2020年03月23日

もし誰かから

「愛とは何ですか?」

と聞かれたとしたら


「愛とは裁かないこと」

と答えることだろう。



愛とは裁かないこと



愛ではない人たちは、朝から晩まで何かを、そして誰かを裁いている。

もちろん自分自身のことも。


それがあまりにも日常化しているので、自分がそうしていることに自覚を持てていないことが普通だ。

無意識に繰り返されているから。



このような中で生きていると、反転して自分が他人に裁かれることが怖くなる。

これが「他人の目」の正体だ。


他人の目から自由になるには、自分の中から裁きを捨てること。

早い話が、愛は他人の目が消えているのだ。



人が自然体でいられないのは、愛がないから。


人が率直に言葉を伝えられないのは愛がないから。


そして愛の反対が怖れだ。

自然体でいられないのも、率直になれないのも、すべて怖れから生じている。



特に日本と言う国は、裁くということに魅了されている。

TVを見れば正義の人たちが、生贄を断罪する。

それが悪いというのではなく、視聴者の娯楽として人気があるからそれはそれでいい。


しかしその娯楽性はあまりにも暗い。

なぜそれが娯楽になるのかは、長くなるからまた別の機会に説明しよう。



ちょっと想像してほしい。


もしあなたが誰からも裁かれないとしたら、どんなに自由かと。


その自由の中に愛が育つ土壌がある。


怖れの土壌には、愛は育たない。


ここがジレンマだからリトリートのような機会が必要になる。




僕はいつか、愛の村を建設するかもしない。

そこに暮らすたった一つの条件は愛だ。


たとえば今日の話で言えば、裁かないようにすることではなく、裁きが消えた人たちによる共同体。

いまの社会が人間を幸せにしないことを知った以上、幸せな社会の成功例を作ってみたい。


そのためには深い洞察と、人間としての成熟が求められる。


その成熟が愛だ。







Posted by Toshiro Abe at 10:15│Comments(52)
この記事へのコメント
愛とは「無条件」のことかもね~

善悪で裁いてばかりの社会は

愛に戻されるのですね♪

素敵です!


 
Posted by チョウカツマンチョウカツマン at 2020年03月23日 10:29
売れたときではなくて

熟れたときなんですね
Posted by としあき at 2020年03月23日 10:35
模察と申します。

>裁かないこと

いまこの瞬間、ここで起こっていること全てを裁かないこと。
裁かないことは、嫌いだとか、間違っていると思うことを止めるだけではないですよね。

「あれは好きだから受け入れる」
「これは正しいから認める」

こうした観念は、一見裁いてないようで、実は裁いてますよね。

「あれは好き=あれ以外は嫌い」
「これは正しい=これ以外は誤っている」

裁かないこととは、観念の上でも感覚の上でも、『好き嫌い・正誤・善悪・是非』の選り好みを一切しないこと。
いまこの瞬間、ここで起こっていること全てを対象として扱わず、観察するでもなく観念で手を付けようともしないこと。
あるがままに何もしようとしないこと。
外側を対象としなけば、対象を扱おうととしないから、何かをする私という主体が消えること。
Posted by 模察模察 at 2020年03月23日 10:44
読みました。そうかあ実現するとイイですねえ。ばかっ、造らんでエエわ。和
カメラで撮影で追いかけようかな。
厳しい批判になりますね!
たのしみです。笑い
Posted by さき at 2020年03月23日 10:45
「頭の中の五感と想念が自分だ」と感じるほど
頭の中の五感と想念の存在感が強くなり
想念による善悪の判断が強くなり、裁きが強くなります( `ー´)ノ

宇宙全体との分離感が強くなり、苦しくなります→(>_<)←

「胸の中の光が自分だ」と感じるほど
胸の中の光の存在感が強くなり
愛の光が強くなり、許しが強くなります←(*´▽`*)→

宇宙全体との一体感が強くなり、楽になります←(*´▽`*)→

宇宙全体を満たしている光と胸の中心にある光は常に一体です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2020年03月23日 10:49
いつもありがとうございます。
昨日はありがとうございました。

「人を裁かないこと。」
心して、意図して実行します。
そんな村ができたなら、いつか住みたいですね。

ではこれからも書きたいものを書き、したいことをなさってください。
Posted by TSY at 2020年03月23日 10:59
いつか私も素敵な愛の村の住人になれるように在りたいです。

素敵な愛の村が出来ること心待ちにしています。

どうぞよろしくお願いします。
Posted by まりも at 2020年03月23日 11:02
真実を見失っているときは、ずっと逃げ場のない閉塞感の中でもがき苦しんでいて、黒い塊がみぞおち辺りにあるようで、まるで息の出来ない場所にいるようです。眠ってるときが一番幸せに感じますw
信じてもらえなくても仕方ないですが、キツい精神状態の十代の頃「すべては愛」と頭の上の方から声にならない声がしたのを覚えています。深いところでは腑に落ちているものと思いますが意識上では解らないのでそのままにしています。多分すべてを愛してるようなのですが、気持ちが傷付くので表現出来ません(それが怖れでしょうか)。
皆もっと自由に自然に「大好き」って伝え合えたらいいなぁ、と思っています今年もちゃんと桜が咲き始めましたいつもありがとうございます
Posted by にゃんカフェ at 2020年03月23日 11:18
裁きが消えたとき、

裁く人や行為すら、気にならないし、受け止められる。
Posted by ロータス at 2020年03月23日 11:19
暗い上にしんどい。あるとすれば、間違い正しいの世界で正しいと思い込めて、孤独を紛らわすこと位。大義名分、多勢を肩に。
そうしておいて、自分は正しいのに、相手は、世界は、社会は、もしくは、自分は駄目だ、死ななきゃ、で、また自分はこんなに苦労してるのになんで世界は助けてくれない、、世界は、社会は、、

ループ!

裁きが完全に消えた人にはなれないけれど、仕組みが解っていれば、ある程度はね。そしてそれでいいと思う。裁きが消えた人、なんて目標たてたらさ、またいまじゃないになるから。
気付いたらやる。時間見つけて座る。僕はそれだけ。

ありがとうございます。
Posted by マイペース at 2020年03月23日 11:19
他人の目の正体…本当だ。
愛を選択し続けるだけ。
相手の中の光だけをみていれば亡霊は消える。自由になる。本当にこれだけだ。愛しかないってすごい安心感。なにもいらなくなる。
Posted by プリマ at 2020年03月23日 11:22
阿部さん みなさん おはようございます。

日々、いろんなことで動揺している自分に気づきます。
ちょっとしたことで緊張して硬くなる体の反応は、自分がいかにこの世界を”地獄”にしてきたかを教えてくれてます。
そこにサンガでのレッスンを一つ一つ当てはめていくことはそこから自分を”救う”ことだと思ってやってます。

レッスンに出てくる「私の愛のない思いが」
この言葉を使うことで、愛がなんであるかは直接わからなくても、愛がないということがわかるような気がします。

過去をどんなに探っても、そこにどんなに納得できるものを探しても、そこには愛がないんですね。
レッスンの言葉とともに、過去をきちんと流してあげている感じです。
そして今ここに戻っていくる。

ありがとうございます。
Posted by サンガ mike at 2020年03月23日 11:35
愛のお話〜本当に嬉しい。。阿部さんありがとう❤️
Posted by ワタシは楽しんでる女です at 2020年03月23日 11:39
愛最高!
昨日、webで参加した奇跡のコースも愛でした。
Posted by hirosun at 2020年03月23日 12:03
奇跡のコースでイエスが教えていることは、たとえそれが真理への唯一の道ではなくとも、本当にその通りだと実感します。
私も、日々いろんな出来事や周囲の人々から自分の内面を見せられ、その都度自分を赦す宣言をしています。
Posted by Maribon at 2020年03月23日 12:04
私も今日から裁かないことを意識して生活してみます。
なぜなら周りの人への文句はほとんどないけど、最近テレビに出てる人や構成に向かって文句を言ってるなと思ったからです(^^;)
なんでテレビに映る人へは文句が多いかなぁ。
それではやってみます。
Posted by マロン at 2020年03月23日 12:23
愛の村が築かれた時には僕も住人に入れてください!
Posted by jun at 2020年03月23日 12:58
昨日の講演会、ありがとうございました。
あの後から頭がほわ~んとして、ジャッジがかなり少なくなり、というか周りのことが気にならなくなったからジャッジしていない。その無限ループで平安が訪れています。
でも、自分自身の行動、思考にはまだジャッジしていますが。

最後に、香咲さんとってもお綺麗でした❤️
Posted by 凪 at 2020年03月23日 13:05
「愛がなんであるかはわからなくても」
と、コメントしてから瞑想しました。

今ここに戻ってみたら
(判断を入れなければ)

このくつろぎが、
目の前のこの完璧さが愛。。。

と思っていたらそのあとに聞いたサンガ去年の2月15日の動画で阿部さんがこのようなことを言ってました。

「いつか、自分が成長できた時に、やっとそのこと(愛)を理解できるんだと先伸ばしてしまう。
そしてそれは今を外してしまっているので、永遠にそれと出会うことはできない。
だから可能性は二つ。
今ここでそれを手に入れるか 永遠に手放すか」と。


ありがとうございます。
Posted by サンガ mike at 2020年03月23日 13:13
こんにちは。
愛の村、なるはやで作ってください(笑)
『愛』阿部さんのを読んでふんわり解り、他の方のを読んでまたふんわり解り。
でも、自分が熟すにはまだまだかかりそうです。
なので、実際にやってる人達を見ながらだと、熟せそうです。
足の速い人と走ると自分もタイムが縮むとか。
バドミントン上手い人と組めばラリーが続くとか。
そういう感じで、引っ張って貰いたいm(__)m
Posted by サンガsoraco at 2020年03月23日 13:18
どこか読むのが苦しくて、早送りじゃないけど、落ち着いて読まない私でした。。

もう一回読むね(^^)



あ~裁くね。裁くかあ。。裁くについて考えるのも調べるのもしんどい気がするけど調べよう。

調べてみて、「 善悪・理非の判断をする。」これかなあって思いました。

そしてまた読む。。


『早い話が、愛は他人の目が消えているのだ。』


うんうん、他人にどう思われるか気にすることがないのかな。。

他人にどう思われるかっていうか~、ひとりの時ってかなり自由なので~、やっぱり驚かさないように?どこか意識が働いていると思います(^^)


『人が自然体でいられないのは、愛がないから。』

ここから先は、ごもっともなせいか、苦しい(笑)



『ちょっと想像してほしい。


もしあなたが誰からも裁かれないとしたら、どんなに自由かと。』


うんうん、ここを読むと楽になる(^^)

それに、ほんと、誰からも裁かれないとしたらどんなに自由だろう~(^^)


『その自由の中に愛が育つ土壌がある。』


ここから先は、更に、感じながら、想いを馳せながら、丁寧に読み込みたい感じがするので、いったん休みます(^^)
Posted by おいも at 2020年03月23日 13:24
愛はコントロールする必要がない
愛は批判する必要がない
愛は所有する必要がない

その他諸々自由におまかせでOK(^-^)
Posted by ケセラセラ♪ at 2020年03月23日 14:26
まずは、自分の中に裁きのない愛を育てます。
と宣言しら、体がゆるみました。。。
あ〜なんか楽しいです!!!
Posted by hikawano mori at 2020年03月23日 14:36
正解じゃないと認められないという怖れか、何があっても根っこでは愛されているという安心か、どっちかと言われればやっぱり愛がいいです。
Posted by ゆき at 2020年03月23日 15:03
人も自分も事柄に対しても、裁かないようにすること❤︎

何かを行う時、愛からの行動か、それとも恐れからか?を意識すること❤︎

自分の中の光(愛)を信じて、そこにお任せして生きること❤︎

昨日の講演会で学んだ事です。

はっきりと確信を持って断言される香咲さん。とても格好良く、同時に女性的な包容力も持ち合わせ、とても素敵でした!

そして、いつでも深刻になり過ぎないように、絶妙に場を和ませてくれる阿部さん。本当にありがとうございます❤︎
Posted by パドマ at 2020年03月23日 17:14
愛とは裁かないことだとすると、エゴマインドと愛は相反するものだということになりそうですね。
外側の世界に起きていることに対して、自動反応が起きていて、それを総じて私たち人間は、その自動反応を"心"と呼んでいます。
その上、その心の持ち主がいるかのような錯覚が、私たちの脳内に生じているので、私たち人間は、まるで自分という個人が存在しているかのように錯覚しています。
しかし、実際には、この宇宙に、そのような主体なる”わたし”が実在する訳ではありません。
脳内では、常にサンスカーラ(過去の記憶の残存印象)に照らし合わせて、物事を判断し、分析するという作業が行われています。
特に、快·不快の区別は瞬時に起こるため、好き嫌いの反応は、確固たる理由なく起こり、理由付けは後から行われることが多いのですが、それは、体の反応として、脳を介さなくても起こるため、無意識の内に、好き嫌いの判断が起きてしまっています。
例えば、人に対する反応は瞬間的に起こることが多いので、何故その人を好きなのか?嫌いなのか?の理由を考えてもわからないことが多いのですが、そういう時、人は理由を見つけたがるものなので、その理由は、大抵は自動的な反応に対する後付の理由(これを作話と言いますが、尤もらしい理由付けが行われるので、本人には自覚がないことが多いようです)であることが多いと言えます。
このように、寝ている時以外は、常に肉体は外界から情報をキャッチしており、脳内でのその情報処理が行われるプロセスにおいては、常に快·不快、好き嫌いの自動反応が起きるので、それを言語化すると、不快や嫌いという反応が起きた時は、批判や中傷、対立という形で、外界へ出力するという構図になってしまうのでしょう。
それが、エゴマインドの正体なので、仕方ないと言えば仕方ありません。
人間社会は、エゴマインドの世界であり、私たちは70億もの分離した世界にそれぞれ生きていて、その個別の閉じた世界からはほとんど出ることなく、殻の中で一生を終えます。
この硬い殻を破り、開いた世界(全体)に触れるには、かなりの勇気と強さが必要です。
しかし、この殻にひとたび穴が開くと、それがどんなに小さな穴であっても、その穴から全体エネルギーである”愛”が、個の世界になだれ込んで来ます。
こうして、一時的ではあっても、エゴマインドという見かけ上の殻は消滅し、魂は魂の源と一体となるので、この宇宙に本当に存在するのは、ソレだけであり、それこそが自己の本質だという理解に達するのです。
この地球上に、自己の本質に目覚めて生きる人が増えれば、その分だけ、自然と生きやすい世の中になっていくことでしょう。
しかし、そう簡単には、自己の本質が目覚めることは起きないのが現実なので、そこに全人類が、高い理想に向けて弛まず前進して行くことが求められているのだと感じます。
地球生命の永続的な繁栄は、人類の手の中にあるといっても過言ではなく、人間社会の未来は今生きている私たちの心や意識の在り方次第で、如何様にも変わるので、一人一人の力は小さいですが、より良い変化を望む人が増えれば、やがて、大きな岩をも動かす力となることは、言うまでもありません。
結局は、人間社会とは、その時に生きている人間の心や意識の在り方の反映に過ぎず、また、人それぞれの心や意識の在り方によっては、受け取る(体験する)世界は違ってくる、ということでもあるので、愛に目覚めた人と目覚めていない人が体験している世界は、同じ次元にいても違っている、と言うことになりますが、私たち一人一人が、地上天国に住まうことは、もちろん可能です。
ただ気付いていないだけで、永遠の楽園(極楽浄土)は、すでに私たちの心の中にあるのですから。
Posted by 永遠の夢幻宇宙 from M-online at 2020年03月23日 18:03
生きている限り、裁かないなんてことができるのでしょうか?
裁くのは自我のお仕事ですから。
できることは、裁いたと気づくことだけのような気がしています。
気づけばフェードアウトしていきますが、まったく裁かないなんてことは人間で居る限り無理ですよね?
Posted by 美佳 at 2020年03月23日 18:04
>「愛とは裁かないこと」

「愛がある」「愛がない」という『裁き』ではない『愛』

ということでいいでしょうか?

それで合ってるとしたら・・・どんなんかなー?

昨日ヒトカラしようとカラオケ店行ったんです、そう言えば。
受付に店員さんが居なかったんです。
なんだろと思ったら、すぐ隣の部屋から、怒鳴り声が聞こえてくるんです。
それだけではなく、物凄い勢いで物を殴り付ける音も聞こえてくるんです。
その部屋を覗くと、何があったか知りませんが、
客が店員さんを怒鳴り付けてる様子なんです。

さて自分はと言うと、咄嗟に引っ込んで「めんどーだから待っとくか」←愛がない(笑)
「でも、店員さんを助けたいな」←愛?
「だいたい、さっさと部屋入りたいし」←本音?偽悪の照れ隠し??
て感じ↑で十数秒程度葛藤が起こったのですが、ふと
「とりあえず、さっきの部屋行って話してみるか」と浮かんできたんです。
この時点↑では、どう言おうか、全く思い浮かんでません。
でも、こう↑浮かんできたその足で、問題の客の部屋に足が向かってました。
この時↑、なんの躊躇も起こらなかったです。
で、部屋を覗いて「すみません、店員さん一人だけですか?」
と↑『言おうともせず』に言ってました。それにやっぱり、前もって思ってもいません。
店員さんは「はい、一人だけです」
次に自分は客に対して「すみません、早く受付したいので、店員さんいいですか?」
と言ってました。やっぱり『言おうとも』してないし、『前もって思ってない』です。
そしたら、それまでの態度が嘘みたいに、その客は
「あぁ、だったらいいよ」
とあっさり言ってくれて、店員さんは解放されました。
自分は自然とその客に「すみません、お願いします」と頭を下げてました。
やっぱり『言おうとも』してないし以下略です。

こんな流れ↑で、無事に受付してもらえました。
この流れで、「とりあえず、さっきの部屋行って話してみるか」と浮かんできてからは、
本当に自動的に動いていた感じでした。そこに『愛』があるだのないだの、
『恐い』とか『面倒』だとか一切起こってなくて、
『自分』、『店員さん』、『客』の全てに対して『裁き感』が無かったのは確かです。
あったのは、なんつーか・・・『満たされ感』だけでしたかね。

これって、『愛』の具体例になるでしょうか?
Posted by ただの「自分」 at 2020年03月23日 18:16
神様、仏様、阿部敏郎様。
Posted by 留魂 at 2020年03月23日 18:35
もう誰も裁かないようになりたい!
そう思いつつ気がついたらいつも裁いてしまうお恥ずかしいわたしです!

阿部さんの愛の村建設楽しみにしていますよ
(⌒‐⌒)その時は愛について成熟したお話を沢山教えてくださいね(⌒‐⌒)
Posted by 分陀利華 at 2020年03月23日 18:43
『裁き』も人によって違いそうですよね。

帰宅中の先程、キオスクのスポーツ新聞の見出しが目に入って、
曰く、Kー1の強硬開催がどーのこーのって騒いでまぁ・・・
「あ、これ↑だ」
と気付きました。
ついでにこれ↑もですけどね。
とか言ってるこれ↑も。
当然こ(えんどれす??

まー自分の場合は、
「あ、これ↑だ」
と『裁いているこれ←』に気付いたら、「あー、こうして裁いてるんだよなぁ~」と
『受け入れる』ことにしてますが。
同じ「あー、こうして裁いてるんだよなぁ~」でも、うっかりすると先に書いたように
「『裁き』を裁く」感じにもなりがちなのがややこしいところですが。
でも、区別はつきますね。
『受け入れる』と楽になりますし、
「『裁き』を裁く」感じだと疲れるので。

この区別↑すら無くなるのが『本来の姿』なのかなー、て思ってます。
Posted by ただの「自分」 at 2020年03月23日 19:19
裁かない、裁きが消えた人間なんて、この世に存在するのですか?
存在するとすれば、「神」のみでしょうね。
もちろん、「赦し」は生きていくうえで何よりも大切なことだと思いますが。
生きやすくなるから。
「奇跡のコース」期待しています。
Posted by えるび at 2020年03月23日 19:50
阿部さん
いつも更新ありがとうございます。

十念したら、往生できるようにしていただきたいです。
南無あべ陀仏様。× 10回

延命十区句観音経の記事を読み直しました。
常楽我浄は、反対の意味だったのですね。
無常

無我
不浄
疑問が片付きました。
ありがとうございます。

阿部さん一家と猫様たちがしあわせでありますように。

マイペースさん
"かんてんちゅう"が気になったので探しました。

ありました。向禅師のページに。2014/01/07記事

撼天柱(かんてんちゅう)
"かんてんちゅう 風のたより"で検索

マイペースさんがしあわせでありますように。
Posted by タコロール at 2020年03月23日 20:40
私はその『愛』を知るためにたくさんの怖れを経験してきたのでしょう
そして今、
怖れの経験の中にいます
だけど愛も一緒に経験しています
怖れを無くそうとするのをやめました
愛を感じる時間を増やしていきます
Posted by じゅんこ at 2020年03月23日 21:24
あべさん^^こんばんわ!
北海道の新型肺炎も早い対応でぼちぼち?下火になりそうな雰囲気です。

>愛は裁かない。
私クリスチャンなんですけれど今まで少しも愛がわからなく
いつも仕事や今の経済のことでイライラし不安で><(礼拝中もです)
神も仏もない!とずっと思っていました。
神さまがもしいるならなんでこんなひどい(雇い止め)こと許すんだろうかと。
上司も嫌いで上司をいまだ許せない自分も大嫌いでした。

いつも上司をさばいていましたが、同時に自分もさばいていました。
毎日自分をさばいていて、昨日ふと牧師先生のお説教動画で聴いていて
思いました。自分で自分や人をさばいていても
もしかして神さま(イエス様のことです)は自分をさばかない
神さまは多分許しますといってるのではないか上の方からきっと。
あなたを許します。もういいですよと。
十字架の上からそう言ってるのだと動画で牧師先生が言っていました。
仰ぎ見るだけで許されている?んだと。

長い間わからなかったんですが昨日少しだけ何となくわかりました。
きっともういいんだろうと。
Posted by さつき姫 at 2020年03月23日 21:30
100日後に掘るニワです( ̄▽ ̄)
Posted by Ciel at 2020年03月23日 21:51
愛、その通りですねー

全てが崩壊してからですねー

いまの世の中も神がつくったのだから

コロナウィルスも神にお任せですねー
Posted by 敬天愛人 at 2020年03月23日 22:29
いったん休むねって仕事だったの~☆

また更にブログを読みましたわよ。そしたら気になるのはここ。


『TVを見れば正義の人たちが、生贄を断罪する。

それが悪いというのではなく、視聴者の娯楽として人気があるからそれはそれでいい。』


それでいいんか~い(笑)って突っ込みたくなりました(^^)

なんかさあ、ストレス発散のはけ口みたくなってるのかしら?

そうそう、


『しかしその娯楽性はあまりにも暗い。

なぜそれが娯楽になるのかは、長くなるからまた別の機会に説明しよう。』


だって。

ん~、ストレス発散だとしたら、困ったちゃんってことかな。。

そういうのが娯楽?ストレス発散?的になるって、そのくらい闇が深いのかしら?


別の機会に説明しようって書いてあって、解ってるのすごいな~です(^^)

それに、他人の目の正体を説明するところもねえ♪すごい(^^)


・・・・・・・・・・・・・


ちょっと脱線しちゃったけど、一番に考えたいのはこっち。


誰からも裁かれないで自由

自由のなかで愛がすくすく


リトリートのような機会、愛が育つ、裁きのない世界


読みながら、咀嚼するように書いてみたけど、最後の最後の文章が心に沁みますね。。


たったひとつの条件、愛


裁きが消えた人たちによる共同体


深い洞察と人間としての成熟


その成熟が愛だ。




かっこいい~(惚れ惚れ)


もうここだけ見てたらいいと思うのだけど、ここだけを見るのに、どれだけ遠くまで出掛けたことか。。



阿部さんに教えてもらった、禅サンガのテーマ曲?「永遠」。

あの音楽が、魂の旅を表しているように思えて、聞こえてきます。



ただひとりの人に出会うことで、それまでの悲しみが全部流れていくとしたら。。


ただひとりの人に出会うことで、人生のそれまでの悲しみがすべて流れ去るのだとしたら、、


私には解り得ないことだけれど、そんなことが思い浮かぶほど、奇跡的に感じられる出会いというのが、あるのではないかと思います。。(T_T)
Posted by おいも at 2020年03月23日 22:45
世間に、良い人と言われている方、悪い人と言われている方、もう考えなくて良いですよ。
世の中、愛だけに生きことでしか不可能になっちゃうんです。

ワクワクしながら、気を長ーく待ちましょう

しかし、コロナウィルス騒ぎは長続きするでしょうね。うまいこと付き合っていかないと。

風は日本から~

チェスト日本人!!
Posted by 敬天愛人 at 2020年03月24日 03:17
私達は神。

神が二元を経験するためにこの星に私達がいる。

神は二元を経験し、更なる光を放つ。

神は愛。

私達は、すでに愛そのもの。

色の世界で、喜怒哀楽をマインドが映し出す。

色の世界は幻想。

私達が見ているものは幻想の世界。

空にしか真実はない。

色の世界で裁こうが裁かれようが、全てはマインドが造り出した幻想。

神はそれを経験したい。

神=愛
神=私達
私達=愛

真実はひとつ。

私達=ワンネス=神=愛=真実

色=分離=比較=裁き=幻想=真実ではない

私達はひとつ。

みんな、繋がっている。


分離という幻想が裁きの本性


分離に比較、競争、裁きは付き物


私達はひとつ。ワンネス。すでに愛で満たされている。


神は二元を経験している。


神は分離を経験している。


神は二元を経験し、更なる大きな光を放つ‼️
Posted by 近藤博文 at 2020年03月24日 05:51
おはようございます。

以前の私は
裁いている事さえも余り気づかずに
いい人を装っていたように思います。

阿部さんと出会う事ができて
そして瞑想とも出会ったお陰で
自分自身や回りを本当に巧妙に裁いている自分が次から次へと沢山見えてきました。
最初はそんな自分に驚いて戸惑ってしまいましたが・・
お陰様で今は
日常の中で思わず裁いてしまった事に
気づいた時などは
心の中で素直に謝れるようになってきているのです。
そのお陰か
内側から温か〜いものが頻繁に湧いてくるようにもなりました♨
涙する事さえあります^^;

「あるがままにくつろぐ」
お陰様で大きな安心の場所ができました。
阿部さん智子さん
いつも有難うございます。
これからも宜しくお願いします。
Posted by サンガヒヨリ at 2020年03月24日 07:31
模察と申します。

人は裁かないことなんて本当にできるのか?

ちょっとまってください(笑)

70億すべての人は、物心が付く前の赤ちゃんの頃、何も裁いていませでしたよ。

「お前は嫌いだ!」、「あなたは間違っている!」と裁きまくる赤ちゃんに、私は会った記憶がありません。

言葉を覚え物心(自我)が付いてからじゃないですか。

裁き始めるのって。

でも、誰もそんな様子の赤ちゃんの頃を覚えてないから、そんなこと本当に出来るのか?って疑うんですね。

覚えてないから、「裁こうともせず、何もせずにあるがまま」と聞いても、怖くてできないんです。

でもその怖さって、ただ覚えてないから、ただ知らないから感じているだけなんです。

赤ちゃんのように過ごしてみるのです。

実践してみないことには、知らないことは知ったことにならないんです。

知れば赤ちゃんの頃に戻る怖さは一瞬のうちに消えます。
Posted by 模察模察 at 2020年03月24日 11:03
愛があれば自由。

愛がないから自由に枠を作るんだよ。
Posted by まぁるいこころまぁるいこころ at 2020年03月24日 11:18
>深い洞察と人間としての成熟。。

それが求められているとしても、生まれつきの気質や精神的傾向は、人にはどうすることもできないと思っている。
それらは、個人的な努力とは関係ないところで決まってしまっているからだ。
例えば、アクティブに体を動かすことが好きな人もいるし、静かに本を読んだり思索することが好きな人もいる。
生まれつきエネルギーに敏感だったり、鋭い直感を持っている人もいる。
物事を楽天的に考える人もいれば、悲観的に考える人もいる。
それは、DNAで決まっているので、本人にはどうすることもできない。
100mを10秒で走ることができる人もいるけれども、どんなに努力しても無理な人は無理なのと同じ理屈。
それぞれの人が、それぞれの特性を持っている。
自分にないものを他者が持っている場合もあるし、その反対もある。
鋭い洞察と人間としての成熟(愛)も、すべての人に均等にある訳ではないのは明らかだ。
もし、みんながそうであったら、もっと世界は生きやすい世界になっているのかもしれないけれども、現実はそうではないということは、多分、それが自然だからなのだろう。
元々は、いや、今でも、人間は動物なのだ。
しかし、私たちが「人間」という言葉を使う場合、そこには暗に、非動物的な意味合いが込められているような気がする。
人間以外の生物は、自然状態で生きているが、現在では、人間は人間が造り上げた人工的な世界で生きている。
もはや、密林のような大自然の中で、自然状態で生きている人間は極少数だ。
つまり、人間は動物は動物でも、野生動物ではないということ。
生死がある他の動物と同じ生き物ではあるが、野性動物時代の名残りが少ないのは、明白だ。
鋭い洞察力と人間としての成熟度は、どのくらい野生を脱しているか?を表しているように感じる。
人間が野生を脱すると、どうなるのか?
それは、動物としての人間を超える、ということだ。
それでは、動物としての人間を超えると、人はどうなるのか?
それは。。。動物である人間には、想像もできない未知の領域に足を踏み入れることであり、ある意味、神性に近づくということなのだ。
それは、自然と運ばれて行く流れの中で起こることなので、誰も意図してそれを起こすことはできないし、また、エネルギー的な流れなので、逆らうこともできない。
野性から神性へとシフトして行くのは、自然なエネルギーの流れであり、個人の思惑とは関係がないところで起こることであり、個人はその流れに沿って運ばれていくだけなので、全体の流れに任せていればいいことになる。
全体的な世界の流れも、その流れに沿っている。
多くの人が、今、その流れに乗っている。
21世紀も20年経ってしまった。
年々、この流れは加速している。
21世紀の終わりに振り返った時、その速度の速さを実感できるだろう。
未来の人間、未来の自分を支えているのは、今を生きている人間、今を生きている自分なのだ。
生命の大河の中で、知的生命体としての人間の進化は、これからも途切れることなく続いて行く。
Posted by 生命の大河 from M-online at 2020年03月24日 11:43
私は「依存」「執着」が無い状態が「愛」だと思います。
その2つを「諦めて」5年程経ちますが快適です(笑)
Posted by 蕎麦屋 at 2020年03月24日 17:31
この間の講演会を通して思ったこと。

エゴの私と思っている私はきっと愛を忘れてしまったのですね。
ずっと神と一つで、ずっと神に見守られて愛されていることを。

愛されていることを忘れてしまったから、拗ねてエゴが暴走しているのかと。

拗ねて仲直りするのは恥ずかしいですよね。でも、愛されていることを受け入れる。だってそうなんだから。

そしたら心が凪になり、周りも気にならないし、気にならないので裁かないし、コントロールしないし、自分とも戦わない。誰とも何とも戦わない。
そうしたら、自分が全体になる感覚になる。(←なりました)
Posted by 凪 at 2020年03月24日 18:41
気のせいかもしれませんが、何故か、この世には、愛するよりも、愛されれることを求める人の方が多いような気がします。

愛するよりも、愛される方が、歓びが大きい(と思っている)からなのでしょうか?

愛するよりも、愛される方が、楽だからなのでしょうか?
(特に、エゴには、愛された分だけ、自分には価値があると思う傾向があるようなので)

人は、愛されるためではなく、愛するためにいる。

そう心から思える人が増えれば、この世界は自ずと変わることでしょう。

愛する対象は何でもいいのです。
恋人、家族、友人、隣人、動物、自然、世界、地球、宇宙、神。。。

二元世界における体験の中で、愛することより、尊いものはないでしょう。

何故なら、それは、人間だけが体験し得る体験だから。

それがやがて、個人においては、意識の変容を生み、世界においては、人間社会の変容を生む原動力となります。

そして、更には、「個を超える」ということにつながって行く。。。

「愛」というパワーは、とてつもなく強大な変容を生むパワーを秘めている、と言っても過言ではありません。

言い換えれば、自分から発せるパワーの中で、最も強力な「愛」というパワーだけが、自分が体験する世界を変え得る力となることができる、ということ。

阿部さんは、このパワーに気づいているのでしょう。

阿部さんの他にも、この「愛」というパワーだけが、世界を変え得る力だ、ということに気づいている人たちは、少なからずいることでしょう。

でも、そのパワーが真に発揮されるのは、「愛する」時だけなのです。

どんなに愛されても、変容を生むパワーは発揮されることはないでしょう。

人は、何かを愛する時、嫌でも意識は愛する対象に集中するので、自然と潜在的なパワーが発揮され易くなります。

このパワーが集まれば、きっと、世界は変わって行くことでしょう。

対象は何でもいいので、何かを愛するという気持ちが、世の中を良い方向へと推し進めて行くことでしょう。

人の心の中には、この「愛」というパワーの源泉があります。

すべての人の本質は愛、というのは、そういうことなのでしょう。

人は、このパワーに気づいていないことが多いですが、本当は、誰の中にも潜在的に眠っています。

そして、この内在する力に気づいた人は、自然とそのパワーを発揮しています。

阿部さんのような普遍的な愛に目覚めた人たちの中には、己に内在する力を発揮して、これからの世の中を変えて、より良い未来の創造に活かそうとしている人たちもいて、自然な方法で、すでにその力を発揮している人たちもいることでしょう。

まだまだ現象としては、表面上に現れて来ていませんが、これから、花開いていくプロセスがとても楽しみです♪

蒔かれた種子は、いつか必ず、芽を出し、花開きます。

それには、土壌づくりと日々の水やりなどの手入れが必要です。

それらの条件を考えても、阿部さんの活動には、すべてが揃っていますね!

どのようなお花が咲くのか?楽しみにしていますね♪
(陰ながら、応援しております^^)
Posted by いつもありがとうございます♪ from M-online at 2020年03月24日 23:37
これが愛だとは言えない気がします。
言葉にするとそれが愛だ、愛なのか、と思い込む。
Posted by パンプキン at 2020年03月24日 23:44
愛で満たされていたときは
ジャッジメントすることはなかった
何かを欲しいと思わなかった
食べ物も少しで満たされていた
何かが起きても生きていける絶対安心の境地にいた
肉体の死を迎えるとしてもすべてに感謝だけしかなかった

ただ座っているだけで
何もしていなくても
愛のエネルギーが無限に降り注いでいるのを感じて
愛で満たされていた

今は、自分に対してジャッジメントする思考の声や
不安や怖れの思考や感情が現れてくる

内なる光に明け渡そう♡
愛と光に委ねよう♡

次回の香咲さんとの講演会も、とても楽しみにしています。
ありがとうございます。
Posted by クリア at 2020年03月25日 00:39
愛とは無関心ではない。

愛とは、何にでも平等に関心が持てる状態のことだ。
Posted by 自由人 at 2020年03月25日 21:54
以前に同じ愛というお題で
送ってくださった言霊もあわせて胸に響かせていました。

恐れとは愛の不在
恐れを選んでるから警戒している
あいされるはずがないと思っている
せいぜい義務心でしかない

心にわいてくる雨雲

理由なき実在 愛

心の空がはれわたりゆきます
Posted by ふく at 2020年03月25日 23:08
こんにちは。

赦すでも
受け入れるでもない
裁かないという言葉に
深い愛を感じました。

ありがとうございます。
Posted by ひこうき雲 at 2020年03月26日 12:52
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