来てくれてありがとう。
昨日、蚊になった夢を見ました。
大きなパソコンモニターの周囲を飛んでいるのですが、近くに人間の気配がします。
このままここにいると潰されるという心配がある一方で、なぜか行動に出ない人間が優しい人なのか、それともまだこちらに気が付いていないのか、そんなことを考えました。
蚊をやっている時は何もかもがとてもリアルで、空気感や自分の羽の音や、簡単に上下できる飛行感覚、蚊が内側で何を感じているのかを知った思いでした。
あれは本当に夢だったんだろうか。
もしかしたら、こうして目覚めたと思っているこの現実のほうが、蚊である僕が見ている夢なのかもしれない。
さて、いったいどちらが本当なのだろう。
な~んてね、荘子の「胡蝶の夢」そのまんまだけど、それくらいリアルに感じました。
本家本元の「胡蝶の夢」の内容は、蝶になった夢を見た荘子が、
「私が蝶の夢を見たのか、蝶が荘子の夢を見ているのか、いったいどちらだろう」
と問うたという説話ですが、その答えは書かれていません。
僕があえて答えるとしたら、
「どちらも夢である」
となります。
そしてもう一つの答えは、どちらも「私」として感じていたということ。
この場合の「私」とは存在そのものであり、存在の全てを認識している「気づき」のようなもの。
生死を超えた永遠の宇宙意識、あるいは真我と呼ばれるものです。
昨日、自己イメージの話をしましたが、本来はどんな人でもない自分を、○○な人として決めてしまっていることを指摘しました。
しかしもう少し深く見ていくと、そもそも人間であるという前提も、形と同化している現れに過ぎず、我々の本質はどんなものにも同化しない広大な意識なのです。
言葉で言えば、
森羅万象の全てが自分。
宇宙全体が自分。
ということになります。
この感覚になったとき、すべてはこのままで完璧であり、誰一人例外なく「いまここ」に祝福された愛の化身だということが分かります。
蚊であるか人間であるかは、そんなに大きな違いではありません。
そこに、共通した「私」(真我)があることが重要な点です。
この「私」こそが宇宙で唯一の存在で、永遠不滅の純粋意識です。
いつもいま、目覚めるチャンスが目の前にあることを忘れてはいけません。
目覚めるのはいつも「いま」であり、時間は「いま」しか存在していません。
いま目覚めるか、永遠に夢を見続けるか。
もうそろそろ皆で起きてもいいと思う今日この頃です。
蚊でもなく、人間でもない自分にね。