朝起きて、昨日のコメントを読ませてもらったら、こんな時間になってしまいました。
ありがとうございました。
ワンネスという言葉がよく出てきましたね。
僕も説明上、それらの言葉を使いますが、ここで注意しなければならないのは、書き手も読み手も、ワンネスを言葉によって対象化してしまうことです。
まるでワンネスという状態が、どこかにあるように感じてしまうのです。
少なくともワンネスを語っているときは、ワンネスの外にいます。
ワンネス(アドバイダ・不二)とは、意識の境界線が消え、自他一如が基本感覚になっている時の目覚め状態のことです。
誰にとってもワンネスは徹底的に自分自身であり、あらゆる存在の基盤です。
それを真理と呼ぶならば、真理はいつも「いまここ」にあり、しかも「いまここ」でないときはないので、我々自身は真理でなかったことは一度もなく、これからもあり得ません。
語った瞬間に対象化してしまうので、ただいまここに身心を置くことが本当の答えになります。
それが禅です。
禅は理屈ではなく、教義でさえなく、まさにいまを生きる態度のようなものです。
いままでとは違った視点で世界や人生を捉え、まずは半年間一緒に生きてみないかというのが向老師と僕からの呼びかけです。
もちろんこれからもブログや書物で表現し続けますが、このような媒体には限界もあり、もっと踏み込んで関わろうというわけです。
ちなみに、今日の夕方くらいに新生「The禅プロジェクト」が再開されます。
僕が一旦中止してまで変えたかった流れと世界観は、一目でわかってもらえると思います。
今日から3回にわたり僕たちの動画メッセージをお届けし、次回は沖縄での講演会をそのままアップします。
遠方の人や、実際の参加が難しい人は、これらの動画の中だけでもたくさんの気づきがあると思いますので、どうぞ活用してください。
すでにアドレス登録している人には案内が行きますが、まだの人は以下のフォームから登録しておけば届きます。
https://asp.jcity.co.jp/FORM/?UserID=lp&formid=105
さてISO88さんからの質問です。
>阿部さんは、「悟った人」と「見性に至った事のある今も自我を生きる人」、
>そのどちらが今のご自分に近いと思っておられますか
このような質問は、自分という固定された存在がいるということが前提になっています。
時間の中で継続している「個」があるというわけです。
ですから、
「あの人と、あのひとは、どちらが悟っているか?」
などと言いだす人もいます。
実際には、まさにいま、意識が「いま」に在るのか、それとも時間という幻想の中で紡ぎ出される思考の世界に在るのかの違いだけです。
大悟したと豪語する者も、もしいま思考の世界に埋没していればそれまでですし、そんな世界に関心がなくても、何かの拍子にいまここに完全に帰っていれば悟りの中にあります。
ポイントは、悟ったかどうかではなく、いま悟りの中にあるか否かなのです。
自我はこの次元の乗り物であり必要不可欠の道具です。
肉体自体が自我の性質を携えているので、完全になくなることはありません。
人とコミュニケーションをとるにも、自他の区別が必要になりますし、あらゆるシーンで自我を使います。
きっとISO88さんが聞きたいことは、
阿部という人間が自我を無くしたかどうかではなく、自我に埋没しているか、それとも自我を使って生きているのか、そのどちらの時間が長いかということではないでしょうか。
この現象が阿部敏郎をやっているのは、こうして対象を想定して何かを書いている時や、みなさんの前で講演するとき、あるいは家族や仲間と出会っているときです。
一人で思いつめたり、考え事に没頭している時間はあまりありません。
でもひょんな時に、無意識のパターンが顔を出し、感情も刺激されますし、様々な思考が出てくることもあります。
でまた主人公の座を受け渡してもらうという感じです。
答えになりましたか?
ちひろさんからも面白い質問がありましたが、次の機会に詳しくお話しさせてください。
昨日のみなさんのやり取りを読ませていただきましたが、ここには僕以上に説明が上手な人たちが集まっていて、とても為になりました。
出会いに感謝します。