2023年03月30日

な~んだ、そうだったのか

何かが上手くいかなかったとき

他の方法なら上手くいったような気がするとき

「それをした自分」を責めたり、後悔したりするけれど

そもそも

「それをした自分」がいると思っているのが間違いのもと。


相手に対しても同じことが言えます。

「それをした相手」を責めたり、非を正そうとしたりするけれど

そもそも

相手の肉体の中に、相手という人格を持った独立した魂がいると思うから腹が立つのです。


実際には自分だけでなく、誰の中にも誰もいません。

ただことは起きている。


いま湧いている思考も、感情も、

自分がやっているのではなく、単に全体がこのように表現しているだけです。



この理解が自由の秘訣。

これが気楽さの種明かし。


こんな簡単なことが最も難しいことになってしまったのが人間という生き物の宿命なのでしょう。

だって、それぞれが独立した個人だと思わなければ、人と人との間に関係が作れないし、関係を作るのが人間種の生き方だから。


だからあえて、分離という誤解を選んだ。

その代償が罪悪感、劣等感、正義感、攻撃心、嫉妬心などの形で現われて、他の生き物たちが享受している、いまを生きる喜びを無くしてしまったわけです。


言葉で言えばそういうこと。

このように言葉で伝える能力も、互いに分離しているということが前提なわけで、分離幻想も人間(人と人の間)には必要です。



すべては一つなるものの現われと知りながら、あえて分離という幻想を生きるのが、人間の次なる文明の礎です。

それがいま起ころうとしている。


頭で分っちゃいても、実際にはそう感じないという段階から

な~んだ、そうだったのか

という段階に移行しようとしていているわけです。


な~んだ、そうだったのか


自分がどの段階にいるのかを知るには、どれくらい気楽に生きているかがバロメーター。

全体意識を感得していても品行方正になるわけではなく、相変わらずこの肉体と精神に組み込まれた個性を生きるわけで、外側の表れでその人の段階が分かるわけじゃない。

でも内側では自分が気楽なのか深刻なのかを知っています。



深刻さが癖になっている人は、

やっているのは自分じゃない

ってことを言い聞かせると、少し気楽になるはず。


非二元のメッセージが、二元の世界で役に立つのは、このことくらいかも(笑)










Posted by Toshiro Abe at 09:10│Comments(10)
この記事へのコメント
外の生じて滅する無常の現象に向かうほど↑

「外にはなんでこんなに苦しみがあるんだ?!
 外のあれが悪い!これが悪い!
 外のあいつが悪い!こいつが悪い!」と

外に向かって批判して苦しみます→(>_<)←

頭に来て怒って↑
気が病んでしまい↑
気難しくなります→(>_<)←

中の生じも滅しもしない常住の自己に向かうほど↓

「中には苦しみがない^^
 中には安らぎがある^^」と

中に向かって集中して安らぎます←(*´▽`*)→

心が落ち着いて安定して↓
気が休まり↓
気楽になります←(*´▽`*)→

中に向かって安らぐ中道は安楽に至る道です◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2023年03月30日 11:08
>このように言葉で伝える能力も、互いに分離しているということが前提なわけで、分離幻想も人間(人と人の間)には必要です。

自分は、『言葉そのもの』ではなく、
これまでの『言葉の使い方』が『分離意識』から起こっているだけ、
と勝手に思ってますけどね。
これから変わってくるなら、
その『言葉の使い方』・・・と言うよりニュアンス?が変わってくるのかも、
という気が勝手にしています。

例えば「自分で選んでいる」という意識は誤解のように、よく聞きますが、
最近ふと思ったのが、『選ぶ』という言葉は、
「何かを『信じて選ぶ』」、「何かを『感じて選ぶ』」、
そして

             ただ選ぶ

↑の組み合わせで起こってるように、自分は感じます。
で、極端な話、これまでは
「『自分が』信じたから選んだ」「『自分が』感じたから選んだ」
↑というニュアンスだったのが、これからは

             ただ選んだ

↑て感じになってくるのかも?と勝手に思ってるんですね(笑)
でも、どっちにしても『選ぶ』『という言葉そのもの』が変わる訳ではなく、
『意識する言葉のニュアンス』が変わるだけ、そんな感じです。

そういう意味では、今の自分は、
良かれ悪しかれ、とにかく自分がピンときたことだけ選ぶようにしてますが、
これ↑すらも、『こう↑選んだ』『こう↑選ぶことが起きた』と理解して、
つまり、

             ただ選んだ

↑となっている訳です・・・・・
Posted by ただの「自分」 at 2023年03月30日 11:41
二元の世界においては、「役に立つ」ことは、必要で大切なことなのかもしれませんね。

しかしながら、「〜べき」観を元に生きていると、他者に対しても自分に対しても、判断が固定化し、自由度が狭くなるので、いろいろな意味で、「息苦しさ」を生み出す原因となり、人の心の中に、「幸せ感」を生み出す元になる人間関係も、息苦しいものになるかもしれません。

役に立たなくても、OK!

非二元のメッセージだけでなく、光に包まれるとか、体が失くなるとか、その他諸々の超常的な体験や、ヨーガのニルビィカルパ・サマーディ(無分別三昧)体験など究極の霊的な体験も、それらの体験を評価してくれる人々が周りにいなければ、人生を生きる上では、具体的に何かの役に立つということは起こらないでしょう。

それでも、どうしても(命を捨ててでも?)、神を知りたい、自分という存在について本当のことを知りたい。。など、人生を生きる上で、実際には殆ど役に立たない疑問に対する答えを掴むために、目的を持って、心の中に沸き起こる精神的な欲求を満たそうと、我が身を捧げることを厭わない人々には、目には見えない恩寵という形で、神は微笑むことでしょう。

それまでは、「自分」という枠(束縛)からの解放は起こらないでしょう。
自分の力で、「自分」という枠から「自分」を解放することはできせんが、他者の力によっても、それを起こすことはできません。
他者ができることは、解放へのサポートぐらいで、解放そのものを起こすことができるのは、人間を創造し、人間を知り尽くしている神だけでしょう。

メッセージは、人々を解放することはできませんが、人々を解放へと導くことはできます。

人々が、暗闇の中で、確信を持って、道なき道を歩むには、足元や道を照らしてくれる光が必要です。

メッセージが持つ情報は、探求において、大いに役立ち、目的地に到達するまでにかかる時間を短縮してくれることでしょう。

何と言っても、実践が大切ですが、実践しながら、情報に触れることで、歩みは加速し、魂の解放へと向かう時間は、大きく短縮されることでしょう。

「わたし」は、誰か?

その答えだけが、「自分」という小さな枠からの解放につながります。

誰もが、今この瞬間も、知っていても、切らなくても、この解放への道を歩んでいます。

その歩みに、遅い早いはありますが、例外はないため、これは、人間として生まれてきた宿命とも言えます。

最終的な答えは、すでに明かされています。

「わたし」はいない。

これを、エゴが、心の底から納得すれば良いわけですが、そうは言っても、それまでのプロセスは、そう簡単ではないでしょう。

答えが明らかになっている探求は、ワクワク感が少なくなるかもしれませんが、解放の歓びが起こると、それまでの人生が、どのような人生であろうとも、肯定的に捉えることができるようになり、人生観が一変することでしょう。

「わたし」という個人からの解放。

それが起こるのは、神の力が働くからで、恩寵は頻繁には起こりませんが、神の力は、常に働いていますので、恩寵が起こりやすくする準備を整えることは、誰にでも可能です。

真理についてのメッセージに触れ続けることは、その準備になり、時間短縮につながることでしょう。

目的地に着くまでは、多くの試煉があり、多くの時間がかかるでしょうが、目的を見失わなければ、途中、多くのサポートがあることでしょう。

阿部さんのメッセージも、その一つと捉え、今は理解できなくても、やがて、心底納得できる日がやって来る可能性は、誰にでもあります。

すでに種の中にある可能性という因子は、いつかは開花する宿命にあります。

条件さえ揃えば、解放へと向かう小さな因子は、活性化し、芽が出て、どんどん伸びて行き、結実のために、蕾をつけ、大望の花を咲かせることでしょう。
Posted by 解放への道 from M-online at 2023年03月30日 12:30
少し肩の荷が降りました。

まさに相手の非を責めて、自己嫌悪の谷底に沈んでいて…落ち着かなかったんです。
今日の自分に一言一句沁み込んでくるようです。
ありがとうございました(^^)
Posted by さこなん at 2023年03月30日 13:23
日中、イライラ、もやもや、怒り、悲しみ、次から次に湧いてきて、でもそれでよかったんだと知り、そんな自分を全く責めることがなくなりました
お風呂に入りながら今日も色々思考、感情が忙しかったねと笑っています
起こることは起こる
起こしているのは私じゃない
ですね
Posted by じゅんこ at 2023年03月30日 13:32
こんにちは♪やってる、起こしてるのは全て自分。からでないと、反省は出来ません(笑)反省しないと暴力的でも良いのままで他者現象環境のせいにしたままだから念♪←この念が人類全体のアセンションを妨げる。反省しても後悔はしない!で、生きてりゃアセンションプリーズだね♪ムカついた感情は、スルーすりゃー?何だったんだっけ?と笑いに昇華ッス(笑)←注※ボケてません。喜楽バカりの人生は怒哀を知らないと無理でした。全部が感謝だったのに、ありがとうございます♪
Posted by ピエコ at 2023年03月30日 16:02
模察と申します。


「やっているのは自分じゃない」と思い込もうとするのではないですよね。

春になれば桜が咲く。
秋になれば落葉する。

春や秋に季節が移り替わるのは誰も何もしていません。
桜木が、「今から花を咲かせよう」として咲くわけではありません。
葉っぱが、「寒くなったからさぁ落ちるか」と考えるわけではありません。

人間の思考だけが、「やったのは自分だ」、「これは相手のせいだ」と分けたがります。
そして、その思考を「正しい」という思考が次に湧いてきたり、「正しい」という思いの裏付けを探そうとして次から次へと思考が湧いてきます。
思考に巻き込まれるとは、こうした思考の連鎖です。

どんな思考が湧いてきても、春や秋、桜の花や落ち葉と同じです。
誰も何もしてません。
「やったのは自分だ」も「やっているのは自分じゃない」という思考が勝手に浮かんできただけです。
浮かんできた思考を「自分の思考」だと信じることは、単に習慣化した癖に過ぎないと気付くことが自覚です。
Posted by 模察模察 at 2023年03月30日 19:10
今までの人生は「自分がやっている」という一定の見方しかできなかったので、「全体が表現している」だけだったという種明かしは視野の広がりを感じました☆

やっぱり観念に縛られて緊張したまま人生を終えていくよりは
自由に気楽に生きたいです(^^)

向禅師が法話の中で阿部ちゃんは自由にやっていていいな~って言ってたのが面白かったです(笑)
無位の眞人阿部敏郎さんですね☆
Posted by とっと at 2023年03月30日 22:56
一つの真実であっても、個人としての人はそれぞれ色んな感じ方をして、色んな表現をします。
私は、人の様々な気持ちも愛に包まれていると言いたいですし、愛で包みたいとも思います。

子供の時に観た映画を大人になってから観てボロ泣きしたことがありますが、それはそれだけ経験をして何かを味わうことができるようになったからだと思います。
これは動物には出来ないでしょう。

ですから人が愛も幻想も感じられるようになったら、それはとても贅沢なことなのかもしれない、と思います。

阿部さん、いつもありがとうございます。
Posted by yuki. at 2023年03月31日 08:16
阿部さん、いつもブログを書いてくれて、ありがとうございます。
Posted by おにぎり太部留 at 2023年03月31日 21:54
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