希望が持てない話
人類全体が、いまあるがままのものを見失って、ありもしない明日に取り憑かれているのは、まるでマジックのようだ。
というより催眠術かもしれない。
みんながそうだから、誰もそのことを疑わない。
たまたまいまここに目覚めた者が、「夢から覚めよう」と声をかけても、それさえも明日の目標になってしまう。
なぜこれほど明らかな真実を、人類規模で見失うことができたのだろうか。
すっかり眠りこけていると、自分が眠っていることに気が付かない。
人類全体が催眠術にかかっているなどと言えば、大言壮語にしか聞こえない。
真理はあるがままに、いまも目の前にあって、いままで一度も隠されたことがないのに、真理に対する書物は山ほどある。
きっと人は、あるがままの真理より、真理について語る方が好きなのだろう。
あるがままをあるがままに見ることができたら、それがゴールだ。
そのゴールは最初から与えられていたので、スタート地点でもある。
いままでに一度も隠されたことがないのに、一度も気がつかないで死んでいくなんて。
まずは、この人生が幻滅しか与えてくれないことを見抜くこと。
意味を後付して、人生に意義があるかのように思いたくても、それらが独りよがりの慰めだということを見抜くこと。
少し過激な表現になってしまったけれど、人生が無意味であることを見抜くことが基本的な第一歩になる。
このアプローチに徹底しようとした仏教は、西洋では厭世主義(ペシミズム)に見られてきたけれど、実際にはこの道しかなく、最も誠実な教えだと思う。
しかし仏教さえも、人生の意義を深めるための道具にされ、素晴らしい明日を約束してくれる教えになってしまった。
一般受けはしないけれど、まずは人生に幻滅し、明日への希望が一切絶たれることが必要なのだ。
その時初めて、あるがままのいまに目を向けるチャンスが訪れる。
この夢が、目覚めたくなるくらい悪夢になったとき、それが仏の膝元だ。
もうこのあたりで、いいんでねえ?
十分に悪夢だと思うけどな・・・
人生に希望はない!!
あはは、言い切ってみればなんだか爽やかでしょ?
さあ、ご一緒に
「人生に希望はない!!!」
はい、真理へのチケットを差し上げます。
やっと、あるがままのいまに目を向けることができるようになりました。
皮肉なことに、ここには求めていた全てがあります。
苦しみが消えた世界にようこそ。
真理!
(天地真理じゃない)
汝の名は「至福」