前後を断ち切る
来てくれてありがとう。
昨日、向禅師が天河神社の講話の中で話していたこと。
「人生の全ては、この一呼吸にあり」
まさにいま呼吸をしている、これだけが真実。
次の呼吸のことは分からない。
いまのこの呼吸だけがリアルな人生であり、これ以外はすべて思考が作りだした仮の世界の話だ。
前後裁断
昨日と明日を断ち切って、今日一日を生きる。
一瞬前と一瞬後を断ち切って、いまこの瞬間を生きる。
あーじゃ、こーじゃの考えにハマることなく、いまこの一呼吸を生きたとしたら、その時、問題はどこにあるだろう。
いまを生きよう。
いまを強烈に生きよう。
強烈に生きられないのは、性格でも年齢でも環境でもない。
単に、いつもエネルギーがダダ漏れしているから余力が残されていないだけ。
あーじゃ、こーじゃの思考こそが、エネルギーを漏らしている張本人だ。
このような生き方を
有漏路(うろじ)と言う。
一方、この一呼吸を生きる生き方を
無漏路(むろじ)と言う。
この一呼吸に全身全霊が投入されているのでエネルギーの漏れがない。
だからいざという瞬間が来たときは、いつだって対応するだけの力を温存している。
それを知っているから、先のことをいたずらに心配したり不安がることもない。
不安や心配は、あーじゃこーじゃの思いの中にしかないのだから、有漏路から無漏路にシフトした時、「何でも来い」の心境になれるのだ。
一休禅師はこのことをそのまま歌に残している。
そしてこの歌が、一休という名前の由来だと言われている。
有漏路より無漏路に帰る
一休み
雨降らば降れ 風吹かば吹け
今日一日、考えの世界に暮らすのは止めよう。
無漏路の世界で一休みだ。
「人生の全ては、この一呼吸にあり」
これによって、後悔(過去)も心配(未来)も一瞬にして消えてしまう。
理屈はいらない。
まさに、この一呼吸を生きるのみ。
知識としてでなく実践が大切だ。
このような生き方に馴染んでくれば、生きることは容易くなってくる。
何ごとも習慣から。
その習慣を修業と呼ぶ。
こういう修業は楽しいし、人生がスムーズになってくるからやりがいがある。
今日一日、このことを何回思い出せるだろうか。
「人生の全ては、この一呼吸にあり」