急に秋めいてきましたね。
今年も終わりかな・・・なんて思いが湧いてきます。
こうして全国を回らせてもらっていると、その土地土地で、覚醒体験をした人と出会います。
みなさん、僕たちと同じ一介の市民です。
その多くがこの数年に経験していて、まさにいま、意識の目覚めにとって大きな節目の時代に差し掛かっていることを感じさせてくれます。
一口に覚醒体験と言っても、その状況や経緯は様々です。
昨日仙台でお会いしたSさんという女性(主婦)は、瞑想中に背後から、もう一人の自分が瞑想している自分を見つめだし、そうやって見ている存在こそが、本当の自分であることを確信したそうです。
その存在は、もはや自分とは呼べず、森羅万象すべてを司っている創造主そのものだと直感したと言います。
全ての問いが消えうせ、全ての答えが「ここ」にあります。
あー、このことだったのかと感じたそうです。
名古屋のHさん(男性)は、この夏、チェンマイでの集中瞑想に参加していたとき見性体験があったようで、すぐにメールをくれました。
Hさんは、数年前から覚醒体験に強烈な関心を持ち、名古屋から東京まで通ってくれていましたが、僕はそんなHさんに、
「求めているうちは、体験できませんよ」
と伝えていました。
その一方で、
「強烈に求めることが早道ですよ」
とも言ってきました。
この矛盾する二つの言葉は、どちらも真実ですが、こんなナンセンスな指導にもめげずに追い求めたHさんの勝利(?)だったと思います。
Hさんは言います。
「その体験を求めてチェンマイにまで来て、とことん瞑想して、それでも一向に覚醒の気配はなく、もういいやと思いました。そんな体験がなくても生きていけるし、十分に心身も調整されたし、これで満足だと思ったんです。
そうやってサッパリあきらめたある日、突然、本当に突然、それが来ました。
あはは、なんだこんなことだったのか、全部阿部さんが言うとおりだった」
先日の名古屋講演でお会いしましたが、Hさんは穏やかな自然体で、微笑みながら話してくれました。
僕の相棒の智子さんは、やはりチェンマイのホテルの一室で、とつぜん巨大なエネルギーが背骨を上りだし、次の瞬間、すべての存在はこのエネルギーによって生かされていることを悟りました。
時空間という錯覚を超えた、いわゆるワンネスの境地です。
これらの人たちは、たまたま瞑想に連動してその体験が起きましたが、必ずしも瞑想そのものが体験を引き起こしたわけではありません。
それは3人共に、同意見だと思います。
覚醒体験とは、突然にして起こることであり、何かをすれば起こるというような原因と結果の法則を超えているのです。
でも同時に、瞑想習慣はそのような結果を作りやすくする、最も的を射た道でもあります。
僕自身も、目覚め前夜は自己流で瞑想三昧の日々を過ごしていました。
でも瞑想中に覚醒が起きたわけではありません。
道を歩いている途中に急に目覚めたり、傍らにいた犬の鳴き声をきっかけにして大いなる一瞥を得たり、その瞬間を迎えるシチェエーションは人によって様々です。
昔は、突出した魂だけに許された、神我同一の体験が、いまや僕たちのような一般衆生の間に頻繁に起こるようになっているのです。
このブログのコメント欄を見ても、あきらかにその経験を有した人たちを多く見受けます。
その人たちに共通しているのは、
突然にして起きたこと
この世のものとは思えない至福に包まれていたこと
すべてを一瞬にして理解していたこと
誰もが同じ本質を持っていることを確信したこと
すべての個別魂が、遅かれ早かれ、必ずこのことを経験すると感じたこと
したがって、何一つ自慢できるような体験ではなかったこと
この体験を人に伝えていきたいという衝動を持ったこと
等々です。
覚醒した時の顔
↓
市井の市民の間で、連鎖反応のようにして起きだした覚醒体験。
天台宗大僧正の堀澤祖門師は、このような現状に関心を持たれ、僕や黒斎くんを例にとって論文を作成し、韓国の仏教界にまで紹介してくれました。
僕たちは、自分が想像している以上に、凄い時代に生きているのだと思います。
強烈に求めながら、そして求めない、早い話が自分の生きたいように生きていれば、「それ」はやってきます。
誰一人失敗することはありません。
だって、もともとの自分の姿を思い出すことなのですから。
「最初から救われているから大丈夫だよ」
この言葉が、僕からあなたに贈るメッセージです。
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10月28日の東京講演会は、満席のためお申し込みを終了しています。
11月18日の受け付けは、近日中に開始させていただきます。
ありがとうございました。