昨日書いた幸福感を、違う角度から説明してみます。
今日も最初にお願いします。
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僕たちは普段、自分の意志で自由に考えているような気がしていますが、実はそうではありません。
あらかじめプログラムされた仕組みの中で物事を考えます。
だから事象に対する考え方が人によって違うのです。
何が好きか、何を正しいと感じるか、どんなことが起きて欲しいか、それらはすでにプログラムによって決定されています。
どのように決まっていったかといえば、生い立ちや、親との関係、教育、人生での様々な出来事などからです。
さらには、生まれる前からのものもあります。
それが前世の記憶なのかどうかはともかく、生まれつき持っている個性のようなものもあります。
これらをカルマと呼びます。
カルマとは、心に仕組まれた条件付のようなもの、記憶によるこだわり、あるいは観念のことです。
これらカルマは、外側に対する考え方を決定するだけではなく、自分自身に対する感覚をも決めてしまいます。
自分は愛されるに値する人物か、良い人間なのか、悪い人間なのか、どれくらいの大きさなのか、どれくらいの成功や幸せに値するのか等々です。
さて今日話したいのは、このようなカルマには重量があるということです。
僕たちは毎日、カルマという心理的な重荷と、肉体という物理的重荷の両方を抱えながら生きています。
いつものことなのですっかり慣れていますが、これがどれくらいの負担だったかは、脱ぎ捨てた時に分かります。
昨日話した、言われなき幸福感の瞬間は、カルマから解放されています。
目覚めの瞬間は、同時に肉体感覚からも解放されるので、その素晴らしさは他に例えようもありません。
ところがまた時間の問題で、もとのカルマが自分に戻ってきていることに気づきます。
これは目覚めた後に誰もが経験することで、幾ばくかの失望感が伴います。
それでも以前の自分に全く戻ってしまうということもありません。
何かが大きく変化していて、そこは元に戻ることがありません。
少なくとも、目覚め前よりもずっと軽くなっています。
たぶん、カルマのいくつかは消えて無くなっているのだと思います。
あとは人生の中で、いかに残りのカルマを減らしていくかだと思います。
僕は瞑想を選びました。
そして毎日のように、自分が軽くなってきていることを実感しています。
もっと早く巡り逢えばよかったとも思いますが、このタイミングだったのでしょう。
もっと早く出会っていても、やらなかった可能性が高いです。
何事にも機というものがあるのですね。
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