続・死について

Toshiro Abe

2007年05月25日 11:21




さ、それじゃ「死」についての話の続きをするね。

医師が脳死状態の80代の患者の人工呼吸器をはずした問題。



もし自分が患者だったらどうしてほしいかな。

僕も死を望むだろうな。


そしてできるだけ気持ちよく安楽死したい。

モルヒネやらコカインやら、このときとばかりにたくさんもらって、夢心地で逝きたいものだ。


僕の母も妻も安楽死賛成派なので、もし家族が死を待つだけの状態になったら、なんとしても楽に死なせてあげたいと思うだろう。




死は人生からの解放。

生きるだけ生きて自分がそのことに満足し、あとは死を待つだけなら、癌などの病に蝕まれて死ぬよりは科学の恩恵の中で安らかに死にたいと思うのは間違いだろうか。


何故そのことに司法が介入するのか。

国は個人の権利をどこまで奪えば気が済むのか。



身体が絶望的になって、たんに苦痛を味わうだけの状態になっても、命を一秒でも永らえさせるのが正義という考えは、「死」に対する無知と恐怖からきている。


「死」とはなんだろう。

「死」は思われているほどに忌まわしい現象なのだろうか。




僕はこの人生の中で何度か、「死」のリアリティーに触れた事がある。

というよりも、それは「死」という現象を超えた体験だった。



我々は究極的には宇宙と一体であり、それは生まれもせず死にもしない。

いつもいまここで、ありとあらゆる形態をとりながら、永遠の命を表現し続けている。


形態は常に変わり続ける(諸行無常)。


しかしその背後にある大いなるエネルギー(本当の自分)は、永遠不滅に生き生きと存在し続けている。




不生不滅(ふーしょうふーめつ)
生じたということもなく、滅したこともない


不垢不浄(ふーくーふーじょう)
よごれることもなく、したがって浄化されることもない


不増不減 (ふーぞうふーげん)  
増えることもなく、減ることもない


般若心経が言うこの状態が我々の究極的本質だ。

それは理屈ではなく、体感して理解するものだ。



死ぬのは肉体と、肉体から発生した欲望、執着、夢、幻想の類だけだ。


それは大いなる解放と祝福。



さなぎが蝶になり、大空へ飛び立つように・・・




さてここで「死」を賛美することで問題が生じる。

自殺を奨励するかのような誤解が生まれるからだ。


自殺に歯止めをかけるために、「自殺は罪だ」「自殺は最初からやり直しだ」「自殺は暗いカルマを作る」「自殺は地獄行きだ」というような嘘も必要かもしれないが、それはことの本質を見ていない。

しかもこのような嘘は、家族の中に自殺者を出した人を苦しめてきた。


このことは非常にデリケートかつ複雑なので、いまここ塾のような限定された場でお話しようと思う。




「死」に関する話は尽きる事がないね。


でもね、僕達にとって一番大切なこと・・・それは「いまを生きること」。


それだけは間違いない。




長い話につきあってくれてありがとう。

関連記事