いま、大阪から浜松に向かう新幹線の中です。
こうして全国の皆さんにお会いできるのは、ありがたいことです。
昨日の記事を読み返してみましたが、祖門さんは素敵な人ですね。
人が真似できない難行苦行をクリアし、なおかつ修行の無意味性を報告してくれているのですから、大きな説得力があります。
さらには最も権威が高い比叡山延暦寺の要職に在りながら、衆生の中に立ち、同じ目線で真理を分かち合おうとしています。
仏教の細部にまで精通されていますが、そのような見識をひけらかすのではなく、無位の真人として活動されています。
このようなお姿に、心から敬意を表します。
逆説になりますが、これぞ修行の賜物と理解しています。
「悟前の修行」と「悟後の修行」の違いはなんでしょう。
「悟前の修行」とは、仏(さとり)を求めて自己を越えようとするプロセスです。
その際、仏(さとり)に対してのイメージを持ち、自己を超えた真我へのイメージを持ち、そこに向かって奮闘努力しようというのです。
このような態度には、幾つかの落とし穴があります。
まず、目指している境地が、あくまでも自分の思考が作り出したイメージに過ぎないということ。
たえず、その完璧性と、いまあるがままの自分を比較判断することになります。
それは終わりなきゲームです。
自我が自我を見張りながら、深刻さに満ちた毎日が続いていきます。
いつかさとるために、「いま」という時間を手段にしてしまいます。
しかし、実際にはどこまでいっても「あるがままの自分」であり、いつまでたっても「いま」があるだけです。
自我の試みは、自我を肥大化させていきます。
「私は数十年間の厳しい修行に耐えた選ばれし魂だ」
「私が長年学んだこの経典こそが唯一真理を説いている」
「私が・・・」「私が・・・」「私が・・・」というわけです。
そのような自己欺瞞に陥ってしまった人はどこにでも見つけることができます。
宗教の名のもとに、神と人を分断し、聖と俗を分断し、人の心の中も分断してしまいました。
神も人も、聖も俗も、みなひとつなるものです。
あなたはすでに完璧にして、本来はそのままで仏身です。
思考の否定的な妄言に惑わされてはいけません。
あなたはあなた以外になることは決してありません。
思考が、あなたをあなたではないどこかの特別な人に仕立ててしまったのです。
もし僕たちにやることがあるとしたら、余計な観念を取り払って、自分をあるがままに認めることくらいでしょう。
それがさとりです。
さとりとは、どこかにたどり着くことではなく、あるがままのいまに帰ってくることなのです。
本来のあなたは、生まれながらにして仏そのものです。
仏が仏の修行をする・・・それが「悟後の修行です」
なんて書いていたら浜松に到着。
改札まで迎えに来てくれた向禅師が、開口一番こう言いました。
「自灯明」
幾多の権威に惑わされることなく、自らを灯とせよ、という釈迦の遺言です。
僕は言いました。
「一人一人がすでに灯であり、だから、悟後の修行しかないんですよね」
すると向さん
「そうや、それしかない」
あと一時間ほどで「いまここ塾in浜松」の開演です。
満開の桜のもと、今日も素晴らしい日です。