昨夜の
日曜瞑想会でのボブさんとの対談で面白い表現だと思ったのは、瞑想とはスキルではなく、全ての人に最初から備わっている意識状態だという話。
この説明は極めて重要だと思いました。
人は瞑想を一つの行為、あるいは技術だと勘違いしている。
だからより良い瞑想を目指してコントロールしようとする。
たとえば思考がわんさか湧いてきて瞑想になっていないような感じがして、なんとかその思考の群れを消そうとしたりするけれど、その意図が瞑想の邪魔をするわけです。
もし瞑想に対して我々ができることがあるとしたら、何もしないことに尽きます。
何もしないと言うと簡単に聞こえるけれど、実は一番難しい。
人は思考することも含めて何もしないことができません。
もっと正確に言うと、「自我」は何もしないということができない。
なぜかと言えば自我とは、何かをしようとする衝動のことだから。
いつも改善を考え、いまよりもっといい次の瞬間に向かおうとする。
いまのままでは不十分だ、だから自分が何とかしよう、あるいは何とかしたいという衝動が自我なのです。
瞑想とは自我のそんな衝動に耳を貸さずに、起きていることにサレンダーすること。
これを老子は「無為の最奥を極める」と言いました。
そしてこの言葉は瞑想だけでなく、人生のあらゆるシーンに対して言えます。
「自分がやっている」という感覚を生きるのではなく、「すべてはただ起きている」という感覚で生きるのです。
この感覚を持つには、まずは空(くう)を体得すること。
そして表面で起きている現象と共に、何も起きていない空(くう)を自覚していること。
これがボブさんが言う啓発であり、僕が言う目覚めです。
何も特別なことではなく、すでにすべての人はこの状態を生きているのですが、表面的な現象に取り込まれてしまって、背後にある空(くう)を見失ってしまったわけです。
そんな時代が何千年も続きました。
この何千年間は自我の時代であり、暴力や攻撃性の時代でした。
それがいま大きく変わろうとしている。
いま起きている変化は単なる時代の変化ではなく、人類史上初めてとも言えるどんでん返しです。
これは個々の意識のシフトから始まっていきます。
こんな時代が来ることは何十年も前から知っていたけれど、まさにいまこうして起きている。
ワクワクしすぎて今朝も早く目覚めてしまった(^^)
さて瞑想でもするか。