2021年04月12日

時間を超える

あるとき、ホーリースピリットからダイレクトメッセージが届いた。

「残念なお知らせですが

あなたに未来はありません」


どひゃ、それを言う?

たしかに年齢的にも将来を描きにくくなってきたけれど、ホーリーちゃんが言っているのはそういうことじゃない。

実際に未来など存在していないってことだ。


このことを見抜いたとき、人は初めて「いま」に帰ってくることができます。

そして探していた全ての宝が、未来にではなく、目の前の「いまここ」にあったことを知るのです。


それが時間を超えるということ。

いつも明日に向かって生きてきた自分に気づき、足を止めていまを生きる。

先のことは完全にお任せして、いまを感じきる。


特別さを全部捨てて、普通の自分が普通の現実の中に寛ぐ。


すると、すでにたどり着いていたことを見出すことでしょう。

誰一人例外はありません。


時間を超える



今日も動画をお届けします。

昨夜の模様です。


音声をつけっぱなしにすれば、他のことをしながら聞けて便利だそうです。

そうですか。

少しでもお役に立てるなら幸いです。





今日もよい一日を(^^)










Posted by Toshiro Abe at 09:17│Comments(25)
この記事へのコメント
そうですか。
この動画‥他のことをしながら聞けて便利‥なんですか‥。ほほう、
なるほど
‥ってそんなことしませんでしたよ。もちろんちゃんと聞きました。(笑)そうですか。もう私に未来は無いんですね。ほほう。なるほど。じゃあそろそろ覚悟を決めて余生を楽しみますか。
ありがとうございました。
Posted by ラブ☆教えて下さい(本物) at 2021年04月12日 09:58
未来のことを考えていたつもりが、いつの間にか過去を思い出していたり、
過去を思い出していたつもりが、勝手に未来で起こることを決めていたり、
まーいろいろ混乱しがちですよねぇ~。

そう気付くだけで、「とりあえず今したいこと、できることをしよう」
と自然になりますね。

『未来』が無いということは、こうして感じているつもりの
『時間経過』も無いということなのか、ということすら知りませんけどね。
それでも、このように↑くらいは思ってます。
Posted by ただの「自分」 at 2021年04月12日 10:03
ありがとう、阿部さん( ^ω^ )
Posted by まぁるいこころまぁるいこころ at 2021年04月12日 10:09
実在とは何でしょうか ?

過去は過ぎ去ってもうありません。

未来は未だ来ておらずありません。

現在は現に在ります◎

いま現在は実在です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2021年04月12日 10:22
タイトル笑えましたーー

穏やかな風を感じています(´- `*)

よい一日を\(^o^)/
Posted by 緑の風 at 2021年04月12日 10:28
還暦を迎える前は、オバサンと呼ばれて、ハァ?と反応しましたが、今は、無反応になりました(そう呼ばれるのは、当然なので、笑)

いろいろあって、せいぜい生きても30歳位までだろうと思って生きていましたが、30歳になっても死ぬ気配がないので、これはひょっとすると、もっと生きるかも?と思い直し、どうせ生きるなら、悔いのない人生にしようと、生き方を改め、今は、予想を超えて、オバサンからオバアになり、その内、オバアチャンと呼ばれるまで、長生きするかもしれません(笑)

これまでは、いろいろありましたが、ここまで長生きした今は、神に、感謝とお礼の言葉しか出てきません(^^)

そして、やり忘れていることはないかな?と心は身辺整理に入っています(笑)

真理が明らかになる度に、驚き、そして生きることが楽になりました。

そういう仕組み、そういうカラクリになっていたんですね。。

改めて、人間に秘められた神秘と宇宙の神秘に、感嘆し、神の偉大なる力に敬服しております。

これまでも、同じようなことは起き、同じような気持ちになった人は、沢山いたことでしょう。

普通のオバサンで良かった♪
何かを失うことを杞憂することもなく、未練なく、その時を迎えられそうです。

川が大海に流れ込むように、ソレに溶け込み、本当の自分に還るだけ。

人生善哉。

せっかくなので?最後の瞬間まで、人生を、この世を、人間として在ることを楽しみたいと思います♪
(阿部さんのブログも楽しみの一つです。
いつも、ありがとうございます♪)
Posted by 至福の大海へ♪ from M-online at 2021年04月12日 10:44
>そして探していた全ての宝が、未来にではなく、目の前の「いまここ」にあったことを知るのです。


それが時間を超えるということ。

いつも明日に向かって生きてきた自分に気づき、足を止めていまを生きる。

先のことは完全にお任せして、いまを感じきる。

あべさん、こんにちわ!
北海道は強風が吹いていますが晴れていていいお天気です。
雪がどんどん溶けていきます。
どうして今に戻れずすぐに未来を案じてくよくよしてしまうのか?
今日は、急に壊れたお車に右往左往して、代わりの車を探しに行ってきました。パートに行くのになくては困るのですが‥でも中古でも何十万もして
これからローンを払うのかと思うと気持ちが不安に。
先を心配していてもなる様にしかならないとは思っているんですが。
録画に大感謝です。
実は昨晩も疲れて?途中で寝てしまい、何も覚えていません涙。
もう何回もこんな感じです(おこることが起きている?)
ありがとうございます。これから聞いて車探しに行ってきます☆
Posted by さつき姫 at 2021年04月12日 12:18
瞑想会ありがとうございました。
瞑想会は気持ちがよくて、こんな機会をいただけて幸せだなぁと思います。
修行や儀式についてあぁそうだ、と個人的に思った事がありました。私は山で修行される方に憧れちゃうし、こだわらない気持ちでただそこに溶け込む時の心地よさや何かの気づきはあるのかなと思います。でもしかめっ面して形にしがみつく事に意味はない、と何も知らないのに感じます。
何をしていてもただのおばちゃんだということを忘れずにいたいです。
Posted by ゆき at 2021年04月12日 12:33
こんにちは。
昨夜も笑いました!
こうして何回も言葉を浴びることって大事ですよね。こういう機会をつくってくれてありがとう、おいたん。
Posted by ザクト at 2021年04月12日 12:36
敏ちゃん、お久です! 動画<(_ _)>ね! そう、ビーちゃん、今年65だよ!
そう、先はあまり?ありません。
プーナにまよいこんで、40年だわ。でもありがたい時代だね!昔より、なんか楽ちん! 唯々ぼけてるかもね~!
ありがとう~!ボチボチ座ってまあ~す!
Posted by ビーちゃん at 2021年04月12日 14:18
「明日に向かって」と聞くと
「明日に向かって撃て」「俺たちに明日はない」というアメリカ映画を何故か連想する私。
奇しくもどちらも実在の銀行強盗を描いていたけど、どちらも明日はなかったな〜。刹那的で享楽的で欲望の赴くままに盗みを働いてて。
善悪を横に置いといて見るなら今という瞬間瞬間を彼らなりに生ききったと言うべきか、それとも阿部さんの言う普通のおじさん、おばさんに寛げなかった成れの果てかな〜などと徒然なるままに思った次第です。
Posted by グレース at 2021年04月12日 14:29
阿部さんの『音』は痛快で心地好ぃ~ので毎日聞きます。
どっちみち夢だから笑 サイコ~~
Posted by ひろみぃ at 2021年04月12日 14:41
あは(^o^)
Posted by tomo at 2021年04月12日 14:43
ありがとう✨ございました
Posted by としあき at 2021年04月12日 15:09
『ただ、いまここにいましょう。』

でブチッと動画が切れて、てんこもりもりの内容だったと思うのですが、その全部がいまここを指し示す内容だったと思います。

一泊二日、一昼夜の話は、よく笑わせてもらいました。一昼夜にあれやこれやと体験を詰め込むのが、存在からすると楽しいのかもしれません(笑)


でもなに、余生は自分が何者かを見抜くことって言ってた?


全体の流れとしては、人類がそういった精神霊的成長へ向かう段階って、阿部さんいう現象はそのように捉えてるって?


んんん、阿部さんに質問なのですが、その本質を見抜くことって、やろうったって出来ることではないでしょうけど、それでも本質に還ることは求めた方がいいの?


求めるにも、度合いのようなものがありそうです。

まったく求めていなかったら、阿部さんの話は聴いてないかもしれないし、瞑想もしないと思うけど、どっちもしてるから、本質に還ることを求めているのかな。。?


この現象界を生きるのに、いまここに寛ぐことがなかったらとてもやっていけない。という感覚や認識から求めているかも。。


でも阿部さんの話を聴いていると、もっと本腰を入れて求めないといけないのかな?的な…

というのは、「いまここ」が時間を超えるということは、あらゆる過去のエネルギーを脱ぐことでもあり、人が幸せに暮らすために不必要なエネルギーを取り去ることになるだろうから。


そして同時に未来も存在しなくなる?

過去も未来も存在しない。常にいまここ?


瞑想が大きく二段階あると思って下さいって説明してくれていたから、そこが取り入れたいところかも。
Posted by おいも at 2021年04月12日 16:07
タイトルがwwwサイコーですwww
Posted by 普通のおばさん at 2021年04月12日 16:20
喋ることないって始まったのにめちゃくちゃ喋ってるのを見てて、
「これが自動運転というものか」
と思いました(笑)
楽しかったです^^
Posted by コンドウノリカズ at 2021年04月12日 16:24
動画のお話の部分、再アップありがとうございます!

瞑想の第二段階目というのがあるのですね。
なるほど、私は、どうやら、その瞑想の二段階目までは行ってないのだと思いました(^^;

"私はいない""物見(観照そのもの)"までは判るというか、気づいたのですが、その後があるんですね…(*^^*)

その安心感や幸せ・大丈夫感は、いっときの、神秘体験かと思ったのですが、そうではないんですね?

"私はいない""物見(観照そのもの)"は、瞑想ではなく、突然?気がついたのですが、
その第二段階目は、やはり、瞑想でないと辿り着けないのかなぁ…(^^;;

でも、

>先のことは完全にお任せして、いまを感じきる。

このようにあれば、きっと見出せますね!
Posted by ロータス at 2021年04月12日 17:54
こんばんわ、自分には今ここに生きると言い、子供には将来を見据えて今を無駄にするなと言い。今を繕う今川焼です。
Posted by makotoazuma at 2021年04月12日 20:33
阿部さん、こんにちは。そうですね。先の事はお任せですよね。

すでにたどり着いているんですね。大分楽になりました。

そういえば昔ある方が「もう与えられているじゃないか。それが人間には

解らない」と言っていましたよ。
Posted by 永井新吾 at 2021年04月13日 10:46
阿部さん、ありがとう(^^)

阿部さんと一緒におおわらいしました(^^)
ダイエットしてたけど、チョコパイ食べます(o^^o)
Posted by さときよ at 2021年04月13日 15:34
動画すっごい
面白かったです(笑)

おいちゃんと
一緒に笑ってしまいましたー
ゲラゲラ♪

わからないって
ことを
わかっているんじゃないでしょうか

楽しい時間を
ありがとうございます

(・∀・)ノ.。.:*♡
Posted by あるとない at 2021年04月13日 20:14
最近の阿部さん。

笑う事の大切さを力説。

真剣に生きてる人がチャンチャラおかしい。

笑い飛ばせ‼️

全ては喜劇‼️

近日、発売予定の本、楽しみで仕方ない‼️

書いてることは今まで言ってきた事だろうけど。

笑い飛ばせばこっちのもの‼️
Posted by 近藤博文 at 2021年04月13日 20:51
今回、アップして下さった日曜日のミニ講演の動画の最後の部分を、何度も見直しています^^(こんなことは珍しいのですが、聞くたびに、好いお話だなぁと、うっとりとしております^^;)

瞑想の第一段階(ディアーナ)から第二段階(サマディ)に至る心身に起こるプロセスは、個人差はあるとは思いますし、言葉で表現することが難しいために、文章として表現されることが少ないこともあって、多くの場合は、神秘のヴェールに包まれている感無きにしも非ずですが、それを見事に、言葉で表現し、分かり易く伝えてくれている文章に出会いました。(書き手は、真摯な真理の探究者であると同時に、ジャーナリストでもあったそうなので、この精妙なる体験のプロセスを描写する才に、他者以上に恵まれていたということなのでしょう)
それぞれが体験するサマディ(真我実現)のプロセスは、個我によって、多少の違いはあれども、最終的には、同じ結論に行き着き、そこにおいては一つである、と確信しております。

報告された「真我実現」(サマディ)は、ラマナ・マハーリシのアシュラムにて、マハーリシと共に瞑想していた時に起きたそうで、その後、マハーリシに、それは「真我実現」であると認められ、文章としてまとめられ、本として出版されました。
それが起こるまでの長い期間における探求者自身の努力もあったかと思いますが、内側のグルと外側のグルの恩寵が共同して、このように働くこともあるのでしょう。

ひとたび灯りが灯れば、その光(光明)は闇(無知)を照らし消滅させるので、もう二度と闇(無知)の状態に戻ることはありませんね。

自己探求の道を歩む際のヒントとして、ご参考までに^^


『初期の私の瞑想の特徴だった心理的探求は、近ごろはやみはじめていた。
私はみずからの肉体、感情、知力の感覚の意識にかわるがわる尋問したが、こうした自己探求には失望して、ついにはそれらを全部捨ててしまった。
そこで私は意識の注意を、意識自体の中心に向け、その源の場所を悟ろうと努めはじめた。
今その最高の瞬間がやってくる、静寂そのものという集中の中で、心はそれ自らの内に引っこみ、なじみ深いこの世が、影のようにかすかに消えはじめる。
心理的な空白の壁のようなものに行きつき、しばらくはまったくの無に囲まれたようになる。
ここでできる限り強力に精神集中を維持しなければならない。
それにしてもわれわれの表面の怠惰なたわむれから離れ、心を内なる集中の一点に向けるのはなんという難しいことだろう!
今晩は一連の雑念とはわずかな小ぜりあいだけで、急速にその一点に到達する。
普段はこの到達までに雑念の序奏が奏でられるが、今は新しい強烈な力が内なる世界でダイナミックに活動し、抵抗できないほどの速さで私を内に向かって運ぶのだ。
最初の大きな戦いはほとんど一撃もなく終わり、楽しい、幸福な、平安なるフィーリングが究極の緊張を保っている。
次の段階では、知性が考えているという意識はあるが、知性から離れてそれを見ている。
すると直観が、それは単なる道具である、と警告する。
私はこうした思考を奇妙に離れて見守っている。
これまでは、ふつうに自我のプライドというものがあって働いていた思考が、今はそれから逃れなければならないことがわかる。
私は驚くほど明確に、自分が無意識のうちにそれの虜であったことを知る。
続いて、知性の外で、ただ在りたい、という願望が突如起こる。
そして思考よりもっと深いところにもぐりたくなる。
頭脳の不断の束縛から自分を手放したらどんな感じがするだろう。
しかもそれを意識が目覚めたまま自覚しておこなったらどうなるのだろう。
それを知りたいと思いはじめる。
まるで他人のものであるかのように、離れたところから頭脳の働きを見、去来する思いの動きを見るということは、本当に不思議なことである。
私は未知の大陸にあがろうとするコロンブスのようだ。
完全に制御され、静められた期待が、私にはスリルをあたえる。
しかしどのようにして、長年の「思考作用」という専制君主を切り離すのか?
私はマハーリシに、強いて止めようと努力せよ、とは勧められたことがないことを思い出す。
「思いをその起源までたどれ。本当の自己が自らをあらわすのを見まもれ。
そのとき、思いはおのずから消えるだろう」
それが彼がくり返し与えた助言である。
思考の誕生の地を発見したと感じた私は、自分の注意を一点に集中した力で制する積極的な態度を捨て、餌食を狙うヘビのようにしつこく注意深くありながらも、完全に受け身の態度をとる。
この落ち着きのある状態が優勢となると、ついに私は賢者の予言が正しかったことを知る。
思いの波は自然に消えはじめる。
論理的合意的感覚の働きがゼロに向かう。
今までの経験の中のもっとも不思議な感覚にとらわれる。
直観力のアンテナ感度が急速に高まり、未知の世界を感知し、時間の観念が揺らぐ。
肉体感覚の報告は、聞こえもしない。感じもしない。思い出しもしない。
私はいつでも物事の外側に、この世界の秘密の限界地点に立っているのだろう。
ついにそれが起こる。
思いは吹き消されたろうそくのように消える。
知性はその本当の基盤に引き込んでしまう。
意識が思いに邪魔されずに働いている。
少し前から感づいていた、そしてマハーリシが確信をもって断言していた。
心は超越的な源泉から発する、ということを認識する。
頭脳は熟睡中のように完全に停止状態に変わった。
だが意識は少しも失われてはいない。
私は完全に落ち着き、自分が誰であって、いま何が起こっているか十分に知っている。
しかし私の自覚は、個人というせまい限定の中から引き放たれ、壮厳にいっさいを抱擁するあるものに変わったのだ。
自我はなお存在する。
しかしそれは変化した。
それは光輝く自我である。
私というつまらぬ人格よりはるかに優れたもの、もっと深くてもっと神聖な存在が、意識の中にあらわれ、それが私になるのだ。
すると完全な自由という驚くべき新しい感覚がやってくる。
なぜなら、思いは常に行きつ戻りつしている織機の杼(よこ糸を通す用具)のようなものであって、それの専制的な動きから解放されるのは、刑務所から外に解放されるようなものだからである。
私は自分をこの世の意識という枠の外に見る。
今まで自分をかくまっていた地球が姿を消す。
私は輝く光の海の真ん中にいる。
その海からもろもろの世界が創造されるところの原始の材料、物質の最初の状態の海である。
それを私は思考ではなく感じている。
それは言葉ではあらわすことができない無限の空間に広がっており、信じられないほど生き生きとしている。
私は閃光のように空間内で演ぜられている、この神秘な宇宙のドラマの意味に触れ、私の存在の根本の一点に戻る。
私は神の自由とほとんど描写不可能な幸福を得た。
私の両腕は慈悲と深い洞察をもってすべての被造物を抱く。
なぜなら私は、すべてを知るということは、単にすべてを許すだけではなく、すべてを愛するということなのだと深く理解するからである。
私のハートは狂喜のうちに変容する。
私がその次に通過するもろもろの経験をどのように記録したらよいだろう?
それらは私のペンを触れさせるには余りに精妙だ。
だがそれでも私が学ぶ、星々のように輝く真理を地上の言葉に翻訳することに差し支えはないだろうし、その努力も無益ではないだろう。
そこで私は実におおざっぱだが、人間の心の背後に足跡も小道もなく拡がる、驚くべき古代世界の記録の一部を取り戻して、以下に記録しようと試みる。

人間とは、母親よりも偉大な存在に養われる崇高な種族である。
賢くなった者はそれを知るようになる。

人の内に、不滅の種族に属する「それ」がある。
人は自分の本当の自己をほとんど無視しているが、そうであってもその輝く偉大さは、けっして変わることもなければ影響を受けることもない。
たとえ人がそれを忘れて感覚の中で眠り込んでいても、それが手をのばして触れるときには、人は自分が何者であるかを思い出し、自分の魂を見いだす。

神的な感覚を失った人は、自分の真の価値を認めない。
自分の内の権威ある霊的中心に十分に確信を見いだせるときにも、他人の意見に追随する理由はこれだ。
自らをかえりみて、自分に不満を感じたり、弱さや暗さや恐ろしさしか見いだせない者も、自分をあざ笑う必要はない。
それがかすかな囁きとなるほどハートが静まるまで、深く、長く、見続けておけ。
それに注意を集中せよ。
それは生命を得て高い思想に成長し、さまよう天使たちのように心の境界線を超える。
これらはまた、のちにやってくる声――彼の中心に住む、彼自身の永遠の自己、深遠かつ神秘的な隠れた存在の声――の先触れとなるであろう。

神の性質は、あらゆる人の生命の中に示されているが、もし無関心にそこを通り過ぎるなら、その啓示は石ころだらけの土地にまかれた種子のようなものである。
誰一人として神の意識からしめ出されてはいない。
自分で自分をしめ出しているのだ。
人は、人生の神秘とその意義について思いあがったもっともらしい探求をするが、その間に、緑の小道にとまる小鳥や、愛する母の手につかまる子どもはみな謎を解いて答えをめいめいの顔に表している。
君を生まれさせたあの生命は、おお人よ!
君が思うよりはるかに高貴ではるかに偉大なのだ。
それの君にたいする慈悲にみちた配慮を信じ、直感の中で君のハートにささやかれる精妙な指示にしたがえ。

崇高な存在の輝く翼に自分は抱かれている、と発見したときに、人は初めて、安心と安全と保護を感じる。
無知の状態にとどまっている限りは最善の発明は彼の最悪の防げになるであろうし、人を物質的形態へと引き寄せる一切のものは、あとで解かなければならない結び目となる。

ひとたび真の自己を見た者は、もうけっして他者を憎むことはしないだろう。
誰一人、神々の目をかすめる見込みがある者はいないが、神々は、人に見られず、人間の恐るべき仕業の無言の観照者として立っている。
うめき声をあげる世界が人を取り巻くが、崇高な平安はごく身近にある。
疲れ切った人は、不幸に試され、疑惑に引き裂かれて、暗い人生を転びながら道を探る。
しかし大きな光は人の前にある歩道を明るく照らしているのだ。
人が仲間たちを、ふつうの日の光によってではなく、彼らを変容させる内なる神性の光に照らし見ることを学ぶとき、初めて、人が神と呼ぶ要素を、仲間ひとりひとりのハートに宿ると見るのだ。
その崇敬の念をもつことができたとき、初めて、憎しみはこの世から姿を消すのだ。

学者たちはモグラのように、学問という家の壁を形成する、しだいに高くなる古今の文献の山積みを掘り下げて行くが、彼らもこれより深い秘密を学ぶことはできないし、人の自己そのものが神である、という至高の真理以上に高い真理を知ることはできない。
年齢とともに、物欲しげな期待は弱まっていくだろう。
そして不死の生命への希望、完全な愛への希望、保証された幸福への希望は、ついには確実に満たされるであろう。
なぜならそれらは、けっして避けることのできない不可避な運命の、予言的な直観なのだから。

世間から離れた心の静寂の中に、人間という種族にその祖先が神であったことを教えた、ヘブライ(古代イスラエル民族)やアラビア(アジア大陸南西端の大半島)の予言者たちが見たヴィジョンに劣らず神聖なヴィジョンを見る。
ブッダはこれと同じ輝かしい光によってニルヴァーナ(涅槃)の真理を悟り、人びとに伝えた。
この悟りが呼び覚ます愛は、マリヤ・マグダレーナ(マグダラのマリア)をして汚れた人生を悔いてイエスの足もとに泣き伏せたほど、すべてのものを抱擁する愛なのである。

ある抵抗しがたい力に強制されるように、私はこの世の領域に戻ってくる。
ゆっくりと段階を追い、徐々に自分の周囲に気づきはじめる。
自分はまだマハーリシのホールにすわっていて、そのホールがからになっているのを見いだす。
目が草案の掛け時計にとまり、夕食どきなのだなと理解する。
左側に誰かいる。
75歳の元駅長が慈悲深い目で私を見つめ、すぐそばにすわっているのだ。
「あなたは二時間近くも霊的恍惚状態に入っていらっしゃったのですよ」と彼は言う。
しわが寄ったその顔は、私の幸福を見て喜びの笑顔で顔がくずれる。
何かを答えようと努力するが、驚いたことに口を開く力が出ない。
15分間それは回復せず、そのあいだ、老人はさらに詳しい話をしてきかせる――
(秘められたるインド)
Posted by 真我の輝き from M-online at 2021年04月13日 22:38
動画の提供ありがとうございました。

思考に振り回されずに鑑賞者に徹する。。。書けば簡単ですが行うは難し、
しかもそんなことは初歩?的であり内観を深めていくと・・・いくと?・・・
鑑賞者はもはや存在なく、鑑賞そのものであると?・・・あると?(笑)

この世は一夜の旅のようなもの・・・ひとりきて、ひとりさる・・・さる?
これは、なんかわかりますが、誰も来てないし、誰も去らない?去らない?ですと?・・・いやはや。。。わかりませんね~。このわからなさ・・・が、そもそもが夢なのでしょうね?

動画を観てから、意味の無い至福感に「今は・・・」ありますが、やがて消え去るのでしょう(笑)
Posted by AQU@ at 2021年04月14日 07:44
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