2017年10月31日

生死を超えた次元

母の旧姓は阿部さんからの質問

質問です。
阿部さんは死を経験したことがありませんよね?
なのに何故、死んでも″それ″はあり続けると断言出来るのですか?


とてもいい質問ですね。

あなたの他にも同様の疑問を持っている人もいるかと思います。

でもこういうことってなぜか聞きにくいですよね。


僕がここに書いてきたことは知識ではありません。

自らの経験に基づいて書いています。

あなたが言うようにこの肉体が

「ご臨終です」

と言われたことはないのですが、

「あー、死ぬとはこういうことか」

という体験はあります。

ここが表現の難しさですが、その時それを体験している自分は消えていて、その次元の認識だけが存在しています。


その次元の存在は、生まれることも死ぬこともなく、永遠のいまの中に在り続けています。

しかもこともあろうに、その存在こそが本当の自分であることを、疑う余地なく確信するのです。

さらには、あらゆる生命体がその存在によって生かされていることも分かります。

当然、あなたもね。


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最初にその次元があらわになった時は、あまりの衝撃と、肉体を超えたエクスタシーで、特別な体験をしたような気がします。

しかしやがて、その次元が当たり前に定着しだすと、それを内側に携えながら、この夢の人生を生きることになります。


だからと言って完璧な人格になるわけでも、高い徳が身についているわけでもありません。

人格も徳も、人間が描く価値観であって、実際にはあるがままに、善から悪まで、あらゆる可能性を持った生身の人間として在り続けます。

これは誰もが同じです。

そもそも特別な人などいないのです。

自分を特別に見せたい人は多いですけどね。


さてこのよう話は、僕にとっては揺るぎない真実ですが、それを聞く者にとっては情報の一つであり仮説に過ぎません。

科学の発見であれば客観性があるので、一人が発見すればただちに世界中で共有できますが、内的な発見はどこまでいっても主観的、個的なものです。

ですから一人一人が内なる本当の自分を発見していくしかないのです。



このような文章を書くと、言葉尻を捕まえてあれこれ言いたがる人がいますが、そういうリアクションを想像して書くと、筆が進まなくなることがあります。

今日は一気に書かせてもらいました(^_^)


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【お知らせ】

禅サンガのお申し込みは今日までです。


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Posted by Toshiro Abe at 09:30│Comments(39)
この記事へのコメント

今日もありがとうございます。良い一日を。
Posted by 林ゆみ子 at 2017年10月31日 09:24

"死"ってなんでしょう?
『命がなくなること、生命がなくなること、生命が存在しない状態』です。
自分の身体が命や生命だと信じるなら、身体が生きている人は死を語れません。
しかし、本当に『自分の身体 = 命、生命』なのでしょうか?
この疑問に自らがどういう答えを見出すかです。

自分身体は命や生命の一部に過ぎず『自分の身体 ≠ 命、生命』であることに気付けば、
命や生命とは『いまここに永遠に在り続ける全体そのもの』だと知り、
『命がなくなること、生命がなくなること、生命が存在しない状態』は有り得ないので"死"は概念に過ぎず存在しないことに気が付きます。
Posted by 模察 at 2017年10月31日 09:28

ハートが閉じてしまい

「わたしは肉体・脳に閉じ込められている」

という視点・感覚でいると

「わたし=肉体・脳」

という視点・感覚になり

「肉体・脳が死んで消滅すれば、わたしは死んで消滅する」

という視点・感覚になります。


ハートが光り輝きながら大きく開き

「わたしは永遠に光り輝きながら宇宙全体に広がっている」

という視点・感覚になると

「わたし=宇宙全体に広がっている永遠の光」

という視点・感覚になり

「肉体・脳が死んで消滅しても、わたしは宇宙全体に広がっている永遠の光として存在している」

という視点・感覚になります。


わたしは頭からハートに向かい続ける実践を行っていたら↓

ハートが光り輝きながら大きく開き←◎→

「肉体・脳が死んで消滅しても、わたしは宇宙全体に広がっている永遠の光として存在している」

という視点・感覚になりました←◎→


この感覚は

「服を脱いでも、わたしは存在している」

という感覚と同じです。
Posted by 大空 at 2017年10月31日 10:44

いつもありがとうございます。
阿部さんの放つ言葉が温泉のようなので来ています。
ご自分の体験を言葉にするのは大変困難なことだと思います。
受け手側の捉え方で全く意図していない伝わり方もします。

気付きの経験はひとつをとっても百人百様で
特にブログを起こされている方は、とても劇的な体験をされていますが、
殆どの方はあまりに普通の出来事なので気付いていないだけだと思っています。

いつも書いておられるように、これはあくまで阿部さんの体験に基づくもので、
受け手はヒントを参考にしながら、答えは自分で探すしかないのではないでしようか。
Posted by 桜草 at 2017年10月31日 11:15

先週こちらのブログを見つけ、貪るように昔のメッセージを読んでいますが、このようなブログがあったことは驚きです。
チベット密教のグル・ティロパが似たようなお話を残していますが、読んだ当初はちんぷんかんぷんだったものが最近になって附におちるようになってきました。
もっと早くこのブログに出会っていたら遠回りせずに済んだものを。

漠然と言葉にならない感覚を言語化する才能は誰にでも与えられているものではないので、阿倍様の存在は大変貴重です。
陰ながら応援していますので
これからも心のままにご発信くださいますようお願いします。
Posted by 佐伯 at 2017年10月31日 11:25

三千院の機関紙で初めて阿部様を知り、堀澤祖門大僧正様との対談本を拝読させて頂きました。
大僧正様が阿部さんは完全に悟っていると言い切っていらしたので、どんな方だろうと興味を持ちましたが、想像以上に若々しく素敵な方で新鮮な驚きを得ました。

今日のお話の<次元>という言葉はそのまま<空>として捉えてよろしいでしょうか。
それですと私の中でしっくり落ち着くものがあります。

色即是空
空即是色

この言葉についても阿部様のお言葉でいつかご教授頂けたら幸いです。


天河弁財天社でのご神事はもう参加できないでしょうか。是非一度伺ってみたいと思っておりましたので、この機会にと思いました。


Posted by Hongkong at 2017年10月31日 11:44

しばらく離れていましたが、またあしげく通いま?す。

阿部ちゃん最高??(*´?`*)??
Posted by kaorin at 2017年10月31日 11:48

車の運転中、自分の不注意で体験したタキサイキア現象。
危機寸前に体感するスローモーション感覚(タキサイキア現象)は、脳の誤作動らしい。
こういう感覚は、体験した本人しか分からないもの。

阿部さんの説明は、見事なまでに明快で、ソーダ水を飲んだ後のようにスッキリする。
ただ、体験した者にしか分からないことなので、なぜ? という謎の種は消えない。
脳の誤作動も、突然起こるので、なんであの時? と考えても分からない。
ただ起こった。それだけ。理屈じゃない。身も蓋もないけど(笑)
そんな感じかな?
Posted by ノバディー at 2017年10月31日 11:49

一昔前はこのような報告に対して何でもかんでも脳内物質で片ずけてましたが、最近の脳科学者は頂上体験について脳以前の量子的体験と言い始めました。
宗教と科学が出会う日が楽しみ。
Posted by アリーナ at 2017年10月31日 12:03


>科学の発見であれば客観性があるので、一人が発見すればただちに世界中で共有できますが、内的な発見はどこまでいっても主観的、個的なものです。
>ですから一人一人が内なる本当の自分を発見していくしかないのです。
結局、どこまでも『主観的』でしか在り得ないのか、
それとも、そもそも『主観』と『客観』と『分けている』事そのものが全く違っているのか、が
うすらぼんやりですねぇ〜。
自分も、『主観』と『客観』が出会う日を楽しみにしています。
Posted by ただの「自分」 at 2017年10月31日 13:11

>自分を特別に見せたい人は多いですけどね。

阿部さんが普通のおじさんでよかったです。
向さんも、
阿さんも、
智子さんも、
みつろうさんも、
黒斎さんも、
超飾らない普通の当たり前の愛の人だから、大好きです。そして信頼できます。
あざっす!
かんしゃ!


Posted by コッペパンくん at 2017年10月31日 13:33


死については幻想の域から誰も出ていないし
誰も知らないということなんでしょうか…。

死んでみたら案外「思てたんとちゃうかった〜!」
となったらおもろいのに…と思っています(^^)

もし阿部さんが逝ったら
思ってた通りだったか、少し違ってたか、
なんとかしてみんなに実情を教えてくださいね!(笑)

Posted by よのすけ at 2017年10月31日 13:37



今期も禅サンガ参加できない状態です。
残念ですが、また、来期に期待します。

いつもありがとう御座います。
失礼いたします。
Posted by 木葉 at 2017年10月31日 13:38

>その存在こそが本当の自分であることを、疑う余地なく確信する・・・確信っていうのは 遠慮がちな表現で、ホントは「わかる」と書きたかったのではありませんか。自分の存在は肉体の死に影響されない。もっとゆるぎない、盤石(完全)な、カタチを持たないが故に とわに在り続けることが、わかってしまう。それまでも それ以後も・・・。書いてくれて ありがとうございました。
Posted by 李 信 at 2017年10月31日 14:48

存在しているものは現れては消えて行く…

このことって地球上だけではなく、どこかの星でもそうでしょうね

存在しているものは現れては消えて行く…

このことってこの世だけではなく、あの世でもそうでしょうね



この世だろうが…あの世だろうが…

姿形のある存在しているものは全て現れては消えて行く幻であり

存在ではないものだけは…無だけは…
現れては消えて行くという生死の繰り返しから免れている

無だけは不生不滅…

このことって死んでからではなく
今ここでわかること

死んでしまったら、
自我はないのでこういう理解もないことでありましょう

もっとも、それそのものなら、理解している必要さえも、認識している必要さえもないわけですが…

そして、それそのものの直接体験は
毎晩毎晩の熟睡中に起きている

あなたはもうすでに、毎晩毎晩死んでいる!

そんな感じでしょうかね(笑)
Posted by 甲賀忍者 at 2017年10月31日 16:50

個人的には
概念から解き放たれた爽快感が凄まじいです。死んだときにどうなるかは結構どうでもいい。
そのときになればなるようになってゆくのだろうと思って??

あくまでもいまここにある個人感覚ですので、別のところで、"気になる"が起きていることを否定しているわけではありません。それに自分だって数日後に同じことが気なっているかもしれないし。起きるときにゃあ、そりゃあ何でも起こるし、それらすべてが完璧なのだから。個人の私がしゃしゃり出る幕もありません。滅相もありません。

すごい人がいなかったってことがめちゃくちゃ衝撃です。(すごくない人もいない) これ以上に大切なことはあるだろかと思う。
Posted by 薄茶色 at 2017年10月31日 17:03

物質次元の感覚が優位な時は、この体が世界を体験しているリアリティこそが、本当だという感覚になっていて、
大抵の人間は、その感覚しか体験していないので、
普通は、この物質次元以外の次元を知ることはなく、一生を終えます。

エネルギー次元の感覚が優位になると、
体が体験しているリアリティは、夢のような幻に感じるので、
現実世界のリアリティは薄くなり、物質次元だけが宇宙でないことがわかります。

この宇宙は、"ただひとつなる「 」“の形を変えた顕現であり、
物質次元は、その顕現のひとつであるにしか過ぎません。

人間も、人間が認識できる世界も、「 」の顕現のひとつにしか過ぎないのです。

人間を含むあらゆる存在は、「 」から生じ、「 」に帰滅します。
 
もともと「 」なのですから、「 」に戻るのは、当たり前、自然なことなのです。
 
しかし、この時空間の中では、
私たち(というエネルギー)は、地球磁場に捕らわれているので、
その結果、「地球時間」に縛られてしまい、ここで地球磁場を抜けるまで、
物質としての顕現を繰り返すことになります。
 
所謂、輪廻転生は、エネルギーに起きていることで、
言い換えれば、エネルギー循環の法則と言えます。

生死を頭(思考)で考えているのは、この地球では人間だけでしょう。

死んだらどうなるのか?という問いに対する答えは、生きている間に見出だすしかありません。

死後は、考える脳が無いので、答えを見出だすことが不可能になるからです。

阿部さんのメッセージは、ヒントにはなりますが、
答えは、一人一人が自分で発見するしかないのです。
Posted by 真理世 at 2017年10月31日 17:59

私、思ったことあります。

存在は自らのことを知りたくて人間を作ったのではないかって。

自らしかなかったら、自らがどんな存在か分からないから。。

な〜んて、分からないですけどね(^_^)


ただ少なくとも、自らを思い出した人間によって地球で生きること。

この体験は望んでいるのかなと思う。。

私たちに起きていることを思うと(^_^)
Posted by ぶどう at 2017年10月31日 20:05

体験した人の説明に、体験してない人がつっこむのはもはや宿命では(笑)。だって普通の話じゃないんだからそりゃつっこみたくなりますよ。

またやっかいなのは阿部さん以外の人による補足説明ですね。阿部さんの説明とは絶対にズレが生じるので(だってそれぞれの主観なんだから)、阿部さんの表現で納得したい人は混乱してしまう。
まぁたまに補足説明が役立ったというコメントもあるようですが、、、補足説明のありなしはどっちがいいんでしょうね。
Posted by パンマン at 2017年10月31日 20:19

阿部さんこんばんわ

禅サンガのオープンキャンパスに参加?させて頂きました。

講師陣が豪華ですね。

中でも阿さんとの「般若心経談話」は啓発を受けました。

そこで質問ですが、阿部さんは「空とは愛であり全肯定だ」
と、おっしゃられましたが、世の中には平気で人の生命を奪ったり
する人もいます。

そのような反社会的な人間も全肯定しなければならないのでしょうか?

そういう人間に自分の子供や親を殺されても許さなければならないのでしょうか?

愚問かもしれませんが、答えて頂けると幸いです。
Posted by 自分はいない at 2017年10月31日 20:29

質問に答えて頂き、ありがとうございます。

私はまだ、阿部さんのお話を、肯定することも、否定することも出来ません。
経験して初めて解ることでしょうから。
ただ、阿部さんの言う通りであったならいいな とは思います。

でも、そうだと仮定して・・・
疑問が次々湧いてきます。

自分が居ないことも、その次元を経験しているのも個人の脳なのでは?とか
この世の夢から覚めてリアルを体験したとしても、それすら壮大な夢だったのでは?とか。

最近、人生は宇宙?神?の自作自演と感じる時間が度々あります。
思考(疑問含む)も感情も自分の意志とは関係なく湧いてくる。
これについては、阿部さんのいう通りだと思います。

『「自作自演なら、もっといい役にしてよ!」っていう想いすら自作自演なのか!』
やり場のないジレンマに飲み込まれて、ため息連発!

疑問と答えはワンセット。
いずれ宇宙が答えてくれるでしょう。

取り留めの無い文になってしまいました。
今日も ありがとうございます。




Posted by 母の旧姓は阿部 at 2017年10月31日 20:49

私たちは今まで、個としての視点から
物事を認識し捉えていて、それだけしかないと信じていて、それだけが本当の事だと疑いようもなく絶対的なものだと思っていますね。

ちっちゃな私が生まれ育ってやがて死んでいくという一つの(生死物語り)持っています。これだけが本当だと信じてきました。これしかないしこれだけが真実だと、笑

私たちは個であると同時に(有限)(色)
全体でもあるのです(無限)(空)


永遠に無限のただ中で、生死観を含んだ有限ゲームをしているようなものなのです。

生まれる前からずーっとあるのです。
ほんとうは生まれた事も知らないし
死ぬ事も知らないのです。

何も失われず、ただずーっとある??

摩訶不思議です
Posted by スミレ at 2017年10月31日 21:14

死ぬときのお楽しみ。
死ぬ瞬間今ここであればええだけかな?
死ぬとき(普段も)、思考と同一化しなければそれでオッケーでね?、たぶん。
阿部さんみたいな体験じぶんになくてよかったです。
死ぬときの楽しみをとっとけるし。
阿部さんのブログで今から予習すれば、なんとかなるべ。
Posted by くるみちゃん at 2017年10月31日 21:56

スミレさんて、何者?
Posted by 橘 at 2017年10月31日 22:28

この肉体は、いつか必ず、消滅します。

それが、他殺、自殺、病死、事故死、自然死であろうと、
それは、ストーリーの終わり方の違いであるだけで、
肉体のあらゆる機能、働きの停止という点においては、同じです。

人間は、できたら、穏やかな自然死を望むことが多いかと思いますが、
どのような終わり方も、肉体においては、違いはありません。

物質次元のあらゆる存在は、永遠ではあり得ません。
ですから、必ず、終わりを迎えます。
 
それが、この肉体の宿命であり、この宇宙の法則(ダルマ)なのです。

人間は、自他の人生の終わり方に文句や注文をつけたくなりますが、
他殺も自殺も事故死も病死も自然死も、
ひとつの終わり方である、という視点に立つならば、
そこには、肉体という物質の消滅が起きた、という一点の現象があるのみなのです。

肉体は、物質なので、ダルマが働いています。
しかし、私たちは、実は、この肉体ではなく、肉体が消滅しても、なお在り続ける永遠不滅の存在なのです。

肉体の宿命としての終わり方は、その肉体それぞれなので、受け入れるしかありませんが、
それは、この肉体に起こることであって、
私たちは、肉体ではなく、永遠不滅の存在なのですから、
たとえ、肉体がどのような終わり方をしようとも、
私たちの本質が、それに影響され、左右されることは、起こり得ないのです。

それでも、死に方に拘るのは、肉体がすべてだと思っている、現代的なある種の物質至上主義か、唯物論の影響、と言えるかもしれませんね。
Posted by 真理世 at 2017年10月31日 23:30

阿部さんの体験はわかります。(なのだろうぐらいですけど)

しかし。
死とは、脳死を決定として、息途絶え、血流が止まり、臓器が停止し、腐敗が進行する。
だから、防腐剤をつけ、火葬まで保持させます。
火葬すれば、タンパク質が炭素となり、灰となる。
そこに、その肉体に与えられた名前も、記憶も同時に地上から消滅しますね。

そこで、関心の先は「名前としての記憶」「ヒトとして生きた記憶」が残ってるのか、を考えます。
記憶は脳(肉体)なので
死と同時に記憶というものが消滅すると思うのですが、そうすると、やはり、ジエンドの
「死」でしかないと思う訳です。

思うところ「在る」は、ただ在り続けるだけで、その肉体が生きていたトキは傍観者でもあり、体験者の立場でしょうが、
肉体消滅後は、「体験した事」ですらも無くなり
ただ、在り続ける側に還るものですよね。

地上の論理では、還ったことすらわからない、とも、いやこの地に居た、いないもなく、ただ在るのではと考えます。
なぜなら、思考の創造物、その個人はすでにないからです。

そこで、使われる「大丈夫」という言葉。

地上に存在してたとか、そのような記憶も残ったとするならば、死んでない、もわかり「大丈夫」だったと通じますが、記憶に残らないなら「大丈夫」という理解には結びつかないです。


Posted by 日和る at 2017年11月01日 00:09

おそらく、その体験の時、ありえない体験でその還る場所を確認して、「大丈夫」だったという衝撃の感想が生まれたとは想像しますが。。。

自分という「名」も、人生の経験も消えたところの
つまり「在る」だけに、還って「大丈夫だった」という感想が出るのかが率直な疑問です。

思うところ、その体験は、生きてる上での体験であり、
そのトキの感想、感動は。。。
肉体の機能を使っての感想でもあるような気がします。

実際に、死後、その肉体が消滅して、その感想が「出るものなのか?」ですね。
あるとすれば、在るに「感想を付ける機能が在る」ともいえますね。


どうなんでしょうか。
Posted by 日和る at 2017年11月01日 00:09

質問者様のお陰で阿部さんがボケないですむ。
ありがたいことです。
天河に向け忙しいところ、ネタ探し時間もへる。
ありがたいことです。
Posted by こう at 2017年11月01日 07:07

日和るさん

ご説明と疑問?にまったく同感です。
自分から見たら「あったらいいね!」の機能ですね(^o^)
Posted by neo at 2017年11月01日 08:19

阿部さんのメッセージはね、
「こう考えてください」とか「こう思うようにしてください」と言っているのではありません
ここに顕れる言葉やニュアンス(波動とも言えます)が、ある種の起爆剤(きっかけ)になる可能性を秘めているだけです
阿部さんが誰かを変えるわけではありません
皆さんの在り方によっては変容が起きる、というだけのとてもシンプルなことなんです
だから補足もいらないし、解説も分析もいりません
そんなものは取るに足らないことなんですよ
Posted by かみゆ at 2017年11月01日 09:19

かみゆさん

気に入らないとか取るに足らないと思ったり表現することは自由です。
自由なんだけれども、起こることを抑止する"パワー"を持つ人は誰もいないことを知ってますよね?
対立して、抑止したり排除しようとする"パワー"を持っているという錯覚が苦しみを生んでるのですから。
Posted by 模察 at 2017年11月01日 10:38

今期の禅サンガに初めて申し込みしました。

早速、10月6日のWeb講演を見ました。これ一本だけでも阿部さんの言われていることが
自分に浸透してくるのがわかります。あと、猫ちゃんが可愛かったです(笑)。

ニコニコ、静かに、まったりとしている阿部さんを見ているだけで癒やされます。
今夜も楽しみです!
Posted by sabrina at 2017年11月01日 12:01

模察さん・・・かみゆさんの >取るに足らないこと・・・っていうのは、いらないとかの意味じゃなくて、とても か細いもの、小事であることの意味合いですから、気にされない方が良いですよ。・・・いらんおせっかいですが、錯誤が眼につきましたので(笑)
Posted by 李 信 at 2017年11月01日 13:20

模察さん

そのように錯覚していらっしゃるのはむしろ模察さんのほうではないでしょうか
私の方には、抑止したり排除したりなどもなければ、対立しようという意思もありません
模察さんがそのように解釈されただけで、あなたの中でしか起こっていません
私のコメントの真意は、そのようなところにはありません
Posted by かみゆ at 2017年11月01日 18:34

阿部さんの、この境地のメッセージは本当に救われます。
ポジティブな出来ごとさえも苦しみを生む執着になり得る二元性。

東京の阿雲の呼吸では、一番最後に「愛」の話題だったような気がします。
愛しかない。愛です。
この複雑な世界をシンプルに心穏やかに生きるのは「愛」への信頼だと思います。
自分への信頼。起こる出来事への信頼。

いつもいつも変わらぬ、阿部さんのメッセージに一時心がほっとしています。
天河の神事も大切な時間になると思っております。

愛をこめて

Posted by n at 2017年11月01日 18:40

死後はどうなるのか?

毛根が先に逝った人はカミに聞け( ̄▽ ̄)YO
Posted by シエル   at 2017年11月02日 08:35

死後はどうなるのか?

この世で、死ぬのは人間だけではありません。

小さくは、菌類、バクテリア類、
生物なら、昆虫、動物、植物、
大きく言ったら、宇宙だって、消滅しています。

人間だけが、人間(の肉体)の消滅後のことを気にしていますが、
他の存在の消滅後と人間は違うのでしょうか?

人間だけは、別格なのでしょうか?

生物学上は、人間は、ヒト科ですが、サルから進化した霊長類であるだけです。

人間が輪廻転生するなら、サルも輪廻転生するのでしょうか?
サルが輪廻転生するなら、大腸菌も輪廻転生するのでしょうか?

こう考えていくと、人間が人間だけを特別だと思っているような気になってくるので、不思議です。
Posted by 真理世 at 2017年11月02日 11:28

しえる神さんへ

>毛根が先に逝った人・・・ってABさんのことですか?RIのことですか?(笑)
( ̄▽ ̄)李
Posted by 李 信 at 2017年11月02日 18:58

お答えできません( ?ω? )←ソレが答えやん 李
Posted by シエル   at 2017年11月03日 00:12
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
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