「はい、これで終了です。ご苦労様でした」
という神の言葉を、死の宣告だと思った人もいたみたいですね。
これは肉体の死ではなく、「人生」という名の夢の終焉、目覚めのことです。
でもある意味、目覚めは、肉体の死よりももっと完全な「死」とも言えます。
なぜなら、肉体が死んでも夢は続いていきますが、目覚めれば夢は終わってしまうからです。
それは個別意識という夢の終焉、人生という名の夢の終焉、無数の繰り返し(輪廻)の終焉です。
夢の中にいるときは、この現実が夢に過ぎないなんてことは認められないし、認めたくありません。
ところが目覚めてみれば、なんであんな苦しみの世界に固執していたのか不思議になります。
以前、実際にこんな夢を見たことがあります。
僕が遠方にいる友人宛に大切なメッセージを預かっていて、彼の居所を探しているんです。
山を越え、谷を越え、町から町へと訪ね歩いて、やっと見つけたと思うと、寸でのところで行き違いになってしまいます。
義務感とあせりの気持ちで、少しうなされ気味だったかと思いますが、そんな時、天上から声がしました。
「これは夢だ。覚めてしまえばすべては終わる。抱えた責任も消えてしまうから、もうそろそろ起きなさい」
その瞬間、僕も心のどこかで、これらすべてが夢であることを直感しました。
でも同時に、
「だからと言って責任を放棄するわけにはいかない。まずは彼を探し出すことだ。そうしたら夢から覚めるとしよう」
と思い、また果てしない探索の旅に出かけました。
それからどのくらい時間が経ったのかわかりませんが、再び真実を思い出しました。
「そうだ、これは夢だ。本当に必要なのは夢から覚めることだけだ」
しかし、まだ彼を探し出していません。
彼を見つけなければという思いは消えませんでした。
ここまで探すのにどれだけ大変な思いをしたか、せっかくここまできたのだから、きちんと結果をつかみたいという思いが、真実を消し去っていました。
何度かそんなことを繰り返して、フラストレーションが溜りにたまり、
「もういやだ、もうたくさんだ。そうだこれは夢だ。だったら覚めてしまえ」
とばかりに、夢からさめようとしました。
でも抵抗する気持ちも相当に強く、何度か引っ張り合いを繰り返したのですが、あるタイミングで「えい」とばかり無理やり目を開けると、あら不思議、
「な~んだ、夢か」
やれやれ大変だった。
まったく、何していたんだろう。
これは夜の睡眠中に見た夢ですが、僕たちが現実だと思っているこの人生にも、まったく同じことが言えます。
どこかで夢だと感じ始めたのに、やめるわけにはいかないのです。
だって責任があるから。
それに目覚めた後、どんな悪いことが待っているかわかったもんじゃありません。
いまの人生は大変だけど、たまに楽しいこともある。
この大変さには慣れてきたし、なんとか耐えられそうだ。
もう少し、そっとしておいてほしい。
いつかそのうち目覚めるから。
そんな人が目覚めたとき、きっとこう言うことでしょう。
「な~んだ、夢か」
やれやれ大変だった。
まったく、何していたんだろう。
僕たちには、好きなだけ夢を見る自由が与えられています。
いいも悪いもなく、全部自分が決めています。
たまにこのような目覚めのメセージに出会うのですが、そのメッセージさえも夢の中で消化して、これからも夢の続きを見ていくのでしょう。
「もう少し、そっとしておいてほしい。
いつかそのうち目覚めるから」
はいはい、わかりました。
それとも、いっそ
いま目覚めてみますか?
そうそう、大切なことを忘れていました。
夢から覚めても、まだ夢は続いていきます。
個の夢が終わっても、人類という集合意識が見ている夢があるからです。
でも今度の夢は、圧倒的に楽チンです。
だって、夢を夢だと知っているし、強度な義務感もなく、ただ楽しむだけだからです。
先日、別れ際にボブさんが言った言葉。
「この世はマーヤ(幻想)だ。だからマーヤをエンジョイしている。see you my friend.」