社会を超えて

Toshiro Abe

2017年05月07日 13:15

いまちょうど瞑想教師トレーニングの真最中で今回は男性のクラスです。

社会から完全に隔離された生活の中で時間は止まっています。


この数日間、僕も瞑想三昧。

いろんなことが起きているのに何も起きていません。

平穏な静寂だけが流れています。



真理を発見した覚者たち。

彼らは何を発見したのでしょうか。


彼らが発見したのは、発見すべきものは何もないということの発見です。

ただ、いまもすべてがあからさまに現れていて、隠されているものは何一つありません。


マインドの絶え間ない動きが目隠しの役割をして、あからさまの真実を見えなくさせています。

だからやることはひとつ。

ただ坐って、マインドを静めるだけです。





まず最初に、社会的な自分を脱ぎ捨てていきます。

社会が自分に与えた様々な役割。

偽の仮面、偽の装飾、偽のふるまい、偽の人格。

服を脱ぐようにして、それら外側の条件付けを全部落としていきます。


それが瞑想の第一段階。


そうやって、誰でもない純粋な個人が残ります。


それまでは人は皆、個人ではなく烏合の衆です。

烏合の衆だけが社会を形成することが出来ます。


そこでは個人の判断は軽視され、社会的正義がそれに取って変わります。

実存である個人の感性より、社会という共同幻想の決まりごとが優先されるのです。


TVなどから流れる良識は、まるで正しさがひとつであるかのように錯覚させます。

教師や文化人たちは、自分が何をしているのか知らぬまま、正しさの陳列は枚挙にいとまがありません。

それが社会の一員であるということです。



瞑想はまず、そのような社会の押しつけと、社会用の自分を脱ぎ捨てていきます。

そして初めて個人が残ります。



社会は徹底した個人を、危いものとして見ます。

そう、確かに彼らは危険です。

社会的な通念や価値観に従うことなく、自らの感性を生き始めるからです。


お金も、名声も、権力も、すでに彼らの中では興味の対象ではなくなってしまいました。

それがヒッピーやサニヤシン(求道者)を生み出す土壌となりました。



でもいまや個人も賢くなり、社会を超越しながらも社会の中で人格を演じて生きている人達もいます。

烏合の衆と同じように人格を演じていますが、唯一の違いは、自分が演じていることを完全に知っていること。



そして瞑想にはもう一つ、次の段階があります。

この段階は瞑想と言うより「禅」と言ったほうがいいかもしれません。

それは残った個人という感覚が消え去ることです。


そこにはただ全体があります。


そしてまた振り出しに戻り、ただあるがままを生き始めるのです。

以前と同じように起きることが起きていき、そのことに対応していくことに変わりありません。


したがって、烏合の衆も、個人も、覚者も、外側から見ればみんな同じように生きて見えます。

でも内側で経験していることは違います。

完全に幻想の中にいるか、半分だけ幻想の中にいるか、それとも完全に目覚めているか。



我々は起きることをコントロールして、より安全に暮らそうと心がけますが、取り組むべきは起きることではなく内側の実存です。

そのことの本当の大切さを見抜いたときが道の始まりです。


この道は進むことはあっても後戻りはできません。


そして行きついてみれば、そこはスタート地点だったという、なんとも皮肉な存在ゲームです。

でもあなたは、同じあなたではありません。

あなたは、もういないのだから。




今日も思いつくまま一気に書いてみました。

上手く言えませんが、僕が書いたというよりは瞑想が書いたという感じです。


このまま載せることにします。







いつもありがとう。

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