2019年05月25日

欲望について

来てくれてありがとう。








精神世界を学んでいると戸惑うことがあります。

それは自分の中から絶え間なく現れる欲望についてです。


お金や健康はもちろんのこと、先日お話しした性欲も含めて、我々の生活は欲望によって展開しているようにも見えます。



ところがほとんどの聖者が欲望を否定します。


だから、あるときふと考えてしまう。


「このままでいいのだろうか」


これからは何かの修行に勤しんで欲望を滅却しなければ、意識が高みに上れないのではないかと思うのです。



しかし欲望との戦いは、最後は敗北に終わります。

どうやって命の欲求を克服しようというのでしょう。


そもそも欲望は、本当に人類の成長の妨げなのでしょうか。

もし欲望が無ければ、文明化された生活もなかったのではないでしょか。




欲望とは何でしょう。

それは拡大したいという衝動です。


どこまでもお金や成功を追いかける人がいますが、彼らの衝動の背後にあるのは、拡大欲求です。


より大きな家、より大きな力、活動の制限が無くなり、より大きな自由を得られると感じます。


お金や成果そのものが欲しいのではなく、自分を拡大したいという欲求がそうさせるのです。

お金だけでなく、権力や名声など多くの欲望もみな背後に同じ欲求を隠しています。




さて問題はここからです。

お金がいくらあっても、本当に欲しかった拡大は実現しないからです。


むしろ外側の富が増えれば、内側の貧しさがコントラストのように浮かび上がってきます。

そこで、さらなるお金が必要になります。


しかも冨も成功も束の間のこと。

その人が死んで数十年もすれば、みんな忘れてしまうことでしょう。

大騒ぎして掴んだ名声も、いまの成功者たちに取って代わられています。


すべては束の間の夢。



中には富への追及に幻滅を感じて、神を探究する人も出てきます。

しかしそれも新しいゴールを約束するだけで、実際にはどこにも連れていってくれません。


対象が変わっただけで、欲望の本質は何も変わっていないのです。


欲望について


欲望自体は悪いものではないけれど、その欲望の対象を追究しても、どこにも行きつきません。


欲望とは生きようとするエネルギー。

それはまさにいまの創造性。

そのパワーに従って自分を表現するのです。



対象と一つになるくらいの純粋な欲望は、すでに対象を超えて、自由な創造性に変化しています。

それがサマーディ(三昧)であり、まさに神の力のことです。



欲望を対象への執着ではなく、自由に自分を創造する力として使っていくこと。


それが生きるということであり、人生とは「いまを生きること」です。






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Posted by Toshiro Abe at 09:12│Comments(18)
この記事へのコメント
この世はリーラですものね!

神の遊び場(^^)

思う存分、自分を表現していきたいです。
Posted by まぁるいこころまぁるいこころ at 2019年05月25日 10:31
外に向かって喜びを求め続け、苦しみを避け続ける左道・快楽主義を実践しても
苦しみは滅しません。

外に向かって苦しみを求め続け、喜びを避け続ける右道・苦行主義を実践しても
苦しみは滅しません

外に向かうのをやめていき
中に向かって喜びを求め続ける中道・集中主義を実践してこそ
苦しみは滅していきます。

心を中に向けて集中するほど
心が光り輝きながら宇宙全体に大きく広がっていき
心から至福の光が大きく広がっていきます◎

「心が集中する状態になったらば、それをサマーディと呼ぶ。

広大無辺な心によって、光り輝く心を修習する。

~ 仏陀の言葉 原始仏典より ~ 」
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2019年05月25日 10:46
今日のこの話もブックマークしました。
Posted by えふさんごびい at 2019年05月25日 11:13
奥の奥から満たされる、くらいの、
やってるだけで楽しいことしてたら最初から満足してますもんね。
これからの時代は いまを生きるのがナウくなっていきそう。

少しずつ、創造ライフにお引越しします✨(=゚-゚)ノ♪
Posted by 薄茶色 at 2019年05月25日 11:22
こんなことしてていいのかな、生産性もないしお金も発生しないし。
思い癖です。
今していることを無駄と判断しないで、無心にすること。
ですね。
Posted by 風 at 2019年05月25日 11:29
>欲望自体は悪いものではないけれど、その欲望の対象を追究しても、どこにも行きつきません。

これ、うっかりすると、

>ところがほとんどの聖者が欲望を否定します。

にしたって、

「『欲望を否定したい』という欲望」

にしかならないですもんね(笑)
ある欲望を無くそうとしているのに、いつの間にか、
その『無くそうとする対象』の『欲望』に縛られてしまってることに気付いて、
「あれ?何したかったんだっけ??」
とか、よく分からなくなることって、しばしばありましたね。

じゃあどうすればいいのか、て、
とりあえず、そう気付いたらOK、でよくないですかね?
と言うか、むしろ「そう『気付くことができた』」って、これ、
凄いことだと思うんですよ。そう思ってると、場合によっては
「ありがたいなぁ~」とか自然と感じて、そんな感じで
『気付き』が繰り返される度に、『仕組み』が腑に落ちたりして
楽になっていっているように感じます。

>ところがほとんどの聖者が欲望を否定します。
にしたって、『そう気付いた』から、『その気付き』を生きただけであって、
『気付いた対象』をあーだこーだこねくり回したかった訳では無いと思うんです。
Posted by ただの「自分」 at 2019年05月25日 11:40
今日のは、えがった!
Posted by Lone Ranger at 2019年05月25日 11:42
阿部さんいつもわかりやすいブログありがとうございます。

少し質問なのですが、ここ最近欲望が叶った時の高揚感のエネルギーを想像するだけで、グワッと身体に感じる様になり、至福の時を過ごしています。

映像をみてこんなとこに行きたいなぁ
と思うと、まるでそこにいる様たまらない至福感を感じます。こうなっているので、もはや、どこへも行かなくも常に至福の時を過ごせるのです。。。

この感覚な何なのでしょうか。。

すみません。よくわからない質問で
Posted by まゆ at 2019年05月25日 15:31
下から四行のうち、最後の行だけわかりました^^;
あとの三行は、何度読んでも、イメージできず、わかりませんでした(>ω<)

サマディ(三昧)=神の力?

まぁ、阿部さんは、そう考えているということで、了解しました(^^)

そう言えば、人は誰でも、一人一宇宙の創造者ということでしたよね?
ということは、人はすでに神の力を発揮して、サマディ(三昧)にあるということになるんですかね?
エゴに実感が無いだけで。。?^^;

また、この論理で行くと、すでに、この世は"神の国"ということになりますかね?

それじゃ、この世からサヨナラしてしまったら、"神の国"から離れてしまうのかしらん?

などなど、考えれば考えるほど、訳がわからなくなりそうなので、この辺で止めておきます^^;
Posted by 思考の迷宮 at 2019年05月25日 17:05
私が目指しているのは〜
『理由なき幸せ』。。。

何にもないけど なんか幸せ〜。
自然とウフッて微笑みたくなる感じ〜。

周りの状況を良くしよう〜と必死になって快楽を求めていた時には感じることが出来なかった至福感を今味わうことが多くなりました。

生かされていることに感謝〜。
当たり前のことに感謝〜。
そして阿部さんにも感謝〜です^ ^
Posted by Atsumi at 2019年05月25日 18:12
執着…

全てのものは自分の中にある。

なので

手放しても大丈夫やで~

そんな感じのことを自分に説教しております。。

大丈夫☆大丈夫☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2019年05月25日 20:10
欲望を対象への執着ではなく、自由に自分を創造する力として使っていくこと。

↑これがムズカシイ
気づくと執着してます。なぜなら苦しいから。。

見立て、合ってますか?
Posted by 井内 at 2019年05月25日 21:21
あべさん

根拠の無い思いつきです。
あの世からこの世に来るのは、欲望があるからのような気がします。
私自身、あの世にずっといたいです。
死にたいとかそういう意味ではなく、もう一度、生まれ変わるよりは、ずっとあの世にいたいです。
Posted by ぼんやり太郎 at 2019年05月25日 22:43
聖者は、「欲望」すべてを否定している訳ではないように思う。
(「探究」も、一種の「欲望」と考えることもできるので)
「わたし」「わたしの」という「我執」が「自己への執着心」を強くする。
それがあっては、最後の「明け渡し」(サレンダー)が起きないことを、彼らはよく知っているのだ。
旧約聖書の中のアブラハムと息子イサクの話のように、
自分にとって大切な何かを手放すという「明け渡し」(サレンダー)が起こらなければ、究極の真理が明らかになることはない、と知っているのだろう。

「この身体がわたしである」という感覚は、ある種の「この肉体への執着心」ともいえる感覚で、「わたし」=「この肉体」という認識が、私たちの脳の中で常に形成されている。
この認識(執着心)は、人間として生まれたからには、宿命なので、あるのが当然ではあるが、この認識(執着心)が、私たちの中で「本当のわたし」(真我=永遠の実在)が明らかになるのを妨げている根本原因となっている。
人間のエゴマインドの力で、この認識(執着心)を消滅させることができないことは、望んだだけでは、それが起こらないことからも明らかだ。

故に、人間ではない「神の力」という「他力」だけが、この執着心を消滅させることができる唯一の力であり、その力の顕れにより、「自分を明け渡す」というサレンダーが起こり、究極の真理が明らかになるのである。
(この宇宙で、本当の力を持っているのは神だけなので、当たり前と言えば当たり前なのだけれど、人間は常にそれを忘れている)
「明け渡し」(サレンダー)は、個人にとっては、この身体が自分であるという感覚(執着心)の消滅へと至る重要な通過点であり、同時に、人類を真の救済へと導く神の慈悲深い恵みの顕れでもある。
Posted by サレンダー at 2019年05月26日 00:03
正直、よく分かりません。

・・・心の底から自分がしたい事をする。

そこに条件を付けない。

・・・それは自分にとって何なのか・・・

そんな事が出来るのだろうか?

・・・・・と考えてる。これもまたサマーディーでしょうか。
Posted by hiro-k at 2019年05月26日 06:27
欲望に純な欲望?

欲望は欲望でしょ。

それも決まってるの一括り

と「感じています。」言うし、

そんな個人は「いない」

がブログの流れ。
Posted by 違う? at 2019年05月26日 06:33
圧倒的なレベル

もっと若い頃に

こんな話が聞きたかった。
Posted by 星月夜物語 at 2019年05月26日 06:54
わー。昨日読んだ時より、この記事が響いてきました。そっか、使っていく、か。
何か軽くなりました。 どこか、欲望だらけの自分にうんざりしていたのかも。
Posted by ばくすい at 2019年05月28日 09:03
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