比叡山の夜 その1

Toshiro Abe

2011年04月07日 12:13

今日は話が二つあります。


ひとつはGWに来日し、僕とコラボ講演会をするボブ・フィックスさんの話。

もうひとつは、比叡山延暦寺大僧正の堀澤祖門さんの話。


そしてこのお二人は、いずれ会うことになるでしょう。

どんなに背景が違おうと、真理はひとつです。



まずボブさん。


ボブさんは1980年代に、ハリウッドスターや富裕層の間で評判になり、やがては全米で有名になったチャネラーです。

当時何度か来日講演会を開いています。

90年代にタイに渡り、仏教を学び、現在はチェンマイで、人の意識を空(くう)に導く瞑想の教師をしています。


数年前に僕のほうから会いに行ったのですが、すぐに意気投合し、2人で「エンライトメント・プログラム」を作ろうとしています。

いま発売中の「スターピープル」(ナチュラルスピリット)に、そのあたりのことや、二人の出会いについてなど、3ページにわたり対談が載っています。


彼はサイキックな能力に優れていますが、それ以上に真理を科学的に説明できる人です。

向禅師と同年配で、面白いことに二人とも、同じ若いころに悟りを体験しています。

東京第一部では向禅師をゲストに迎え、ボブさんと対談してもらいたいと考えています。

東京・名古屋・大阪・博多

GWに開かれる、ボブさんと僕とのコラボ講演会のお申し込み、詳細は、コチラから。




さて、お次は堀澤祖門さん。

日本仏教界を背負って立つお一人ですが、僕にもご縁があって、祖門さんの推薦で「釈の会」の総会に、講師として招かれました。

仏道一筋に生きてきた人たちの前で、僕のような者が「さとり」を説くのですから、聴講者の内側には、様々な感情が湧いていたと思います。

講演会は好評をいただきましたが、その夜に行われた僧侶の皆さんとの質疑応答では、バトルとも言えるような応酬もありました。

でも最後は、形だけの講演会で終わらなかった爽やかさが、みなを包んでいたと感じました。

その夜の経緯は、僕の人生で起きた最良の出来事でした。



実はその時の模様はすべて収録されていて、それをもとに祖門さんが文章にまとめてくれました。


ご本人の許可をいただいたので、掲載させていただきます。

いま時代が大きく動き出したことを知るでしょう。




第六回「釈の会」総会の記録  (平成二十三年三月八日~九日、延暦寺会館)


第一部 講演会 (当日は会員だけでなく一般聴講者と併せて八十人参加)


(1)阿部敏郎氏の講演(無題)
 
1.〈不信感〉

人間は無意識に他人に対する不信感を持っている。

この不信感が自分を防御させ、自意識を増長させる。

「人は信頼と共に生まれ、不信と共に死んでいく」。

そういう自我や自意識が私たちを苦しめている。

それを取り除くことが大切。
 


2.〈目的地〉

人間は「いまここ」に生きている。

「いまここ」にしか生きようがない。

過去はすでに過ぎ去っていて無いし、未来はまだ来ていないからやはり無い。

在るのは「いまここ」だけである。

その「いまここ」をしっかり生きることが人生の意味であり目的である。

それ以外に目的地もゴールもない。

目的地を持つと「いつか」という未来志向になる。

それが「いまここ」を忘れさせる。

「いま」がゴールであり、「ここ」が目的地である。



 3.〈さとりの体験〉

子どもの頃から芸能界にあこがれた。

一応その仲間入りをしたが、自分のような才能はワンサといた。

その中での競争。

自意識過剰でいつも人を見下していた。

そんなある時、友達が自分より本当に成功している事実を知って、目が覚めた。

それから精神的なことに夢中になってインドやチベットのグルたちの本を貪り読んだ。

ある時、そんな仲間の会合で、みんながまた同じように競争し合っていることに気がついて突然バカバカしくなり、みんなの真ん中に出てひっくり返り、両手両足をばたつかせて大声でワアワアと喚いて泣き叫んだ。

一瞬みんなが驚いて座がしらけたが、どのくらい経っただろう。

やがて、起き上がって座り直したが、その時、恐ろしいほどの静寂が私を支配した。

次の瞬間、とてつもないことが起きた。

目の前の現実がすべて消え、時間も空間も超えた未知の次元に入り込んでいた。

そして、すべてを理解した。

存在の秘密のすべてを、宇宙の仕組みのすべてを。

言いようのない喜びと、これほど豊かな愛に見まもられていたことの有り難さが、全身を貫いた。



 4.〈さとりとはありのままを認めること〉

目覚め(さとっ)たらどんな人になるのか。

その答えは簡単だ。その人自身になるだけ。

さとりとは、いまの自分でOKだということを知ること。

自分ではない何かになろうとする態度こそが、さとりを遠ざけている。

少なくともあるがままの自分にはリアルなものがある。

完璧であろうとする努力を止めれば、物事は自然に落ち着くところに落ち着く。

自分以外の誰かになるのを止め、あるがままの自分にくつろいだとき、心に平安が拡がる。それがさとりだ。(その他)。




(2)質問


1.〈問〉いまの話で、個の発見、それを超える、尊厳を取り戻す、というふうに三段階に向上すると理解しましたが?


〈答〉いやそうではない。段階をふむことは要らない。個の発見=尊厳です。
 



2.〈問〉先生のエネルギーはどこから出てくるのですか?


〈答〉共感だと思う。心と心が深く触れあえば共感が生まれる。それが力です。




3.〈問〉明日行かれるのは明石だそうですが、明石のどこですか?

  
〈答〉まだ解りません。ただ、明石は大事なところで、ロンドンからワシントンに文明が移って、次は日本の明石だそうです。「日本から何かが始まるのではないか」と世界の人が注目しているそうです。




4.〈問〉仏教では「さとり」というゴールに至るまでは長年月の修行が必要だとされていますが、先生はそれは要らないと言われる。そこのところをもう一度話してください。


〈答〉時間は「いま」しか存在していません。

ずっと「いま」です。

だから「いつか」という時間はないのです。

それを納得することが大事です。

修行して、修行がダメだと気がついたときが目覚めでしょう。
 



5.〈問〉先生は『さとりの授業』で神について触れていますが、キリスト教
神をどう思いますか?
  
〈答〉キリスト教では原罪ということを言いますが、私はそれが欠点だと思います。

私のいう神は人格神ではありません。

しかし、厳然として実在し、意識を持ち、私たちを無限大に愛しています。

神についてはこれから科学が急接近するかも知れません。

筑波大の村上先生は「大いなる何ものか」と言っていますね。




さて、ここからいよいよ、夜の質疑応答懇談会へと続くのであった。





つづく