一瞥

Toshiro Abe

2010年01月02日 08:41

どんなお正月を過ごしていますか。

僕は元日から、本の原稿の修正に取り掛かっています。

とても楽しいですよ。

伝えたいことがブログや書籍を通して、多くの人たちに届くというのは、とてもワクワクすることです。

家族はといえば、僕以外はみんな風邪やインフルエンザでダウンしているのですが、なぜか僕だけは絶好調です。

同じ家の中にいるのに、なぜ一人だけうつらないのか、※※は風邪をひかないって、あれは本当かもしれません。



ところで、最近届くメールや、このコメ欄の書き込みに、瞬間的に至福に満たされたとか、景色がすごくきれいに見えたとか、意味もなく感動と感謝が湧き上がったとか、そういう内容が増えてきました。

多くの人がそう言いながらも付け加えるのは、「これは目覚めとはいえないし、大した体験ではなかったですが・・・」というようなことです。


僕に言わせてもらえれば、それはすごく素晴らしいことが起きたんですよ。

自分をたくさん祝福してあげてほしいと思います。


それこそが思考を超えた体験で、通常見ている世界の背後にある、とても神秘的で、とても美しい何かに触れたのです。

神聖なるその存在は、普段は僕たちの思考のせいで、認識することができません。


何かの瞬間、その思考が消えて、永遠なるものを垣間見ることがあるのです。

でも思考というやつは、すごくすばしこくて、すぐに復活して飛び掛ってきて、その体験を評価したり判断したりして、既知なるもので説明しようとします。

あるいは何が起きたかわからずに、そのまま見過ごしてしまうこともあります。


いずれにせよ、その体験は、真にリアルな世界を垣間見たのであって、とても喜ばしいことが起きたのです。

まさに悟りの一瞥です。

悟りというと、なんだかすごいことのように感じて、自分の体験とは結びつかないかもしれませんが、それが悟りというものです。


今年は目覚め元年と書きましたが、そのような体験を不意にする人が増えてくると思います。

その時はただ静かに、「それ」を感じていてください。

不安に思わずに、ただ任せていれば、それは祝福に変わっていきます。


そのうちに、自分の意思でその状態に入れるようになります。

それは思考を超えるという練習をした後です。

思考を使わずに、ただ感じるということに慣れてくると、いつもは目隠しで覆われている神聖なるものが見えてきます。

そこに本物の「美しさ」が存在するのです。


よく大自然を前にして、「あー、綺麗だなあ」なんて言う人がいますが、それは本当の美しさを感じているのではなく、そのような景色は綺麗だという自動反応の言葉だったりします。

不必要な思考に四六時中まみれていると、そうなってしまいます。


考えるのではなく、感じるということ。

考えるのではなく、ただ在るということ。

そんな状態を心がけることが大切です。


あるがままに、シンプルに。

どこかの誰かさんを演じるのではなく、ただあたりまえな普通の人でいましょう。


あたりまえの普通さに馴染んできたとしたら、その時は自我が薄れだしているということです。


自我は特別なものに憧れ、特別なものに惹かれます。

それを利用して、自我たちを吸い寄せる巨大な自我が、ネットの世界にも存在します。

僕たちはそれを反面教師として、ここでは「あたりまえさ」と「普通さ」をモットーに、共につながっていきましょう。

お互いに、ニセ者の衣装を脱ぎ捨てて、あたりまえの人を生きましょう。



言うまでもなく、僕を特別扱いしだしたら気をつけてください。

ましてや崇拝(?)するなど、とんでもない間違いです。

そんな勘違いを与えてしまうとしたら、これを書いている僕自身にも問題がありますが、読む側も気をつけてください。


そんな心配をしなくても、もうとっくにバレていますよね(笑)



いい年明けですね。

みなさんと出会えたことを、何より嬉しく思っています。



今年もよろしくお願いします。