道の途中

Toshiro Abe

2015年05月22日 12:27

今日は独り言みたいな記事になるかもしれません。

読む前にいつものコレ、よろしくお願いします。


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僕がこうしてブログを書くのは、あなたを物知りにするためではありません。

講演会を重ねてきたのも同様です。


ブログであれば言葉の行間に、講演会であれば共有する時空間に、普段の生活では見失いがちな、隠れた真実に触れるためです。


自分という存在、この苦しみの理由、人生とは何なのか、自分は誰なのか、そのような基本的な答えに触れるためです。


しかし、その答えは、「こうこうこうです」と言えるようなものではなく、言葉を超えたある種の感覚によって理解することです。

その閃きをいかに生じさせるか、それが目的です。


時折、言葉を超えた答えを詳しく描写することがあります。

たとえば、「僕らが人生と呼ぶものは幻想に過ぎない」とか。


これは真実ですが、その幻想と自己同化している身にとっては、そんなことを自分に言い聞かせても仕方ありません。

深いところで、そうとは感じない自分がいるからです。

そのような知識を優先させて、人生を傍若無人にふるまったとしたら、きっと困難に巻き込まれて苦しむことでしょう。

実はそのような苦しみも幻想なのですが、そう聞いてもなんの救いにもなりません。


だからと言って、せっかく真実に目が向き始めたものを、またその目をそらして、人生の絶え間ない繰り返しに埋没したとしたら、やはり同じように心の深いところで、そのような生き方に意味がないことを知っているので、自分を騙しながらやっと生きながらえることになってしまいます。


人のマインドは分裂しているので、どこに向かっても安定することがありません。

それもそのはずです。

真実はマインドを超えて初めて触れることができるのですから。


もしかしたら真実など、知らなければ知らないほうがよかったのかもしれません。

むしろシンプルに人生を歩めたかもしれません。


この道は、一度足を踏み出したら、決して後戻りはできません。

真実は真実であるがゆえに消えることはありませんし、一度その可能性を知ってしまったら、忘れることなどできないからです。


兎にも角にも、こうして踏み出した一歩です。

自分に真実を言い聞かせても気休めにならないのなら、やはり自分自身が真実に至るしか道はありません。

その結果はどんな推理小説もかなわない、痛快なまでの「どんでん返し」だと伝えておきます。


そう言うと、自我君は言います。

「知ってるよ。探していた本人が、探していた答えだったんだろ?」

「自分なんて、いなかったんだろ?」

って。


そうやって、まるで自分がすでに真実を生きているかのような顔をする時もありますが、やはり心の底で、どこにも至っていないことも知っています。

そんなことの繰り返しが、道を歩むということです。



この先、あなたを真実に導いてくれる覚者たちも増えてくると思います。

就職先と同じで、多くの中から選べるに越したことはありません(^^)


本物を見分けるひとつの基準は、その人はたとえどんな話をするにしても、決して、決して、あなたが不安を感じるようなことは言いません。

決してです。

言わないようにしているのではなく、真実を知れば、そのような言葉が出てくることは不可能だからです。

すでにあなたには、その人を見分ける力があるはずです。

僕の周囲にも、向さんや黒斎くんなど、素晴らしい人たちがいます。


この時代のうねりに乗って、多くの人が、いままでの時代には考えられなかったようなシフトを実現することでしょう。

すでにその潮流を感じています。


多種多様な導き手たちによって、多くの人たちが人生のシフトを迎えています。

歴史の必然とはいえ、我々は本当に稀有な時代に生かされていますね。



今日も話を聞いてくれてありがとう。

非力ながら、これからもこうして伝えさせてください。





あなたが以下のタイトルをクリックしてくれると、このブログにとっていいことが多いのですが、僕自身も、あなたが受け取ってくれた確かな証として、力をもらっています。


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