夢のまた夢

Toshiro Abe

2008年10月06日 09:31

朝目が覚めて、それまで見ていた夢が、急に自分から遠のいていく瞬間があるでしょ。

夢のストーリーは覚えているのだけど、何故そんなストーリーを真に受けて、夢の中で真剣に生きていたのか、そちらのほうが不思議なくらいに、夢のストーリーは独断的だったりします。



ところが、今こうして生きている現実も、さらに高い意識の自分から見ると、まさしく夢そのもので、やっぱり独断的な世界なのです。


自分が決めつけた周囲に対して、これまた決めつけた自分が、良かれと思いながらあれこれやっているのが人生です。

それは夢の中の出来事と何も変わらないくらいに「夢」そのものです。



でもねぇ、夢に思えないんですよね、この夢は(笑)


感覚器官から入ってくる情報が確かなものに感じるので、人生がリアルだということを疑わないのです。


でも実際には、人生は夢幻(ゆめ・まぼろし)、夢のまた夢です。




そういえば豊臣秀吉の有名な辞世の句


露と落ち 露と消えにし 我が身かな
なにわのことは 夢のまた夢

(なにわというのは大阪城がある「浪速」と、「全てのこと」をひっかけています)



人生の修羅場をくぐりぬけて、常に生死の狭間の中を生き、最後は国中の富を手中に収めて、およそこの世で見るべきものを全部見た男の最後の言葉が

人生は夢のまた夢

というのですから、誰の人生も同じようなものでしょう。




僕らもいつか必ず夢から覚める時が来ます。

死んだ時に一度はみんなが気がつくのではないでしょうか。

なーんだ、夢だったのかって。



その気づきとともに、執着が霧のように消えていきます。

だからもし怨念や執念を持ったまま、地上をさまよう霊がいるとしたら、よほどぐっすり眠りこけていて、目が覚めたことにも気がつかないということになります。


実際に、夜中に見た夢の中で、殺したいほど憎い相手が出てきたとして、朝目が覚めた後、いつまでもその架空の相手を憎んでいるでしょうか。

怨念をもった霊がいるとしたら、それくらいに間抜けな存在だということです。




そもそも霊とは何でしょうか。

死んだあとに、身体から抜け出るといったイメージを持っている人が多いですが、それは間違っています。



霊が身体の中に住んでいるのではなく、身体が霊の中に住んでいるのです。


ちょっと発想を変えてみてください。


地球大の大きな霊が、ボーンとあるんです。


その中に無数の梅干しの種みたいな個体があって、それが僕たち一人一人です。

たしかに存在の本質は霊ですが、それは個別のものではなくて、「大いなるひとつ」なんです。



それが真実です。

それ以外に真実はありません。



そうなると、僕らがとってきた霊に対する行為は、的外れなものに見えてきます。

先祖の霊も、人が思っているような形では存在していませんし、それぞれの人が自分の心の中に作り出した夢の一部です。


でも作られた夢は、その人の中では現実に思えるので、あれこれと対処したりします。

その行為を揶揄する気はありませんが、その人がぐっすり眠りこけていることだけは確かです。


それらはすべて、人の心の中で作られたものです。



したがって、そのような霊を作り出していない人の現実の中では、供養しようとしまいと何一つ影響しません。

でも一度それを信じてしまうと、無礼がないように、バチが当たらないように、いいことが起きるようにと、その世界にはまり込んでいくことでしょう。



大殺界だとか天中殺だとかも同じで、僕のようにまったくその知識を持たない者には、何の影響も与えることはできません。

知ってしまうから縛られるのです。




夢から覚めた時、そのようなことも全部霧の彼方に消えていくでしょう。


だって僕たち自身が「大いなる一つ」に帰って行くのですから、個という幻想が抱いた夢は、まさに夢のまた夢です。


「大いなる一つ」から分離した魂(正確には分離したと思い込んでいるだけで、実際には分離することはできない)が、その分離という幻想の中でさらなる幻想を作り上げています。


そのことを「夢」というのであって、僕たちはそれを人生と呼んでいます。




で、何が言いたいのかというと・・・


気楽にいきましょう



いい夢も、悪い夢も、覚めてしまえばしょせんは夢。


どうってことないですよね。



だって、もともと僕たちは「大いなる一つ」なんですから。






今日もここに来てくれてありがとうございました。