昨日のコメント欄に、まるまるさんから投稿がありました。
藤田一照師という方の言葉が載っていましたが、まさにその通りなのでここに掲載します。
「無我」に関する誤解の最たるものは、それを「端的な事実認識」ではなく、あたかも倫理的・道徳的な要請であるかのように、誤認してしまうこと。
と言われていて、わかりやすかった。
仏教のさわりの部分に「謙虚」があるからか「殴られても怒らない人格者」や「何を言われてもヘラヘラ笑っているウスラボケ」が「無我」なり「覚者」なりという事になってしまうようだ。
禅を習っていくと それまで私の考えていた無我と「無我」は違っていたし、それまで私の考えていた謙虚とも違う「謙虚」だった。
それらは「一から十まで」私(個我)の想像を外していた「想定外」だった。
「私が想像してきた事」は 習う度にちょこちょこと「事実に改定・修正」され、ある時を境に「一気に全文 事実に上書きされる」時「ドンデン返し」「回心」が起きる。
今まで蓄えてきた「想像、想定してきた事のすべて」が「ぱー(意味がなくなる)」になるので、そこからみる世界は「今 生まれたばかりの赤ちゃん」のごとく「新世界」だ。
「赤ちゃんのごとく」と書けば、相変わらず想像力は「無法地帯」を想像するわけだが、そこは「真理(全体。仏)」に守られているので安心だ。
よくぞ言ってくれました。
ずっと伝え続けてきたことではあるけれど、他の人から聞くことができて魂が喜んでいます。
悟りとか無我とか目覚めとか呼ばれるものは、倫理も道徳も越えた世界です。
高潔な人格育成のためのゴールなどではないのです。
藤田さんが言うように、無我とは単なる事実認識に過ぎません。
思想や哲学を語っているのではなく、本来の事実はこうですよという表明です。
あなたという個人が生きているのではなく、あなたを含んだ全体が生きている。
個人から全体への意識シフトなのです。
その結果どんな人格になるのかなどは、迷いの世界を生きる人々の想像に過ぎません。
彼らは、自分自身の認められない側面をすべて解決した人がどこかにいて、それが悟った人だと思っています。
金銭欲も性欲も感情の起伏も無くなっているというわけです。
人々がそんな覚者に憧れていることを知った似非覚者は、自分がそのような人物であることを演じ始めます。
精神世界や宗教界を見渡せば、そんな人はすぐに見つけられます。
でも実際に起きることは、そのような人為的な演出を捨てて、あるがままの自分になることです。
こう言うと、自分のあるがままを全部発揮したら大変なことになると思ってしまう人もいます。
そのように思うのは、たくさん自分を抑圧し矯正してきたので、そのタガが外れてしまうと大変だという理由からです。
しかし実際には、本来のあるがままの中には宇宙的知性が宿っているので、計らうことなしに秩序が保たれます。
そして共通しているのは気楽になるということ。
何事も個人的に受け止めなくなり、全体の流れを完全に信頼し始めます。
「すべて事もなし」
です。
人間の真の幸福はここにしかありません。
そして私たちは全員、ブッダ(目覚めた人)予備軍なのです。
あなたが目覚めた時、人生のどんでん返しが起こり、いままで起きたことをすべて肯定できるようになります。
そしていままであなたに辛く当たってきた人も含めて、全ての人に感謝することでしょう。
いつも言うように、このような情報に少しでも関心を持った人は、すでにこの道の途上にいます。
生きるのに忙しすぎて、つい後回しになってしまいがちですが、この道を行くことを最優先する時代に入りました。
その結果、一気にすべての問題が消え失せてしまう世界、個人としての自分からは想像もできなかった世界が広がっていくのです。
実際には、いまも全員その世界に存在しているので、人生とはまさに宇宙的な冗談です。
調べてみたら藤田一照さんとZENサンガ講師の小出遥子さんとの対談が公開されていました。
藤田さんは小出遥子さんを「恐るべき仏教女子」と呼んでいます(笑)
ちなみに今月末からサンガの12回目の募集が始まりますが、早期申し込み特典として、向禅師、阿さん(仏教学者)、小出遥子さん、そして阿部敏郎の座談会の動画をプレゼントします。
他にも奥平亜美衣さん、雲黒斎さん、阿部敏郎の鼎談、「人生の楽しみ方マニュアル」も用意しています。
今日のまるまるさんの書き込みで、真実の情報が各所から聞こえてくる時代に入ったことを嬉しく思いました。