長い長い時間"のことを言っているのだと知りました。

本当のことを知らずに、自分がこうだろうと思い込んでいることって、沢山ありますね。

"寿限無"の本当の意味を知らなくても、人間として生きることはできますので、知っていても知らなくても、生き方が変わるということはありません。

生まれながらの帝王なのに、物乞いとして死んで行く、というのも、そのことを知っている人にとっては一大事かもしれませんが、自分は生まれながらの物乞いだと思っている人にとっては、物乞いが物乞いとして死んで行くのは、当たり前のことで、敢えて疑問にも思わないでしょうから、それが自然であり、そこに葛藤は生まれないでしょう。
しかし、物乞いだと思い込んでいた人が、お前は本当は帝王なのだと言われた場合、直ぐには承服することはできないでしょうが、相手が嘘を言って騙そうとしているか、冗談を言って人を惑わそうとしていると捉える場合もありますが、そうではない反応が起こる場合もあります。
そのような場合は、自分が信じるに足る証拠を求め始めることでしょう。

帝王と物乞いの例えは、本質は神なのに、人間として生きて死んで行く私たちの姿と重なります。

自分は、本当は、誰であるのか?

私たちは、自分のことは、自分が一番よく知っていると思っているので、それとは違う答えを示されても、簡単には、承服することはできないでしょう。

本当は、人間だと思い込んでいる神なのだと言われても、にわかには信じないでしょうし、そんなことを言う人は、頭がおかしくなった人、それ以上に、危ない人、危険思想の人と思われることもあるでしょう。

宗教の中には、このことを言葉を変えて(やんわりと)伝えているものもありますが、それが真実であり、自分のことを言っているのだと思う人は少ないでしょう。

このような常識では理解し難いことであっても、実際に体験したことを真実として語った人は、聖人、或いは、神のような存在として扱われるか?、または、頭のおかしくなった狂人として扱われるか?のどちらかでしょう。

人間は潜在的に、意識が物質次元に囚われているので、物乞いが帝王になる可能性は十分あるように感じますが、人間が神になることは、不可能だという想いがあるのです。

神になるのではありません。

元々、神なのです。

それを識ることは、元々の本来の自分の本当の姿を識るだけのことで、特別な存在になることではありません。

そうであることを認めるだけなので、特に何かを失ったり、獲得するようなことはありませんが、これを識ることで、あらゆる束縛から解放されます。

本来の自分は、何にも束縛されない自由な存在であり、そのことを識ることは、同時に、この世に束縛されて、生死を繰り返す自分はいない、ということだからです。

神しかいないのですから、帝王も物乞いも神であり、そこには、何の違いもないのですが、私たちの中では、他者との比較で感じる違いが差別化につながってしまうので、自己を必要以上に矮小化して考える癖がついていますが、そう考えてしまう癖は、本当の自分(自分の本性)を識らないという潜在的な無知から来ています。

この潜在的な無知は、根深いものなので、なかなか取り除くことはできませんが、神には不可能はありません。

無知が取り除かれることを願う人の願いが成就する方向に、神の恩寵は働くことでしょう。

そこには、願う人、願い、願いを叶える存在が必要ですが、無知が取り除かれた暁には、ただ恩寵だけがあるでしょう。

私たち人間は、分離幻想の中でのみ存在可能なので、この分離幻想が消えることへの潜在的な恐れがありますが、真実は、人間もこの世も超えた"ただ一つ"が、在るのみなのです。
Posted by 分離幻想の消滅 from M-online at 2021年12月06日 11:52
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