いつのオンライン講演だったか(たぶん日曜瞑想会)、湧いてくる思考を外側の景色と同じように扱うことを奨励しました。
日常の中では思考と自己が同一化していて、考えが即自分という感じで生きています。
批判的な思考が湧けば自分は批判者であり、罪悪感が湧けば自分は許されない存在です。
そんな自己同一化を断ち切るためには、思考と自分が離れていることを思い出すことです。
瞑想中の思考は普段以上に気になると思います。
なぜなら、瞑想中は自己同一化が半分壊れるから。
すぐにまた巻き込まれてしまいますが、思考が止まないことを知った分だけ思考から離れています。
大抵の場合はまたすぐに思考の内容に巻き込まれて、いつもの幻想の世界に入り込んでしまいますが、このような時も同じように思考を観照し、自分との距離を保とうとする態度が大切です。
先日伝えたのは思考にエネルギーを与えないということ。
もともと活発に思考が湧き続けるのは、自分がそこにエネルギーを投入するからです。
エネルギーは注目によって投入されます。
ですから思考を徹底的に無視すれば、それはいずれ消えていきます。
さて、ここまで書いて思いましたが、自分が習慣化していることは当たり前のことになっているので、あえて言葉にするのを忘れていることがあります。
たとえばこうして思考を無視する時間についてもそれは言えます。
僕の場合は目を閉じた時、無意識に両目の真ん中に意識が集中しています。
いわゆる第三の目です。
智子さんのサードアイマントラを使わない時も、自然と意識が第三の目に向かいます。
するとどうなるか。
思考を観照しやすくなるのです。
第三の目は、注目することでエネルギーを得る点は思考と同じです。
しかも第三の目自体に引力があるので、それほど強い集中力を用いなくても、少し慣れればすぐに注目することができるようになります。
すると思考を外側の出来事として観照できるようになり、やがては思考との同一化が終わり、その結果、全体との分離感が薄まるのです。
そうこうしているうちに日常においても全体性が身体の中を浸透していることでしょう。
それは多くの人が想像しているような劇的なものではなく、まさにあるがままの地平に寛いでいる状態です。
この寛ぎ状態は生まれたり死んだりするようなものではないので、この命が永遠であることを静かに実感することになります。
真実は実に当たり前の状態ですが、我々が不自然さの中に埋没して生きているので、いきなりこのシンプルな次元が現れると、ものすごくドラマチックな出来事のように感じてしまうのです。
すでにすべての人は真理の海の中に生きていて、それは変わりようがないので安心してください。
今夜は日曜瞑想会。
またマニアックな会でお会いしましょう。
コチラからお入りください。