今日も違う言い方で
「自分」という主体の感覚は、思考が作り出した偽物であって、単に観念的な幻に過ぎないという話を繰り返し伝えてきました。
この偽の自己は生まれて最初に作ったものであり、それを前提としてずっと生きてきているので、おいそれと消えてくれません。
このような情報もその自己が解釈しようとします。
このことがなんとなく真実だとわかってきても、自己が自己の不在を認識しようとしているだけのケースがほとんどです。
もしこのことが本当にわかれば、あらゆる疑問も質問も消え去ります。
ただ全てがあるがままにあるようになるからです。
宇宙から分離した自己は、宇宙の真実を解き明かそうとします。
真実に関する多くの書物を読み、たくさんの講演を聞いて、瞑想したり、修行したりしながら真実の究明に努めます。
まるで、いまあるがままにある「ここ」以外の、どこかに真実が隠れているかのようです。
まさにいましているこの経験以外に、いつかどこかに崇高な経験が待っているかのようです。
でも真実は、いま以外の時はなく、ここ以外の場所はないことを明らかにしています。
このように言うと今度は、それならいまというものを探究して、ここに何があるのかを調べてみようという衝動がやってきます。
そうやって真実を対象化するのです。
何故ならそもそも自己自身が全体から分離しているので、どんなものも対象化して分析調査しようとしてしまうのです。
真実は、そうやって探究している探究者自身です。
この直接体験が真実を明らかにします。
しかしこれが難しい。
自分の目が、自分の目を直接見れないのと似ています。
でも分離した自己にとっては難しくても、真実は一度も隠されたことがないので、簡単と言えば簡単です。
ただいまここに寛ぐこと。
あるがままの命に落ち着くこと。
すると「これ」があります。
瞑想会ではいつも、このことを伝えようとしています。
どうしても頭で理解しようとする傾向を抑えて、ただ黙って坐ってみましょう。
この男は本来、教師タイプではありません。
教えることなど何もないからです。
にも関わらず無数の言葉を使って、数十年間にわたり真実のありかを示してきました。
単なる凡夫がこのような役をやらされていることは皮肉ですが、インターネットの出現が活動を支えてくれています。
宇宙の流れに感謝。
日々是好日